第1話:失われた日常

高校2年生の春。桜の花びらが舞う中、俺は重い足取りで通学路を歩いていた。去年の今頃とは全く違う光景だ。


「……っ!?」


朝、目を覚ますと、いつもうるさい声で俺を叱り飛ばすあの声が聞こえない。あれから9ヶ月以上経つのに、まだ慣れない。


いつもなら、口うるさく俺に説教して、『早く起きなよ!』なんて声をかけてきて……。


「……またあの時の夢か……」


俺は体を起こし、時間を確認するために時計を見る。時間は朝7時。 ……いつも通りの時間だ。


隣の部屋からは親の気配がする。でも、あの声だけが聞こえない。


「……さて、朝飯食って学校行くか」


俺は重い体を引きずるように起き上がり、洗面所に向かう。鏡に映る顔は、目の下にクマができていて、少し痩せた気がする。去年の夏から、少しずつだが確実に痩せていっている。


「……ちー」


俺は思わずその名前を呟いた。すると、背後から誰かが俺を抱きしめるような感覚がした。


「!?」


振り返るが、誰もいない。


「……気のせいか」


俺は首を振り、階下に降りる。


キッチンでは母が朝食の準備をしている。


「おはよう、浩介」


「……おう」


テーブルには、いつもの朝食が並んでいる。でも、一つだけ違和感がある。


「……」


俺は黙って席に着く。母が心配そうな顔で俺を見ている。


「浩介、最近元気ないわね。大丈夫?」


「……別に。いつも通りだよ」


そう答えたが、実際はそうじゃない。俺にはわかっている。ここに、誰かが足りないことを。


朝食を終え、俺は学校に向かう準備を始める。


玄関で靴を履いていると、またあの感覚がした。誰かが背中を押しているような……。


「行ってきます」


俺は小さな声でそう言って家を出た。


外に出ると、春の柔らかな日差しが俺を包み込む。


『こーちゃんおっはよ!今日もいい天気だね!』


いつもの通学路を歩いているが、聞きたい声が聞こえない。うっとおしいと思っていたあの声が……。


「……ちー」


俺はふと足を止め、空を見上げる。そこには雲ひとつない快晴の青空が広がっていた。


「今日もいい天気だな」


俺は再び歩き始める。そして学校に着いた。


教室に入ると、クラスメイトが俺に声をかけてくる。


「おはよう浩介!……ってお前、目の下にクマできてんぞ?」


声をかけてきたのは、俺の親友の将人だった。


「……ああ、ちょっとな」


「……仕方ないけど、少しは寝ろよ」


「……おう」


そんな会話を交わしながら自分の席に座る俺。だが、俺の隣の席は空席のままだ。


「ちー……」


その瞬間、隣の席に千紗が座っているような錯覚を覚えた。笑顔で「おはよう、こーちゃん!」と言っているような……。


だが、すぐにその幻影は消えた。


俺は深く息を吐き、教科書を机の上に置いた。


そうして、今日もまた、千紗のいない日常が始まる――。


--------


チャイムが鳴り、1時間目が始まった。俺は窓の外を見つめながら、ふと去年の今頃のことを思い出していた。


あの日も、今日と同じように晴れていた。高校1年生になったばかりの春。


「こーちゃん! こーちゃん! 起きて!」


耳元で響く千紗の声に、俺はゆっくりと目を開けた。


「んー……? ちー? なんだよ、まだ早いだろ……」


「もう! 何言ってるの? 遅刻しちゃうよ!」


千紗は俺の布団を引っ張り、強引に起こそうとする。


「ほら、髪ボサボサ。早く顔洗って、着替えてきて」


そう言って俺の背中を押すのは、母親……ではなく、幼なじみの千紗。


俺と千紗の家は隣同士で、母親どうしも仲が良く、しかも同じ高校に通っていて、しかも同じクラス。


いつも一緒に登下校して、寄り道するときも一緒で、互いの家を行き来するのも日常茶飯事。


俺と千紗はそんな感じの幼なじみだった。


「ほーらー。早くしないと遅刻しちゃうよ?」


「お前な、俺のかあちゃんかよ?」


「え? 何か言った?」


「ふふん、あたしはこーちゃんのお母さんから、こーちゃんの世話を任されているからね。こーすけの世話はあたしの役目なのですっ」


「なんだそりゃ」


「ほら、早く顔洗って着替えてきなよ。あ、歯磨きも忘れずにね」


「へいへい」


俺は千紗に言われるがまま洗面所に行き、顔を洗い、歯を磨く。そして制服に着替えた俺は、再びリビングへ。するとそこには朝食が用意されていた。


「はいよ、今日の朝食はこーちゃんの好きな卵焼きと焼き鮭と味噌汁だよ」


「……いつも思うけどお前ってホント料理上手だよな」


「……誰かさんのおかげでね」


「……あ、いやその、それは……」


「ふふ。冗談だよ。ほら、一緒に食べよ」


「……おう」


そして俺と千紗は、一緒に朝食を食べ始めた。


「……ちー、お前また料理の腕上げたな」


「え? そ、そうかな?」


「ああ。前より味がしっかりしてるし、それにこの卵焼きなんか、フワトロで超うまいぞ」


「……えへへ。こーちゃんのために頑張ったんだー」


「え? 今なんて?」


「な、なんでもないよ! あ、ほら早く食べなきゃ遅刻しちゃうよ!」


千紗は顔を真っ赤にしながらそう言うと、朝食をすごいスピードで食べ始めた。……そんなに急がなくてもまだ時間あるぞ?


「あ、そうだ。こーちゃん、今日夕方時間ある? 買い物付き合ってよ。そろそろお米もないし、色々買わなきゃいけないからさ」


「ん? ああ。別に構わないけど」


「ありがと! 優秀な荷物持ちがいてくれると助かるよー」


「……お前、俺を便利な荷物持ちか何かと勘違いしてないか?」


「え? 違うの?」


「……いや、もういいや」


そんな会話をしながら朝食を食べ終えた俺は、自分の鞄を肩にかけて玄関に向かう。すると千紗も俺の後を追って玄関に来る。


「うんっ! あ、そろそろ時間だよ! 早く行こっ!」


そして俺と千紗は一緒に家を出た。


学校に着くと、またいつものように冷やかしが始まる。


「お、夫婦揃って登校か? 仲良いねーお二人さん」


教室に入ると、クラスメイトの男子がニヤニヤしながら俺と千紗にそう言ってきた。


「ば、夫婦ってなんだよ!? 俺と千紗はそんなんじゃないぞ!」


「お、その慌てよう。図星か?」


「だ、だから違うって言ってんだろ!」


「ほらこーすけ! もうチャイム鳴るよ! 席に着いた着いた!」


そして千紗は俺を強引に自分の席に座らせた。……ったく、誰のせいでこうなったと思ってんだか……。


「浩介、 浩介!!」


ふと我に返ると、教師が俺の名前を呼んでいた。


「はい?」


「授業中だぞ。ちゃんと聞いていたか?」


「すみません……」


俺は慌てて教科書を開く。隣の席を見ると、そこには誰もいない。


あの日々は、もう戻ってこないんだ……。


俺は深くため息をつき、再び授業に集中しようとした。でも、頭の中はあの日の千紗の笑顔でいっぱいだった。


去年の夏から半年以上が経った今でも、俺の心は千紗のことでいっぱいだった。新学期が始まっても、この気持ちは変わらない。これからどうなっていくのか、俺にはまだ見えていなかった。

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