有澄春人

世界

 雲と宇宙の狭間のような世界である。白い塔の壁づたいにある螺旋らせん階段を上っていく。手すりはない。案内人もいない。ふと周りを見渡すが、そこには赤も青も、まるで色そのものが消えてしまったような空間である。宇宙のように暗い。かといって、宇宙のように恒星こうせいきらめくわけでもない。ただ、そこに黒という、色ではあるのだけれども、色ではないものがあるばかりだ。黒は壮大で、そしてとても温かい。一見するとそれはむなしく、人を拒絶するような印象があるが、同時にすべてを――文字通り、人やモノ関係なく、森羅万象しんらばんしょうを――包容し、迎え入れてくれるような温かみもある。私はこの黒を、何日も、何か月も、何年だって見てきた。

 私はひたすらに、ただひたすらに、この塔を登り続ける。疲れはない。風は無く、私のいている靴の音が木霊こだまするだけだ。かつて、これは私が床に就く間に見ている夢なのだろうかと思ったことがある。しかしこれは夢ではない。さらに言えば、これは私だけが経験していることでもないのだ。ひざを上げ、足を踏み出し、一段一段と、着実に、確実に階段を上っていく。私だけではない、貴方あなたも、今これを経験している。

 人生に憧れたことはあるだろうか。人の生きる道を見て、羨ましいと思ったことはあるだろうか。私は何も、その感情そのものを否定し、押し潰すようなことはしない。しかし一つ言いたいのは、人生は絶対的なものであるということだ。私の見ている人生は塔そのもの。雲と宇宙の狭間のような空間で、塔の壁伝いにある螺旋階段を、一段一段、着実に上っていく。他者からすれば――例えば貴方からすれば――それは虚しく見えるかもしれない。辛く見えるかもしれない。だが私と貴方では、きっと見えている世界が違う。何が言いたいのかと言えば、人生は相対評価などするべきではない、ということである。一人は星々に包まれた、本物の宇宙を見るかもしれない。一人はそびえ立つビル群と、その頂点に無数に点在する、航空障害灯こうくうしょうがいとう赤光しゃっこうを、消えてしまった星々の代わりとしてながめているかもしれない。一人は少しの食糧しょくりょうと少しのお金、そして夢と希望をバックパックに詰め込んで、自らの世界を、勇者のように旅しているかもしれない。

 人にはそれぞれ、「自らだけの世界」というものがある。それは現実とは明確に区別される。私の見ている空間は実際には存在しないし、見ることもできない。しかしいつでも、私だけはその世界に入ることができる。何かに疲れた時、決まって私は塔を上るのだ。暗く、風も無ければ星もない塔を登るのだ。ひたすらに目の前にある階段を上るのだ。そこに娯楽ごらくがあるわけでも、花鳥風月かちょうふうげつが待っているわけでもない。しかしながらその世界にいるときだけは、私は心から自分を好きでいられるし、人生は素晴らしいと感じられるのだ。この黒一色の景色を美しいと感じ、また一歩を踏み出す気力を得られるのだ。

 風の音が聞こえ始めた。黒は依然いぜんとして私を包み込んでいる。

 私が塔を登り始めてから、一五年が経った日のことである。

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有澄春人 @suimin_daisuke

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