【完結】「シャーロック・ホームズの霧と影」 (Sherlock Holmes: Fog and Shadows)
湊 マチ
第1話 霧の中の声 1
ロンドンの夜が、再び濃厚な霧に包まれていた。冬の冷たい空気が街に重く垂れ込め、ガス灯のぼんやりした明かりさえも、霧の中に飲み込まれてしまっていた。石畳の通りには、ただテムズ川の流れが音を立てているだけで、ロンドン特有の喧騒も今は静かだった。
シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトソンは、会話もなく、肩を並べてゆっくりと歩いていた。ホームズは両手をコートのポケットに突っ込み、いつもと同じ冷静な目つきで辺りを観察している。ワトソンは、時折顔をしかめながら霧の濃さを気にしつつ、友人に追随していた。
「霧の厚さが尋常じゃないな、ホームズ。まるで、この街全体が姿を消してしまったかのようだ。」
ワトソンは、すぐに消えてしまう自分の息を見ながらつぶやいた。
「ロンドンの霧は、その特有の性質で多くの人を欺くが、霧の向こうにある真実は変わらない。ワトソン、君が注意を払うべきは、この冷たい空気が運んでいる異様な緊張感だ。」
ホームズは低く、だが確信に満ちた声で言いながら、わずかに帽子を上げた。彼の目は霧を見透かすかのように、鋭く周囲を探っている。
「異様な緊張感?」
ワトソンは足を止め、眉をひそめてホームズを見た。ホームズがこうした予感を口にするとき、何かが起きる前触れだと、彼は長年の経験から知っていた。
そして、その予感は、すぐに現実となった。
突如として、霧の向こうから、かすかに響く声が聞こえた。「助けて…」女性の声だ。か弱く、だが確かに、霧の中からその声は響いていた。
「聞こえたか?」
ワトソンは驚いて辺りを見渡したが、ホームズはすでに素早く声の方へ向かって歩き始めていた。
「当然だ、ワトソン。急ぐぞ。」
ワトソンはホームズの後を追い、二人は声の聞こえた方向へと急いだ。濃い霧の中、足音が石畳に反響し、二人の姿は次第に霧に飲み込まれていった。
声が聞こえた場所にたどり着いたとき、辺りには静寂が戻っていた。テムズ川の流れが低く囁く以外は、何の物音もなく、女性の姿もどこにも見当たらない。ホームズは足を止め、鋭い目つきで周囲を調べ始めた。
「ここだ、確かに声はこの付近から聞こえてきたはずだ。」ワトソンは息を整えながら、霧の中を見渡した。
「静かに、ワトソン。」
ホームズは低い声で注意を促し、すでに地面に目を落とし、足元を慎重に観察していた。わずかな足跡、川に続く泥の跡、何かを引きずった痕跡…。ホームズは鋭い眼差しで、霧に覆われた夜の秘密を暴こうとしていた。
突然、ホームズが立ち止まり、冷たい川面をじっと見つめた。
「ワトソン、川の中だ。見てみろ。」
ワトソンは驚きながら、ホームズの視線を追った。そして、彼の目に飛び込んできたのは、暗く冷たい水面に浮かぶ黒い物体だった。
「なんだ、あれは…?」
「急げ、ワトソン。恐らく遅れてしまったようだ。」
ホームズの声にはいつもの冷静さがありながらも、どこか緊張感が漂っていた。
二人はすぐに川の岸辺へ駆け寄った。薄暗い水の中で揺れているのは、女性の体だった。彼女の姿はテムズ川の水に漂い、冷たく硬直している。ワトソンはすぐに川に入り、彼女の体を引き上げようとした。ホームズもすぐに手を貸し、なんとか岸へと引き上げたが、その体はすでに命を失っていた。
「神よ…」
ワトソンは声を失い、彼女の脈を確かめたが、もう手遅れだった。
ホームズは沈黙のまま女性の体を見つめていた。そして、ふと彼女の手に目を向け、気になるものを発見した。
「ワトソン、彼女の手を見てくれ。」
ホームズは冷静に指摘した。彼女の手は硬く閉じられ、小さな何かをしっかりと握っている。
「これは…ペンダントか?」
ワトソンが疑問を口にした。
ホームズは彼女の手から慎重にそのペンダントを取り出し、じっくりと観察しながら言った。
「このペンダントに彫られた紋様が、この事件の鍵となるだろう。だが、これが何を意味するか、全てが霧のようにまだ曖昧だ。」
ホームズは、薄暗い霧の中で静かに立ち尽くし、深い考えに沈んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます