盛夏の灯影

ゆのみ

1



 車窓を透過するかの如く差し込む光が、案外心地よい。一定のリズムで揺れる上、熱を閉じ込めやすい身体を、クーラーから発せられる空気がじんわりと冷やしてくれるから、かなり快適に感じられる。向かい側の窓に広がるビル群を眺めながら、俺は今日の出来事を思い返していた。

 オープンキャンパスに行けと言われたからか、それとも行きたいと思ったのが先だったか。兎にも角にも、上げた腰はさほど重くなかった。興味があるのは、何となく理系だと考えている程度だったが、目標の大学は明確に定まっていたからだ。そうして片道一時間かけて向かった場所で、体験授業や校内を見て回るなど、充実した日を過ごしたのであった。

 改めて、この大学に行きたいと思った。叶うことなら、一緒に行きたかった。そのような欲張りな思想を払うかのように、頭の回転が徐々にゆっくりになっていく。欠伸で誤魔化そうとしても、その睡魔はなかなかやっつけられない。ふと電光表示を見れば、最寄り駅まではあと五駅ほどだった。乗り過ごさなければ大丈夫だろう、と俺は白旗を手にした。

 視界に最後映ったのは、青い空だった。



 次に意識が浮上したのは、オレンジ色が広がる風景だった。辺り一面、田んぼ。見慣れない景色に呆然としていると、次は終点、なんて言葉が耳に入った。途端、恐ろしい気分になって冷や汗が滲む。左手首にぴったりはまった時計を見やれば、最寄り駅に着く時間から長針がそろそろ一回り、といったところに位置していた。リュックサックの内ポケットに投げ入れたスマートフォンを慌てて取りだして、母親に連絡を入れる。しかし、それはただの報告に過ぎない。俺が取るべき、取るしかない選択は、引き返すのみである。その手間に内心面倒くさがりながら、己の迂闊さに頭を抱えるしかなかった。

 がたり、と電車が大きく揺れたと思えば、風景が流れるスピードがしだいに遅くなった。完全に停止したところで席を立ち、開いたドアからホームに上陸する。見渡す限り、広がるのは先ほどと何ら変化のない田園風景だった。屋根のないホームには、夕陽が遠慮なく当たってくる。とりあえず帰りの電車を見よう、と思い、こじんまりとした事務室らしきところに張り出された時刻表の前に立った。時間帯と照らし合わせると、次の電車は現在時刻からおよそ四十分後だという。ベンチのないただのアスファルトに佇むのも退屈な気がして、本当に利用するはずだった金額の五倍近くを払って、改札を潜り抜けた。

 駅(と言えるかは分からないほどの停留所のような建物)から出ると、またアスファルトが待ち構えていた。すぐ目の前は、ホームから見た通り鮮やかな緑色の稲でいっぱいだった。人の気配も感じられない道を、思い立って歩くことにしてみた。自然に興味が有るのかといえば、ノーではない、というところだ。が、なかなか地元では見られない光景にすこし好奇心が芽生えたのだ。

 スニーカーと地面の擦れる音だけが、人気のない世界に雑音として溶け込んでいく。離れたところに家らしきものはぽつりぽつりと見かけるものの、そこまで行く気にはなれなかった。ずっと変わらない光景を見続けて、飽きそうだなと思いつつも、実際は飽きなかった。ただ、静かな世界に放り出された、迷い子のような心地にそわそわしていた。そんな俺の気分を、味わっていた世界に、亀裂のごとく甲高いブレーキ音が割り込んできた。

「何してんの?」

 声変わりを終えた、大人びた声色だった。俺の背後から現れたその少女は、髪をひとつに結って、耳にはピアスらしきものを付けていた。服装は、短パンに半袖といったベーシックなもの。切れ長の一重がクールさを際立たせているし、自転車にまたがる姿も様になっている。一通り彼女の姿を見たところで、ありのままに起こったことを伝えた。すると、彼女が不意に吹き出した。

「面白いね、きみ」

 屈託なく笑う姿に、何故か『彼女』の顔がチラついた。いや違うだろう、と首を横に振ると、また彼女が笑い出す。

「挙動不審すぎるってば。いやあ、でも久々に笑ったわ。ありがとね」

「べつに、何もしてないし」

「いいのいいの。あ、そうだ」

 不自然なくらい口角を上げる顔に、思わず背筋がゾッとする。俺の嫌な予感はだいたい的中するが、今回もそれは当てはまった。

「暇なんでしょ? ちょっと着いてきてよ」

 正直言って面倒くさい、が勝る提案だった。しかし、まだ乗る時間までは三十分近く残っているから、何をしようにも暇つぶしできることもないのが現状だった。知らない人に着いていくな、なんて教えもあるけれど、少女はおそらく同年代だろうし、よく分からないところで笑うけど悪い人間には見えなかった。それに、未知のことに関わるのはワクワクした。

 長考の末に頷くと、少女はやったね、と得意げそうだった。そして、自転車の後方の荷台を軽く叩いた。

「乗って」

 わざとらしく眉を顰めて、渋い顔つきをするも、彼女は足を地面に叩きつけて急かしてくる。せっかちだな、と呆れ半分で俺は荷台にしぶしぶ腰掛けた。

 それから、彼女が思いっきりペダルを踏み出す。最初はのろのろ亀さんみたいなスピードだったのに、一分間あたりのペダルを漕ぐ回数が増えていくのに比例して、段々と速度が上がっていった。バランスを崩さないように、荷台を掴む手と体幹を最大限駆使した。流石に女子に腕を回すのは如何なものかと思い、それには頼らなかったが、意外と何とかなるものだということが判明した。

「よくバランス崩さないね」

 感心した様子の彼女に、「まあ、伊達に運動部やってないし」とさりげなく返答すると、へえ、と興味があるのかないのか読めない返しがされた。

「運動してるけど、そこまでバランス神経良くないよ私」

「そりゃ、スポーツでも違うだろ」

「きみ何やってんの?」

「バレー部」

 ああ、と彼女は納得したようだった。

 バレーボールは、ボールを落とさないようにブロックやレシーブを徹底しなければならない。そのために、安定したレシーブには体幹を、ブロックを飛ぶ際にも姿勢など安定性を必要とするのだ。

「着いたよ」

 間延びした声をキャッチして、軽やかに荷台から降りる。どうやら丘のような所に来たらしく、振り向くと村や水田がずらりと並ぶ光景を目の当たりにした。日は暮れかかっているから、暗くなっているところも多少あったが、それでも大自然に囲まれたこの土地に心を落ち着かせられた。

「どう? 結構いいでしょ」

「ああ、自然っていいなって思う」

「ここ、私のお気に入りなんだよね」

 特別に連れてきちゃった、と照れくさそうに彼女が笑う。また、『あの子』の顔が過ぎる。あのとき、『彼女』は何かを手に持っていて、確かあれはバレンタインの日で──

「黄昏てないで、帰れなくなるよ」

 彼女の警告に、ハッとする。冷や汗をかきそうになりながら、今度は下り坂を一気に駆け抜ける。きゃあ、と愉しげな声が静寂な場所を彩るようだった。ふと見上げると、空は真っ暗に近しかった。

 行きよりも倍くらい早く駅に着き、時計を見ると、発車まであと二分だった。ほっとする俺に対し、ギリセーフ、と彼女はピースサインを決めた。

 改札を通って、振り返れば、自転車の持ち手を握った少女が立っている。顔は、暗くてよく見えない。軽く会釈すると、彼女がひときわ大きな声を出した。

「また来てくれる?」

 俺は勝手に言葉を紡いでいた。

「行くよ」

 そんなことを言った自分にびっくりしたけれど、腑に落ちないわけではなかった。なぜなら、慣れない土地が、存外楽しかったからだ。

 そっか、と辛うじて聞こえたつぶやきは、確かに喜びを孕んでいた。

 錆びた、小さな車両に足を踏み入れる。出発時間まで、あと三十秒だった。最後に手でも振ろうと、また改札の方を見た瞬間、何かが脳裏を過ぎった。いや、何か、じゃない。暗い人影が、あの日の『彼女』に重なった。咄嗟に、俺は叫んだ。

「夏は好きか?」

 閉まっていく扉に、彼女の叫びがギリギリのところで入り込んだ。

「夏なんて、大っ嫌いだよ」

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