先生
柔らかな陽の光が大きな窓から部屋の中を照らしている。
一見、降霊術課の仕事部屋は穏やかな空気が流れているが、ユーリの頭の中は朝から頭の痛い問題が半分以上を占めている。時間が経つごとに晴れやかな天気に逆らい気分が暗くなっていく。少し前なら、なんでも深刻になりすぎるユーリをテオがからかって、それに強がりを返すことで前に進めていた。今は頼れる弟弟子は隣にいない。
隣の席にいない弟弟子を思うと寂しい気持ちは募るばかりで、思わずため息を漏らした。
そんなユーリの気持ちとは裏腹に、エルベルトの周りだけは普段と変わらず柔らかな春の空気が漂っていた。ユーリの真向かいにある机に向かって、来月の降霊学会に提出するという論文を進めている。あと少しで一世一代の大作が書き上がると、いつも以上に機嫌が良い。ユーリが聴いたことのないメロディーの鼻歌まで聞こえていた。
「先生、あの……」
ユーリは、おずおずと口を開いた。
「今朝の国王様のお話かな?」
ユーリの頭の中など最初から全てお見通しみたいに、エルベルトは書き物の手を止めず会話を続けた。
「はい、降霊術課でスパイの調査をするって」
――それは、朝というにはまだ早い時間帯の出来事だった。ユーリは自身の頬にぽたぽたと当たる冷たい水に驚いて、ベッドから飛び起きた。何事かと慌てて周囲を確認すれば、枕元には若い女性が座っていた。ユーリには、すぐに、それが人間ではなく、霊であるとわかった。美貌の中に子供のようないたずらっ子の笑みを浮かべているその霊は、長年王宮に住んでいる精霊だった。突然の訪問にユーリが用向きを訊くと、霊は、国王様がユーリたちに会いたがっていると教えてくれた。
この国が霊を特別に神聖視しているのは、王家とこの霊に関係している。姿が見えるのに、話すことが出来ない彼らが、ずっとそばにいたからこそ霊が信仰の対象になりえた。そして、この霊の声が聞こえて会話が出来るのは、今のところユーリだけだった。
急ぎ身支度をしてエルベルトと共に謁見の間に着くと、開口一番、国王様から、神妙な面持ちでこの王宮内に隣国『リサーヌ』のスパイがいるかもしれないと告げられた。無論、リサーヌとは現在も交易が盛んに行われているため、ユーリも、にわかには信じられなかった。
ユーリは以前から耳にしていた国の危機については、あまり信じていなかったが『王宮内に潜む隣国のスパイ』という自分のすぐ近くに脅威が迫っていることを聞いてから急に不安になった。
「――まぁ、国王様は、昔から、とても心配性ですからね。ユーリくんがここへ来る前にも、こういうことは、よくありました」
「ロスーンの兵力について情報が流れているって大ごとじゃないですか! しかも降霊術課が極秘で調査って」
「ユーリくん」
エルベルトは、言葉を遮るようにユーリの名前を呼んだ。
「極、秘、だから。今ユーリくんと話しているところも誰かに聞かれたら大変ですね」
「ぁ、す、すみません」
ユーリは慌てて声をひそめた。そんなユーリの素直な反応にエルベルトは小さく笑う。
「冗談ですよ。そもそも、この部屋が気持ち悪いって誰も寄り付かないからね。私たちが、ここで何をして、何を喋っていても誰かに知られる心配なんてありません」
エルベルトに言われて、ユーリは改めて部屋の中に目を向けた。
降霊術課が仕事で使っている部屋は、エルベルトが趣味で集めた珍しい品々がたくさん飾られていた。少々不気味な顔が彫られた木の像が棚に並べられ、色とりどりの鉱物、何に使うのか分からない装飾の施された金属の棒や、変な文字が書いている三角の布があちこちに飾ってあった。
どう見ても、この場所が国の最高機密を取り扱っている場には見えないだろう。
よく言えば異国情緒あふれる部屋と言えなくもない。
今まではエルベルト一人の課だったので、奇抜な室内装飾に文句を言う人間は誰もいなかった。ユーリも初めてこの部屋に入った時は、外にある城の調度品との差に驚いたが、それは最初だけ。
気持ちが悪いと言われるこの部屋の品々はユーリにとっては見慣れたものだ。長年暮らしたハーウェル家のエルベルトの書斎も似たような雰囲気をしている。
「先生、立派な仕事部屋が与えられているのに、えーっと、統一感というか」
「ん? ないかな?」
書き物に熱中してたエルベルトが突然顔を上げる。有無を言わさない圧をその視線に感じ、ユーリは縮み上がった。
「い、いえ、あるといえば、あります、けど……ぼ、僕は好きですよ! 先生の、異国趣味」
ユーリが慌てて弁解すると、エルベルトは、にっこりとなんとも食えない顔で笑った。
「ふふふ。ユーリくんの、そういう何事に対しても真面目なところが私は好きだなぁ。テオくんは、はっきりとゴミ部屋って言うからね」
「あの……先生、僕で遊んでますよね」
「もちろんです。いつまでたっても遊びがいのある可愛い元弟子ですね」
テオなら、さらりと上手くかわすのだが、ユーリ一人だと、簡単に遊ばれて丸め込まれてしまう。
「ところで、君とは晴れて同僚になったわけですし? そろそろ先生ではなくエルベルトと名前で呼びませんか? もう君と私は対等な仕事仲間ですよ?」
「えっと、でも」
「ほらほら、言ってみてください。まぁ、無理だというのなら、少しだけ譲歩してハーウェルさんでもいいですよ」
「そんなの、む、無理です!」
エルベルトにじっと笑顔で見つめられて促される。けれど、いきなり呼び方を変えるなんて無理な話だった。
「先生の弟子でなくなっても、僕にとって、先生はずっと先生ですよ」
ずっと怖いばかりだった『異形のモノ』との付き合い方をエルベルトは一からユーリに教えてくれた。――霊は、君と楽しくおしゃべりがしたいだけですよ。そう言われたとき、ユーリは目の前の世界が広がった気がしたのだ。
エルベルトは何か眩しいものでもみたかのように目を細める。
「なるほど、ずっと私は先生、ですか。では、そんな君に、師匠として一つ課題を与えましょう」
「課題、ですか? 卒業試験の課題は、ちゃんと」
「それはそれです。君が、本当の意味で、私から卒業出来るようにね」
エルベルトは、席を立ちユーリに背を向けた。それから窓を外に向かって開き「しばらくは天気がいいね」と明るく言い放った。エルベルトと同じようにユーリも、降霊術課の部屋に一つある大きな窓の外へと視線を向ける。外には、石畳が門まで続き青空がよく見えて視界が開けている。朝からずっと暗い気持ちだったけれど、今日は本当に穏やかな良い天気だった。
「旅行に行きたい」
「え?」
ユーリは思わず聞き返した。
「……いえ、間違いました。論文も今無事に書きあがったことですし、ちょっと国外視察へ行ってこようと思います。いいですか?」
エルベルトは振り返る。確認ではなくその目から決定事項であることは明らかだった。
「は……なっ、なぜ今なんですか!」
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