私刑!

ドラコニア

第0話 

 

 どっちゅん。たちゅ、たちゅっ。どむっ、どむっ。がつんっ。ごくっ。


 起きなきゃ、起きなきゃと薄ぼやけていた意識が、水底から一気に水面に上がるみたいにして、ぱっと目が覚める。気分がいい。今まででは考えられないほどにさっぱりした目覚めだった。


 二度寝しないよう、バッと素早く上体を起こしてベッド横のカーテンをザっと開け放つ。さっと差し込んでくる柔らかい朝の日差しが目にむず痒い。


 ゴトンッ。カランカランッ。


 何か重い金属の物体を取り落とした時のような、甲高い音が朝の閑静な住宅街に響き渡る。


 こんなに朝早くから迷惑だなと思いながら、音の正体を確かめるべく小川ミミは窓を開ける。


 荒い呼吸音に混じってひそひそと囁きあう声が、小川家の二階に位置する耳の部屋に聞こえてくる。


 小川ミミは窓べりに上体をもたせながら窓下を覗きこむ。


 血に塗れてらてらと朝日を反射する木製バットやハンマー。血を吸い込み黒く艶っぽく湿っているアスファルト。肩で息をする数名の男女の後ろ姿。焼肉でパパが良く頼むホルモンセットに似たぷるぷるぐちゃぐちゃの内臓らしきもの。折れて筋肉から突き出した骨。力なくぺちょんと横たわっている死んだ筋肉。


 え、ええ~!? り、リンチ殺人ってやつかな!? ど、どうしようっ! け、警察! 警察とか呼んだほうが絶対いい気がするっ! あ、で、でも―


「あ、ミミちゃん!」


 一人が窓から覗き込んでいた小川ミミの存在に気付く。二階からでもわかるもさもさの顎髭を蓄えた濃い顔立ちの禿頭の中年。ミミはその顔に覚えがあった。近所に住んでいる滝原という噂好きの男で、道端ですれ違った時などは決まって誰かと近所の悪口を言いあって盛り上がっているのをよくミミは目撃しており、そんな立派な髭面のくせして他人の悪口言うなよとすれ違うたびに思っていた。


「あ、えっ!」


 ミミがめんどくさそうなことに巻き込まれそうだぞとあたふたしている間に、肉塊を取り巻いていた他の大人たちもミミの方を振り返る。


「ミミちゃん! とりあえず降りてきなよ!」


「そうそう! 話し合いましょう!」


「ねっ? ねっ?」


 滝原に続くように他の大人たちもミミにとりあえず外に出てくるようにと勧める。


「あ、は、はいっ。と、トイレ! トイレしてから行きますっ」


* * *


 寝間着姿のまま外に出ると、雨の日の錆びた鉄棒の匂いを何倍も濃縮したような匂いがミミの鼻腔に纏わりついてきた。血の匂いだ。


「なっ、何があったんですか、ね…?」


 ミミが赤黒い巨大なぶよぶよと滝原たちの顔を右往左往させながら訊ねると、滝原が堰を切ったように唾をまき散らしながら話し始めた。


「ろくでなしの人殺しを粛清したんだッ! 昨日牧山さんとこの娘さんのマナミちゃんが殺されて、その犯人がまだ捕まってないことはミミちゃんも知ってるだろう? でもね!? 俺は犯人の情報を警察よりも早く掴んでたんだよッ!」


「エッ! は、犯人がわかったんですか!?」


「そうともさ! そこにいる沢村夫妻が教えてくれたんだよッ! 細田ってわかるかな? 最近町に越してきたばっかの、細田って名前の癖にでぶでぶと太った脂ぎった中年男だッ!」


「ほ、細田さんが…?」


 ミミは細田らしいものに目をチラと向ける。


「そうなんだッ! 昨日夕方過ぎにチェンソーをもって町を徘徊しているのを沢村夫妻が見ているんだよッ! それにね、殺された牧山さんの娘さんのマナミちゃんの遺体はねッ!? 肩口からざっくりいかれていたという話だがね、その切り口がいやにズタズタだったらしいんだッ! ずッ、ズタズタの傷口とチェンソー! 私は合点がいったんだよッ」


 ミミは見る影もない細田ものにゆっくり歩み寄る。


「ふ、ふふっ…う、運が悪かったんですね、細田さんは…。れ、レジ袋をケチったばっかりに…な、なんだっけ、あの、持参するバック…あ、あ! そう、マイバッグだ…! マイバッグを持ってなかったばっかりに犯人にされちゃうんですからっ」


「エッ! それはどういう…」


「こっ、殺したのは私れふっ! あっ、ま、マナミちゃん殺したの、わたしっ! 初めて知り合った時にっ、えっと、ミミちゃんってどういう字書くのって聞かれて…えっと、それでっ、美しいに久々のびさとかに使う踊り字使うよって教えたら、ひっ、ひどいんですよっ! 名前負けってやつじゃんって…それでっ、それでずっといじってくるからっ、殺しまひたっ。あぅ、また噛んだっ」


 沢村夫妻含めた数人がチラ、チラと滝原の方を見やる。


「沢村夫妻が悪い! そうだッ! 沢村夫妻が誤解を招くような情報を与えたからだッ」


 滝原の口の端には唾の泡がたまっている。


「なっ! あんたが素人探偵めいたことをしてたから協力してやっただけじゃないか! この期に及んで責任転嫁とはみっともないぞ!」


「細田に然るべき復讐を与えたのちに内々で処理してしまおうという提案はどのみちあんたがしたことだぞ、滝原」


「情報通ぶっていつも誰かの粗探しばっかりしてるバチがあたったんだ! 神様は見ているなあ」


 滝原は少しばかり離れた電柱の下に置いてあった黒い手提げ袋のもとまでフラフラ歩いていく。かなり大きなものが入っているのか袋は歪な形状をしている。沢村夫妻たちからの非難を断ち切るように、なかば誇示するようにしながら滝原が袋から取り出したのは、チェンソーであった。


「なっ、なんのつもりだ滝原っ!」


「私たちも殺すつもりなんだわっ」


「けっ、警察を呼ぶんだっ」


 一転して、大人たちの間に殺されるかもしれないという恐怖が伝播する。


「まさか、証拠品として突きつけるために細田んちの倉庫から盗み出しておいたチェンソーをまさかこんな使い方をすることにとはなッ」


 滝原は思い切り紐を引っ張ってチェンソーのエンジンをふかす。ぶるうんっという轟音が家もまばらな田舎町に響きわたる。


「に、逃げろっ」


 大人たちは示し合わせたように一目散に走り去る。


「ま、待てッ! 違うんだッ! 話を聞いてくれッ」


 残されたのは寝間着姿の小川ミミと細田の肉塊と髭面を脂汗でぐっしょり濡らした滝原。そしてチェンソーの唸り声。


「み、ミミちゃんッ」


「えっ、な、なんですか…」


「俺は今から腕をこのチェンソーで切り落とすからッ」 


「え、ええっ」


「細田と争った風にみせるんだッ」


「で、でもっ、細田さんの死体をどっかに隠したほうが痛くないしいいんじゃないんですか…?」


「う、うるさいッ! こ、この人殺しめが!」


「え、ええっ!?」


 でも滝原さんも人殺しじゃないですか! ミミがそう言い終わる前に、滝原は自身の左腕めがけて思い切りチェンソーを振り下ろしていた。


 ぐぅーんぐぶぶぎゅんぎゅんっという音と共に切り口に無数の血のあぶくが沸き立ち、ぼたぼた、ぶしゅっと不規則なスプリンクラーみたいに血がまき散らされる。


「ぉうわッ」


 痛みにとても耐えられなかったのか、滝原の口から思わず声が漏れる。そんな滝原の声がきっかけになったかのように、チェンソーの刃がぎゅおぉんっという尻すぼみな駆動音と共に、滝原の顔をめがけて跳ね上がった。眼球と鼻梁が巻き込まれる。


「ふぅわッ」


「き、キックバックだ! はっ、初めて見たっ」


 滝原は思わずチェンソーを取り落とす。チェンソーはアスファルトとの間に火花を散らしながら、がりがりがんがんっと音をたてて小刻みにタップを踏んでいる。


 痛みからくるショック症状でぶるぶる震えながら、ぴちぴちと打ち上げられた小魚みたいにコンクリの上を跳ねている滝原をそーっと覗き込みながら、ミミは目を丸くする。


 滝原の左前腕に刻まれた分厚く深い傷口、キックバックによってまき散らされた顔の繊維とを見て、ミミはマナミを殺したときのことを思い出していた。


* * *


 ミミの初撃は浅かった。マナミの左肩口の鎖骨のところでガッと包丁の刃が引っ掛かる感覚があった。マナミは尻もちをつき、足をバタバタさせながら必死にミミから離れようとしていた。ミミはそんなマナミの背中めがけて大ぶりの包丁を振り下ろした。血がマナミの制服を真っ赤に染め上げた。マナミはしばらくすると動かなくなった。


「み、ミミですっ。う、美しいに、久々のびさとかに使う踊り字で美々、ですっ」


 何度も何度も振り下ろしては骨に引っ掛かった。のこぎりの要領で前後にぎこぎこ動かしてはマナミの筋繊維が刃を絡めとった。


「ぜっ、全然うまくいかないっ」


 しばらくして前腕が焼けるように痛んできた。握力の限界だった。


「腱鞘炎なったらやだから、も、もう帰ろっ、帰るっ」


 ミミは可及的速やかに帰路についた。


 * * *


「チェンソー使えば疲れなかったかな…? あ、あれっ? チェンソー? チェーンソー? ど、どっちかわかんなくなってきたっ」

 



 




 

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