16 それは運命ではなく

江平えびら、お前も、選抜リレーに出るんだったよな、青チームの」

「ぬ? うむ、そうだが?」

 かかとを革靴に埋め込みながら、江平は黒川くろかわに答えた。今日もとっぷりと日が沈んでからの下校だ。ほとんどの生徒が、最終追い出し時刻ぎりぎりまで忙しくしていたため、たいがいの生徒がほぼ同じ時刻に昇降口に向かうことになる。昨日と同じように麗人れいと、黒川、江平が昇降口で合流したのは、必然というもので、偶然ではないし、もちろん宿命でも運命でもない。


「やっぱしな。これで肩の荷が下りたってもんだ」

「そりゃ、エビらんの脚力ならねぇ」

 麗人がやや苦笑ぎみにうなずく。

「なんだ、私と勝負でもしようという腹積もりか」

 革靴を履き終わって、背中のリュックを揺すり上げつつ立ち上がった江平は、本当に背が高い。

「いんや、お前には勝てねえとわかってるから気が楽だってこと」

 黒川はためらいもなく敗北宣言をする。


 江平はこの図体でかなり速い。2年生で最速のグループに入るだろう(黒川も入ると言われているが)。ただし江平のフォームはかなり独特である。両手を指先まで開き、がにまた気味に膝を上げて、「ふぬおおおおお」と気合を発しながら駆ける。速いことは速いのだが、その様子には周囲の人々が笑ってしまったり、闘争心を冷却されてしまったり、という副作用がともなう。自身が速いだけでなく、対抗者の集中力が崩壊してしまうのだ。江平本人はふざけているわけではなく、むしろ真剣そのものなのだが、この副作用はむしろ真剣だからこそ生じるものなのだろうか、それとも別の要素がもたらすものだろうか。さらにおそろしいことには、江平本人いわく「下駄か雪駄せったを履かせてくれればもっと速いのだが」ということである。当然彼は、青チームの選抜対抗リレーの2年男子代表であり、同じく黄色チーム代表の黒川とは真っ向勝負の流れである。黒川が「勝てないことはわかっているから、かえって気が楽だ」と堂々と宣言する所以ゆえんである。できることなら、自分にバトンが回ってくる前に、江平には大差をつけて前を走っていてほしいと、かなり身勝手なことを考えている黒川であった。


 ちなみに、黒川もかなり変わった脚力の持ち主である。百メートル走と、同距離ハードル走では、なぜかハードル走の方が速いタイムが出る、という変人なのだ。体育教師も同級生も驚き、本人も「なんでだ」と首をひねっているのだが、何度計測しなおしても、やはりハードルの方が速い。あるピンポイントな意味で逸材である、とがりすぎの。


 どこかでおやつ食べて帰るか、という話も出たが、今回は江平は断って、自宅へ直行することにした。体育祭の練習もみっちりあったので、疲れてしまったのだ。盛り沢山な一日だったが、大きなアクシデントもなく、まずまず順調だろうと江平は思っている。いよいよ明日から学祭本番だ。朝型人間の江平としては、今夜は早めに休むくらいのつもりでいた。


 今日の帰路は昨日より少し早い時刻だが、日が沈んでしまった後の暗さはそう変わりない。強いて言えば、まだ交通量が多く、車のライトがひっきりなしに通過する、というところだろうか。大通りから細い道に入っても、やはり車の数は、昨日の帰宅時より多少多く、自転車も何台か江平を追い越して行った。


 蕪屋かぶらや神社の前に差しかかる頃に、何やら大声で話しているらしい年配男性の声が、小さく聞こえてきた。ああ、と江平は思った。蕪屋神社のお祭りを来週に控えているので、近所の人たちが打ち合わせをしているのだろう。例年、江平が中学の頃から、文化祭や学祭や試験と日程が重なることが多いため、江平はこちらの手伝いはほとんどしたことがない。ただこの時期、打ち合わせが解散になった後、一部の人たちが酒盛りを始めて遅くまで盛り上がることは知っていた。今日は遅くまで人がいそうだな、と江平は小さく笑った。離れ屋にたどり着く頃には、内容はまだ聞き取れないながら、だいぶ大きな話し声と、どっと笑う声が目立つようになってきていた。おそらく、寺と神社の共用で使われる集会室で、いい気分になっているのだろう。うるさいといえばうるさいが、江平は毎年のことでもう慣れっこになっているので、不快だとか迷惑には思わなかった。母は他に仕事があるので、例年この酒盛りにはつき合わない。


 蕪屋神社のお祭りは、かつては日付が決められていたらしいが、近頃では神社と氏子うじこたちで話し合って日程が決められている。地域人口及び氏子の減少、共働き家庭の増加、なにより個人的事情の多様化で、休日も忙しい人が増えた。そんな中、主に近所の人々に協力をあおいで、毎年10月中旬から11月中旬あたりのどこかの日曜で、なんとか都合をつけて、続けてきたのである。時期が時期のため江平もこの祭りの全貌まではよく知らないが、今年も学祭が終わってから手伝いに入るつもりでいる。それでも、蕪屋神社はまだ恵まれている方であろう。予定をあけて動いてくださる氏子がいる。小さな神社は宮司が掛け持ちで複数を担当しているのが普通だが、蕪屋神社では寺を兼任しているためか、宮司は基本的に常駐で、ほかの神社とかけもちで管理に駆け回る必要もない。しかし、この先はどうであろうか。蕪屋神社と滴中てきちゅう寺の行事のあり方も、見直しが必要な時期に来ているのかもしれない。地域住民のほとんどが氏子もしくは檀家だんかで、みんな割と積極的に、神社や寺との関わりを大切にしてくれる人々だ。旧来のやり方を変えようとなったときに、どんな形なら、どれだけの人が、受け入れてくれるのかは未知数だ。もっとも、「古老」と呼ばれる立場の人たちも、江平よりよほどITに詳しく、SNSなどを積極的に利用していたりする人がそろっているのだが。


 なーん、とどこかから聞こえて来て、暗闇の中からフクがてこてこ歩いてきた。江平の足元で、なーん、ともう一声鳴く。


「そうか、お前も今夜は、うるさくてあっちにはいられぬか」

 江平はしゃがんで、フクの頭を撫でてやった。なーん、と応じて、フクはころんと転がる。もっと撫でれ、というように。江平はしばらくフクの要望に応えてやっていたが、そうだ腹が減っていたのだったと思い起こし、立ち上がった。


「せっかくだ、私の部屋の周りをパトロールしてやってくれ」

 と要望して、起き上がり、離れ屋の鍵を開けて中に入った。姿勢を起こしたフクが、なーん、と返事した。ドアを閉め明かりをつけたとき、ふと江平は、そういえば今日は検問をやっていなかったなと思い至った。宝石強盗がいまだつかまらず、捜査範囲が拡大されたと知ったのは、翌朝の朝刊でのことだった。

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