第10話 暗示





 生徒会室から教室に戻る途中、通りかかった職員室から出てきたのは星見だった。


「伊原君!? どこに行ってたの」

「星見こそ……なんで職員室に?」


 てっきりまだ教室だと思っていた。星見は「それは…」と少し視線を泳がせ、睨むように勇を見た。


「伊原君が、保健室にもどこにもいないから」

「……ごめん」


 本気で怒られてしまった。勇は星見と教室に戻り、皆が帰って誰もいないのを確かめてから日野や合田達から聞いたことを星見に話した。


「白服なんて、初めて聞いたわ」


 彼女は勇の隣の席に座り、島の地図を広げている。開けっぱなしの窓で、カーテンがはためいた。青空はうっすらと、黄昏の夕焼けに染まりつつある。俯いていると、細い指先が勇の手を握った。


「ねえ、もうやめたら?」

「やめるって何を」

「宍倉君を探すことよ。軍の特殊部隊の基地にいる。それだけわかれば、もうじゅうぶんでしょ?」

「まだそうだって決まったわけじゃないよ」

「他に考えられないでしょ。狭い島の中なんだから」


 そう、仁は島にいる。いるとしたら、白服として軍の基地にいる可能性が高い。ならばこれ以上は、ただの学生が何をどうやったって、仁には届かないだろう。

 おとなしく卒業まで待って、島を出て、それから……。仁の母親づてなら会えるかもしれないし、連絡手段だって……。


「今、会いたいんだ」


 駄々をこねる子供みたいに、勇は言った。


「だって、仁がいないと、僕は……」


 なんでだろう。怖くて、不安で、たまらない。

 自分という存在がひどく希薄で、頼りないものに思えてくる。


「宍倉君は元気でやってるはずよ。……寂しくても、今は私がいるじゃない」


 優しく励ますように、星見が言う。


「私は伊原君がすき」


 突然きっぱりと淀みなく告げられ、勇は面喰らった。何かの冗談かと思ったが、星見は怖いくらい真剣な顔をしていた。


「初めて会った時からずっと。伊原君のオーラは、すごく純粋で綺麗なんだもん。他の男子と全然違う」

「……僕は、そんないいものじゃない」


 星見にオーラとかいうのがどう見えてるのかはわからないけど、中身がともなってなきゃ意味がない。けれど星見は「すごく優しい人よ」と笑った。


「私なら、宍倉君を忘れさせてあげられる。そう暗示をかけてあげる。そしたら、もう不安に思う必要もない。楽しい学園生活を送れるはずよ。だからお願い。宍倉君じゃなくて、私を見て欲しいの」

「何言ってるんだよ」


 仁は仁だし、星見は星見だ。どっちも大事な、別々の友達だ。けれど星見は言う。


「これは、伊原君のためでもあるのよ」


 星見の顔が近づいて、ふわりと花のような甘い匂いがした。唇に湿った感触が重なる。ビックリしすぎて、頭が真っ白になった。

 その隙を突くように、温かなイメージが頭に流れ込んでくる。ぬるま湯に浸かるような心地よさに、まどろみそうになる。

 

「ごめんなさい。先生に言われたの。このまま伊原君があの人を探し続けるなら、何らかの処置が必要になるって。そうなる前に、友達として止めてあげるべきだって」

「な……」


 きっと江ノ本先生だ。さっき職員室から出てきたのはそういうことだったのか。星見がぎゅっと、勇の頭を抱きしめた。


「伊原君は、私が守る」

「やめ……」

「私が、傍にいるから」


 眠気がすごくて、瞼をろくに開けていられない。けれど意識を手放したら最後、何を忘れてしまったのかも思い出せなくなる気がした。

 なのに、視界がだんだん暗くなる。何も見えなくなっていく。






 気づけば、目の前に水色のランドセルが転がっていた。

 仰向けになった女の子の上に、誰かが伸し掛かっている。真っ黒で大きくて、重たい体。押さえつけられた腕が折れそうなくらい痛い。

 痛い?

 なんで痛いんだろう。痛いのは、僕じゃない。あの女の子だ。なのに――。

 腕を押さえつけられ、組み敷かれていたのは自分だった。

 ああ、そうだ――と勇は絶望する。封じ込めていた記憶が、どろりと足元から蘇る。

 その男の人には、道を聞かれただけだった。一緒についてきて、と言われた。困っている人を助けなきゃいけないと学校で教わったから、そうした。名前を聞かれたから、答えた。それだけ。

 なのに橋の下を通った途端、いきなり突き飛ばされた。痛くて泣きそうになったら、口を押さえられた。転んで擦った足の上を撫でられて痛かった。


春花はるかちゃんは、可愛いね)


 男の人が耳元で言った。


(こんな短いスカート、穿いてるからいけないんだよ)


 スカートは制服だ。女子は穿くように言われているから、穿いているだけだった。

 自分はなんにも悪くない。悪くないのに。

 気持ち悪くて、怖くて、なんでこんな目に遭わなきゃいけないのかわからなかった。

 怖くて竦み上がる感情と同じくらい、腹が立って悔しかった。逃げられずに動けない、弱い自分が嫌で嫌でたまらなくなる。

 どす黒い感情が渦巻くように、ちっぽけな自分を呑み込んでいく。

 そして――『僕』という殻が砕け散る音がした。




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