カラスが見たもの

 目が覚めて最初に視界に入ったのは、誰かの背中と、凄まじい速度で流れていく地面であった。


 視界が上下に揺れ、脳が揺さぶられて気持ち悪くなる。起きてからの突然の気持ち悪さに、状況把握が一瞬遅れた。


 少しして、自分が誰かに担がれているのだということに気づいた。僕を肩に担いだ誰かが、凄まじい速度で走っている。



「んむぅー!」



 思わず声を上げようとするも、口に布か何かを噛まされており、うまく発声できない。両手と両足も、身動きできないように紐で縛られていた。冒険者が非常時のために携帯しているロープだ。


 一体何が、と困惑していると、徐々に気を失う前の記憶が甦る。


 突然豹変したルピウス、その恐ろしい様子が。


 …………おそらく、彼によって気絶させられたのだろう。


 なんで、どうして急にあんな風になってしまったのだろう。直前まで、いつも通りの優しいルピウスさんだったのに。


 お調子者だけど、真摯で優しい、そんな人だった。まさかずっと本性を隠していたのだろうか。


 いや、それならなんであのタイミングなのだろう…………考えても答えは出ない。



 怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い…………



 この後のことを考えて身体が恐怖に震える。あのルピウスさんから逃げるなんて、どんな奇跡が起きても無理だ。魔術だって絶対に間に合わない。詠唱を始めようとした瞬間に押さえ込まれるだろう。


 もう、どう足掻いても逃げられない。それに……ここはどこなのだろう。


 顔を横に向ければ、高速で流れていく景色の中に木々が見える。



 …………霧の森? 



 その木々は、とても見覚えのあるものだった。ほとんど月明かりも届かず、うっすらとしか見えないが、ところどころ昼間に教えてもらった植物がある。


 どうやら気絶している間に日が落ちてしまったらしい。夜の森は……酷く不気味だ。



 そして、遂に、走っていたルピウスさんが立ち止まる。無言で止まる彼が怖くて仕方ない。


 自然と、呼吸が浅く、速くなる。手足が震えて力が入らない。


 乱暴に、地面に投げ出された。拘束されて受け身も取れない僕は、強く腰を打ちつける。枯れ草が多少クッションの役割を果たしてくれたが、それでも痛みに涙が滲んだ。


 上を見れば血走った目で、ルピウスさんが僕を見下ろしている。あぁ、やっぱり。あの時のルピウスさんは夢じゃなかった……


「はぁ、はぁ、はぁ!」


 荒く息をするルピウスさんがゆっくりと僕の上に覆い被さる。呼気が顔に当たって、その湿った空気に、嫌でもこれが現実なのだと思い知らされた。


 身を捩って逃げようとするも、当然まともに動くことすらできず押さえつけられる。


 以前は頼もしく思えた、ゴツゴツと角ばった手が今は恐ろしくてたまらない。



 その手が、僕の服を引き裂いていく。その剛腕によって、身を隠すものが、呆気なく引きちぎられていく。乱暴な手つきで破られる衣服が、この後の僕の姿を表している気がして……心臓がズキズキと痛んだ。


 首から局部に掛けて肌があらわになり、外気にその身を晒した。冷たい空気に直で触れて、思わず身震いする。


 身を守るものをなくした僕に、ルピウスさんの息がより激しくなる。目は限界まで見開かれており、興奮に表情を歪めたその顔が恐怖心を煽る。


 舐め回すように僕の身体を視線で蹂躙したルピウスさんが、その顔を僕の身体にうずめる。



 ──そして、僕の肌に舌を這わせた。



 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ────


 生暖かく気持ちの悪い感触に、ゾワゾワと、背筋が凍る。唾液が僕の身体を汚し尽くし、あまりの気持ち悪さに、喉の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。涙が、目尻から溢れる。


 ピチャピチャと嫌な音を立てて、僕の体を貪り尽くす。冷えていた体が嫌な熱を吸収する。


 一通り弄んで満足したのだろうか。遂に、顔を上げたルピウスさんが、立ち上がった。


 ようやく終わりなのか、そう期待するも、すぐにその希望は打ち砕かれる。腰紐を解いた彼が、ズボンを脱ぎ始めたのだ。ズボンを乱暴に脱ぎ捨て、煩わしくなったのか肌着を破り捨てる。


 そのまま局部を露出させ、再度僕の上にかがみ込んだ。



「んむぅぅ──!!」



 嫌だ、それだけは嫌だ!! 無理無理無理無理!!! にげ、逃げないと……!! 


 身体を必死にバタつかせて抵抗するが、そもそもの筋力で圧倒的に負け、手足の自由も効かない状況では赤子が暴れているに等しい。


 鬱陶しそうに、乱暴に僕を押さえつけるルピウスさん。押さえられた部分が痛くて仕方ない。でも、それでも抵抗をやめるわけにはいかない。


 その時、必死に暴れて、少しずつズレていた口元の布が、口から外れた。ようやく口元が自由になった僕は、喉が張り裂けそうなほどの声で叫ぶ。


 だが、彼は叫ぶ僕を全く意に介さない。僕の顔に目を向けようともせず、その視線は僕の身体に固定されている。嫌な感触が、僕に触れるのを感じる。もはや泣いて待つしかない僕は、掠れた声で思わず言葉を溢す。


 そして僕の声を聞いたルピウスが、突如ピタリとその動きを止めた。



「お願い……やめて、ルピウス…………なんで、こんなことするの……?」



 僕の嗚咽混じりの声を聞いた彼は、目を大きく開いてこちらを見る。自分でも、自分が何をしていたのかわからないといった風に、その顔は驚愕に満ちている。


 動きをピタリと止めた彼の顔が、徐々に苦しそうに歪んでいく。何かを堪えるような、何かに懺悔するような、そんな表情だった。


 僕の目をじっと見つめて、ゆっくりと目を逸らす。俯いた彼は、絞り出すように呟いた。



「ごめん……」



 それが、彼の最後の言葉となった。


 言葉を紡いだ彼の頭が、突如として爆散する。肉が弾け、ぐちゃぐちゃになった脳髄と血が、僕の顔に降り注いだ。ぐちゃりと、その体が僕の上に崩れ落ちる。



「え……?」



 一瞬、何が起きたのか分からなかった。呆然と倒れた体を見つめていた僕は、顎からポタポタと滴る生暖かい液体に、ようやく意識を引き戻される。


 顔中に異物感を感じ、頬についた何かを手でそっと剥がす。


 それは……ぐちゃりと潰れた…………眼球だった。



「あぁ……あぁぁぁ、……アアアアああぁぁ──ー!!!!!!」



 目の前には、首から上を無くしたルピウスさんの亡骸が力なく横たわっている。あまりにも……一瞬の出来事だった。


 彼の眼を手に、僕の喉が、ひとりでに悲鳴を上げる。口が勝手に開き、慟哭する。自分でも止められず、なぜ叫んでいるのかわからない。でも、叫ばずにはいられなかった。


 彼の下から這い出て、その体を抱き起こす。何度見ても、本来あるべきところに頭はなく、首から止めどなく血が溢れている。


 つい数時間前まで笑い合っていた人が呆気なく死んだ。あんなに強くて、怪我をするところすら想像できなかった人が、一瞬で死んだ。


 なぜ? なんで? どうして? 


 ぐるぐると疑問符が頭の中を駆け巡る。



 その答えを示すように、森の奥から大きな影が現れた。


 その熊のような巨体の主は、パーティメンバーの一人であるウルフさんだった。


 金色の髪が、月の光を反射して光っている。


 無言でこちらに歩いてくる彼は何を考えているのかわからない。地面に転がる亡骸には一切目を向けず、ただただ僕を見ている。


……



「ッ!!」



 その視線に気づいて、ゾクリと、背筋に冷たいものが走る。またなのか、なんでこうなるのか。もう意味がわからない。


 粘っこい視線が、僕の肢体を這う。もう、嫌だ…………なんで、なんで、なんで。


 こちらに近づいてきた彼が、ルピウスさんの体を乱暴に蹴り飛ばし、僕を見下ろす。その顔は、先程のルピウスさんと同じく、肉欲と狂気に濡れていた。


 息を荒くして僕に手を伸ばす彼。身を縮こまらせて震える僕に、その魔の手が近づく。


 しかし次の瞬間、彼の頭に何かが飛び掛かった。それによってたたらを踏み、僕から少し遠ざかる。


 凄まじい勢いで頭に突っ込んだ黒い影。目を凝らして見てみると、通常よりも一回り大きなカラスであった。黒く艶めく羽を持ったカラスが、ウルフさんの頭をつつき回す。


 それに激昂したウルフさんが、カラスへ向かって拳を振るった。だが、カラスはひらりと躱して上へと逃れる。



「邪魔をするな!! アーテル!!!」



 野太い声で叫ぶウルフさんを、呆然と眺めた。なんだかんだ初めて声を聞いたな、と場違いにも思う。恐怖、失望、様々な感情が絶え間なく胸の中を駆け巡り、パンクしてしまっていた。


 なぜアーテルさんの名前が出てくるのだろう。確かに、彼女の綺麗な黒髪は、この烏の羽に似ている。そんなことはどうでもいいのに、精神が限界を迎えつつある僕は、働かない頭でそんな感想を抱いた。


 遅れて、今のうちに逃げないと、という思考に至る。再びパニックに陥り、ジタバタと踠くも、キツく縛られたロープは解けない。


 落ち着け、一旦落ち着くんだ…………僕は魔術師、そう魔術師だ。


 いつカラスを放置してこちらに飛びかかってくるかはわからない。でも、魔術をちゃんと発動させるために、一度目を閉じて深呼吸した。



「我は創造し、定める者。千草よ蔓延れ、火よ、包み込め!」



 二重詠唱で、短縮した火の魔術と、有機魔術を発動する。小さな火によって手足を縛っていたロープを焼き切り、ついでにウルフさんを巨大な植物の壁で閉じ込める。


 そのまま立ち上がって逃げようとするも、足から力が抜けて、上手く立てない。こんな時に腰が抜けてしまったというのか。


 それでも、街のある方向へ這いずって逃げる。這いずりながら、追加で詠唱する。



「我は支配する者、此処において我が命は絶対、氷よ、我が手足となれ。顕現せよ! そしてここに制する、我を護れ!」



 昼間も使った氷球を生み出し、ダメ押しで小結界を張る。こんなの簡単に破られてしまうだろうが、ないよりマシだ。


 そうして魔術を発動した次の瞬間、氷球が凄まじい速度で動き、飛来した何かを氷の刃で弾く。


 後ろに目を向ければ、草の壁を魔術で切り刻んだウルフさんがこちらを凄まじい形相で睨んでいる。


 先程飛んできたのはおそらくウォーターカッターだろう。防御が間に合っていなかったらと思うとゾッとする。


 氷球に魔力を込めて、氷の刃をウルフさんに飛ばすも、やはりウォーターカッターで相殺された。


 魔術師同士の戦いはおろか、対人戦すらしたことない僕はどうしていいかわらない。恐怖で喉がつっかえた僕は、そのまま詠唱をやめてしまった。その間にも、ウルフさんは詠唱を続けている。



「我は混沌を呼ぶ者、紛乱せよ」



 そして彼の唱えた魔術によってあっさりと僕の守りは剥がされた。僕の使えるものより上位の魔術だ。


 追加で発動した彼の魔術によって、呆気なく手足を縛られる。


 あぁ、もう終わりなのか……


 心を絶望が満たす。もう、抵抗するのも馬鹿らしくなってきた。大人しく受け入れた方が楽なのかもしれない。でも、あっさりルピウスさんを殺していたし、その後の命は保証されないだろうなとも思う。


 ただ普通に冒険者として生きたかっただけなのに、なんでこんな目に遭わないといけないのだろうか。何もかもが突然で、何がダメだったのかもわからない。日常というのは、こんなにも急に崩れ去るものなのか。


 涙が頬を伝う。もう、泣きすぎて涙も枯れてしまいそうだ。



 抵抗をやめて、ダラリと地面に寝そべる僕へ、自らの服を裂いたウルフさんが手を伸ばす。



 あぁ…………なんでこんなことになったんだろ……僕はただ、平和に……



 絶望の中、そっと目を瞑る。早く終わってくれ……そう祈る僕に、しかし一向に待ち構えたものはやってこない。


 その代わりに、突如狼の遠吠えが聞こえてきた。


 次の瞬間、ドサドサという音と共に、周りに数十の気配が現れる。


 思わず目を開けると、僕を大量の狼が囲っていた。あまりの光景にヒュっと喉が鳴る。


 そしてそんな狼に、ウルフさんが組み伏せられていた。周囲の狼が、一斉にウルフさんに襲いかかる。


 ウルフさんも馬乗りになっていた狼を蹴飛ばし、襲いかかる狼に応戦しだした。



 その光景に目を見開くも、僕の周りの狼は、僕には全く襲いかかってこない。その闇に紛れる黒い毛並みに、金色に光る瞳。まさに昼間目にしたものだ。



 そう、僕たちを囲っていたのは、フォレストウルフの群れであったのだ。



 一体何が起きているのか。今日何度目かもわからないそんな疑問が頭を満たす。次々と襲ってくる狼に、ウルフさんも多勢に無勢となっており、どんどん押されているのが見える。


 次第に傷が増えていき、徐々に解体されていく彼を呆然と眺めた。そしてそんな僕の横に、一際大きな影が降り立つ。



 何事かと思い目を向けると、体から霧を漂わせる大きな狼が立っていた。他の狼と違い、毛が深く、目は金ではなく赤色。そして何より、他の狼の1.5倍程のサイズだ。



 フォレストウルフの……上位種……? 



 その正体に見当をつけると同時、彼が大きく遠吠えをする。



『我らが主を御守りせよ!!!』



 なぜか僕には、その遠吠えの意味がするりと頭に入ってきた。まるで直接人の言葉で話しかけられたかのように、なんの違和感もなく意味がわかってしまった。



「え…………?」



 自分でもその事実に困惑していると、そんな僕を置き去りに、狼たちが僕を縛るつたを噛みちぎる。そして上位種が僕の方を向くと、その足元から木の根が伸びてきて、僕の体に絡みついてきた。



「うわわわわ!」



 それに思わず素っ頓狂な声をあげる。木の根はそのまま僕を持ち上げると、上位種の背中まで運ぶ。そして優しくその背に僕を置くと、するりと身体から離れていった。



 怒涛の展開に目をパチクリとさせていると、僕を背に乗せた狼が、そのまま走り出す。


 ────森の奥に



「違う! そっちじゃない!」



 思わず声をあげると、ピタリと動きを止める狼。周りの狼たちからも困惑が伝わってくる。彼らに言葉が伝わっているのかわからないが、街の方を指さして「あっち!」と必死に伝える。


 それが伝わったのか、方向転換して再び走り出す彼ら。



「助かった……の?」



 そう呟いた瞬間、後ろからウルフさんの断末魔が響いてきて思わず耳を覆った。


 もう、嫌だ……本当になんでこんなことに…………


 この狼たちも、敵なのか味方なのかわからない。どうして助けてくれたのか、なんで言うことを聞いてくれるのか。ヒルデガルドさんからもこんなの聞いたことがなかった。魔獣が特定の誰かを助けるなんて、そんなことあるのだろうか。


 でも、こうして狼の背中で、その体温を感じていると……不思議と安心してしまう自分がいた。



「ねぇ、君たちは……一体なんなの?」



 背中の毛並みを撫でながら問いかけるも、返答はない。当然といえば当然かもしれないが。


 しばらくそうして背に乗っていると、徐々に霧が薄くなり、森の出口へと近づいてくる。


 安堵に息を漏らし、力を抜くと、急にズキズキと頭が痛み出した。昼間ほどの痛みではないが、再び身体の中を蹂躙されるような気持ち悪さと共に、鋭い痛みが頭に走った。



「もう……ッ!! なんなのッ!」



 思わず悪態をつく。そんな僕を心配そうに見つめる狼たちがややスピードを落とした。揺れが少しおさまり若干苦痛が和らぐ。その配慮が今はありがたい。


 しばらくして痛みが引いてくると、気がつけば霧のかかっていないエリアまで来ていた。



 だが、出口が見えてきたあたりで、突然狼たちが立ち止まる。そして身を屈めると、威嚇するように唸り出した。


 何事かと思い前方へ目を向けると、少し遠くに人影があった。片手に光の魔術を灯し、槍を手にこちらを警戒しているのが見える。


 よく目を凝らすと、その姿が馴染みのあるものであることに気づいた。



「あの人は敵じゃないから! 大丈夫」



 急いで狼の背中を叩いてアピールする。すると「ほんとうかぁ?」と言いたげな雰囲気で、渋々威嚇をやめる狼たち。その様子にホッとした僕は背中からなんとか降りて、乗せてくれた狼をわしゃわしゃと撫でた。



「ここまで連れてきてくれてありがと。もう大丈夫だよ」



 されるがままに撫でられていた狼が、じっと僕を見つめる。その目は、なんとなく僕を心配しているように見えた。



「もう、森にお帰り。ここから先に進んじゃうと、討伐されちゃうから。守ってくれて、本当にありがとう。ばいばい、またね」



 その言葉を聞いて、狼は小さく鳴くと、渋々といった風に他の狼を連れて引き返していった。


 それを見た人影……ラーミナさんがゆっくりと近づいてくる。そして僕の姿を認識したのだろう。灯りに照らされた僕を見て息を呑み、ハッとしたように駆け寄ってくる。



「アモール!! その格好……一体何が!?」



 僕のあられもない姿を見て、すぐに外套を脱いで僕の体を包んでくれるラーミナさん。その手が震えているのが、布越しに伝わってきた。



「本当に、生きててよかった……!」



 そんな声を漏らして抱きしめてくれる彼女に、力が抜けて再び座りこんでしまう。


 それを痛ましげに見つめたラーミナさんがそっと僕を抱き上げた。



「取り敢えず、家に帰ろうか。アベラルドはまだ街の中を探しているだろうし……」


「うん……」



 ラーミナさんの腕の中に揺られながら、ぼんやりと考える。今日起きたことのどれもが、未だに信じられない。


 実は全部悪い夢だったのではないか。明日の朝、なんでもなかったように、またルピウスさんが顔を見せにくるのではないか。そんな淡い希望がある。


 目を閉じれば、ルピウスさんの死に様が、ウルフさんの断末魔が、脳裏に甦った。


 自然と呼吸が速まっていく。手が震えて、喉がカラカラと乾く。


 思わずラーミナさんに抱きつく力を強める。


 手で頬をなぞってみれば、乾いてこびりついた血と肉の感触が伝わってくる。それが、嫌でも先程の出来事が現実であることを証明する。



 今後、どうなっていくのだろう。そんな漠然とした不安が胸に押し寄せてきた。



 そんな僕を無言で抱き抱えるラーミナさんが、城壁の前に立つ兵に合図してそのまま街の中へ入る。おそらく既に話を通していたのだろう。



 灯りがほとんどなく、静寂に包まれた街を進んでいく。昼間の喧騒が遠いものに感じられて、なんだか薄寒いものを感じた。



「取り敢えず、汚れを落としたら今日はもう寝よう。詳しいことは……明日また聞くから。今はゆっくり休むといい」



 家に着くと、僕を降ろしたラーミナさんがそう言う。ルピウスさん、そしてウルフさんのことがあったからだろうか。彼女の僕を見つめる目が、何かいつもと違うような気がした。


 そんな悪い想像を振り払い、体を洗うべく桶を取りに行く。ラーミナさんは無言でそれを見送ってきた。なんとなく怖くなって振り返ると、錠前を手に、僕をじっと見つめる彼女がいた。何もないはずなのに、その姿がルピウスさんの姿と重なって、思わず小走りに桶の場所へ向かう。



 後ろで鍵を閉める音が、嫌に大きく響いた。

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