六.



 いま、私たちは高架線の上に立っている。


 迫り来る隕石の炎を眺めながら、あと少ししか残っていない蕩ける贅沢な時間の中に私は永遠を感じていた。


 太陽が沈み、隕石の深い赤で照らされた大都会の下で、点在する星を見つめる。昨日までは満天の星で溢れていた夜空が、隕石による爆ぜる熱量で消失してしまった。それでも、空は美しい。オレンジと紺のグラデーションが哀愁を漂わせる。


 足元で何かが蠢く。きっと人間のいない渋谷を謳歌していた鼠や虫たちが動き出したのだろう。気持ちが悪いと感じたけれど、人間が去ってからの渋谷はいつもこうだ。私はほとんど慣れてしまっていた。


 人間二人と一匹の犬はいま、彼らだけの世界で語り合う。


「ここに立っていると罪悪感があるね。もう二度と電車が動かされることはないのに」


『どうして罪悪感?』


「人が線路にいると電車が動かないんだよ。だから、線路には絶対立っちゃいけないんだ」


『そうなの……。ごめんなさい。私、何も知らなくて』


「いいのいいの。知らないことは俺が教えるから。電車はね、とても大きい乗り物なんだよ。たくさんの人を運ぶんだ。昔は長方形の細長い物体で何車両もあったみたいだけど、今はスピード重視で円形になってるんだ。電車は全て一両ずつで、一つ一つ目的地が違うのが特徴だね。……きっと向こうの車庫に入ってるんじゃないかな。見てみる?」


 足元に轢かれた砂利とかつての名残だという錆びついた鉄の線路を見てみる。そして、賢い忠犬のフワフワした毛並みを撫でながら、首を横に振る。


『ありがとう。でも、見なくて平気。私、翔吾くんたちとお話ししてたい』


「そっか。じゃあ、話そう。サヤコちゃんは生まれてからずっと神社で生活してたんだよね?」


 今度は首を縦に振る。


 私はあの監獄にずっと閉じ込められていた。これは誇張ではなく、私を縛り付けていた者たちが地球から飛び去るまで、一度も境内の外に出たことがない。所狭しと並ぶ商業施設も、ガラス張りの仰々しい建物も、レトロなアーケードが並ぶゲームセンターも、センター街の入り口にあるアーチも……神社に従事するみんなが地球外へと移動し自由を手に入れた後に、初めて目にした。


 隕石落下の報道を受け、暴動に走った者がいるからか、はたまた、人が離れて得お加えられなくなったからか、私が初めて渋谷に降り立った時、建物の窓は割れ、看板は崩れ落ち、外壁は剥がれ、ある建物は雨漏れで手に負えない状態になっていた。私がずっと見たいと望んでいた渋谷はすべて朽ち果て、廃れていたのだ。


 いまや地球上のどこにも昔の栄華はない。


「サヤコちゃんは地球が好きだからここに残ったんだよね。でもさ、キミはずっと神社に閉じ込められていたんでしょ? 俺だったら、心機一転新しい地に行って新たな人生を歩みたいって思ってしまう気がする」


 私がテキストを思考の電流でディスプレイに文字を打ち込んでいる間に、レオくんが尻尾を私の足に絡み付ける。


『私は地球が好きなの。私は、地球に溢れるエネルギーが好き。地球の鼓動が好き。かつて、地球に生きて死んでいった者の思いが好き。何万年もの間培われた、強い思いが溢れる地球が好き。だから、ここに残った。私は神の子だから、地球にいる神々と共に死ぬの』


 一人一人の祈りや思いは大したことがなくても、それが集積されれば大きなエネルギーになることを私は知っていた。地球には生物の記憶と思いが蓄積されている。強いエネルギーは心地がいい。新たな土地でこれほどまでのエネルギーを蓄えるには何万年もかかるだろう。

 これはたしか、科学でも証明されていたはずだ。父の受け売りだから、偽物の情報かもしれないけれど。


『それに、私を食い物にしていた人たちと再び共に暮らすのは嫌だったの。ここで命果てた方がこの先こき使われるよりも、ずっとずっと幸福だと思う』


「……よくサヤコちゃんのご両親はここに残ることを許してくれたね」


『私はすでに用無しの神の子だったから、何も言わなかったんだと思う。それに、神の子が神の愛した地球に残り、殉職するなんて立派で奥ゆかしい物語でしょう?』


 曖昧に笑いながら、私は過去の記憶を翔吾くんに語り始めた。


 私が地球に残ると決めたのはおよそ五年前のことだ。地球上に隕石が落ちると確定してすぐに、政府から私の家に連絡がきた。神に仕え、今まで世界を支えてきた私たちは、どうやら優先的に一級惑星に移り住めるということらしい。


 私の周りの大人は大変喜んだ。献身的に従事してきたことによる神の福音であると涙を分かち合い、いつものように私を神の子だと祭り上げた。良い待遇を確約されている彼らは、隕石衝突の知らせを受けて恐れ慄いている市民を尻目に連日ドンチャン騒ぎを起こした。


 神社には中流階級の人たちや貧しさにあえぐ人々が、毎日のように参拝にやってきた。五年間のうちに地球から離れることが本当に可能なのか、自分が本当にまともな惑星に配属されるのか、という猜疑心から、少しでも自分がいい待遇が受けられるようにと祈るのだ。人々は渋谷の小さな聖域に押し寄せ、我先にと私利私欲を神にぶつけていく。


 私は人の気持ちの濁流を受け止め、神に祈った。この人たちが幸せに導かれますように、と。


 そして、とうとう神社に仕える者たちが地球を旅立つ日がやってきた。私は彼らと共に地球を去ることを拒んだ。最初こそ反対されたものの、「私の後継は育っています。次は彼が神の子となるでしょう。そして、神に従順な私の最後の役割はこの地で殉職することです」と紙に書いて伝えると、皆は考えるそぶりを見せ、そして、私がこの地に残ることを認めた。


 世界は誰よりも早く逃げ出す上級市民に対する怨嗟で溢れていた。同時に、地球外へ逃げ出せることに希望を持っていた。


 天然宝石が埋め込まれ、煌びやかに輝く豪華絢爛な宇宙船がステーションから発射される。この時、私は初めて鳥居の外の世界へ踏み出した。今まで私を持て囃してきた者たちを見送るためだ。といっても、目隠しされた車での移動だったため、私はほとんど外界を知らないままだったのだが。


 宇宙船が音も立てずに、打ち上がった。誰もが日本初めての地球脱出劇を固唾を飲んで見守る。


 妬み、恨み、怨念、憤り……。残念ながら、希望や期待という明るい感情よりも、負の感情の方がでかかったのだろう。人々の思いが気流に乗り、あるいは上級市民の傲慢さが災いして、はたまた神の見えざる手が働いて、煌めきながら飛んでいた宇宙船は勢いよく爆発した。


 爆発音が耳をつんざく。みんなが呆気に取られている中、私は笑った。皆が爆発に目を奪われている隙に高笑いをした。最初は乾いた音だった。それが次第に笑いになる。そして、最後には涙が出るほど笑った。自分がこれほどまでに笑えるのだということを、声が出なくても笑えるのだと、この時初めて知った。


 彼らは報いを受けたのだ。あの船に乗っていたのは、上級市民のみ。彼らは人々をコケにして、馬鹿にして、見下して、そして、私のような贄を貪り食った。これは天罰である。神からの怒りの鉄槌である。神を騙り、神への不遜の振る舞いによって引き起こされた事故である。


 木っ端微塵になった宇宙船の最後の一欠片が落ちるまで、私は笑い続けた。私は人の死を笑える女なのだ。神の子であるはずの私は、人の死を笑ってしまえる部分を持っているのだ。


 富豪たちが死に、人類は慌てふためいた。地球脱出計画の見直しと調整が行われたが、その後、どの宇宙船も事故に遭うことはなかったという。


 話し終え、私は空に浮かび上がるデバイスの映像をそっと閉じた。ホログラムにはテキストではなく映像が流れていたのだ。この腕時計型デバイスが思考の電流を掴み取り、テキストとして思考を表示させることは知っていたけれど、まさか、思考が映像になるなんて思ってもいなかった。


 足元のレオくんがクゥーンと一鳴きして、私の足に体をこすりつける。この子はどの犬よりも賢くて優しい子だ。慈愛溢れるこの子が私は大好きだった。


 私は視線をレオくんから翔吾くんに移した。彼の目から幾筋もの粒が音もなくこぼれ落ちる。彼は泣いていた。私の体験を見て、涙を流しているのだ。私は白衣の袖で彼の涙拭う。


 あぁ、なんて美しいのだろう。渓流のように澄み切った透明感のあるエネルギーが私たちを包み込む。こんなにオーラが美しい人間を私は今まで見たことがない。彼は純粋で無垢だ。くすみなど何一つない。どう過ごしていたら、こんなに美しく生きられるのだろうか。彼は、神の子である私よりも儚く清らかである。


 彼にはもしかしたら、私なんかよりもずっと神聖力があるのかもしれない。世界をより良い方向へ導くことができたのかもしれない。しかしながら、彼が世界を変える姿を見ることは叶わないのであるが。


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