第6話 決意
「はぁ……はぁ……」
家についたときにモニカの心臓が早鐘のように鳴っていたのは、街中を小走りした為だけではない。
あのヴラドという男の灰色の目が、まぶたの裏にこびりついているようだった。
「こまったな……どうしよ」
柔らかな白の革製ソファに体を沈め、天井を仰いだ。
受け持った子の眠りを妨げられたくなくて始めた眠らせ姫としての活動。
ベビーシッターという天職を失いたくないため、モニカはその正体を隠してきた。
最初のころはフードで顔を覆ったりしていたが、全員眠らせてしまうのだから、その必要がないことに気が付いた。
むしろ怪しい変装道具を持ち歩くほうが危険だと判断し、以降は変装などしていなかったのだが、それが仇となってしまったようだ。
「この前のダークドラゴンのときかな……」
あれだけ大勢の中にあの男が居たかどうかは覚えていないが、可能性としては最も高いと思った。
ただ、そうなると、あの男はたった数日でモニカの正体を見抜いてコンタクトしてきたことになる。
それほど優秀な人間から逃げおおせるのが容易ではないことはモニカにもよくわかった。
大きく息を吸い込むとリスのように頬を膨らませ、細く長いため息を吐いた。
しばらく同じ体勢のまま考えにふけっていたが、この状況を打破するだけのアイディアは浮かんではこなかった。
とりあえず、様子を見よう、とモニカは思った。
うん、それがいいよね。まだ正体を自白したわけではないし、向こうも途中で諦めるかもしれないし。
そう考えたモニカだったが、翌日――
それが甘い考えだったとわかる。
「……っ!」
日が暮れたあと、最も見たくない顔が玄関先に現れた。
「よう、眠らせ姫」
ヴラドは諦めるどころか自宅まで押し寄せてきて、家も特定したから従わなければ正体をバラすとさらに強く脅しをかけてきたのだ。
「だ、だから私は――」
この場は知らぬ存ぜぬで押し通し、一旦はヴラドを帰らせたモニカだったが、あの男が彼女のことを眠らせ姫だと確信しているのは明らかだった。
「まずい……まずぃぃぃいい……どうしよう」
あのサメのような男はモニカが首を縦に振るまで何度でも訪ねてくるだろうし、そのためには何でもするだろう。
もしかしたら、受け持っている子供たちにも危害が及んでしまうかもしれない。
そんな暗い考えがモニカの頭のなかでうず巻いた。
しばらくは家の中をウロウロと歩き回ったり、ソファでとぐろを巻いたり、枕に顔をうずめてベッドの上で足をバタバタさせたりしたが、どれもモニカの気持ちを落ち着かせるだけの効果はもたらさなかった。
「おふろはいろ……」
何とか沈んだ気持ちを明るくしたくてシャワーを浴びることにした。
冷や汗で濡れた衣類を脱ぎ捨て、じっとりとした肌を熱い湯で流した。頭から浴びたシャワーの水が玉となってモニカの肌を滑り落ちていく。
いつもなら疲れを癒してくれるお気に入りのシャンプーの香りも、今はとても陳腐に感じた。
「ほんとにまずいよね……これ……」
湯船につかりながらぽつりをつぶやいたその言葉が浴室に反響し、モニカの頭のなかでも反響した。
お湯をぶくぶくやってみたり、ざぶんと湯船に潜ってみたりしたが気分は晴れなかった。
浴室を出てパジャマに着替えると、窓を開け放ち、そばに寄せたイスに腰かけながら本を読み始めた。
心地良い夜風が彼女の髪を撫でた。
いつもこうして眠気がくるのを待つのが彼女のルーティンだった。
悩んでいても良い考えが思いつかないので、とりあえず今日は眠ることに決めたのだ。
自分もスキルで眠らせることができればいいのに、と過去に何度も思ったが、今がそれを最も強く望んだ。
小説を読んでいてもただただ字を目で追っているだけで、内容がまったく頭に入ってこない。
「まいったなぁ」
あきらめて本を閉じ、星空を見上げた。
月のない夜で、嫌味なほどきれいな星空だった。
そして、周りの星々よりもいっそう強く光る灰色の一等星は、考えまいとしていた男のことを思い出させた。
「……はぁ」
目の前の問題から目を逸らそうとすればするほど、影のように付きまとってくる。
ならばいっそ、とことん向き合ってやろうじゃないかと思った。
「ええっと……」
ヴラドの要求は、一時的に彼のパーティに参加して問題となっているダンジョン攻略の手助けをすること。
確かに彼が話していたダンジョンさえ攻略してしまえば、もう自ら出張ってモンスターを眠らせる必要もなくなる。
「いやいや! それはない……よねぇ……」
モニカがこのスキルを手に入れたのが約一年前。
あのとき、もう二度とダンジョンには入らないと誓った。
当時の記憶が蘇りそうになるのを感じ、モニカは頭を振ってそれを拒否した。
そして、何度目かのため息をついた。
もう……この街を出ようかな……。
居心地の良いこの街が気に入っていただけに、ためらいはあるが仕方ないか、と思った。
しかしそのとき、受け持っている子供たちの顔が思い浮かんだ。
自分になついてくれている子も多いなか、急に姿を見せなくなったらなんて思うだろうか。
それに、モニカだってあの子たちに会えなくなるのは嫌だった。
「……はぁ……。よしっ」
モニカはため息として吐いた分の息を取り戻すかのように大きく空気を吸い込んだ。
そして夜空を仰いだあと、自分を納得させるようにうなずいた。
モニカは決意した。
ヴラドのパーティにだけ本性を明かし、ダンジョン攻略の手伝いをすることを。
もう悩んでいても仕方ないよ。さっさと終わらせて、また平和な日常を取り戻そう! 大丈夫、もう、私はあのときとは違う。
モニカは震える小さな手をぎゅっと握りしめた。
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