3

「本日の『幸』です」


 穴があったら入りたい。いっそ井戸にでも飛び込めばいいだろうか。


 項垂れながら悶々と考える菊子に、慶一は菊子が望んだ料理を運んでくれた。

 菊子の目の前にはあるのは、お気に入りのランチメニュー『幸』。これは毎日慶一のその日の気分で変わる日替わり限定メニューのことだ。大体の常連はこのメニューを知るためにSNSをフォローし、チェックをしているらしい。菊子も同じく、本日のメニューはチェック済みだ。


 今日のランチのメインは煮魚。プレートは木製のもので、ペースト状のカボチャサラダとほうれん草の和え物、それから小さなおにぎりが二個、丁寧に盛りつけられている。汁物は豆腐とわかめの味噌汁。ターゲット層が小食な女性であることは見てわかる。


「美味しそう」


 思わず零れ落ちた声に、慶一はにっこりと笑んだ。


「ありがとうございます。ごゆっくりお食事をお楽しみください」


 他人行儀で、どこにでもある定員の対応。根気よく通い続けたとしても、お互いに名前を知る機会が得られたとしても、これが普通だ。それが現実だ。最早、そう自分を納得させるしかなかった。


 ――早く食べて、帰ろう。


 ふわりと香る煮魚の甘い匂いに誘われて箸を動かす。白身は簡単にほぐれた。口に入れてみると、やっぱり美味しい。口の中に広がる甘味と白身の触感を堪能すると、菊子の気分は浮上した。


 そこで、ふと、冷静になる。


 たまゆらは基本的に一定数の客がいる。シフトの都合上、菊子が店に訪れるのは平日の水曜日になるのだが、決まって店内のスタッフは慶一しかいなかった。

 それなりに広いこの店の中を一人で切り盛りしているのであれば、接客や調理まで全て行うのは至難の業だろう。けれど慶一は常に対応がスマートで、慌てているところを目撃したことがない。要領がいい証左だ。


 どうすればこんな風になれるのだろう、なんて考えながらもぐもぐと料理を口の中で味わっていると、いつの間にか料理は半分になっていた。


「慶一、忙しいね」

「うん、忙しい」


 突如、左隣からささやく声が聞こえた。


 目を向けると同じ顔をした子どもが二人、みたらし団子を食べながらちょこんと並んで座っている。どちらもお人形さんのように色白の肌をしており、美しい金の瞳を縁取るまつ毛が長い。子どもらしくない物憂げな無表情までそっくりだ。違いがあるとすれば、それぞれ青と白の着物を着ていること、そして白い着物の子に桜色の玉の髪飾りがあるくらいだ。


 ――いつからそこに居た!?


 全く気づかなかった。それだけ菊子が慶一のことだけ見ていたのかもしれないが、それにしても気配がなさすぎる。


「悠里なら遊んでくれるかな」

「聞いてみよう」

「そうしよう」


 頭を突き合わせながら抑揚のない声に出た名前は、またお座敷にいる彼女の名前だった。

 双子は串に刺さった最後の団子にかぶりつき、ぴょんと椅子から飛び降りると真っ直ぐにお座敷の方へと走って行った。


 ――あの人、本当に何者なんだろう?


 またもや食事を続ける菊子の中で疑問が浮かんだ時、たまゆらの入り口が開かれた。


「こんにちは」


 扉を開いて店に入って来たのは、これまた風が吹けば飛ぶようなひょろりとした体つきの青年だった。年はだいたい大学生といったところだろう。くるくると癖のある短いベージュの髪と垂れ下がった目が特徴的で、女性受けのいい面差しをしている。


「いらっしゃい、明良あきら君。待ってたよ」

「は、はい! 今日からよろしくお願いします。えっと……鬼崎さん、でしたよね」

「はい、そうです。今日から一緒に頑張ろうね。……それで、早速で申し訳ないんだけど」


 慶一の視線がお座敷に向けられる。


「実は今、注文が落ち着いているんだ。だから先に双子の方を頼めるかい? 悠里も僕も、今日はまだ手が離せないんだ」

「わかりました。じゃあ俺、先に『訓練』してきます」

「うん、頼んだよ」


 ――訓練?


 ついに菊子は我慢ができず、悠里のもとへ向かう明良を見送る慶一に思い切って声をかけた。


「い、今の子……アルバイトですか?」


 こうして菊子の方から話しかけるのは、慶一の名前を尋ねた時以来だ。

 慶一が少しだけ目を丸くした。


「……はい。ありがたいことにお客様も増えて、最近では僕一人だと店を回すのが大変になってきたので、新しくスタッフを雇うことにしたんです」

「そうなんですね……あの、さっき話していた訓練というのは……?」

「あー……」


 少しだけ言葉を選ぶように悩んだ慶一に、好奇心が過ぎたか、と菊子は両手を振って訂正した。


「すっ、すみません、無理に聞くつもりでは……!」

「あ、いえ、大丈夫ですよ。実は、木皿さんの近くに座っていたあの双子は少し日常生活に問題を抱えてまして……最近『指導員』の資格を取ったというので、アルバイト期間中に訓練をお願いしているんですよ」


 菊子は目を見開いた。


「あの子……『黒目クロ』ですよね?」

「ええ。珍しいでしょう? 将来有望な子がいて、助かります」


 近年、妖族同士の婚姻によって強大な妖力を秘める者が増えている。それに伴い、幼少期になかなか妖力を安定させることができない妖族の子どもが増えており、社会問題になりつつあった。つまり『指導員』は妖族のために作られた職業で、妖力を安定させる『妖力調整指導員』のことを指しているのである。そして、その職に就くのは同じ妖力を持つ妖族しかいなかった。

 菊子の言う『黒目』とは、妖族の間で妖力を持たない人間を指す呼び名だ。


「そんな子が来てくれるなんて……すごく運が良かったんですね」

「ええ。うちにはそういう縁を引き寄せる人がいるので」


 そう言った慶一がお座敷の方に目配せする。その人物が誰なのか、菊子はすぐに理解した。


「あそこにいる方は……その……鬼崎さんのお知り合いなんですか?」

「許嫁なんです。訳あってつい最近まで疎遠だったんですが……今は再び会うことができて、本当によかったと思っています」


 首を少しだけ傾け、照れくさそうに右頬を指でひっかく慶一の眼差しはとても柔らかい。

 何も良くない、と菊子は俯いた。負の感情が、また込み上げてくる。


 ――それなら、ずっと疎遠のままでいてくれればよかったのに。そうすれば、まだ夢心地の気分を味わうことができたのに。


 悠里が絡むと、慶一の表情はいつも輝いている。その反応がどういう感情から起こるのか、痛いほどわかった。

 彼は恋をしているのだ。自分とそう歳が変わらないのに、少年のように純粋な気持ちで想い続けている。


 いいなあ、と素直に羨ましくなった。悠里はこんな素敵な男性から想いを寄せられて何も感じないのだろうか。さっきも平然と会話していたが、その目に慶一と同じ感情は映っていなかった。少なくとも、菊子にはそう見えた。


「ここだけの話。菊子さんのお気に入りのお座敷や限定メニューは彼女がきっかけで生まれたんです」

「え」


 カウンター越しに声をひそめてコソコソと話す慶一にドキリとした。

 それは初めて慶一と菊子との間に生まれた内緒話だ。


「僕のお仕事は『お客さんに幸せを作って運ぶ』ことだって。僕、これ聞いて限定メニューを作ろうって決めたんですよ。他にもこの店のコンセプトとか内装とか、ほとんど彼女のアドバイスでできているんですけどね」

「意外でした……料理とか、全部自分で考えたのかと」

「はは……ですよね。会社勤めしている時期は一人暮らしだったので、料理は半分趣味のようなものだったんですが……彼女に出会えなければ、僕はいまだに自分のやりたいことなんてわからないままだったと思いますよ」


 ああ、これは、完全敗北だ。菊子はここで想いを割り切った。

 どれだけ足掻いても、どれだけ女性らしく振る舞っても、木皿菊子は彼らの間に割り込むことはできない。ほんの少し、たった一ミリの大きさだったとしても、彼を振り向かせることはできないだろう。


 なら、たった一度でいい。我儘を言いたい。

 最後まで残っていた味噌汁をごくごくと飲み込み、菊子は意気込んで慶一に告白した。


「あの、鬼崎さん。良かったら私の背中を押してくれませんか?」

「え……?」

「私には今、お付き合いを考えている方がいるんです。お見合い相手で、一度会ってみたらすごくいい人で……でも、話を進めるには迷いもあって……今日、ここで鬼崎さんに『大丈夫』って言ってもらえたら、迷いがなくなるような気がするんです」


 菊子の言葉に、慶一は真剣な表情になった。


「……木皿さんは何が不安なんですか?」

「不安というか……多分、優柔不断な自分がいるんです」


 ぽつぽつ話し始めると、意外にもすんなり言葉が出てくる。不思議だ、と思いながら菊子は話し続けた。


「両親が私の将来を心配してくれているのはわかります。ただ、今回のお見合い相手を好きになれるか自信がなくて……仕事もまだまだ続けたいし、一人で過ごす時間だって欲しい。でも、お相手の方は本当に素敵な男性で、こんないい人を逃したら、もう次はないんじゃないかって考える自分もいて……そうやってぐるぐる悩んで、自分勝手に逃げようとしてしまう自分が情けなくもあって……」


 だから背中を押して欲しい。他でもない鬼崎慶一という、菊子が心惹かれた男に。ほんの短い恋とも呼べないものだったが、それでも確かに好きだった。好きだと思った。あわよくば、好きになってほしいと思ったのだ。


 ――「頑張れ」と言われたら、「大丈夫」と言ってもらえたら、それだけでなんでも信じられる。


 しかし、そんな菊子の願いに反して、慶一は首を横に振った。


「申し訳ありませんが、僕には木皿さんの背中を押すことはできません」

「……そう、ですか」


 静かな拒絶に、落胆した。今度こそ井戸に飛び込めるかもしれない。それとも、無心で目の前の棚に置かれた皿の数でも数えようか。

 放心してぼんやり虚空を見つめる菊子に、慶一は困った顔をする。


「だって……木皿さんは今、お辛いでしょう?」


 慶一の指摘に、菊子はドキリとした。

 どうにかして言葉を捻り出そうとしたが、上手く表現できない。

 黙り込んでしまった菊子に、慶一は言葉を選ぶようにゆっくりと話してくれた。


「悩んで、悩んで、それでも自分で答えが出せない時って、辛いじゃないですか。だから、今苦しんでる菊子さんには僕の安直な『大丈夫』という言葉より、自分の経験から学んだことを話すべきかもしれません。ただのアドバイスになりますが……」

「アドバイス……」

「はい。もし、木皿さんがその人との未来を本気で考えているのなら……抱えている思いや考えていることを正直に相手に伝えてください。あとは木皿さんにほんの少しだけ、勇気があれば大丈夫ですよ」


 そう言って、慶一は朗らかに笑んだ。



「あなたに『幸』がありますように」



 菊子の視界は、この時だんだんと明るくなった。

 慶一の声はとても安心する。優しさの詰まった、心から他者の幸せを願う言葉だ。


 ――勇気……勇気か。


 菊子はお見合い相手のことを考えてみた。

 自分は、慶一に対して勇気は出せなかった。

 それなら彼は、これまでどんな言葉で菊子にぶつかってきただろう。どんな思いでメッセージを綴り、どんな言葉でデートに誘ってくれただろう。

 本心で他者とぶつかり合うのは、彼だって怖いはずだ。だけど言葉にしなければ、行動で示さなければ、自分の気持ちも考えも伝わらない。

 そうして話し合った末に、彼の隣に立つ自分はどんな表情を浮かべているだろう。自分の隣に立つ彼は、どんな表情を見せてくれるだろう。

 答えは案外、簡単に見つかった。


「鬼崎さん……ありがとうございました」


 恋をしていた。

 一つは短い、終わる恋だった。


 好きを込めて呟いた言葉は、ひどく音が小さく、震えていた。

 それは確かに、慶一へと届いていた。




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