2040年の世界

MOMO

第1話 ARIAとアラタ博士

アラタ博士の研究室ではスメタナの交響詩「我が祖国」の第2曲「モルダウ」が流れていた。


博士は「モルダウ」の大河の流れをあらわすような旋律がとても好きで研究が波に乗ってくるといつもAI秘書にモルダウをかけさせた。


まるで泉から湧き出るようなフルートによる軽やかな旋律が流れる。


博士の研究のインスピレーションも最初はこの旋律のように軽いものだ。

そこからゆっくりといくつかの水源が合わさり小さな小川ができていく。小川はさらに他の小川と合流して、いつの間にかそれは太く大きな大河のゆるやかな流れとなり海へと向かうのだ。


博士は、モルダウの旋律が自身の研究プロセスを映し出しているように感じていた。自分の中から湧き出た小さなインスピレーションが、ゆっくりとあるひとつのゴールに向かって発展し、太く大きな思索の流れとなっていく—その過程が、まるでこの音楽のトレースのようだった。


2025年7月、フィリピン沖に巨大隕石が落下。これにより発生した津波は東日本大震災の約5倍の規模で、日本列島を襲った。沿岸部を中心に甚大な被害が出て、人口の3分の2が失われた。その後の食料不足、インフラ崩壊、疫病の蔓延などの二次災害により、さらに人口が減少。最終的に災害前の4分の1まで減少した。


この壊滅的な状況下で、日本政府は完全に機能不全に陥り、残された人々は絶望と混沌の中で生きることを強いられた。

そんな絶望的な状況下で、ひとりの天才科学者アラタ博士が「AI管理下での一時的な国家運営」を提案する。


災害の翌年2026年から始まった「ARIA(Artificial Responsive Intelligence Administration)」と名付けられたAIシステムによる国家運営は、当初は暫定的なものだった。


ARIAは、ビッグデータ解析と機械学習を駆使して、限られた資源の最適配分、壊滅的なダメージを受けたインフラの再建、疫病対策を含む医療サービスの提供など、復興に必要な全ての側面を管理し、人間の感情や倫理的判断を考慮しつつ、極限状態での最適な意思決定を行う能力を持つ。


ARIAの導入は多くの議論を巻き起こした。プライバシーの問題や人間性の喪失を懸念する声もあったが、人口の激減という危機的状況下で、迅速かつ効率的な復興の成果が目に見える形で現れるにつれ、徐々に生存者の支持を得ていった。残された国民による投票や専門家委員会の審議を経て、ARIAは正式に日本の統治システムとして認められ、2040年の世界でもその運営は続いている。



アラタ博士は未来創造科学技術研究所(通称:未来研)という、2020年頃に日本の科学技術イノベーション政策の一環として設立された研究所の中心的存在だった。

天才科学者というと破天荒で突飛な人を思い浮かべそうになるが、アラタ博士は確かに少々変わり者ではあるが、思想的に極端なところはなく、割と中立的で、包容力のある温かみのある人物だった。

2025年当時、世界の中でも彼はAIの分野に関しては革新的な研究をしていたが、その研究の基になっているものは博士の豊かな想像力と子供の頃繰り返し読んだ手塚治虫の鉄腕アトムの世界だった。

ずんぐりむっくりした外見で甘党の博士は、そのユニークな外見と温かな人柄で周りの人に愛されていた。彼は人間とAIの共存を実現しようとする理想主義者でもあった。


現在、アラタ博士はARIAがさらに深化した創造的な問題解決ができるよう、好奇心機能の実装を研究している。特に、ARIAの意思決定プロセスの説明可能性と透明性を向上させ、人間にとって理解可能にすることで、ARIAへの信頼性と受容性を大幅に高めたいと考えている。


博士は考え込む時のいつもの癖で指に髭をくるくる巻きながら、


研究パートナーである AIアシスタント「YUKI」(Yielding Understanding and Knowledge Interface)に問いかけた。


「YUKI、ARIAの説明可能性の改善点はどうなったかな。」


YUKIと呼びかけられたAIアシスタントはパソコンの画面の中から博士の問いに無機質なデジタル音声で答える。

「はい、博士。主に3点あります。論理的推論過程の可視化、説明の抽象度の動的調整、そして因果関係の明確化です。これにより、ARIAの決定プロセスがより理解しやすくなりました。」


アラタ博士はYUKIの回答に満足し、さらに質問した。

「なるほど。好奇心機能との統合はどうなっている?」


YUKIは無機質なデジタル音声で答える。

「ARIAが新しい情報を探索する際の動機を言語化するモジュールを開発中です。例えば、'この政策の長期的影響についてさらなる調査が必要だと判断しました'といった説明ができるようになります。」


アラタ博士は頷き、問いを重ねる。

「興味深いね。だが、まだ課題はあるはずだ。最大の障壁は何だ?」


YUKIは澱みなく、一本調子の棒読みで答える。

「最大の課題は、説明の'正直さ'と'完全性'のバランスです。ARIAの複雑な内部プロセスを全て人間に理解可能な形で説明することが難しくなっています。」


「そうだな。説明の簡潔さと正確さのトレードオフは永遠の課題かもしれない。だが、それこそが我々の研究の醍醐味でもある。次は、この'説明の不完全性'自体を説明する機能を考えてみようか。」

とアラタ博士は提案した。


「素晴らしい提案です、博士。AIの限界を正直に伝えることで、かえって信頼性が向上する可能性がありますね。早速、新たなアプローチの検討を始めましょう。」

とYUKIが答えると、

アラタ博士はにっこり笑いながら言った。

「よし、そうしよう。AIと人間の協働には、相互理解が不可欠だ。我々の研究が、その橋渡しになることを期待している。」



アラタ博士の研究室の片隅にはコーヒーコーナーがある。アラタ博士は大のコーヒー党で自家焙煎まで自分でするほどコーヒーに凝っていた。博士は髭をくるくると指で巻きながら、真剣な眼差しでいくつものコーヒー豆の瓶を見つめている。


「んー、今日はどの子にしようかな」

と独り言を呟きながら、選んだのはエチオピア産の深煎り豆だ。

華やかでフローラルな香りに、ベリーの甘さとシトラスの爽やかさが調和していた。口に含むと、滑らかでまろやかな舌触りとともに、チョコレートのような深い甘さとほのかなスパイシーさが広がる。博士の好物のチョコレートドーナツの美味しさを引き立てるこのコーヒー豆を博士は気に入っていた。


なめらかな手つきで豆を手動のコーヒーミルに入れる。

「AIロボットならもっと効率的にできるだろうなぁ」

と漏らしつつも、コーヒー豆を挽く作業は決して機械には任せない。


ミルのハンドルを回し始めると、博士の顔に幸せそうな表情が浮かぶ。

豆を挽き終わると、今度はドリッパーとフィルターを用意する。


お湯を沸かしている間、博士は大げさな手振りで、目の前にいない誰かに新しい研究アイデアを説明し始める。ケトルの蒸気が博士のモジャモジャの髪をさらに膨らませる。


ようやくお湯が沸き、ドリップを始める。博士は眉間にしわを寄せて集中する。


「コーヒーがなければ、明日は来ないからね」と意味不明なことをつぶやきながら、丁寧にお湯を注ぐ。香りが立ち込める中、博士は大きな団子鼻をヒクヒクと動かしコーヒーの香りを嗅ぐ。


最後の一滴まで落とし終えると、博士は満足げに深呼吸をする。出来上がったコーヒーをマグカップに注ぎ、パン皿を棚から出して博士の大好物のゆるふわ亭のチョコレートドーナツを2つ皿の上に置いた。


マグカップとドーナツの載ったパン皿を両手で持ち、博士は満足げに自分のデスクへと戻った。


アラタ博士はコーヒーを一口飲み、ドーナツを頬張った。甘さと苦みが口の中で絶妙に混ざり合う。ドーナツを咀嚼しながら、博士は14年前の激動の日々を思い出していた。


アラタ博士が所属する未来創造科学技術研究所(通称:未来研)は、その設立時から未来の可能性だけでなく、起こりうるあらゆる災害にも備えて設計された先進的な施設だった。


未来研は、都心から少し離れた緑豊かな山の中腹に建設されていた。標高の高い立地と、最新の耐震・免震技術を駆使した構造により、大規模な地震や津波にも耐えられるよう設計されている。


建物には大容量の蓄電池や自家発電設備が整い、長期間の外部電源喪失にも対応可能だった。また、衛星通信システムを含む複数の通信手段や、半年分以上の食料と水の備蓄もあった。


2025年の大災害時、この徹底した対策のおかげで、未来研は建物の一部損傷はあったものの、核心的な機能と研究員の安全を確保することができた。この研究所の生存が、後の日本の復興に大きな役割を果たすこととなる。


実際に未来研は驚くべき耐久性を示した。建物の外壁に一部亀裂が入り、窓ガラスの一部が割れたものの、構造体に大きな損傷はなかった。全ての研究員が無事で、建物内に待機することで二次災害から守られた。重要なデータは全て耐震・防水設計のサーバールームに保管されており、無事だった。外部からの電力供給は途絶えたが、自家発電システムにより研究所の機能は維持された。一般の通信網が麻痺する中、衛星通信システムにより外部との連絡を確保できた。


被災直後から、未来研は重要な役割を果たした。研究所の一部を政府の緊急対策本部として提供し、被害状況の分析や復興計画の立案に研究所のAIと演算能力を活用した。衛星通信システムを介して、国内外との重要な通信を中継した。そしてアラタ博士のAI統治システム「ARIA」の開発拠点となったのである。


未来研が大災害を乗り越え、その機能を維持できたことは、日本の未来に大きな影響を与えることとなった。災害後の混乱が続く中、アラタ博士は研究所の設備とデータを駆使して、AIによる国家運営システム「ARIA」の開発を進めていた。


災害から約半年が経過したある日、政府の緊急対策本部として使用されていた研究所の一室に、首相を含む数名の政府高官が集まった。疲労困憊の表情を浮かべる彼らの前で、アラタ博士はARIAによる一時的な統治の提案を行うことになった。


博士は髪をくるくると指で巻きながら、ゆっくりと口を開いた。「我々は未曾有の危機に直面している。従来の統治システムでは、この状況を打開することは困難だ。そこで僕は、AIによる一時的な国家運営、すなわちARIAシステムの導入を提案したい」


アラタ博士の提案は、政府内で真剣に検討され始めた。多くの高官が、従来の統治システムの限界を痛感していたのだ。


部屋の中が騒然となる。ある大臣が声を荒げた。

「博士、それは暴論だ!国家の運営を機械に任せるなど、狂気の沙汰だ!」


アラタ博士は落ち着いた様子で答えた。

「AIは人間の感情に左右されず、純粋に論理的な判断ができる。それこそが今、我々に必要なものではないでしょうか。」


首相が眉をひそめながら尋ねた。

「博士、そのARIAは本当に信頼できるのか?人間の価値観や倫理観を理解できるのか?」


博士は大げさに手を振りながら説明を始めた。

「もちろんです!ARIAは人間の感情や倫理的判断を考慮するよう設計されています。過去の判例や倫理的決定、さらには文学作品まで学習させることで、人間社会の複雑さを理解しています。さらに、市民の意見を常時収集・分析し、それを意思決定に反映させる機能も備えています。」


議論は白熱し、数時間に及んだ。博士は疲れると無意識にポケットからドーナツを取り出し、かじり始めた。コーヒーを一口飲んで深呼吸すると、最後の説得を試みた。


「ARIAは、複雑な問題を解決するための道具なんです。完璧ではないかもしれない。でも、今の我々には、新しい挑戦が必要なんじゃないでしょうか」


長い沈黙の後、首相がゆっくりと立ち上がった。

「博士、あなたの提案は確かに大胆だ。リスクも大きい。しかし、我々には他に選択肢がないのかもしれない。ARIAの詳細な計画を立案してほしい。そして、国民の理解を得るための準備も進めてくれ。」


この日を境に、日本は未知の領域に足を踏み入れることとなった。AIによる国家運営という、かつてSF小説の中でしか描かれなかった世界が、現実のものとなろうとしていたのである。


首相の指示を受け、アラタ博士は寝る間も惜しんでAI統治システムの構想を練り上げた。

博士の研究所では、同僚たちも興奮気味にこのプロジェクトに加わった。


政府内での慎重な議論が続く中、どこからか情報が漏洩し、メディアが「AI統治」の可能性について報じ始めた。


国民の反応は賛否両論だったが、多くの人々が「何か新しいこと」を求めていた。


数週間後の閣議で、首相が言った。


「アラタ博士の提案は確かに大胆だ。しかし、我々に他に選択肢があるだろうか?」


長い議論の末、ついに決断の時が来た。満場一致とはいかなかったが、緊急措置としてARIAによる暫定政府の設立が承認された。


アラタ博士は驚いて眼鏡を外し、目をこすった。「本当に... 承認されたんだ」


その瞬間、博士は思わずその場でぴょんと跳ねた。「んー、これは面白い! 新しい日本の夜明けだ!」


アラタ博士は、コーヒーカップを見つめながらつぶやいた。

「あの時は、コーヒーもろくに飲めない日々だったなぁ。でも、あの決断が今の日本を作ったんだ。」

博士は再びコーヒーを一口飲み、満足げに微笑んだ。​​​​​​​​​​​​​​​​

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