第5話




「おはようございます、マリアベルお嬢様」




やや腫れた瞼を持ち上げ目を覚ましたマリアベルに声を掛けたのはライラではない見知らぬ侍女だった。


見上げる天井が違う事や毎朝声をかけてくれていたライラがいない事で危うく混乱しかけたが、昨日の事を思い出す。祖父であるグラウスに連れられ王都の屋敷に帰らず領邸にやってきた事を。




「昨夜大奥様よりお嬢様のお世話を申し付かりました、アンジーと申します。


 若輩者ではございますが誠心誠意お仕えさせていただきますので何卒よろしくお願いいたします」


「…よろしくお願いします」




ベッドから体を起こしたマリアベルと目が合うよう跪いたアンジーは赤毛を綺麗にシニョンで纏め、若いながらも落ち着きがあり折り目正しい印象を持つ女性だった。


感情豊かだったライラとは全く違う雰囲気に戸惑うものの、ベッドから立ちあがる際そっと差し出された手の柔らかさと視線や声音から感じる自然な気遣いはマリアベルに少なくとも悪い人間ではないと感じさせる。




「昨晩お休みの内にお召替えはさせていただきましたが、入浴はいかがなさいますか?


 朝食まで時間もございますので、お望みでしたらご準備いたします」




そう言われ、マリアベルは自身を顧みた。


昨日着ていたワンピースから肌触りがいい寝間着に着替えさせられているが、汗のべたつきは感じないものの沢山泣いたせいか頭が重く怠いような気がする。


慣れない場所でもお湯の温かさは変わらない、体に残る疲れと知らぬ場所で知らぬ人間に我儘を言う精神的な負担とを天秤にかけた結果マリアベルは眉を下げ頷いた。




「…あの、じゃあ、入りたいです」


「かしこまりました。お召し物につきましては本日中に仕立屋が参りますのでご安心くださいませ。


 大奥様のお召し物を全て任されたマダムですので、きっとご満足いただけるかと」


「…したて…?」




マリアベルにとって服とは年に一度与えられるものだった。


誕生日が近くなると簡単に背丈や胴回りを測られ、その翌日あるいは誕生日当日にアベルからの祝いだと何着か与えられ身に着ける…それが常だった為、マリアベルは首をひねる。




「仕立てとはお召し物をその人に合うよう一から作ることを指します。


 平民の多くは大量に作られた既製服を着ますが、貴族の皆様は屋敷へ懇意にしている仕立て屋を呼び季節ごとに仕立てられます」




ふむ、と理解し頷いたマリアベルはこれまで着ていた服がどちらだったのか疑問に思う。


アンジーに昨日着ていたワンピースの事を聞くと王都で流行しているデザインの既製服だったようだ。




…エリザベスはどうなのだろう。自然と後ろを向きかけた思考にハッとしたマリアベルはそれを振り払うように首を振った。




「さ、どうぞ」




気が付けば寝間着は脱がされていてアンジーの手によって脱衣所から湯気が立ち上る浴室へと誘導される。




「あの、お風呂なら一人で入れます、けど…」


「差し出口になりますが…一般的な貴族女性は侍女が入浴もお手伝いします。


 ご不快であれば下がりますので、一度お任せくださいませんか?」




マリアベルは危ういほど小さい頃こそライラに手伝ってもらっていたが、随分前から一人で入浴していた。


離れの浴室はそこまで広くなく、忙しそうに動き回り離れの家事や自分の身の周りの事を一人で回すライラの手を煩わせるのは心苦しかった事もありいつの間にか習慣となっていたのだ。




しかし一般的と言われてしまうと断りづらく、結局マリアベルはアンジーの言うまま入浴の介助を承諾した。




「湯加減は問題ありませんか?」


「はい…丁度いいです」


「御髪を失礼いたします、そのままで結構ですので少々目を瞑ってくださいませ」


「…はい…」




温かな湯気が満ちる中、髪を洗う音を聞きながらマリアベルは徐に口を開いた。




「…アンジーは、私の…あの、全部、知ってるんですか?」


「昨夜お嬢様が眠られた後、大旦那様からお聞きし領邸の使用人は皆、お嬢様の事情を概ね把握しております。


 勿論委細心得ておりますので大旦那様と大奥様の許可がなければ他に漏らすようなことはございません」


「そう…なんですね」




マリアベルが知る貴族の在り方というものは書物で得た知識のみ。


よって前当主である祖父がどれほどの存在なのかもわからず、漠然と凄い人なのだろうという認識程度だ。


他に漏らす事がないというアンジーの言葉には主人と使用人の信頼関係の他に、もし漏洩が発覚すればその事後処理の段取りまで決まっている、という意味もあったがマリアベルは言葉の通り皆祖父を慕い、その為に秘密を守るのだろうと受け止めた。




「痒い所などございませんか?」


「はい、大丈夫…です」




(なんだろう。なんだかとても、落ち着く気がする)




アンジーは口調こそ事務的に感じるものの、髪を洗う手つきは優しく丁寧にマリアベルの心を解きほぐす。


これまで共に暮らしてきたライラは優しさはおおいにあったが、感情豊かなせいか些細な事で同情し突然泣き出す事や不遇な扱いに悔しさを爆発させ怒ると言った事が頻発していた為、誰かと共にいて落ち着くという感覚は新鮮な感覚だった。


長い間知らない内に疲弊していた心が解れていく感覚にマリアベルはうっとりと感じ入る。








「わぁ、髪の毛がサラサラ…!」




使用している薬剤が違うのか、それともアンジーの技術なのか。


マリアベルの髪は今までもそれなりに指通りのいいものではあったが、丁寧に洗い清められ香油で仕上げられた今、桁違いに艶を帯びサラサラと小さな肩を流れていく。


アンジーはマリアベルの喜ぶ様子を見ながらその髪を大切に梳かし、緩く束ねた髪をサイドへ流した。


離れではライラにより有無を言わさずエリザベスと同じように高い位置での二つ結びにされていたが、今の髪型は頭部への負担が少なく且つ大人びた雰囲気を持つマリアベルに見合うものだった。




「いかがでしょう?」


「…これ、私ですか…?」




言われて確認の為姿見を見たマリアベルはその中に映る自分の姿に呆然と見入ってしまった。


伯母イヴリンがかつて着ていたらしい濃紺のワンピースは少々型が古いものの元が上質なせいか古臭くは見えず、却ってマリアベルの上品な愛らしさをシックに引き立てている。




お姫様のように華やかなものではないものの伝統ある名家の令嬢然とした姿は、マリアベルが持つ己のイメージとはかけ離れていた。




「本当に?私…?なんだか別の人みたいです…」




これまでのものとは違う髪型も相まって、確かに自分である筈がまるで別人のようにも感じマリアベルは鏡の前で何度も手を振り、クルクルとそのスカートを翻す。


そうして少しずつ自身の変化に心を浮き立たせていると、しばらくして部屋のドアがノックされる。




立ち上がりかけたマリアベルをアンジーがそっと制止し、応対した後マリアベルを振り返る。




「大旦那様より朝食のお誘いですが、いかがいたしましょう」


「…えっと…行った方がいいですか?マナーがわからなくて、不安です」




今のところグラウスやフェミアに対して悪感情はない。


けれど、今まで一人で食事をとるのが常だったマリアベルにとって誰かと席を共にする事はややハードルが高かった。


ましてや高位貴族である前侯爵夫妻との同席とあれば無作法を咎められ、失望させてしまう恐れもある。




「お客様がいらっしゃる訳でありませんのでマナーに関しては問題ないかと思われます。


 それに、あくまでもお誘いですのでご気分が乗らなければお断りしても問題ございません。大奥様もその日のご気分でお断りになる日がございますので」


「…あの、じゃあ…朝はお断りしてください。でも、昼食はご一緒したいと伝えてください」


「かしこまりました。では私は部屋で食べられるものを手配してまいります」




入浴を終え幾分スッキリしたとはいえ、昨日さんざん泣いたからかまだ頭が重いし少し痛い。マリアベルは昼時には回復するよう祈りながら座り心地のいいソファに腰かけ、用意されたお茶を飲んだ。


甘くマスカットのような香りのする紅茶は離れで飲んでいたものと同じ香りで、以前ライラがフィーガス領の名産品だと言っていた紅茶だった。


慣れ親しんだものを摂り少しだけ柔んだところへアンジーが小振りなカゴを持って戻り、まさかもう朝食の準備できたのかとマリアベルは問うがアンジーは首を振る。




「大旦那様よりお嬢様へ贈り物でございます。


 何も気にする事はなく、無理せずにゆっくり慣れていけばよいとのことです」 




テーブルに置かれたカゴの中にはクッキーやマドレーヌなどの焼き菓子が詰められていた。


どれも子供が一口で食べられるよう小さなサイズとなっていて、中にはまだ温かさを残すものまである。


この後朝食が運ばれてくるとはわかっていたが、バターの香りとその向こうに感じる祖父の優しさにマリアベルはそっと小さなクッキーを摘まみ齧った。




「…美味しい」




アンジーはマリアベルの呟きも、それと共に零れた涙も気付かぬ振りをして紅茶を注ぎ足す。


長く暮らしてきた場所から遠ざけられた、そのはずなのにマリアベルは寂しさを感じるどころか今まで感じた事がないほどに安堵していた。




壁で仕切られた向こう側には大勢の使用人が働いている。


目の前には今朝名前を知ったばかりの侍女がいる。


人に囲まれ自由などない筈のこの空間で、マリアベルの心は確かに解放を感じていた。




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