私と長女と色鉛筆

長沢楓

第1話

「おかあさーん」

四歳になったばかりの弥恵が私を呼んだ。

ちらっと弥恵の方を見ると、手に何かを握りながら私がいるキッチンへと走ってくるのが分かった。

「弥恵、歩いて来て。ゆっくりでいいから」

「はーい」

弥恵は少し不貞腐れながらも走るのをやめ、早歩きを始めた。

今は桜が舞い散る三月。まだまだ肌寒い季節だ。弥恵は靴下を履いているため、フローリングに足を滑らせたら大変だ。

家の中のほんの短い距離をも走ってくる弥恵は、少しおてんば。けれど私の話は従順に聞いてくれる。弥恵はまっすぐな子だ。

「おかあさん!」

そばまで来た弥恵が私に話しかけた。

私はお昼ご飯に食べる、サラダ用のきゅうりを切っていた。

その手をとめ、包丁を弥恵からいちばん離れたところに置いてから

どうしたの、と弥恵に聞いた。

「しんく色、こんなになっちゃった」

そう、ひとつの色鉛筆を私に見せた。

それは弥恵の人差し指よりも短くなっていた。

その真紅の色鉛筆は今から十五年前、私がまだ高校生だったときに、文具屋で出会ったものだった。



「一本、二百五十円……」

そのお高さに思わず値段を声に出して読んでしまった。

恥ずかしさのあまり、すぐさま退店してしまったが、私はその色鉛筆に心が奪われた。

百色以上ある色。柔らかい色も深い色も、さまざまな色がある。

全てを集めてみたい……

私の心が強く、動いた瞬間だった。

だが高校生が簡単に集めることのできる価格ではなく、何回も何回も棚に並んだ色鉛筆を見に行った。

これで描いたら、どんなに素敵な絵が描けるんだろう……

当時、美術部に所属するほど絵を描くことを好んでいた私は、色鉛筆の並ぶ鮮やかな棚を見ながら、この色鉛筆を使って描く絵を想像した。

それだけで幸せな気持ちでいっぱいになった。


 その色鉛筆に出会った翌月、私は両親から新たにもらったお小遣いで色鉛筆を二本買った。

毎月少しずつ少しずつ色を増やし、色鉛筆を集めていった。

布を敷いた箱に、丁寧に色鉛筆を並べた。色系統ごとに箱を変え、色見本を作り、毎月少しずつ増えていく色鉛筆たちに心をときめかせた。

引越しのときに食器よりも丁寧に梱包した宝物は現在、空き箱の中に乱雑に収納されている。

当時の私がこれを見たら、きっとショックで倒れてしまうだろう。

高校生の私は、芯が減らないように、優しいタッチで線を描いた。

四歳の娘は、力強く色鉛筆を握り、線を描く。

私が大切に集めた色鉛筆たちは、一度も目にしたことのないほどの鮮やかな発色を見せるようになった。


「あれ、ずっと大切にしてきた色鉛筆でしょう。いいの?

弥恵に使わせて」

私の母は弥恵があの色鉛筆を使っているのを目にしたとき、少し心配そうに聞いた。

「使わせて、なんて言わないであげて。使ってくれてるの。

いいのよ。弥恵は大事に大事に使ってくれてるの」

母はあの色鉛筆が私の宝物であると知っている。

十五年の月日が流れても、私が色鉛筆たちに目を輝かせていたことを覚えている。

「私はあの子に使ってもらいたいの」

母と私は、もう私のものではなくなった色鉛筆を、愛しい眼差しで見つめた。我が子に向けるのと同じような優しい瞳で見つめた。



私は今でも月に一度、私によく似た小さな女の子を連れて、あの文具屋を訪れる。

小さくなった色鉛筆の、色番号を書き留めた紙を手に握り、店内に足を踏み入れる。

その場所は、本当に、ずっと、何も変わらない。

棚を見つめる少女の目の輝きも、昔のまま。


「おかあさん。今日は、私が色えんぴつみつけるね。紙、かして」

弥恵が私に言った。

彼女の小さな手のひらにメモを託し、今日は棚に並んだ色鉛筆に顔を近づける様子をただただ見守っていた。

彼女はメモと値札の番号を照らし合わせながら、色鉛筆を必死に探している。たまに首を傾げて、色が本当に合っているか不安げに確認する。

その姿はまるで、十五年前の私の姿そのものなのだろう。


「おかあさん、わたしあたらしくこの色ほしい」

彼女はメモに書いてある色を全て見つけた後に、そう言った。

彼女が指差した色鉛筆は、緑系の色をしていた。

「これがいいの?緑の色はおうちに四十本近くあるよ。だからこの色もきっとおうちにあるよ」

私は彼女にそう教え諭し、赤やピンクなどの色が並ぶ棚を指差した。

「弥恵ちゃん、こっちの色でおうちの近くに咲いている、桜を描いてみようよ」

彼女の気を逸らすように言った。

だが彼女は私の思いは無視するかのように、緑系の色が並んだ棚に体を向けた。

「ない。このみどり色はおうちにはなかったよ」

彼女はそう言いきった。

「じゃあ、これを買おうか。大事に使うんだよ。あともう一色、好きなの選んでいいよ。二本おうちに持って帰ろう」

帰宅してから同じ色が家にあった、という経験も大切かもしれない。

私はちょっとの覚悟を決めて、彼女にそう言った。



「すごい……。同じのなかったね」

帰宅してから、弥恵はすぐに色鉛筆の箱を開けたがった。

色鉛筆の確認をしたかったのだろう。

手洗いうがいを済ませ、部屋着に着替えてもらってから、ふたりで色鉛筆の箱を開けた。

弥恵はすぐに緑系の色を集め、その隣に今日買った、緑の色鉛筆を並べた。

全てがきちんと整列したとき

「すごい……。同じのなかったね」

私は思わず息を呑んだ。

「弥恵ね、色がたくさん見えるの。これはおうちになかったなって思ったの。おかあさん、買ってくれてありがとう」

弥恵は私に微笑んだあと

「今日持ってかえってきたモスグリーンを使って、おうちのお庭かこう」

そう言って、整列した色鉛筆からモスグリーンを手に取り、彼女の世界を描き出した。

さくら色も使って、近所の木から落ちた桜の花びらも描いた。


 弥恵は、彼女は、きっと色鉛筆の色の数だけ細やかな世界を生きている。色彩に満ちあふれた世界を生きているのだ。


 そう気づくと、だんだんと思い出されることがあった。

弥恵がお絵描きのときに選びとる色は、自然と調和される色のまとまりであった。

頭の中の考えを説明するときには、必ず色から話していた。

「わたしのあれ、あれがないの。あの、クランベリー色とセピア色の……」

朝の時間のないときに、もじもじと説明する弥恵を見ながら

「色よりも先に、、使うタイミングとか、形とか、もっと他のことから教えてくれない?」

そう思ってしまうことも多い。

けれど彼女は絵を描くときはいつだって、最初から使う色を決めている。

アニメのキャラクターの色を掴むときも、対象をしっかり観察して、その中に彼女なりの色を見つける。

「ネックレスはぎん色だと思ってだけど、ダイヤの中にはきいろとむらさきがあるの!」

彼女の世界はどうやら色が重要な手がかりみたい。



 ある日の夕方、にわか雨が降った。

雨が降ると私は気圧の変化で頭が痛くなる。

「おかあさん今日かなしい?」

そんな日に弥恵はこう聞いてくれた。

「心配してくれてありがとう。お母さんね、雨が降ると頭痛くなっちゃうの。でも大丈夫だよ。ありがとう」

弥恵は口をもごもこさせたあとに

「おかあさん、雨の日はいつもかなしいよ。

おかあさんのエプロン、ふじむらさき色になるもん」

不安げにそう言った。

私はいつも家事をするときに、紅色のエプロンを身につけている。

藤紫色ではない。

「お母さんのエプロンはいつも紅色だよ」

弥恵に教え諭すように言うと

「晴れた日、おかあさんはちいさな声でお歌を歌いながら、私の大好きなオムライスを作ってくれる。そのときのおかあさんのエプロンはかわいいチェリーピンク。

風邪をひいちゃったとき、おかあさんは私のあたまをよしよししてくれる。そのときはやさしいもも色。

でもおかあさん、今日はターコイズブルー。エプロンはべに色とターコイズブルーが合わさった、ふじむらさき」

つぶらな瞳で私に言った。


  彼女は自分や人の感情をも、色にできるのかもしれない。

その日に感じた嬉しかったこと、悲しかったことを色として記憶する。

また同じ色が見えたときに、喜びや幸せに思いを馳せ、誰かの痛みや悲しみにそっと優しく寄り添える。

弥恵は私が想像しているよりも、はるかに豊かで、優しい世界を生きているのかもしれない。



 私と彼女は同じ色鉛筆を使う。

不思議な空の色を見て

「あの空は瑠璃色だね」

「でもあっちはあかね色だね」

と話し合える。



 彼女が素敵な世界を生きるのに、色がこんなにも大切なら

どんなに高価な色鉛筆でも、大切に、たくさん使ってほしいというのが母の小さな、小さな、大切な願い。


 彼女も、私も、あなたも鮮やかな世界を生きて。

優しい世界を生きて。

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