この世界の温もりを

長沢楓

第1話

先月から貼られている区内のお祭りのポスター。 貼られたばかりのときはしっかりと四つ角がテープで止められていたはずなのに、今は右角が取れかかっていて大切な日付が見えていない。

なんだか可哀想な気がして粘着力の弱まったテープを壁に押し当てた。

貼りながら来週なんだなと気がつく。 小さい頃はお祭りが近づくと誰と一緒に行くか、浴衣を着るかなんてくだらない話をしていたな。

そんな昔のことを思い出すと、ふいに涙が溢れそうになる。

その涙がどこから込み上げてくるのかを私は知らない。

いや、ただ認めたくないだけなのかもしれない。





私の生まれた場所は瀬戸内にある離島。

電車は二時間に一本、コンビニは自転車で二十分、島には小中高がひとつになった学校がひとつ。全校生徒は四十人もいない。放課後や休みの日はみんなで土手に集まって海に入ったり、貝を拾ったりして自然と戯れていた。

それが当たり前だった。島民のほとんどがいくつも前の世代から島に住み続け、島外への関心がない。

例に漏れず、私も将来はこの島で職を見つけ、島から離れることはないだろうと思っていた。けれどあるひとつの出会いが私を大きく変えた。

フィルムカメラに写しだされる私の小さな世界に、ワントーン明るい、はっきりとした彩りを与えてくれたのはひとりのアイドルとSNS。


高一の夏休み、ふとつけたテレビでドラマを見た。

主人公役の男性の彫りの深い顔が好みで、そのドラマを毎週リアルタイムで見た。最終回を迎える頃にはファンになるほど、彼にハマっていた。その人の本業はアイドルだった。

普段は電話とメールでしか使わないスマホを手にして、ネットに触れた。島では誰一人やっていないSNSのアプリをインストールし、彼の最新情報をキャッチした。

出演する番組のほとんどは島での放送がなかったものの、頻繁に更新されるSNSの写真を追いかけていた。次第にコメントもするようになった。するとひとりの綺麗な女の子をアイコンに設定しているアカウントが、よくコメントをしていると気づいた。

アイコンをタップすると、まるでお城のようなカフェのテーブルに小さなタルトとアイドルの写真を並べた投稿が出てきた。

写真には首より下しか映されていなかったけれど、爪には肌の色に近いマニキュアが塗られていて、丁寧に手入れされた長い髪は艶やかで綺麗に巻かれている。洗練された漆黒のワンピースに、白い腕がよく似合っている様子が彼女が美人であることを思わせた。

他の投稿には彼のコンサートに行ったことや有名なテーマパークに行ったことがわかる写真が投稿されていた。

きらきらと輝く彼女は、島と島の外の世界にはたまごの薄皮のような、薄いけれどはっきりと存在する隔たりがあることを感じさせた。

ここは世界の全てではない。

そう思ったときに晴れやかな気持ちになったのは今でも忘れない。


彼女たちの投稿を見て、輝く東京に思いを馳せる回数を重ねると、容姿に気をつかわない自分が惨めに思えて、私は少しずつ身なりを気にするようになった。

島にひとつしかない薬局でコスメを買った。古びた電気屋でコテを買って、毎朝髪をストレートに整えるようになった。唇にはリップを、手にはハンドクリームを忘れずに塗るようになった。

容姿に気を遣うようになると、島のみんなからは奇異な目で見られるようになった。島でははみ出したことをすると、すぐに目をつけられる。悪い噂話が飛び交う。

そんな中でも着飾ることを続けられたのは、肯定の言葉をかけてくれた人がいたから。

それは島で唯一の同級生であった私の親友、梨花だった。梨花は学校の他の子たちとは違った。

私が色付きのリップをつけて学校へ行った日、中高生の女の子たちは私を見るなり

「あれ校則違反じゃないの?あんな赤いの、似合ってないよね」

そう口々に言った。

でも梨花だけは

「くちびる色ついてる。かわいいね。色付きのリップ塗ってるの?」

と声をかけてくれた。わざとリップであることをみんなに知らせるように、強調して話してくれた。

梨花は明るくて、人懐っこい性格だったため、先輩には可愛がられ、後輩からは慕われていた。そんな梨花が私の味方をしてくれるとみんな私を今まで通り扱ってくれるようになった。

「そのラメ、どこで買ったの?」

そう聞かれて、みんなにおすすめのコスメを教えたりもした。梨花のおかげで私は 「好き」を追い続けられた。

梨花はどんなときだって私を励ましてくれた。


自分を綺麗に武装する日々の中で

「東京に行ったら私もSNSで見る彼女たちのようになれるかもしれない」

そんな思いが日を追うごとに強くなった。

高校を卒業したら島を出る。東京に行く。

高三になったときにはその思いは確固たる信念になっていた。高三になってすぐに島の高校に届いた大学への推薦を漁り、たったひとつだけ東京の大学への推薦を見つけた。

島を出るためのひとつの突破口を見つけたような気持ちになった。推薦をもらうために、進路指導の先生のところへ足繁く通うようになると、高校のみんなが私に様々な噂を立てた。メイクを始めたときのように。

私が身なりを気遣うことには寛容になったが、噂話で盛り上がる島の性質は変わってはいない。

そんな島の文化も嫌い。そう再確認した苦い記憶。


梨花には東京へ行きたい、とは話していなかった。生まれてからずっと一緒にいるからこそ、離れることを告げるのは酷だった。

けれど彼女は毎日の会話の片鱗から、私が東京へ行きたいという思いを知っていたと思う。

ある日の放課後、梨花に声をかけられた。

「久しぶりに一緒に帰ろう」

小学生のころから一緒に帰るのが日課だったが、進路指導の先生のところへ通うようになってからは別々に帰るようになっていた。

梨花の声がなんだかいつもより寂しそうに思えて、彼女に「久しぶり」と言わせてしまったことに罪悪感を覚えた。

帰り道にある、昔は躊躇なく飛び込んだ海を目の前に、砂浜に座って話をした。私は砂浜にハンカチを置いた。もう何も敷かずには座れなくなってしまった。

梨花はよっこらしょ、と言ってなにも敷かず砂浜に腰を下ろした。

「おじさんみたいなこと言わないの」

私は眉を思い切り下げながら笑った。

「つい言っちゃうんだもん」

梨花も眉を思い切り下げながら笑った。

梨花は少しの間を置いてから

「もうすぐ卒業だね」

と言った。やはり話は進路の話。

「梨花は高校出たらどうする?」

「私はまだ働きたくないし、とりあえず進学かな。四国にある短大か四大に行くかな」

将来のことも聞いた。

「島に戻ると思う。なんだかんだ言って島にいたいかな。島が好きかはわからないけど、もう慣れちゃったし。他を知らないからね」

見慣れた島の海を見つめる梨花の目は優しかった。生まれ育った地を愛している。そのことがよく伝わる穏やかな眼差し。

そんな梨花を見て、広い世界に羽ばたこうとしない彼女をどこか冷たく見てしまう自分がいた。

私もまだ島の人間なのに。梨花と同じなのに。

そう思うと海を見ているのが辛くなって、思わず砂浜に視線を落とした。

すると梨花が体をこちらに向けてきた。

「どうするの?東京、いくの?」

梨花は私の目をまっすぐ見て聞いてきた。けれどその瞳は不安の色に染まっていた。

やっぱり梨花は、私が東京に行きたいと思っていることを知っていた。十数年の付き合い、島でただひとりの同級生。この関係は裏切れない。私は梨花の目を見て

「うん。東京の大学にいく」

そう言った。そのとき初めてその言葉が重みを持ったような気がした。

今まで自分の中でしか思っていなかったこと。それを生まれてから今日まで、人生を共にした親友に打ち明けた。

それもずっと私の目を捉えてきた、島の海の前で。

決意表明をした気持ちになった。唇が震えていた。

「そっか。そうだよね。だってあんたキラキラしてるもん。東京めっちゃ似合うよ」

明るい声で言ってくれた。でもその声がいつもよりも小さかったことには気づいていた。

「そっか。そっか。あんたはこの海の先に行くのか」

梨花はそう言ったあとに何回も頷いた。そして数秒後にまた口を開いた。

「寂しくなるな」

そう呟いた。その言葉を言い終わったとき、彼女の頬に涙が伝ったことを私は知っていた。

でも何も言えなかった。何もできなかった。





推薦の条件に満たしているとわかった日、私は両親に進路について話した。

「島の高校に来ている推薦を使って東京の大学にいきたい。推薦をもらえる条件も満たしている。島を出たい」

そう強く言った。落ち着かない様子の母は

「あなたが島を出たいという気持ちはわかってた。それを止めるつもりもない。

ただ、どうして東京なの。愛媛とか近いところにしないの。みんな関西からは出ないじゃない」

そう早口で言った。

「関西も出たい。東京にいきたい」

両親の目を見て言った。

「東京は東京で大変だよ。都会は島みたいに、困ったときにすぐに助けてくれる人はいない。知り合いもいない。ひとり暮らしで何か困ったことがあっても、お母さん関西なら助けに行ける。

でも東京は無理よ。それに東京での生活は甘くはない。ねぇ、お父さん」

母がそう言い切り、父に投げかけた。

そうだな、と言いながら次の言葉を選んでいるようだった。

長い沈黙のあと、寡黙な父が口を開いた。

「とりあえず、大学は好きなところに行けばいい。東京でもいい。

ただ、就職するときは一度帰ってきなさい」

そう言った。

帰るつもりはない、そうは言えなかった。それを言ってしまったら東京の大学にいくことがなくなってしまいそうだったから。母は納得のいかなそうな顔をしていたが父の一言には抗えない、といった様子だった。


島を出ていく日。

キャリーケースを手に玄関で靴を履くとき、父は玄関がよく見える茶の間で新聞を読んでいた。普段は新聞を読むときは縁側にいるのに。けれど視線はこちらへは向いていなかった。

母は心配そうに、でも譲れないものがあるといった様子で玄関に立っていた。

「気をつけてね」

「うん……」

敷居を出たあと、言葉を紡ぐ代わりにお辞儀をして扉を閉めた。

いってきます、とは言えなかったから。

私は生まれ育った地を己から切り離すようにして家を出た。



 


東京での生活は毎日が新鮮で、ただただ楽しかった。

電車は逃してもすぐに次が来る。コンビニはどこにでもある。

そんな当たり前のことから、たびたび友人に誘われる旅行まで、全てがキラキラしていた。都会の喧騒にもすっかり慣れた。

一年生のときは月に一度、母から送られてくる仕送りのダンボールを開け、感謝を伝える連絡をしていたが、都会を満喫するのに忙しくなると連絡も入れなくなった。


大学四年生、父から島へ帰るよう告げられていた年になっても、島には戻らず、東京で就活をした。島に帰ると、今までの生活に引き戻されてしまいそうで怖かったから。

結局、都内にあるひとつの会社から内定をもらい、両親には事後報告をした。ふたりは驚きはしなかったものの、呆れた様子だった。

「なんとなく気づいていたからもう何も言わないわ。でも、もう島には帰ってこないのね」

そう寂しそうに言った母の声を今でも忘れることはできない。





内定をもらった会社に入社して、半年が経った。

毎日同期とお洒落なランチを食べたり、もしかしたらいい出会いとかもあったりなんかして……

就活をしていた頃はお祈りメールに打ちひしがれながらも、そんな淡い思いを抱いていた。上京したてのときのように。

でもそんなのはただの理想に過ぎなかった。

毎日の昼食は夕飯の残りを適当につめただけのお弁当。都内だと狭いアパートでも月七万はする。外食は疎か、休日に遊ぶ余裕すらもなかった。

私に東京を教えてくれたアイドルはいつしか芸能界を引退していた。東京はイケメンや美人で溢れている。彼はその一部だったのだと知った。

中でも一番辛かったのはどんなに疲れて帰って来ても、優しい言葉をかけてくれる人はいないということ。

大学時代となにも変わらない生活のはずなのに、あたたかいご飯を作ってくれる人も、話を聞いてくれる人もいない。そんな小さなことがただただ苦しくて、大学時代にフィルターがかかったみたいにキラキラして見えた東京はなんだか寂しかった。

そんなときに思い出したのが昔の島での生活。

自分から切り離した田舎が初めて懐かしくなった瞬間だった。島が恋しい、そんな思いに気づいてからは島のことを思い出す度に、今まで自分がとってきた行動を正解にしようと自分を鼓舞した。東京に来たことは間違ってなかった。どうしても、そう思いたかった。

でも母から送られてくる仕送りのダンボールに詰められた島の野菜。その中に埋もれる手紙には毎回泣けてしまう。

「元気にしていますか。今年はたくさん雨が降ったので大粒の枝豆になりました。ちゃんとご飯食べるんだよ」

今月も母の優しさに頬を濡らしてしまった。母は私が島に戻るという約束を守らなかったのに、変わらず仕送りをしてくれて、ご飯を食べるようにと手紙に書いてくれる。わがままな私を受け入れてくれている。

自分でも親不孝だなと思う。でももう島には帰れない。

私はここで、東京で生きる。それしかない。

夢にまで見た都会ライフに疲れを感じていることには気づいていた。でも私には都会の息苦しさを話せる相手はどこにもいない。

社会人になってからは、母と電話をする機会が増えた。

母は島へ戻らなかったことを咎めたりはしなかった。私は両親への後ろめたい過去を少しでも償えるようにと電話をかけていた。

でも仕事でトラブルが重なって、少し気持ちが穏やかではなかった日に母から受けた電話で

「都会の生活って意外と大変なんだよ」

そう言って少しだけ母に愚痴をこぼしてしまった。少しの肯定が欲しかった。そうなんだね、と言ってほしかった。話を聞いてくれると思っていた。でも

「そうなんだ。大変ね。でもお母さんは都会は都会で大変って言ったよ。自分で決めたことなんだから、しっかり頑張りなさい」

温厚な母はきつい言葉を投げかけた。

たぶん、これが人生で初めての母からの厳しい言葉だった。

そのとき私は自分の身勝手すぎる行動も、私の全てを許してくれた母に、こんなことを言ってしまったことをひどく後悔した。私は母の優しさに甘えすぎてしまったと。母はもうわがままな私を見るのが辛くなったのだと。

それ以来、母との電話が少しだけトラウマになった。母との電話の回数も減った気がした。 


 



八時過ぎ、私はやっとの思いで帰路についた。

ぶーん。自転車が私の横を通り過ぎた。気をつけないと、そう思い体を少しだけ車道側から遠ざけた。

帰路には駅に貼っていたポスターが一定の間隔で貼られていた。区民が円になって盆踊りをする写真が貼られたポスター。

島でやっていた小さなお祭りも今頃だっただろうか。そんなことを思いながら、またしても田舎が恋しくなっている自分に気がついた。

母の厳しい言葉を聞いてもなお、都会から意識を離して思い返すのは自分が生まれ育った地。その事実が悔しくて、自分が情けなくて、歩き慣れた家まで続く長い道を早歩きで進んだ。


それから一週間も経たない日のことだった。

ちょうど夕飯の片付けを終えてテレビをザッピングしていたときに机においていたスマホが震えた。母からの電話だった。

あのこと以来、母からの電話はどうしても出るのを躊躇ってしまう。

いつも悩んでいると電話は切れる。その翌日にあたかも不在着信を見ただけのように電話をかけ直すのがいつもの流れだった。それも出勤前のほんの数十分の間に。

母には悪いが今回もそうしよう。いつも通り何のボタンも押さずスマホを伏せた。ただ伏せたつもりだった。

けれど気がついたときには通話が始まっていた。どうやらスマホを握ったときに、誤って応答のボタンを押してしまったらしい。

仕方がない。少し慌てながらも、自分を落ちつけるように小さく深呼吸をして話し始めた。

【もしもし?】

少し緊張しながら声を出した。

【もしもし。すぐに出るなんて珍しいわね。今、何してたの?】

久しぶりに聞くその声に、私の心はざわめいた。

【今、夕飯の片付けが終わったとこだよ】

久しぶりに聞いた母の声は、嬉しさと寂しさが混じっているようだった。

【そう。ちゃんと自炊しているのね。三上さんのところの梨花ちゃん。実家に暮らしているのをいいことに全く家事をしないと言って、三上さん怒ってたわ。この間、うちにお野菜届けてくれたときに言っていたの】

野菜を届けてくれる、数年前までは当たり前だったことがひどく懐かしく思えた。

【そういえば、梨花ちゃんあなたが帰ってくるの待ってるわよ。今年のお盆に帰って来なさいよ。東京にいってから、一度も帰って来てないじゃない。お父さんも寂しがっているわよ】

大学生のときは帰省することなんて考えてもいなかった。たった数日だけ、田舎で過ごすことすらも嫌だった。けれど、つい最近まで毛嫌いしていた田舎に少しだけ心が傾いた気がした。

【ちょっと考えておくね】

そう短く返事をした。短い返事だったけれど、真面目な返事だったと思う。





「ただいま」

夏の暑い日、私は五年ぶりに田舎に戻った。高校時代、自ら切り離した田舎に。

父は私が島を出た日と変わらず、今頃で新聞を読んでいた。母は私の声を聞いて

「おかえりなさい」

と玄関で迎え入れてくれて、ボストンバックを持ってくれた。

ふぅ、家を出たときと変わりのない自室に腰を下ろした。何故だか、ちょっとだけ、今までに感じたことのない感情になった。安心感とはまたちょっと違う、不思議な感覚。


そのとき話し声が聞こえた。気になって声がする方へと向かうと、縁側に母と話をする男性がいた。その男性は、私が島を出たときと風貌が全く変わっていない町長さんだった。

「おかえりなさい」

と町長さんが大きく、芯のある声で言った。懐かしい声だった。

「ただいま、です……」

戸惑った。なぜ町長さんは私が島に戻ってきていることを知っているのか。目を点にさせる私を不思議そうに見つめる町長さんがまた口を開いた。

「漁港で民生委員の泉さんが君を見かけてね。泉さん、家に帰るまでに会った人みんなにそのことを伝えていたよ。それを聞いて、俺も久しぶりに君の顔をみたくなってね」

町長さんは大口を開けて笑った。

「そうだったんですね。ご足労いただき、ありがとうございます」

「ご足労いただき、だってよ。ずいぶん大人になったじゃないか」

そう言って町長さんは私の肩を叩いた。肩を叩かれたとき、私はきっと上の空になっていた思う。

私が島に帰ってきただけでこんなにもたくさんの人に、この情報が伝わっている。ネットやSNSを使う人はほとんどいない田舎で、人と人とが直接、言葉で情報を通わせている。

島はこういうところだったのか、と忘れかけていた田舎での生活が蘇ってきた。

人と人との濃い繋がりがひどく愛しく思えた。昔は毛嫌いしていたのでに。

そんなことを考えていると、庭に入るための扉が開いた。

「おかえりなさい。あ、町長さんも来てたんだ。ほれ、野菜持ってきたよ」

といいながら、ご近所さんの石川さんが家に入ってきた。

島には人の家の扉を勝手に空ける人もいたか、と少しずつ田舎での感覚を手繰り寄せている自分に気がついた。

「お野菜ありがとうございます。石川さんも、泉さんのお話を来てくれたんですか?」

「そうだよ。泉さん嬉しそうにみんなに伝えてたよ」

石川さんは満面の笑みで話してくれた。みんな私を優しく迎え入れてくれる。島を外に出た人間なのに、私を受け入れてくれる。そんな人の温かさに胸がいっぱいになった。この世界いっぱいの温もりを感じた。

ふたりが来た後も、一時間弱は泉さんを含め多くの人が家を訪れた。家にはみんなが持ってきてくれた大量の野菜と鮮度の良い魚介で溢れた。

島の人の勢いに少しくらくらして、自室に戻ってベッドに寝転がった。高校生のときSNSのあの子に憧れて両親に強請ったベッドに。

もう少しで眠りに落ちそう、といったタイミングだっただろうか。

急に部屋の引き戸があいた。少し浮かれた声で

「梨花ちゃん来たよ!」

そう母が言った。


ごくごく、と喉を鳴らしながら梨花は麦茶を一気に飲んだ。飲み終えると今度はぷはぁ、と息を吐いた。

ビールを飲むおじさんかよ、と心の中で突っ込む。

「明日お祭りなのよ。ふたりで行かない?」

梨花は満面の笑みで言った。

「いやいや、どういうこと。五年ぶりの会話がこれって、もっと聞きたいこととかないの?」

わたしはノーブレスで聞き返した。

「うん。別に特に今聞きたいことないもん。それにお祭り行くときにたくさん話せるし」

「梨花の中では行くのはもう決定事項なんだね……」

困り顔で言う。梨花は大人になっても相変わらずせっかちだ。

「うん。だってこんな田舎じゃ他にすることないでしょ」

「そうだけど……」

煮え切らない返事をした。お祭りには知り合いがみんな集まるに違いない。きっと東京はどうとか、仕事は何をしているのとか、そんな面倒くさい質問ばかりされてしまう。

島が恋しかったとは言え、田舎の面倒くささに自ら入り混む勇気はまだない。

ごにょごにょと濁す言葉ばかりを羅列していると、麦茶のおかわりを持ってきた母が

「いいじゃない、お祭り。久しぶりに学校のみんなに会えるいい機会じゃない」

とのりのりで言ってきた。母の言葉を聞いて、梨花も

「いいじゃん、行こうよ。決まりね」

と興奮気味に言ってきた。

行くなんて一言も言ってない、といかにも不服そうな顔をして言ったがその声はふたりには届かなかった。

「どうせなら浴衣着ていきなさいよ!」

「浴衣いいですね〜!ふたりで浴衣着るのなんて、もう何年ぶり?」

はちきれそうな笑顔で梨花が言う。

「浴衣、あっちの部屋かな」

母は心躍らせながら押し入れをみてくるわね、と言って席を立った。


居間にふたりで取り残された。時計の秒針の音が聞こえる。

「なんか、強引にごめん。でもみんなに会ったら絶対に楽しいって!」

梨花は複雑そうに笑った。

「そうだね」

私もまた複雑そうに笑った。梨花はぎこちない時間の流れに耐えられなかったのか

「私もう帰るね。明日は四時頃に迎えにくるね。おばさんによろしく」

そう言い残し、帰って行った。


梨花が帰ってから時計の針が六十度傾いたとき

「あった!あった!あったわよー!」

と言って、母は紫陽花柄の浴衣を出した。

見覚えのある、幼い頃によく着ていた浴衣だった。私は驚きながらも

「もう小さいんじゃない?確か小学生のときに着ていたやつでしょ」

と言った。驚く私とは対照的に、母は穏やかに笑った。

「もう忘れちゃったのね。この浴衣、本当は大人用だから大丈夫よ。これね、あなたが小学一年生のときかな。家族で東京に行った時に買ったものなの。お祭りの季節だったから、ショッピングモールに浴衣が並んでいてね。あなたが浴衣に見惚れいて、浴衣の前から一歩も動かなかったから仕方なく買ってあげることにしたの。普段なかなか買い物に行かせてあげられないから、と言ってね。

そのときに、あなたが選んだのがこの紫陽花の浴衣。大人用なのに、あなたがどうしてもこれがいいって言ったから、反対するお父さんに

『丈を詰めたら今からでも着られるから。そうしたら長く着れるでしょう』

とお母さんが説得したの。

毎年夏になるとリッパーで糸を解いてまた縫って、としたものよ。縫うたびに折り返した部分が短くなっていってね。その度に来年はもう浴衣は着なくなるかな、なんて寂しくなってものよ」

母は浴衣を優しく抱きしめるように持っていた。それはまるで、懐かしい思い出を包み込んでいるようだった。 





川沿いに並ぶ朱色の提灯が島を彩っていた。

年に一度だけ、いつもは静かな島が賑わいを見せる日。東京のひしめき合うような人だかりではない。温かい人がいっぱいに溢れている。私の浴衣には濃紺の地に、薄紫の紫陽花が艶やかに咲いている。

母の話を聞いてから着る浴衣は、どんな浴衣よりも上等な浴衣に思えた。

この浴衣を着られて、お祭りに来られて、本当によかった。

そんなふわふわした気持ちで出店の前を歩いていたとき

「やっぱり、そうじゃない?」

昔を思い出させる声が聞こえて、反射的に振り返ると小中高と一緒に過ごしたみんながいた。

「来てたんだ。それに浴衣着てる。似合ってるね。大人っぽい」

無邪気に笑うみんなが、あたたかかった。

「これ、昔着てた浴衣なの。さすがに同じのだなんて思わないよね」

と笑いながら言った。すると梨花が

「大人っぽくなったって言ったけど、みんな社会人なんだからもう大人だよ」

と突っ込んだ。みんな次々にそっかー、と口を揃えて言った。

そのあとのお祭りはみんなと回った。みんな今の話はしなかった。何も聞かれなかった。

毎日海で泳いだこと、クラゲに刺されて大泣きしたこと、そんな思い出話に花を咲かせた。


学生時代、よく遊んだ土手でみんなと別れた。ふたりになった帰り道に梨花が口を開いた。

「お祭り無理やり誘っちゃってごめんね」

「ううん。逆に誘ってくれてありがとう。みんな温かかった」

人の優しさに触れて涙腺が緩くなった私は、声を潤ませながら言った。

「どうした?どうした?」

梨花がかけてくれる優しい言葉に、余計に涙が溢れてきた。泣きじゃくる私の肩を抱きながら

「そっか。そっか。都会はやっぱり大変なんだ。よく頑張ってるね。偉いぞー」

そう言って私の頭を撫でてくれた。

「都会に憧れて、親の制止を振り切って東京に飛び出したのに、大変だなんて馬鹿みたいだよね」

私はずっと思っていたことを自虐するように口に出した。

「馬鹿みたいなんて思ってないよ。というかみんな心配してよ。おばさんもずっと気にしてた」

お母さんが、と思わず聞き返してしまった。

母はあの日、わがままな私を見るのが辛くなったのだと思った。けれど両親は私の身勝手な行動を全て許してくれていて、上京したての頃のようにまた連絡が疎かになった私を心配していたということを梨花が教えてくれた。

電話口での母の厳しい言葉は私を鼓舞するためのものであった、と今更ながらに気づいた。

母の寛大な優しさにまた泣けてきた。梨花の浴衣をびしょびしょになるまで濡らした。島を離れた四年分の涙だった。





「忘れ物はないか」

車に荷物を積み終えると、先に運転席に座っていた父が私に聞いた。今日は帰省の最終日。

父が船乗り場まで送ってくれると言ってくれた。

「うん。大丈夫。車、ありがとう」

「おう。母さんに挨拶してきなさい」

うん、そう言って私は一度玄関に戻った。

「お世話になりました」

他人行儀みたいに言うと、母は

「何よ、そんな誰かの家に泊まったみたいに。ここはあなたの家なんだから」

そう言って笑った。

「そうだね。うん」

話そう。伝えよう。ありがとうとごめんなさいを。

小さく深呼吸してから話し始めた。

「島に戻るって約束していたのに戻らないまま、東京で働き始めちゃってごめんなさい。それなのに私はお母さんの優しさに甘えて、なんでも許してくれるお母さんに、都会の生活が大変だなんて言ってしまった。本当にごめんね」

話しながら視線を母からそらしてしまった。母の顔を見れなかった。母のすすり泣きが聞こえた。

「仕送り、毎月ありがとう。お礼の連絡できなくてごめん。でも社会人になってから仕送りの中に入っているお手紙に何度も救われた。涙で濡れてしまったものもあると思う。お母さんほんとにごめんね」

話している途中、私の頬にも涙が伝った。母は私を抱きしめてくれた。

「大丈夫よ。大丈夫。また帰ってきていいんだからね。ここはあなたの家」

そう言って私の背中をぽんぽん、と優しく叩いた。涙は大粒の涙に変わっていた。

「ほら、船の時間に遅れちゃう。いきなさい」

私を腕から離すと、涙で濡れる頬を拭った。母の温もりが優しかった。

「またね」

そう言って私は戸を閉めた。


父が待つ車に乗り込む。私がシートベルトを閉めたのを確認して、父はゆっくりと車を走らせた。

「もう少し、こっちにいなくてよかったのか」

と父が聞いた。

「荷解きにも時間かかるから」

少し気まずく言った。ここへ帰ると決めたときはこんなにも田舎が恋しくなるなんて思っていなかった。

しばらく静かな時間が続いた。沈黙を破ったのは父だった。

「お前は電話口で東京の生活のことを母さんに話した日のことを覚えているか。お前が大変なんだよ、と少し母さんに言った日だ」

そう聞かれた。少しびっくりした。あの日のことを父が覚えているなんて。

「覚えてるよ。お母さんに頑張りなさいって言われたのよく覚えてる」

あの日、私は母に軽蔑されたと勘違いした。でもあれは私を鼓舞する言葉だった。

「あの日、母さん押し入れを整理していたんだよ。それでお祭りに着ていった紫陽花柄の浴衣を見つけて、お前の話をし始めたんだよ。

『社会人になって上手くやれているのかな、しっかりご飯食べてるかな』

と心配していたんだ。そのときの母さんが心配しすぎていると思って、父さんはもう社会人なんだから心配するんじゃなくて応援するのが大事なんじゃないか、と言ったんだよ。だからその日お母さんは頑張りなさい、って言ったんだ。その後からお前があまり電話に出なくなって母さんすごい心配していた。私の言葉がよくなかったのかな、とか言い始めて」

私の目は潤み始めていた。胸もいっぱいだった。

「あの言葉に傷ついたのなら、申し訳ない。ただ父さんと母さんはお前のことを思ってるということは忘れないで欲しい」

乾いた頬にまた涙が伝った。もう十分だった。

「ありがとう」

それ以上は何もいえなかった。口に出したら、声をあげて泣いてしまいそうだったから。

母も父も、私を大切にしてくれている。それだけで幸せだった。

「ついたぞ。元気でな」

船乗り場に車をとめた父が優しい笑顔で言った。

「うん。車、ありがとう。年末年始はこっちにいようかな。またね」

そう言って父に背を向けて歩き出した。

母にも、父にもしっかりと言葉を残し、別れを告げた。次に帰る約束もした。



世界は広い。この島は世界のほんの一部でしかない。けれどこの一部は私の心の拠り所。この世界には温もりがちゃんとある。もう何も怖くない。

私はまだ見ぬ明日へと、歩み始めた。

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