(3).海のアネモネ

1.白い海(ラール)

ベルシレーの事件は、ラッシルでも大きな話題になっていた。私は、またしてもミルファが関わった事件と言うこともあり、あちこちから、コメントを求められる事が多かった。女帝陛下やナスタなら、有り難く思うけど、たいして親しくもない、好奇心だけで聞いてくる連中にはうんざりしていた。昔なら、無視すれば良かったが、今は、適当な相づちを打っている。


旋風のラールも、丸くなったものだわ。自分でいうのも、なんだけど。




ミルファはまめに手紙をくれるので、事件の顛末は一通り掴んでいた。ラエル家はラッシルではあまり評判が良くないが、姉妹が無事で良かったと思う。


私は当分、外出は控えようかと思ったが、閉じ籠っていると落ち着かない。残念な事に、家の中で出来る趣味もあまりなく、一人だと凝った料理を作る気にもなれない。幸い、いろいろと引き受けている、名誉職のような役職があるため、気が紛れる程度には忙しかった。


そんな時だ。


文化庁から、三冊のコーデラの本が送られてきた。またオペラかバレエのネタ本かしら、と思ったが、違った。そのコーデラの小説は、今度、ラッシル語に翻訳されて出版されることになったのだが、このまま普通に出しても良いか、が議論になっていたようだ。


「若い女性向け小説ということで、良家の子女が好んで読むことが予想されますが、教育的に適切かどうかを、有識者に判断いただきたく。」


と添えてあった。


ラッシルの良家の子女は、コーデラ語の読み書きは出来る。無駄な気はするが、まず読んでみた。


小説は「回想のニキ・クリスタ」という連作ものだ。「陸の真珠」「白い海」「貧者の冠」の三作。後一冊、「海中のアネモネ」というのがあるが、発売は来年になる、とメモがある。作者は「グレース・ウォイチェン」、チューヤ系のコーデラ人だ。


書かれた順番は「白い海」が一番先で、その前日譚が「陸の真珠」らしい。


こういうのは、作者の頭にあった順番で読まなくては混乱するだろう。まず「白い海」を手に取る。青い海に白い砂、船が一艘。漁村らしい素朴な絵の表紙だ。




舞台はラッシル。時代は現代のようだが、未来のようでもある。そこは明言していない。


主人公はローランド家の、ユードシアという伯爵令嬢で、ラッシル南西のブランシレンと呼ばれる、広大な領地の相続人だ。ラッシル南西の海岸は、ラーズパーリ、ロサマリナへと通じる地域だが、「ブランシレン」で「白い人魚」、他に「人魚の波止め」と呼ばれる地形が出てきたりで、イメージはベルシレーに近いものがある。


冒頭はユードシアが七歳の頃、従姉妹のルーシリア(一つ年下。父の弟のバルナモント伯爵の娘。)と、領民の(屋敷は海辺なので、主に漁民の)子供たち数人で「冒険」に出るシーンから始まる。洞窟にある、と噂の「海アネモネ」を、ルーシリアが見たがったのだが、海アネモネは、突然変異したイソギンチャクか珊瑚のモンスターらしく、彼女の願いは却下された。だが、ルーシリアは、勝手に村人に話をして、連れていってくれるように頼んでしまう。ユードシアは、案内してくれるという男性が嫌いで、同行しなかった。だが、心配になって、後から連れ戻そう、と、子供たち数人と、洞窟に入る。


ルーシリアは見つからず、明かりをなくしたり、迷ったり、はぐれたり、怪我をしたりで、結局、男子二人と、一晩洞窟で明かした。海アネモネに軽く刺された彼女は、意識を失い、気がついたのは翌朝、屋敷でだった。


ルーシリアは無事だったようだが、すぐ実家に(彼女はいわゆる「跳ねっ返り」で、叔父から行儀見習いにと、預けられていた。)帰された。ユードシアは気絶していたし、洞窟が怖い、という意外は、あまり覚えていなかった。


「大丈夫だよ、怖くないよ、側ににいるよ、ユーディ。」


と誰かが話しかけてくれていた事は覚えているが、目覚めた時に、兄のユードサイム(5つ年上。養子のため、血は繋がっていない)がいたので、素直に彼だと思った。


暫く、暗闇を怖がって、夜中に目を覚まして泣く事があったが、そのたびに、兄が来て、宥めてくれた。


ユードシアは、一緒に行った子供たちの心配をしたが、彼らは


みな無事で、おとがめなしだった。ルーシリアが案内を頼んだのは、何かと評判の悪い男で、「何か伯爵から、金をだましとろうとしていた」という噂がたった。ユードシアは、翌年、皇都の女子校に行くため、故郷を出た。出発の日


見送りの人々の中に、男子二人を探したが、いなかった。


≪私は兄に手を引かれ、新しい場所に向かった。≫




次は、ユードシアが十五になるまで話が飛んだ。彼女視点ではなく、新聞や雑誌の記事や、後年の学者の回想録の形で暫く進む。


その十五の時、ユードシアは、皇太子と婚約していた。が、彼が一方的に破棄した。理由は「ユードシアは皇妃に相応しくない」だった。彼女は大人しく、素行の良い娘なので、これは言いがかりだった。


その理由とは、彼女の子供時代の友人に、現在、政府に逆らう危険人物として、マークされている男性がいたから、という事だった。


その青年はニキ・クリスタ、シリーズタイトルのニキは彼の事だ。女性的な響きの名前だが、彼らの故郷の風習で、一番目に産まれた男子には、女性名をつける事があった、となっている。これはラッシルではなく、東方の習慣として知られている事だ。


彼は、いわゆる下層の労働者からなる団体「壁の大穴団」を率いていた。半分、窃盗団みたいな物だった。しかし、老齢の皇帝と、政治音痴な皇后、さらなる浪費家で評判の悪い皇太子に、便乗した濁流の役人、高官達には、真面目な貴族や騎士でさえも、不満を感じていた。このため、「常識のある者は何かしらレジスタンスをしている」と言われていたほどだ。そういった団体でも求心力はあった。


ニキ達以外にも、富裕な下級貴族と商人からなる「金の秤党」、今は一自治領主となった、元公爵家をもり立てる「紙の王冠派」、移民の知識階級中心の「アンバース党」(ここだけリーダーの名を取った、シンプルな党名だった。カリスマ性の強いリーダーが優秀なため、一番有力な団体だ。)等々、さまざまな団体が出てきていた。「壁の大穴団」は、新しい党派だが、纏まりがないが勢いがあった。


ローランド伯爵は、子供のうちは、男女を問わず、領地の子供達と、ユードシアを自由に遊ばせていた。冒頭のシーンの背景でもある。ニキとは、あくまでもそういった昔の知り合いの一人だ。ただ、ユードシア自身は暗闇の記憶が勝ったのか、顔も名前も、ようよう思い出すくらいだった。ニキもわざわざ知り合いを表明したことはないが、彼がブランシレンの出身というのは有名な話だった。


しかし、もちろん、このぐらいで、普通は婚約破棄にはならない。ローランド伯爵は、浪費家の皇太子について、節約を促し、何度も諌める進言を、皇后や国会に(皇帝は患っていたため)していた。娘が婚約しても、それは変わらなかった。皇太子は、このため、「当てが外れた」、と考えたらしい。それが破棄のこじつけだった。


皇太子は、破棄して一週間後に、つまりほぼ直ぐに、ルーシリアと婚約してしまった。ルーシリアの父のバルナモント伯は、ローランド伯の弟だが、兄とは逆に、皇太子に追従するタイプだった。


ルーシリアは、ユードシアとは反対に、見た目からも、かなり自由奔放な女性に育っていた。彼女もユードシアと同じ学校に入り、仲は良かったのだが、彼女の成績はスレスレだった。皇太子が伝統的な皇族の権利として主張する贅沢には「理解」があり、彼とは相性は良かった。社会不安が高まっている時代背景には理解がなかったが。


が、それでも、皇太子はまたしても、急に婚約を解消した。皇帝がとうとう亡くなって、彼が即位する直前の事だ。皇后として戴冠式に出たのは、北の自治領主の娘で、母親は皇后の従姉妹だった。つまりは母の意見だ。


解消の口実は、ユードシアと同じだが、今度は意味が違った。


ルーシリアは、結婚前に、皇太子の子を妊娠した。皇帝がそれを知って倒れ、小康状態だった健康は消し飛んだ。皇后は「大変な不名誉」と猛反対した。もともと、皇后は「古風な淑女」のユードシアの方が気に入っていたこともある。


皇太子とルーシリアは非難の的にされたが、皇帝が倒れて、皇太子は即位間近、「愛」がかけらでもあれば、問題なかったろう。


新皇帝は、なけなしの愛ごと、ルーシリアと子供を切り捨てた。母親に言われたから、とは言わずに(言えるわけはないが)、子供の父親が不明だから、で押し通した。


ルーシリアは、奔放と言っても、服装や髪型が派手で、口が悪い(伯爵令嬢にしては)程度で、評判は良くはなかったが、他にそういった心当たりはない、と主張した。しかし、皇太子側は、冒頭の事件まで持ち出して、自分が「最初」ではなかった、とまで言い出した。


バルナモント伯は裁判をしようとしたが、ルーシリアは自殺してしまい、伯爵自身も倒れて憤死した。遺産は兄のローランド伯が継いだが、バルナモント伯は新事業のために、領地を半分、抵当に入れていて、それらは処分して補填することになった。残りは、ユードシアの相続分に入れず、養子のユードサイムに継がせた。


ユードサイムの父は騎士だったが、幼いときに死亡(伯爵兄弟を庇って戦死)し、相継いで母親も亡くなったため、ローランド伯爵家に引き取られた。一度は、伯の叔母が養子にした。叔母が亡くなった後は、伯爵自身が引き取っていた。


伯爵は、弟が死んだ後、公職を辞して、この二人の「兄妹」を連れ、領地に引っ込んだ。その後、皇帝はますます愚かな行動を取り、他の貴族も、新皇帝を見限りはじめ、皇都は荒れはじめた。




ここまでが序章に当たる。




いよいよ本編は、ユードシアの視点にふたたび切り替わり、ローランド伯爵が亡くなり、彼女が跡を継いだ所から始まる。彼女の母親に対する言及が僅かにあり、どうやら冒頭の事件より前に亡くなっていたようだ。




ユードサイムは魔法官の学校に寄宿していたが、魔法官になるよりは、ローランド伯爵を手伝いたがった。伯爵は、皇都で忙しい時は、彼に地元での行事などを任せることもあった。


伯爵の死後、彼は、あちこち飛び回り、活躍していた。バルナモントの私有地は、皇都近郊と、西の海岸、北の高原と、全国にバラバラに点在していたからだ。ブランシレンに戻るのは、一年のうち四ヶ月程度で、一方、ユードシアは、ずっとブランシレンで過ごした。




≪…海岸から戻り、兄の書斎に顔を出した時、頭を抱えている姿が目に入った。私はさっきラトラグから、


「前にロドワ一家が住んでいた家に、誰か勝手に住み着いた。」


と聞いたばかりだったが、兄にはもう、話が行っているのか、と思った。カテリン広場事件からこっち、皇都から流れてきた者が増えているが、父も兄も、取り締まり要請には応じていなかった。地元では、人手が増えるのは有り難いので、組合いに話を通して手続きすれば、問題視はしなかった。ただ、空き家にこっそり住み着いてしまう人達は、歓迎されなかった。僅かだが密漁してしまうからだ。兄は、それは重要視していて、対策に悩んでいた。


私は、兄の好物の、新鮮な海草が手に入った事を話し、それから、ラトラグの報告をしようとした。


「僕と結婚しておくれ、ユーディ。」


兄は、悩み抜いた表情で、いきなり、そう言った。


でも、私たちは、本当に兄妹だった。


表向き、兄は、騎士ヴォーチエと母メイリンの間に出来た子供だったが、彼の父親は、実は私の父だった。


私は10歳の時、父から真相を聞かされた。父は、母と婚約する前、メイリンと交際していた。妊娠がわかったのは婚約後で、その結果、父の頼みで、ヴォーチエがメイリンと結婚した。彼女は、東方人の移民の娘で、教養はあり、役所に勤めていたが、大貴族の父は、身分違いの結婚を避けた。


兄はメイリンにそっくりと言う話で、ほとんど東方人の容姿をしていた。私は、コーデラ系の母に似たため、見て兄妹だ、と思う人は居なかっただろう。教会は、義理も含めて七親等以内

の結婚は、原則認めていないが、申請して許可が降りれば別だった。養子の兄妹であれば、血縁の従兄妹より、はるかに簡単に許可は出る。


私は理由を尋ねた。兄は古典文学と、古代魔術の研究をしていて、よく詩的な表現をしたから、今度も、何かの例えだろう、と思った。


だけど兄は、もう一度、


「お願いだ。僕と結婚しておくれ。人にも神にも背くことになるが、僕は、君に救われるんだ。」


と熱心に言った。


今度、皇帝陛下が作ろうとしている新法で、兄のような立場の領主は、不利になる、と聞いていた。もしアンバースかエスラン公爵が、秋までに政権を取れれば助かる、という噂もあった。よくわからないが、秋までに、そんな大きな変化は、望めないと思う。


私は、兄が困っているなら、何としてでも助けたかった。いつも穏やかで優しく、私や父を支えてくれた人だ。人にも神にも背く、躊躇ったが、


「私で良ければ、喜んで、お兄様。」


と答えてしまった。


兄の深刻な顔は、たちまち笑顔になった。いつもの笑顔だが、いつもと違う瞳が輝いている。


「愛しているよ、僕のユーディ。」


そう、唇に添えて。




私は、返事をした時は、これは、「白い結婚」になると思っていた。アリクブカ辺境伯やノーツグ家の有名な例のように。




だけど、唇を受けた瞬間、悟ってしまった。兄に、そのつもりがないことを。≫




こうして、ユードシアは、ユードサイムの妻になった。


兄がどうしてこんな事をしたのか、理由ははっきり書かれていない。しかし、彼の執心がユードシア自身で、どうやら昔からずっと愛していたらしかった。だがユードシアは、ぼうっとしていると言うか、人の闇に疎いと言うか、確かにある意味、皇后には向かない性格だった。結婚一年目、夫婦として暮らしているのに、その時点でも、兄の真意に気づいていない。法的・経済的な動機だと思っているようだ。


兄の領地には、食料を自給できない、寒冷地の鉱山地帯がある。鉱石があっても貧しい土地だが、叔父の時は、手放してしまった土地から上がっていた利益で、色々補填していた。兄の代にはそれが無くなっていた。


父親が存命の間は、ローランド領の所領から、あれこれ融通させていた。品目にもよるが、これは本来なら貿易税がかかる。しかし、領主同志が夫婦や、親子兄弟なら、半分以下に免除されていた。当時のローランド伯爵はユードシア、ユードサイムは義理の兄なのだから、問題はないはずだった。が、その法律が変わり、義理の仲では、特権が無くなる、と言われていた。


皇帝は、金が欲しかった。


他にも強引な法案をいくつも上げていたが、大抵は却下されていた。そのたびに、国民に不満が募っていった。


ユードシアがあまり政治に関心がなく、早く妊娠したこともあり、彼女には、周囲が、皇都の不穏な話は聞かせないようにしていた。




そんな中、ようよう、タイトルロールのニキが出てきた。




皇都では、労働者のストライキに皇帝の親衛隊が魔法弾を発砲したことで、最初の大きな武力衝突が起き、ニキの団体は最初は先導したが、右腕のバンブーリンを始めとして、上のメンバーを全て失った。ニキは故郷に逃亡し、昔、彼の家だった、石造りの小屋に移り住んでいた。




その日、ユードシアは、地元の祭礼のため、朝から忙しかった。皇都から兄も帰郷するため、屋敷と海岸を自ら往復して、働いていた。その時、海岸のとある小屋(ニキの家ではない)に、不審な人影を見つけた。勇敢か無謀か、運命か、彼女は一人で、小屋を見に行った。




≪…灰色のはずの石の家は、妙に白く見えた。中は広い一間で、奥はない。寝室と台所、食堂と居間が全て一つの家だ。祖父が昔、『道徳的でない』と廃止した形の、旧い形式の家だ。今は冬に使う薬品の倉庫にしている。直ぐ近くに、女性用の寝室として、後から作られた、木造の小屋があるのだが、そちらは廃屋だった。


前にこの家に住んでいたキシング一家は、養殖をやっていた。実は、ほぼ真面目な一家だったそうだが、私は名を聞くたび、嫌な気持ちがした。


『海アネモネは綺麗だよ、ひらひらして。』


と、あのキシング家のキシン(多分こんな名前だった)の表情、ルーシリアの手を引き、洞窟に誘い込む時の様子。思い出すと、やっぱり誰かに着いてきてもらえば良かった、と思った。でも、自分でもよくわからないが、負けていられない、という気があった。


暗いところは苦手だった。影は見間違いだと思い、早く出たくなった。だけど人はいた。


女性が一人と、男性が三人。女性はパノワの所のカレナだ。まだ13くらいだが、ほとんど二十歳に見える。男性のうち、一人はザコフ、もう一人はライトンと言い、養殖を担当していたが、彼等の監督官のサイラスによると、人手不足でも頸にしたいほど、仕事ぶりが悪い。


カレナは、眠っているようだった。彼女も、あまり働き者ではないが、祭りで忙しいのに、堂々とさぼる程ではない。


ザコフは、まずい、とか、俗語で言った。私は、


「カレナはどうしたの?具合でも悪いの?」


と尋ねた。ライトンは、急に明るくなり、


「そうなんですよ。見てもらえませんかね?」


と言った。


「そこは暗いわ。明るいところに運び出して。」


と言うと、


「いやもう、暗いほうが助かると思いますよ。」


と答えるライトンに、私はキシングを思い出した。小屋を飛び出そうとした時、ザコフの手から、何か甘い臭いのする煙が出て、私は意識を失った。




暗い洞窟の中、ルーシリアの声が響いていた。弱い悲鳴のようだった。私は彼女の名を呼んだが、返事はない。道を進んだが、声は遠くて近いままだ。


『反響があるから。どっちだろ。』


黒髪の男の子が行った。兄だ。でも、もっと幼い。


『ここで休む?早くユーディを見せなきゃ。』


と、私を支えた、二人めの兄が言った。顔は見えない。


『薬、効いてるし、ここは空が見えるから、ましだよ。お屋敷から、人が出てるよ、多分。お姫様が二人もいなくなったし、ルーシィがアネモネの件で監督さんに文句言ってたの、旦那様も知ってるし。』


旦那様、と言うことは、黒髪の子は兄ではない。


私は、兄の事を考えているが、口はルーシリアを呼んでいた。彼女が泣いてると思うと、いても立っても居られなかった。


『怖くないよ、ここにいるから、ユーディ。』


私は泣いていた。兄が、暖かいもので、涙を拭ってくれている。


『側にいるから。』


私は、思いきり、兄に抱きついた。


「ユーディ!」


黒くない、金色の頭が目に触れる。青い大きな目が、私を見つめていた。


「気がついたんだね。」


『彼』は言った。私は、兄と思ったのに驚いたせいで、突き飛ばす勢いで、離れた。


「おっと、きついな。」


と、軽く彼は笑った。人懐こい笑顔だ。金髪はまだらに日焼けして、より日焼けした顔を縁取る。青い目は浅い。見覚えがないはずなのに、懐かしく目が話せない。

「伯爵様も、さっきまでここにいたんだけど、ラトラグに呼ばれて行った。モイラが、いいかげん着替えさせたほうがいい、と、服を取りに行っている。あと、俺、名前知らないんだが、最近の、赤毛のメイド、彼女が…。」


「貴方は、誰?」


親しげな顔には、軽い驚きが浮かぶ。


「覚えてないのか。」


と言った後、いきなり、笑いだし、


「無理ないか。何年ぶりだろ。」


と言った。


「ニキだよ。ニキ・クリコフ。早銛打ちのクリコフの息子の。うん、ニキ・クリスタ、の方が、通りがいいかな。」


途端に、関を切って思い出した。あの洞窟、怪我をした私に薬をくれた、東方系の男の子供は、兄ではなく、「リン」、私を支えて、慰め、声をかけてくれたのは、この「ニキ」だ。


私は、泣いてしまった。彼はぎょっとして、


「無事だったよ、君もカレナも。俺が飛び込んだ直ぐ後で、ラトラグとジーニャが来て、それから、ガンスタンが…。」


と説明し始めた。


「違うの。」


「何が?ラトラグも同じことを言うよ。」


「違うの。そうじゃなくて、私、忘れてたの。助けてくれたのに。ごめんなさい。」


ありがとう、と言おうとした時、


「気が付いたのか、ユーディ。」


と、今度は本当に、兄の声がした。


兄は、部屋の入り口から、ゆっくり歩いてきて、私を抱きよせ、髪を撫でながら、


「着替えたほうがいいね。花火は、屋敷から見るといい。」


と言った。


「ニキ、有難う。君がいなかったら、どうなっていたか。」


「どうだろうね。ライトンには、皆、目をつけてたからなあ。ザコフは無警戒だったけど。」


「良かったら、君も。」


「俺、これから後始末だから。伯爵様がやるわけにいかないだろ。祭礼あるし。」


「ああ、そうだった。すまない、君にだけ。」


「俺が適任だろ?まあ、奴には、俺も鬱憤が溜まってるから、いいよ。だいたい、俺を差し置いて、監視対象ってのが、気に入らなかった。」


二人は笑った。ニキは出ていこうとしたが、私は、思わず、彼の袖を引いた。


彼は、驚いたようだが、私の手をそっと離し、


「また、な。」


と、笑顔で去った。


そして気づいたが、ここは玄関ホールで、ベッドではなくパーティ用の椅子の上だった。


「大丈夫だよ、僕のユーディ。」


兄は、私の背中を撫でながら、優しくささやいた。私は、まだ泣いていた。




怖さではなく、悲しみだった。「気づいて」しまったからだった。私が、暗闇で求めていた物が、何であったかに。




それがもう、手に入らない、手に入れてはならない物であることに。≫




しかし、ユードシアは、それを「手に入れた」。




悪者二人は、ニキが「始末」したようだ。彼は、事件以後、屋敷に、表向き、ワイン倉と食料庫の係りとして、雇われる。


ユードサイムはあちこち飛び回る。思い出を取り戻したユードシアは、二人の間で揺れ動く…事なく、狭間を歩み続けた。


物語の真ん中で、ユードシアが、妊娠した。父親はどちらかわからない。どうやらニキの子供らしいが、ユードサイムは、どうやら気づいていながら知らぬふり、ニキは自分が危うくなるとは欠片も思わず、喜んでいる。


私は、ここまでで止めて、後はパラパラと見た。ユードシアのつかみ所のない、淡々とした性格に感情移入できず、少し苦痛を感じた。この状況で、罪悪感を感じないのも、共感しにくい理由だ。


ラスト近く、ニキの遺体、という文言が目に入る。前を数ページ捲る。


≪…地下冷凍室はあっさり直った。外の冷凍室と、倉庫から、一時退避させていた食料を戻す。


「今日、直らなかったら、出発が来週になる所だった。良かったな。」


と彼は言った。私は、微笑んだ。彼は、


「もちろん、君が行っちゃうのは遅いほうがいいけど。」


と、早口で付け加える。シューネとアディに


「ニキさん、さようなら。」


と、挨拶させる。モイラに抱かれて、とっくに馬車に乗り込んだ、ウォルの後を追わせた。私も、ニキに「最後の挨拶」をした。


「ほどほどにして、出たら密閉して、暗証番号をね。」


「わかってる。番号鍵ってのは、始めてだ。忘れないようにしなきゃ。」


彼は、冷凍室の冷えはじめの空気が好きで、総入れ換えの時は、しばらく中にいたがる。昔、皇都に出たての頃、最初に勤めた大きな食料品店で、仲間とよく「冷凍我慢大会」をした、と言っていた。


「記録を作るかな、証人いないけど。」


軽口に、私は笑った。証人は、その時には揃っているだろう。


兄はいないかもしれないが、私と子供達三人は先に戻る。ラトラグとモイラもいるだろう。もしかしたらエリシャとジュリスも。


私は、最後まで、ニキに微笑みながら、優しく扉を閉めた。完全に。


それから、目盛りを一気に最大に上げて、セットし直した暗証番号で、ロックした。

中の音は聞こえない。彼は気付いてないのかもしれない。私の気持ちと同様に。


地上には、皆が待っていた。シューネが、心配そうに、どうしたの、と聞いてくる。


私は、自分の涙が、まだ凍っていないのに驚いた。


「何でもないのよ、寒い所から、急に暑い所にでたから。」


と言い訳し、馬車に乗り込んだ。アディが、早くお父様に会いたい、とはしゃいでいた。


幼いウォルを抱きながら、最後に、屋敷を振り返った。




屋敷は、静かだった。




夏は、凍りついて終わったのだ。≫




これは予想外だ。改めて読み返すが、10年以上の関係の後、ユードシアは、運のいいことに自分に似た長女エフロシューネ、次女アデライーデを産んだあと、二年前に、ようやく、ユードサイムとの間に、息子ウォルガードを産んだ。


息子を妊娠中、ニキは数人と浮気をしていた。また、ニキは金や物をねだったりしなかったが、たまに「昔の仲間と連絡する」を口実に、都会に行って数日帰らない事があったが、それも都会に女がいためだった。


その女との間に、子供が出来たらしく、彼は都会に住みたがるようになっていた。表向きは、輸出入関連の仕事(ユードサイムは、何故か彼を重用し続けた。)だ。しかし、彼はさすがに、完全に都会に出て生活する訳にはいかない。人々はまだ、忘れていなかったからだ。ユードシアは、疑心暗鬼に耐えられなくなり、彼を殺して、とどめておく決心をした。




ずいぶん身勝手な結論ね、でも、こういう女の方が、前半の「天使のような」彼女よりは、まだましね。少なくとも、彼を殺した事には、罪悪感は持つだろうし。




ユードシアがどうなったろう、と、「貧者の冠」を捲った。表紙は、草で編んだ冠に、水晶玉のような水滴が付いた絵だ。明るい色の髪に乗っている。ユードシアかニキか。


が、これは遥かな未来の話で、学者と記者が、初代首相レム・アンバースと共和制誕生の歴史を研究し、埋もれた英雄ニキ・クリスタの伝説を明らかにする、と言うものだ。


これより先に、前巻の「陸の真珠」を読んだ方がいいだろう。




逆戻りして、黄金の枝に、大きな白真珠が絡め取られた表紙を捲った。





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