黄金林檎が落つる頃

黒中光

問題編

 ロンドン。緑豊かなリージェントパークが望める屋敷へ、夜中にも関わらず背の高い太った男が車を飛ばしてやって来た。彼はノッカーに飛びつくと、目一杯打ち鳴らした。やがて、きつね色のガウンに身を包んだ、痩せた男が出てきた。突き出た額の下には鋭い目があり、尖った顎には、相手が思わず背筋を正したくなる威厳があった。屋敷の主であるリチャード・スペンサーである。彼は眼鏡をかけ直すと、訪問客を招き入れた。

「夜は静寂と平穏の時間だと決まっているのだがね、ブラッドフォード警部。落ち着いて、スコッチでもやると良い。酷い顔色だ。喜ばしくないことが降りかかったと見える」

 ブラッドフォード警部は運ばれてきた酒をグイと一呑みにすると、その顔に赤みがさしてきた。

「いや、まったく生き返る。実は困ったことが起きまして、是非ともお力を借りたいんです、サー」

 スペンサーはその言葉に、手を打ち鳴らすと嬉しそうに微笑んだ。

 スペンサー家は貿易会社で身を起こした資産家であり、当主のリチャードはその財産を手堅く投資することで、その配当で身を立てている。しかし、一般的に知られているのは、投資家としての面ではない。

 探偵、である。

 本人は”道楽”と言っているが、これまでにも何度となく警察に手を貸して事件を解決している。二年前には王室直々の依頼をこなし、男爵の爵位を得ている。

「それで、どんな事件なのかな?」

「ロックス=アンド=ミネルバ商会について聞いたことは?」

「もちろん。半導体を中心にIT関連部品を専門にしている会社だ。僕も投資している」

「だったら、話は早い。あそこのシンボル、黄金の林檎が盗まれました」

 ”いつまでも活気のある発展を”という願いを込めて、ロックス=アンド=ミネルバ商会では、不老不死の象徴である黄金の林檎をシンボルマークにしている。金融街シティにある本社では、純金でできた林檎が飾られて、その鮮烈なイメージが起業僅か一〇年のこの会社の急成長に繋がったことは間違いない。

「ロックスはさぞ気を揉んでいるだろうね。一体、どうして盗まれたんだ? あれは応接室にガラスケースで保管されていたはずだが」

「事の起りは、今朝。ロックス会長の話によると、応接室の照明がつかなくなったので、電気業者を呼んだ。名前はビル・ホーキンズ。まだ若い、三十歳です。

 ビルは『修理の際、危険だからブレーカーを落として欲しい』と言い、暗闇の中で作業を行っていたわけだが、立ち会っていたロックスは別の仕事でしばらくその場を離れたそうで。

 そうして戻ってきてみると、ホーキンズの姿はなく、ガラスケースが開かれていて、黄金林檎は姿を消していた。ロックスはすぐに警備員に連絡し、ビルを出ようとしていたホーキンズを、ギリギリ捕まえることができた。ところが、身体検査をしてもホーキンズは林檎を持っていない。防犯カメラを確認して、彼がビルの中で通った場所をくまなく探しても見つからない。

 普通ならこれで無罪放免なんですが、この男私の顔を見てやけに動揺しましてね.

 よくよく見てみたら、どうだ! 私が何度か刑務所に放り込んだ男じゃないですか。空き巣の常習犯でね。近頃見ていないんですっかり記憶から消えていたが、こんな大それたことをするようになったとは、恐れ入りました! さっそく警察署に連れて行って、こってり絞り上げていますよ」

「しかし、ブラッドフォード警部。それで万事解決とは思っていないんだね?」

「もちろん。黄金林檎が見つからないんで。あれは商会だけじゃない、シティの名物です。どうにかして見つけ出せと方々からせっつかれましてね。さっきまでテムズの底を攫っていたんです。ホーキンズが持っていない、建物のどこにも見つからない。こうなったら、応接室に面している窓ぐらいしか考えがつかないわけで。

 展示室の外はすぐテムズの河岸で、満潮の時には黒々とした水に一メートルばかり沈むんだが、潮が引けば小さな空き地になる。そこに投げ込んで置いて後から回収するつもりだったんじゃないか、とこう考えたんです」

 スペンサーは安楽椅子に揺られながら、くすくすと笑った。上機嫌な証拠だ。

「潮が引くまで十二時間。何かが起こらないかと現場で粘り続けて、その結果がどうだったと思います? 見つかったのはゴミの山だけ。空き缶やらペットボトルに、ガムの包み紙。金は欠片もありゃあしない」

「それは災難だったね。だが、君の考えは悪くない。味のある一手だ」

 ブラッドフォード警部は額の汗を拭いた。

「褒めてもらって光栄ですよ、サー。しかし、事は急を要する。

 さっきも言ったとおり、あの純金でできた林檎は、ロックス=アンド=ミネルバ商会だけじゃない、我が国が誇る金融街シティの顔。それが盗まれたなんて話になれば、市場が混乱して大恐慌が起きかねない」

「なるほどそれは重大だ。何百万人という人の将来が掛かっているわけだ。それで僕の知恵を借りに来た、と言うわけだね?」

「ここは一つ、よろしく頼みます。明日の朝八時、市場が開くまでに解決しなけりゃならんのです」

 スペンサーは不意に立ち上がり、扉へと向かった。

「時間が無いのであれば、まずはできる限りの事をしよう。五分待ちたまえ。支度をしよう」

 そして、オーダーメードのスーツに身を包むと、ステッキを持ってブラッドフォード警部の車に乗り込んだ。

 リージェントパークから東に向かい、キングスクロス駅からファリンドン街を南下する。道幅が広くなり、警部がアクセルを踏むが、その途端に車はスリップし、スペンサーはドアにしがみ付くことになった。

「気をつけたまえ。今朝方は酷い雨だったからね。まだ道が濡れているんだ。警察官が事故を起こしたら、始末が悪いよ」

「全くだ。すみません、サー」

 グッとスピードを落とした車は、タワーブリッジを望む上スウェンダム通りにあるビルに到着した。この四階建てビルの上半分にロックス=アンド=ミネルバ商会がある。

 勝手知ったスペンサーが先を歩く。角を曲がったところで、ぎこちない手つきの掃除夫とぶつかりそうになった。汚れたモップが磨きあげられた革靴に泥水をつける。

「ああ、すいません」

「気をつけてくれたまえ。靴は信用に繋がる第一歩なんだから」

そう言うと、胸ポケットからハンカチを取り出し、汚れを綺麗サッパリ拭いさる。

「これでよし。さあ行こう」

 応接室につくと、黒い髪に鳶色の目をした、上品な顔つきの男が待っていた。午後十一時という遅い時間にも関わらず、会長のロックス自らが居残っていたのだ。

 彼は二人が入ってくるのを見ると、まっすぐにスペンサーに近付き握手を交わした。

「スペンサー様。このようなことにお手を煩わせてしまって、申し訳ありません」

「いや、会社の一大事だ。金を出しただけで、寝転がっていて利益が出ると勘違いするほど僕は愚か者ではない。僕も関係者の一員として、この嵐を乗り切る最大限の努力をするつもりだよ」

 最初にスペンサーは黄金林檎が収まっていたガラスケースに近付いた。ガラスケースにはテンキーがついており、今はケースが奥に向かって開いていた。

「話を聞いて最初に浮かんだ疑問だが、このケースは暗証番号を打ち込まなければ開かない。だというのに、ホーキンズは一体どうやってこのケースを開けたんだね?」

 この質問に、ロックスは両手を広げた。

「そのケースは電気が通らなくなると自動で錠が開くようになっているのです。事故が起きたときに林檎をすぐに外へ持ち出せるようにするためだったのですが、それがこんなことになるとは」

「工事の際にブレーカーを落としたんだったね。その時開いてしまった、か」

 スペンサーは二人を展示室から外に出すと、念入りに部屋の中を調べ始めた。よく手入れされていてほとんど汚れもないが、鼻がぶつかりそうなほど近寄っては、一つ一つ時間をかけて丁寧に観察していく。

「さっき、掃除夫に出くわしたが、掃除はいつも夜中に?」

「ええ、人がいない時間に全ての部屋と廊下を」

「ふむ、ではここも事件前に清掃が入ったわけだ。施工中、この窓はずっと閉まっていたのかね?」

 ブラッドフォード警部が答えた。

「ロックスが林檎の盗難に気付いた時、騒ぎを聞きつけて秘書のアリスが駆け込んできたが、部屋の様子はこのままだったそうです。我々も一切物を動かしてはいません」

「素晴らしい。警察には成果を得ようと焦っては貴重な手がかりを乱雑に打ち壊してしまう連中がいるが、君は現場保存の重要性を認識していてくれて嬉しいよ。

 時に、ロックス。壊れた照明というのはこれだね?」

 スペンサーはステッキを伸ばして真上にある埋め込み式の照明を示した。

「ええ、その通りです」

「一体全体、どうして分かるんです、サー」

「簡単なことだよ。カーペットを見たまえ」

 スペンサーの足の先には小さな四角い跡がついていた。マッチ箱ほどの大きさで、他にも三つついている。

「修理に使った脚立の跡。この真上の修理をしたことは明らかだ。しかし、彼は一人で作業していたのかな。かなり怖いことだと思うが」

「いえ、そんなことは。あの修理屋は身軽な男で、何の躊躇いもなくこなしていましたよ」

「ロックス、君は作業の様子を見ていたんだな。怪しいことは?」

「何も。十五分ばかり見ていましたが、手早く作業をしていました」

「その後、目を離したのはどのくらいの時間だったのかね」

「三十分ばかりかと。定例のミーティングがあったもので――」

「アリスには立ち会いを頼まなかったのか? 秘書だろう?」

「妹はいつも議事を取っているので。そのミーティング前も別の事務仕事を。あれでやることは多いんです」

「なるほど。普段通りの仕事をさせていたのか。些か不用心だったね」

「面目の次第もありません」

 殊勝に頭を下げる社長を押しのけるようにして、ブラッドフォードがスペンサーに近付いた。

「現場の方は一通り見たようだから、ホーキンズの動きを順に説明します。急がないと時間が無いんです」

 腕を引っ張られる形で連れられながら、スペンサーは時折天井を見上げた。

「ここには監視カメラがないようだが、どうやってホーキンズの動きを把握したのかね?」

「目撃証言を地道に集めました。この中で作業着姿というのは目立つので」

「ここに来た作業員はホーキンズだけか?」

「もちろん。小さい店で従業員は多くないのです」

 物が何も置かれていない殺風景な廊下を通りながら時系列順にホーキンズの動線を追う。しかし、二時間かけて何も見つからなかった。

 午前三時を過ぎると、ロックスが家に帰り二人と見張り番の巡査だけが残された。スペンサーとブラッドフォードは展示室に戻り、ソファに座ると備品の紅茶で休息を取った。

「林檎が隠せる場所はどこにも無い」

 スペンサーが断言すると、警部は丸い顎を引いた。

「やはり外部に持ち出されたのでしょう。きっと共犯者がいるに違いない。この会社で働く誰かが、ホーキンズから林檎を受け取って外に持ち出したんだ」

「目処はついているのかい?」

 警部は悲しげな目で首を振った。

「ありません。ホーキンズを逮捕するまでに建物を出入りした人間は十人以上。それを調べ上げるにも何時間と掛かって。どこに隠された物やら見当もつかない。

 唯一の望みはホーキンズだが、どうにも口を割ろうとしないのです」

 スペンサーはポケットからパイプを取り出すと、悠然と受け皿に煙草を詰め始めた。こうして一服しながら考えをまとめるのが彼の流儀だ。

 やがてゆらりと煙が立ち上り、独特のどこか甘ったるい匂いが室内に立ちこめた。

「ブラッドフォード。物事には全て意味がある。それらを観察し、分析し、筋道を立てて考えていけば、どんなものでも必ず明らかになる。しかし、君の行動は少々場当たり的に過ぎる」

 正面から非難されて、警部はむうと唸り声を上げた。そして、挑戦するかのように身体を傾けてスペンサーに迫った。

「わたしの考えのどこに不備があるのか、良ければ聞かせていただきたいですね」

「最初に事の発端だ。林檎が無くなったとき、部外者が社内に立ち入っていた。ホーキンズはケースから林檎を持ちだし得たことから容疑をかけられた。間違いないね?」

「ええ」

「これはホーキンズが犯人であろうとなかろうと、こうなる運命だったろう。日常と異なる結果には、日常と異なる原因を人は求める物だから。

 この理論を当てはめれば演繹的に次の結論が得られる。

 吸い口を放したスペンサーは細く煙を吐き出した。

「容疑者は現在がそうであるように警察から徹底的にマークされる。そして、警察というのは一度嗅ぎつけた獲物の匂いを執念深く追い続ける。君が目標としている翌朝までに間に合うかどうかは別にして、彼が犯人であればいつかは証拠を掴み取るだろう。そうなれば、単独犯であろうと複数犯であろうと、冷たい監獄行きは間違いない。

 一時的に黄金の林檎を手に入れられたとしても、必ず破滅する運命なのだよ。そんなことに手を出す人間がいると思うかい?」

 警部は吹き出てきた汗を拭いながら、たどたどしく反論した。

「正論です、実に見事な理屈ですよ、サー。しかし、世の中理屈が通じる相手ばかりでは、ない」

「その通りだ。しかし、僕の考えが間違っているならば、ホーキンズが犯人と言うことになる。そうなれば、事件解決までにできることはない。だから、ここでは理屈が正しいものと思って話をさせてもらおう」

「もちろん。続けてください」

「ホーキンズが犯人でないならば、彼の供述は全て正しいことになる。だから教えて欲しい。彼は黄金林檎についてどんな供述をしていた?」

「何も知らないの一点張り。作業が終わったときにも林檎はまだガラスケースにあったという」

「では実際にそうだったんだろう」

「馬鹿な。あり得ない! じゃあ一体いつ、誰が!」

「ホーキンズがこの部屋を出て行ってから、ロックスが戻るまでに誰かが応接室に入った可能性は?」

「それは難しい。あの応接室のスイッチにあった指紋ですが、ホーキンズとロックス、アリスの指紋だけ。全員、事件前後にあの部屋に入ったのだから、彼らに怪しいところはありません。ホーキンズは部屋を出るときに電気を消したと供述しているし、ロックスが部屋に着いた時でも部屋の電気は消えていたそうです。部外者が照明をつけたとは思えません」

 スペンサーは満足そうに頷いた。

「なるほど。犯行時刻には外は黒雲で覆われていた。窓からの光は期待できないだろう。我々にとって未知の人物がいた場合、その人間は猫みたいに夜目が利く人間でなくてはならないわけだ」

「その通り。これも我々がホーキンズに容疑をかけた理由です」

「ふうむ、思っていたよりもよく調べているね、ブラッドフォード。伊達にこんな部屋で半日も粘り続けていたわけじゃない。

 いや、実際驚いているよ。ここまで来て、どうして君が真相にたどり着けないのか不思議で仕方が無い」

 ニヤリと意地悪げに笑うその顔は、既に真相を見抜いている人間のものだった。

「サー、貴方はそう言うが、私のように頭の堅い人間にはさっぱりです。是非ともその真相を教えてくれませんか」

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