魔術師ヨーゼフ・ハインの醜聞
うさぎは誇り高き戦闘民族
第1話 問題児、ヨーゼフ・ハインともう一人。前編
昔むかしある国に、父王を亡くした美しい王女様と愛らしい王子様の姉弟がいました。金色の髪に空色の瞳が綺麗なこの二人は、年こそ八つ違いと少し離れていたのですが、大の仲良しなのです。そして二人は揃って、守り役の魔術師のことが大好きでした。
しかし闇色の目に黒髪のこの魔術師は、顔立ちこそ美しく、魔術の腕も立ちましたけれど、とても、本当に意地悪だったのです。
―――アルトアイゼン城の中庭には、一種異様な光景が展開されている。すなわち、黒髪黒い目の、小柄なすらりとした体躯に真紅のマントを優雅にまとう、二十代半ばと思しき青年魔術師。その眼前に文字通り膝を屈した形の、屈強なる若き聖マルティヌス騎士団員たちという光景だ。
大輪の月下美人を思わせる面差しの魔術師は物憂げに、掌に載せた四つのシグネットリングをちゃらちゃらと弄んだ。左手には無造作に、一振りの抜き身のレイピアを携えている。若者たちの顔がいっそう青ざめた。焼け付くように赤い唇を魔術師は開き、
「貴方たちが台無しにしたサーモンフライサンドイッチとレモネードを買って来なさい、十分以内に。お話はまあ、それからしようじゃあありませんか。わたしがこの指輪とレイピアを馴染みの質屋に売り飛ばすか、貴方たちにお返しするかのお話も、―――そう、ゆっくりとね」
響きの良いこと銀のごとし、鋭きこと鋼のごとしといった美男の魔術師の声が、冬の澄み切った空気を裂き、中庭にこだました。
「……!」
白い泡さながらの雪――だが泡とは違い、容赦なく体温を奪う――が舞い散り、積もる庭に行儀良く正座をさせられ、仲良く血だらけの顔を腫らしている聖マルティヌス騎士団の団員たちが、弾かれたように顔を上げた。彼らは頷き合うと、残された気力体力を振り絞り、中庭をばたばたと駆け出して行った。
「ああ、たいへん結構」
魔術師は言い、手にした銀の指輪――銀色のボーデュアに囲まれた緑色の盾に、銀の剣と髑髏があしらわれた楕円形のベゼルの――聖マルティヌス騎士団員の証(あかし)――をもう一度無造作に、ちゃらちゃら鳴らし、レイピアを庭に突き立てた。それから背後に立つ金髪、空色の目の姉弟に向き直り、典雅な仕草で辞儀をする。
「ゾフィー・マティルデ殿下、ラインハルト・ハイデル王太子殿下、見苦しいところをお見せしてしまい、まことに申し訳ございませんでした。この、―――魔術師ヨーゼフ・ハインともあろうものが」
気障とも聞こえる台詞であるが、それを口にしたヨーゼフの秀麗な美貌には、些か気まずげな笑みが浮かんでいる。のみならず闇色の双眸は笑ってはおらず、ゾフィーとラインハルトに対する真摯な謝罪の念をたたえていた。
「ヨーゼフが謝ることなんかないっ!」
ラインハルトと呼ばれた少年は言い、大きく首を振った。はずみで明るい金髪が揺れる。空色の瞳には、子ども特有の真剣そのものといった色合いが浮かんでいる。年の頃は十二歳かそこらだろう。聡明さの気配を宿す端正な顔立ちをしているのだが、頬や目元の愛くるしさがまだまだ優勢な、そんな少年だ。白いシャツの襟元に赤いリボンを結び、ネイビーブルーの天鵞絨(ビロード)の上着、黒いズボン、革靴を身に着けたラインハルトは、呆気に取られた様子のヨーゼフに駆け寄った。青い地に赤い蔓薔薇の刺繍がほどこされた、ヨーゼフのご自慢のウェストコートにしっかと頬を寄せ、これまたヨーゼフご自慢のワインカラーのコート、真紅のマントの背にしっかと腕を回す。
「ヨーゼフは悪くないんだ。姉上と私たちを――父上がいないからって――馬鹿にして軽く見た、聖マルティヌス騎士団の団員たちを懲らしめてくれたんだから。先にヨーゼフを小突いたのも、レイピアを抜いたのも、騎士団員たちだし。さっきの団員たちも宮廷人たちも、ヨーゼフを意地悪だって言うけれど。そんなことを言う奴の方がずっとずっと意地悪で、本当にお馬鹿さんなんだっ!」
「……まあ、その、王太子殿下。お言葉はありがたいんですけれどねえ……」
苦笑し、淡雪の精さながらの高雅な面差しを、ヨーゼフはラインハルトの空色の目からふいと逸らした。この魔術師にも良心の呵責なるものは微量ながら存在し、そしてそれは少なくとも、ラインハルトに対しては発動するようだ。闇色の双眸を冬の曇天に向けたヨーゼフは、この騒動の発端をぼんやりと反芻していた。―――きっかけはそう、……なんでしたっけ?ああ、サーモンフライサンドイッチでしたか。
そう、きっかけは当事者さえもが忘れているような、些細なことだった。この日ヨーゼフは、かねてよりラインハルトに頼まれていたサーモンフライサンドイッチとレモネードを行きつけの――下町の小ぢんまりした、ただし味はヨーゼフが保証する――パン屋で買い、下町の味を楽しみにするラインハルトにそれを手渡そうとしていた。それだけの筈だった。
しかしそこに通りかかったのが血気盛んな聖マルティヌス騎士団の若者たちだったので、それだけでは済まなくなったのだ。
『これはこれは。アルトアイゼン王国宰相兼宮廷魔術師筆頭シュヴァルツレーヴェ伯爵閣下の懐刀、ヨーゼフ・ハイン殿』
『宮廷魔術師のお役をお務めになられる傍ら、ラインハルト王子殿下の守り役とは。お体がいくつあっても足りますまい』
『おっと、まだラインハルト王太子殿下でいらしたか。父王エルンスト・マクシミリアン陛下がお亡くなりになられ、世の趨勢はアドルフ・ベルントルト陛下に向いているとはいえ』
『この分ではゾフィー・マティルデ殿下の縁組みも覚束ないでしょう。……ああ、嫁ぎ先はおありか。宮廷魔術師ヨーゼフ・ハイン殿という』
冷笑的な揶揄を飛ばした後、団員たちは品のない笑いをどっと笑った。
『……っ!姉上を侮辱するな!』
気色ばむラインハルトを制したのは、他ならぬゾフィー・マティルデだった。精緻な水晶の細工物を思わせる端麗な面差しに、凛然とした表情を浮かべている。光の加減では銀色に見えるグレーのドレスに青いリボン飾りを付け、薄青のストールを羽織っている。静かに煌めく銀と高貴な青―――ゾフィー・マティルデの沈着さ、気高さを引き立てるに相応しい色だと、ヨーゼフは思っている。
『ラインハルト。相手にしてはいけません』
『でも!姉上……』
『ゾフィー・マティルデ殿下、王太子殿下、場を移しましょう。雪が降って参りました』
ヨーゼフは淡々と言い、ラインハルトとゾフィーを促した。その様子が気に入らなかったのだろう、向こう見ずな団員が、レイピアの鞘でヨーゼフを打ち据えようとした。ためにこの団員は、自らの死刑執行令状に自らの手で署名をしてしまったのである。
黒髪の魔術師は素早く身をかわしたが、鞘の先端部が紙袋をぶち抜いた。袋の穴からはサンドイッチの包みが一つ、レモネードが一瓶、中庭の土に転げ落ちた。それが戦闘開始の合図だった。
『先に手を出したのは貴方がたです。ゾフィー・マティルデ殿下、王太子殿下を侮辱しただけでは飽き足らず、お二方(ふたかた)の昼食を台無しにし、王宮の中庭でレイピアを使うという狼藉は、まあ―――』
言いつつ、ヨーゼフは鞘の先端から胸元を反らし、団員の手首を左手で掴んだ。右の拳は団員の顎に、強烈な一撃を打ち込んでいる。流れるように自然でありながら、力強い動きだ。苦痛と衝撃、恐怖で意識を半ば手放しつつあるものの、ヨーゼフの鋼の如き左手のため、倒れ伏すことすらままならない団員。その団員の無骨な指先から、ヨーゼフはやすやすとシグネットリングを抜き取った。団員たちの顔がいっそう青ざめた。ヨーゼフの口角が、くっと上がる。
『万死に値しますねえ。守り役のヨーゼフ・ハインにとっては』
言い終えぬうち、ヨーゼフは団員の体を仲間たちの真ん中に投げ込んだ。騎士団員たちは周章した。ある者は石化したかのように立ち尽くし、ある者は投げ込まれた仲間の体をまともにぶつけられ、呻いている。そして大してありもしない肝っ玉をぐいと引き締め、抜き身のレイピアを繰り出した団員に、ヨーゼフは全くもって容赦をしなかった。真紅のマントをさばいて刺突をかわしたのみならず、裾で狼藉者の顔面を強かに打ち据えたのである。マントの裾には鉛が仕込んであったので、狼藉者の苦痛と恐怖はいかばかりか。
ぎゃあぎゃあと喚き散らす団員の血だらけの顔面に、
『黙んなさい。王太子殿下の御前ですよ』
ヨーゼフの肘打ちがめり込んだ。がっくりと地に両膝を付いたその団員からも、ヨーゼフはシグネットリングを抜き取った。行きがけの駄賃とばかりに、顎に膝蹴りを食らわせた後で。
『!!……』
幸か不幸か――ヨーゼフにとっては幸、血だらけの犠牲者にとっては不幸――この団員は一団のリーダー格であったらしい。そして総崩れになった団員たちにも、ヨーゼフは容赦を一切しなかった。喉輪を決められ、地べたに後頭部を叩き付けられた団員、一本拳をみぞおちにくらった団員、裏拳と拳の往復ビンタをくらった団員、―――こうした犠牲者らはことごとく、シグネットリングの略奪を免れ得なかった。リーダー格の団員はレイピアをも奪取された。
それから聖マルティヌス騎士団の若き団員たちは、雪の降り積もる庭に正座をさせられ、苛烈なる美男の魔術師の説教をくらうことを余儀なくされた。
とまれ、十分ほど炎の説教をかましたヨーゼフは、「今度やったら半殺しにしてから焼き殺しますよ」で話を一段落させ、サーモンフライサンドイッチを要求し、いったん団員たちの身柄を解放してやったのだが―――。
気だるい反芻を終えたヨーゼフは、闇色の双眸をラインハルトに向けた。そこには先刻とうってかわった穏やかさがある。
「お言葉とお気持ちはありがたいのです、王太子殿下。しかしいかなる理由があるとはいえ、わたしはアルトアイゼン王家の方々のお住まいになられる王宮の、その中庭で、聖マルティヌス騎士団員たちに暴力をふるいました。わたしの行いは場を弁えぬ無礼なものです。……宰相閣下の沙汰を仰ぐ他はありますまい」
「そんなの嫌だぞ!メルヒオールがヨーゼフをクビにするなんてっ!」
腕に力を込めたラインハルトの頬を、ヨーゼフは軽く叩いた。
「クビになんかなりゃしませんよ。宰相閣下はそう、あれでなかなかものの分かった方ですからね。悪くしても数日の謹慎処分くらいで済むんじゃあないですか」
「やだっ!ヨーゼフは悪くないっ!」
「宰相殿の沙汰を待つ―――ヨーゼフの申すことはもっともです。ラインハルト、ヨーゼフを困らせてはなりません」
灰色の空から舞い散る雪の中、ゾフィーの声が響いた。森の深奥(しんおう)に湧き出(いづ)る泉のような、深みを帯びたまろやかに美しい声音だ。空色の瞳が、ラインハルトを静かに見つめている。ラインハルトは顔を上げ、
「でも姉上!ヨーゼフは私たちの守り役の仕事をしたんだっ!」
「ラインハルト。貴方がヨーゼフを慕う思い、貴方の優しさは分かります。しかし貴方の臣下への肩入れが、その者の立場をまずくすることもあるのですよ。ラインハルト、忘れてはなりません。貴方はこのアルトアイゼン王国の王太子なのです」
「………」
ラインハルトは頷き、ヨーゼフの背から腕を離した。ゾフィー・マティルデに歩み寄る、その背がいつになく薄く淋しげに見える。ヨーゼフは少しく乱れた前髪をかき上げ、
「そう落ち込む必要はありませんよ、ラインハルト王太子殿下。わたしは宰相閣下にきちんと申し上げますから。―――この度の浅慮を心底から詫び、これからもラインハルト王太子殿下とゾフィー・マティルデ殿下の守り役を務めさせていただけますように、とね」
「……うん…」
ラインハルトはようよう微笑を見せたが、弟の背を抱き寄せたゾフィー・マティルデは、
「分かっているのならまだ良いのですけれど。今日の貴方の振る舞いは浅慮ですよ、ヨーゼフ・ハイン」
「申し訳ございません、ゾフィー・マティルデ殿下」
ヨーゼフは丁重に頭を下げた。ゾフィー・マティルデの空色の目が屈託を宿す。
「……貴方はいつもそうです。浅慮になり、無茶をします。……ラインハルトとわたくしのために」
「申し訳ございません。しかしわたしはお二方の守り役でございますゆえ、先程のような輩(やから)には―――」
言いさしたヨーゼフを、ゾフィー・マティルデの声が遮った。
「ともかく無茶をしてはいけません、ヨーゼフ。貴方の身に取り返しのつかぬことが起きては、ラインハルトも宰相殿も悲しみます。……無論、わたくしも」
「肝に銘じましてございます」
ヨーゼフの言葉、物腰はあくまで丁重だ。丁重過ぎるほどに。ゾフィー・マティルデの瞳が寂寥の色合いを帯びる。怪訝そうな眼差しで、ラインハルトは姉と守り役を交々に見やった。
「―――さて」
誰に言うともなく言い、ヨーゼフは指輪をちゃらちゃらと鳴らした。左手がレイピアを抜く。
「もうそろそろ、聖マルティヌス騎士団の若人たちが戻って来る頃合いです。ラインハルト王太子殿下、サンドイッチとレモネードを受け取ったなら、部屋にお戻りください。わたしは少々、団員たちと話をしなくてはなりませんので」
「ん……、分かった。姉上とお部屋に戻る。でももしメルヒオールがヨーゼフをクビにしたら、メルヒオールの部屋の椅子に蛇を置いてやるんだからっ!」
「……それは止めてあげてください。宰相閣下はああ見えて意外と繊細で、爬虫類が大の苦手なんです。それに蛇は冬眠中です。どうしてもというなら春まで待ってください。蛇の穴を教えてあげますから」
ヨーゼフは宰相を庇っているのやら、ラインハルトにいたずらを教唆しているのやら、なんとも微妙なことを言う。とかくするうち、ドタバタいう足音、荒い息遣いが近付いて来た。言わずと知れた、聖マルティヌス騎士団員たちだ。
ヨーゼフは手際の良い男である。だからして、満身創痍の団員たちから大量のサーモンフライサンドイッチとレモネードを受け取り、ラインハルトたちに手渡した後の、ヨーゼフの行動は迅速だった。
ラインハルトを見送ってから、青ざめ、疲れ切った団員たちを中庭に並べ、ラインハルトとゾフィー・マティルデを揶揄したこと、手出しをせぬヨーゼフをレイピアで小突こうとしたこと、劣勢と見るや抜刀に及んだことの言質を取ったのである。―――昼下がりの散歩のため中庭に差し掛かっていた、宮廷顧問官ルドルフ・マンフレート・フォン・ヴォルフェンビュッテル伯爵の眼前で。
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