第1話 プロローグ

 目が眩むような光が夜を照らし出していた。

 顔をあげると、樹齢何千年もあるような大樹よりもなお大きい建造物が空に向かって伸びている。ではその空はどんな様子かというと、澱んだ厚い雲が渦を巻くだけで星も月も見えない。


 ――ああ、これは夢だな。


 そう気が付くところで、決まっていつも目が覚める。

 その日の朝も同じだった。

「…………またか」

 自室の寝台で目を開けたイロハ・アサケノは不機嫌に唸った。

 原因は、つい先ほどまで見ていた夢だ。ここのところ、よく見る夢だった。別に悪いものではないが、さすがに何度も同じものを見ると気にはなる。

 その情景が、自分の見たことのない場所ならば尚更だ。いや、実は覚えていないだけかもしれない。なにせ、ここに来るまでは随分と色んなところをふらついた。

「あるいは前世の記憶とか?」

 独りごち、とりあえず伸びを一つして寝台から降りる。

 その時には、すでに夢のことは頭の隅に追いやられていた。最初こそ、忘れているだけだろうかとか、寝ている間にスキルを発動しているのだろうかと頭を悩ませたものだが、ひと月もすれば慣れてしまった。人の順応力というものは恐ろしいものである。


 廊下に出て階下に降りると、まだ外は薄暗い。

 風呂場に溜められた水で顔を洗う頃には、イロハは夢のことなどすっかりどうでも良くなっていた。

 水面に映っているのは、やや吊り気味の赤い目を備えた黒髪の男だ。

 かつて知り合いに「目つきの悪さを、愛想と口の巧さでなんとか二枚目の端っこに引っ掛かけて誤魔化せるツラ」と評された己の顔は今朝も変わらない。


「おはよう。相変わらず早いねぇ」

 背後から声をかけられ、振り返る。声から分かっていた相手に合わせて、イロハは視線を下に向けた。

 まず目に入るのは、床から一メートルもない高さで揺れる白い髪。太い眉毛の下から見上げてくる瞳は見事な金色である。

「おはようございます、盟主」

 丁寧にイロハが応じたのは、まだ五歳ほどの幼な子だった。

 軽く頭を下げ、イロハは続ける。

「俺はそんなに早くないですよ。ティトンの奴の方が早いですから」

「日の出前に起きるのは十分に早いよ。偉いねぇ」

 ニコニコと笑う彼は、見た目こそ幼いが「盟主」と呼称される同盟クランの世話役である。名は「ふくろう」。スキルは猫化。

 もっとも、幼いのは見かけだけだ。老成した喋り方や、スキルの豊かさを示す光輪ハロの大きさからして、おそらくは見た目通りの年齢ではないのだろうというのが、クラン員の共通する見解である。


 彼が纏めているクランの名は【エル・ブロンシュ】。通称【白羽しらは】と呼ばれているこのクランこそ、イロハの今の所属場所だ。


「ティトンといえば、さっき竈に火を入れてくれたはずだよ。私は畑を見てくるから、君に任せるね」

「任されました、火事にしないよう務めますよ。ちなみに、朝飯は卵でいいですか?」

「うんうん、ダンジョンの外では死んじゃ駄目だからね。私はなんでもいいから、君たちの好きなようにしなさい」

 いつも通りの言葉に、イロハは「わかりました」と頷いた。

 盟主がそのまま裏口から出ていくのを見送り、中断していた身支度を再開させる。とはいえ、伸びるに任せている黒髪を適当に束ねて着物の袖をまとめるくらいだが。

 やや急ぎ足で厨房へと向かうと、ちょうど小柄な人影が扉から出てきたところだった。

「あ、イロハ。おはよう!」

 元気よく挨拶したのは、水色の髪と瞳をした青年だ。一目見ただけでは少年と見まごうような容姿をした彼の名は、ティトン・ディグダグ。イロハと同じ、【白羽】に所属する発掘調査士だ。

「珍しい、今日はちょっと遅かったね。もう盟主さん畑に行っちゃったよ」

「知ってる、そこで会ったよ。遅かったのは、ちょっと目覚めが悪くてね。年かもしれない」

「年って、まだ二十六でしょ。なんか無理してない? 大丈夫?」

 冗談に真顔で返され、イロハは小さく両手を上げた。

「大丈夫だよ。それより、竈にもう火は入れたんだろ? 朝飯なにがいい?」

「じゃが芋!」

「……まぁ、お前はそうだよな。芋は毎朝つけてるだろ。それ以外で」

 当然のごとく返された答えに、イロハは苦笑した。ティトン・ディグダグ、情報を追加するならば、じゃが芋が大の好物である。

「うーん、じゃあ卵かな。昨日、アロとコトワリがいっぱい持って帰ってきたから」

「やっぱそうだよな。俺も見た」

「うん、厨房の籠に山盛りになってるからね。古いの早く使わないと。僕、イロハがよく作ってくれる、あのくるくる巻いていくやつ食べたいな!」

「卵焼きか? 別にいいけど」

 イロハの返事に顔を輝かせたティトンは、「じゃあよろしくね!」と言って廊下を駆けていく。おそらく、盟主を手伝いに行くのだろう。

 彼と入れ違いに入った厨房は、すでに火が入っているせいかほんのりと暖かい。壁際に吊るされたベーコンや香草、調理器具が柔らかい燈色の光に照らされている。

「あれか……」

 いつも通りの厨房。そこで異彩を放っているのが、先ほどティトンが言っていた籠に盛られた卵の山である。大人が両手で抱えるような深い籠には、「こんもり」という擬音がピッタリなほどに卵が詰まって山を為していた。

「これはしばらく卵料理だな」

 苦笑し、イロハはその山から六つを取り出す。

 古いものは上にするというルールが徹底されているのだけは幸いだろう。そうでないと、この卵の山を割らないように掻き分ける羽目になっていたのだから。ついでに、ティトンが要望していたじゃが芋を三つほど一緒に持ってきて溜め水で土を落としておく。

 じゃが芋はそれで一旦カウンターに置いておき、代わりに壁から小さめのフライパンを外す。卵料理は、調理器具が汚れない最初にやる方がいい。

 火にかけ、バターを落として傾ける。その間に卵をボウルに割り入れ、ミルクを少しと塩胡椒、チーズを削り入れて白身をきるように混ぜていく。卵液を少しフライパンに落とし、ジュッという音を立てて固まるのを確認。

 一番最初は流し込む卵液は少量にしてすぐに巻く。細く、芯を作ることを意識して巻くと端へと寄せる。あとは難しいことは考えず、ひたすらバターを塗り直して巻くを繰り返していくだけだ。だいたい三回ほど。

 最後にフライパンの縁に押し付け、形を整えて一旦まな板の上に取り出せばあらかたは完成だ。


 ひたすら卵を巻くこと数分。二本目の卵焼きをまな板に並べたところで、厨房の扉が開いた。ひょろりとした体の上で、若葉色の髪が昇ってきた朝日に照らされる。

「おはようございます」

「おはよ、コトワリ」

 挨拶を返したイロハは、扉の方へと顔を向けた。

 入ってきたのは、この卵を持ち帰ってきたメンバーの一人、コトワリである。

 イロハよりはやや桃色がかった赤い目が、どよんとした光を湛えて卵の山を見やった。

「……改めて見ると、やっぱりすごい量ですね」

「だな。しばらくは卵料理になる覚悟はしておいてくれよ」

「持ち帰ってきた責任はありますからね……。文句は言いませんよ」

 緩慢な動きでカウンターの内側に入ってきたコトワリは、腕まくりをして卵焼きの前に立った。

「これ、もう切りますね。ああ、じゃが芋もついでに切りますよ。いつも通りでいいですね?」

「ありがと、頼む」

 イロハの言葉に一つ頷き、コトワリは卵焼きをカットしていく。クラン員は盟主を入れて全員で六人。卵焼きをそれぞれを六等分したコトワリは、ティトンがすでにパンと共に並べていた皿に盛り付け、テーブルに運んだ。

 戻ってくると、今度はじゃが芋である。芽を取り、くし形に切ると丁寧に水気を拭き取ってまな板の端に寄せた。

「そっちはどうですか?」

「そろそろいいかも」

 コトワリがじゃが芋を切っていた間、フライパンで油を熱していたイロハが告げる。コトワリが小さく身を仰け反らせるようにして距離を取ったのを横目で確認し、イロハは芋をフライパンに放り込んでいく。

 乾いた音を響かせた芋が、フライパンの上で油を弾かせて身じろぎする。

 芋が揚げ焼きされて狐色に変じる直前。三度、扉が開いた。

「おはよー」

 飛び込んできたのは、桃色の髪と間延びした声と。

「アロ、ドア開けてくれてありがとー」

「ありがとうねぇ」

 両手に赤く熟れたトマトを積み上げたティトンと、小ぶりなレタスを持った盟主である。

「どういたしましてー。あ、今日は卵焼きだー。やったぁ。昨日、俺とコトワリさんで卵いっぱい貰ったもんねぇ」

 ティトンと盟主が入ってから扉をストッパーで固定したのは、アロ・アローだ。

 桃色の髪を複数の束にした青年で、喋り方も服装もどことなく緩い。落ち着きなく室内を見回していたアロは、テーブルの端で飲み物の準備を始めるコトワリの方へと小走りに寄っていく。

「コトワリさん、コトワリさん。俺、生卵飲みたいー」

「あのですね。君の中ではどうか知りませんが、生卵は飲み物じゃないと思うんですよ」

「じゃあ、お茶ー」

「せめて何茶か希望を言ってくれませんかね?!」

 半ば悲鳴を上げつつも、コトワリは紅茶や乾燥ハーブの入ったガラス瓶を引き寄せる。それを眺めながら、イロハは狐色になったじゃが芋を一度皿に上げた。

「ねぇねぇ、イロハ。このボウル使っていい?」

「どーぞ。さっき卵入れたから洗ってくれな」

「はーい。あと、このお芋って、味見した方が良かったりするかな」

「味見してもいいけど、まだ味付けしてないぞ」

 堂々としたつまみ食い宣言に呆れ半分で答えるが、ティトンは大真面目に返す。

「なに言ってるのイロハ。お芋はそのまんまで美味しいんだよ」

「はいはい、そうだな」

 言葉と共に、湯気を上げる芋を摘んだイロハは、レタスとボウルを抱えたティトンの口元に持っていく。

「熱いから気をつけろよ」

 わかっている、とばかりにとティトンの口がぽかりと開く。そこに芋を放り込んでやると、満足そうな笑みを浮かべてティトンは水場の方へと消えていった。

「ティトン君は、本当にじゃが芋が好きだねぇ」

 しみじみと言った盟主が、軽く包丁を端切はぎれ布で拭う。輝きを取り戻したそれで切っていくのは、果物のように真っ赤なトマトだ。

「毎朝毎朝、懲りずに素揚げをつまみ食いしますからね。あ、その布もらってもいいですか? 油拭きたいんで」

「もちろんだよ。はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 渡された布に油を吸わせ、ゴミ箱に放り込む。必要な調味料の小瓶に手を伸ばし、そろそろドライパセリが無くなりそうだなと気がついた。ストックは、入り口脇の棚にかためられている。とりあえず今朝くらいは大丈夫だろうが、忘れないうちに入れ替えておきたい。

 そんなことを考えながら改めてフライパンにバターを引いていると、開きっぱなしになっている扉をくぐる長身の影が目に入った。

「クエルクス、ちょうどいいところに。あんたの隣にある棚の上から三段目に入ってるドライパセリ持ってきて」

「…………お前な。ツラ合わせて一番にそれか」

 唸るように言ったのは、クランメンバーの最後の一人であるクエルクス・アイレクスだ。

 針金細工を彷彿とさせる細長い体躯に、撫で付けられた金髪。睨みつけているようにも見えるが、それは三白眼のせいだろう。おそらく起床時間はイロハとそう変わらないはずだが、彼の場合は朝に自己鍛錬を行なってこの時間になっている。

「悪い、ちょうど良いとこに来たもんだから。――おはよう」

 もっともなクエルクスの指摘に、イロハは抜かした朝の挨拶を行った。

「別に怒ってはねえよ」

 不機嫌そうに言いながら、ドライパセリの入った大きなガラス瓶を持ち上げたクエルクスはそれを一旦テーブルの上に置いた。ついでカウンターの方に来ると、イロハの傍にある小瓶を顎でしゃくる。

「さっさと使っちまえ。移しときゃいいんだろ」

「ありがと、助かる」

 彼の言葉に甘え、イロハはバターが広がったフライパンに芋を放り込むと塩とパセリを絡める。

 空になった小瓶をクエルクスに手渡すと、彼はそれを持ってテーブルの方に向かった。先ほど置いた大瓶から中身を移し替えるためだろう。

「あ、クエルさんだ。おはようございますー。俺、紅茶に生卵入れてみるんですけど、美味しいか一緒に試しませんかー?」

「って、朝っぱらからなにやってんだガキ共?! 紅茶に卵とか、せめて泡立てろ?!」

「共犯にしないで下さいよ。僕は止めましたからね? 大体なんですか、生卵紅茶って」

「生卵紅茶?!」

 テーブルで騒ぐ三人。そこに、洗って千切られたレタスをボウルに盛ったティトンが割って入る。

「なにそれ、初めて聞いたよ! コトワリ、そんな面白そうなレシピ待ってたの?」

「奇遇ですね。今朝、僕も初めて聞いたんですよ。というか、早くそれをお皿に盛って下さい。盟主さんがトマト載せれないでしょう」

「あ、確かに! 盟主さん、すみません。もうちょっと待ってください」

 慌ててレタスを皿に分けるティトン。飲み物の準備を黙々と続けるコトワリ。生卵を間に挟んで話を続けるアロとクエルクス。

 いつも通りの、見慣れた光景。

「平和ですね」

 イロハは隣の盟主にそう言った。

「そうだねえ」

 見上げる金色の瞳が、穏やかに細められる。

「君にとってもそうなら、私はとても嬉しいよ」

「はは、ありがとうございます。もちろん、俺もですよ」

 軽く笑うと、イロハは出来上がったばかりのフライドポテトを大皿へと流し込んだ。


 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エデンの箱庭 透峰 零 @rei_T

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ