第54話 擬似的死者
ㅤ向こうが俺を標本としか思わないなら、孤立させたうえで交渉などせず攻めればいい。
(五感を奪って向こうが優位なら、だが――妖精としての力を警戒している?)
「力が出ない、エーテル・オルゴンのマテリアルどころか、妖精として表出するものも――」
ㅤつまり煤や水の顕現による力の発動を織り込み済みなのだ。
「結界へ入った時点で、君の負けだ」「!」
ㅤナックルが形状を保てずに消え去り、暗転した世界で背後の死角から複数回蹴りと実刃を受ける。
ㅤ致命傷はすんでのところで避けているが、自分は恐怖や殺意・悪意に鈍いのかもしれない、避けるという思考は頭にあるが、身体が付いてこない。すると盲目の頃にリンチを受けたようになるのだが、
(もう以前の俺とは、違うはずだろ)
「坪内ッ、どこだ」
ㅤ雫は彼女の名を呼ぶ。なんの声も返ってこないが構わない。
「無駄なことはやめたまえ」
ㅤなにかに肩口を食いつかれ、引きずり倒される。
(またケルベロスか!?)
ㅤ肉を食いちぎられる不快に呻く。
「ぐっ!?」
「冥府との契約の門だ。神秘種を蒐集しているとね、大抵エーテルにまつわる理外の力で奴らは逃れようとする。おろかし過ぎるほどにワンパターンだが、きみもその一類だったようだ。
ㅤ混血から取れる素材と言うのは売っても純血種のそれより質が劣るのが殆ど、とはいえ神秘種が神秘種足るのはその稀少性ゆえだ」
「……ケルベロスはポンポン出すのに?」
「こいつは特殊だよ、そもケルベロスは生死の境界に在るものだ、木っ端妖精まがいとは存在から次元が違う」
「でも二匹は、俺に負けた」
「ここがそいつら本来のフィールドだ、この内部での対象は『擬似的な死者』と仮定され、番犬はそこから逃れようとするものへはより攻撃性を強める。
ㅤ安心なさい、あなたがここで死ぬことはない、死ぬよりも惨いことにならないとは限らないけれど」
(結界をなんとかしないと、それに坪内のやつが――震えていたんだ)
「そういうときは……素直に助けてって言えばいいんだよ」
「あの子の助けを乞うのはきみだろう?」
「あんたになんか、言ってない。
ㅤどうでもいいよ、
「死人がよく云う、きみにはもはやエーテル・オルゴンも妖精の力も使えまい」
ㅤ
「死人ならばみずからエーテルを生成できない、なるほどね……これでは魂魄鎧使いは総てを封じられたのも同じか。彼女に折檻と言って、そのたびこんなところで死ぬよりも辛い恐怖を、あんたは与えてきたわけだ」
「それが?
ㅤ他人事だろうに、怒っているのか」
「いいや。ぶっちゃけ坪内が死のうが大したことじゃない、この空間で擬似的な死者と判定される以上、空間内に残留するかぎり如何に致命的な傷を負おうと、フィジカル面への影響はないに等しい。
ㅤだが機能を拘束されたエーテル体へは、無限の苦痛を味あわせることができるってことだろう?
ㅤこの空間への関心は尽きないよ」
「浅ましい、それが貴様の妖精としての本質か」
「俺としたらどちらでも構わない、妖精の気まぐれな好奇でも、あるいは。
ㅤだがあんたは違うらしいなァ、けどよく考えてみろよ、人としての良識や規範意識より、自らの知的好奇心探求意欲を優先する、研究者やジャーナリストのなかには、常々自らのエゴにまみれた本性を隠すでもなく振る舞い、あんたのようなのだって社会がどうなろうが、その実どうでもいいとすら想っているだろうに、妖精が気まぐれを起こすまでもなく、人間の醜悪からまろび出るものまで、いちいち引っ被せられるのは――納得いかないな」
「!」
*
ㅤ闇を喰らう煤が煌めく。
ㅤ葡萄には彼がまた、黒の滴を用いたのがわかった。
(まだ黒の
ㅤそうか滴の効果、あれは最初から独立したエーテルの結晶だ、肉体の器に左右される体内のエーテルとは異なり、どこでも使える!)
ㅤ闇の天蓋を煤が喰らい尽くすと、視界がすべて戻ってくる。
ㅤ膝をつく葡萄の傍らには、黄精が唖然としていた。
「なるほど……あの石粒はエーテルの結晶――冥府に連なる結界を、ストックした妖精の異能で食い破ったか、テクニカルだなぁ」
「あんた、まだ続けるか」
ㅤ彼との距離は五メートルほど。黄精は嘆息をつき、お手上げだ。
「やめだ、飽きた」「なんだと、ここまでしていて?」
「だってこれ以上てなると、流石にお互い人目に付くよ。
ㅤきみに利用価値のあることはわかった、さようなら、また今度ね飴川なにがしくん」
「おい待て!」
ㅤ苛立つ彼から怒号が飛ぶが、彼女は曲がり角へ悠々と立ち去り、追いかけた彼は撒かれてぐったりと嘆息する。
「……だから言ったでしょ、あの人には勝てないって」
「だが負けてもないだろ、俺たち」
「あんたはね。私はまたなにもできなかった、震えて――何もしなかった」
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