ザリガニを喰う話
ノート
第1話
その日、猿渡は鈍痛のする頭を抑えながら目を覚ました。
フローリングで寝ていたためか、体中の関節が油を挿していない歯車のように軋んでいる。体を起こすと、腕の近くに立っていた何本かの缶チューハイがガラガラと音を立てて倒れた。
「うう……んむ」と、猿渡はほとんど呻くような欠伸を漏らし、這った姿勢で冷蔵庫まで移動する。目当ての缶ビールはすぐに見つかった。盆休み前に大量に買い込んでいたため、まだまだストックがあるようだ。早速開けると、猿渡は中身を一気に胃へ流し込んだ。
不快感だけが残る。
いったいなぜ自分はこんなことをしているんだろうと猿渡は自問自答した。その答えは出ない。だがいつから、ということならすぐに分かった。1週間前だ。あの葬式に出てから……。
ピン、ポーン
そんな猿渡の思考を、玄関チャイムが打ち切った。と同時に、そう言えば自分が目を覚ました時もなっていたことを思い出した。そうだ、俺はこの音で起きたんだ。
ピンポーン
3回目のチャイム。猿渡は缶ビールを片手に、何とか立ち上がって玄関までふらふら歩いた。散乱するゴミ袋を背後に押しやり、猿渡は玄関ドアを開けた。
陽光に目がくらむ。
猿渡は、薄目を開けて来訪者を見た。
「よう、サワタリ。久しぶり」
少年が立っている。
ニンマリとした笑顔で片手を上げる彼を見て、猿渡は口をあんぐり開けた。
おが屑の載ったようなちりちりの短髪。着古して伸びたタンクトップ。泥の跡が染みついた短パン。その容貌に、彼は見覚えがあった。
「オガチー!?」
思わず口を突いて出た幼馴染の名前に、しかしあり得ないと首を振る。
だってオガチーは、1週間前に葬式を上げたばかりの故人なのだから。
1DKに散乱するビールやチューハイの500mL缶を10分ほどで袋詰めにしながら、猿渡はオガチーの様子をうかがう。大体11~12歳ぐらいの頃だろうか。小学6年生ごろ……格好からして夏休みに猿渡と一緒に遊んだ時だろう。とても猿渡と同年齢には見えない。
「おおっ、サワタリこれめちゃ跳ねるでっ!良いソファ買っとるやんけ!」
そんな少年の姿をした男性が、ソファの上でボヨボヨ跳ねて遊んでいる。
「それでオガチー……お前オガチーだよな?何しに来た?なんでガキになってるんだ?」
猿渡の畳みかけるような質問に、少年は「おお、ワレの親愛なる幼馴染のオガチーや」
やたら芝居がかった口調でそう答えると冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出しながら、
「1個ずつ説明させてな。まず何しに来たかやが……お礼に来たんや」
「お礼?」
「サワタリよ。ワレ、東京からわざわざ俺の葬式に来てくれたやろ。そのお礼や。一晩だけでええからって閻魔様に頼み込んでな」
「それで化けて出たわけか」
そう揶揄いながら猿渡は缶ビールに口をつける。随分ぬるくなっていた。
「せやで。あとこの姿は特別サービスや」カカカとオガチーは歯を出し、「ワレとは中学でバラバラになっちまったからなあ。実年齢より、このくらいの頃のが見覚えあるやろ」
「それでも驚いたぜ。ダブル・ショックだ。幽霊ってだけで驚くのに、それが子供の姿ってどういうコトさ」
「ああ、それやけどな……ワイ別に幽霊ちゃうねん。夢に顔出すだけって約束なんや」
「夢だと?」それにしては、と猿渡は手を握ったり頬を引っ張ったりしてみる。意識ははっきりしているし痛覚もあるようだ。
「明晰夢っちゅう奴や。もちろん起きても記憶は残るで。せやないと、お礼の意味が無いからなあ」
「それだ。お前、礼って具体的には何するんだよ」
「よう聞いてくれた!」オガチーは一息に麦茶を飲み干すと、「ワレに、中華を食わせたる!」そう高らかに宣言した。
「中華ァ?」
「ふっふっふ、サワタリよ。ワレも『本格中華・藤堂飯店』の名前くらい聞いたことはあるやろ」
「無い」
「そうかそうか聞いたことが……無いか」
大きくため息を吐くと、オガチーは懐をガサガサと弄って1枚の紙を取り出した。
どうやら広告の様だ。赤を基調にした中華風のデザインが特徴的で、店名と料理名が黒い縁取りをされた黄色の文字で踊っている。
「『高級中華をお手頃価格で!定番の料理から、ちょっと変わった食材まで!』?……ラクダのこぶやトド肉が食えるとか書いてあるんだけど」
「それは近年のSNS人気を鑑みて仕入れ始めた食材や。値が張るで。やけどウチの本領は、手頃かつ本格派の本格中華!広東山東四川江蘇、なんでもござれや!これでも地元の食べログじゃあランキング上位は当たり前、常連客も大勢おったんやで」
へえ、と猿渡は眉を上げる。そういえば、と創作料理をふるまってもらった記憶が脳裏によみがえる。
「この店を開くまで苦節20年……色々あった。高校卒業してからバイトしてた中華料理屋に弟子入りして。蒸した魚に手突っ込まれて加減を教えられたり、片腕折られて料理勝負したり……」
「料理漫画みたいなことしてるな」
「薬膳料理人にマンドレイクの香を盛られた仕返しに、包丁をボロボロにしてやったり……」
「鉄鍋のジャンじゃねえか!……とはいえ」猿渡は咳ばらいを挟み、「……夢、叶えたんだな」
オガチーはニンマリとした笑顔で大きく首を縦に振り、
「てコトで、ワレにはな……超美味いザリガニ料理を食わせたる!」
高らかにそう宣言した。
トンネルを抜けると雪国だった、という書き出しの小説は、果たしてなんというタイトルだったろう。猿渡はぼんやりとそんなことを考えながら、オガチーの後を追う。
河原である。
もっと言うなら、猿渡とオガチーが幼少期を過ごした田舎の河原である。
晴天の空の下、木々の葉を通り抜けた日光が水面に反射している。
いかにも夏の風景だが、川の近くだからか気温が低いようで過ごしやすい。。
「……流石に夢だな。まさか玄関ドアを抜けると直接ここに繋がってるとは」蝉の音に負けないよう声を張り上げて猿渡が口を開く。振り向くと、開けっ放しになった玄関が空中に浮いていた。
「人の夢で随分好き勝手してくれるじゃねえか」
「ええやろ減るもんじゃなし。それに懐かしいやろ、上京してから全然帰省してへんらしいやんか」
そう返され、猿渡はぷいと清流の方を向いた。
そういえば、
「そういえばオガチー。なんでザリガニなんだ」
「ワイの好物だからや」
「そうかい」
「おい、ガキの頃よりノリ悪くなってへんか?……昔言うたやんか、次はもっと上手くザリガニを料理するって」
それを聞いて猿渡は思い出した。
そう、あれは小学生最後の夏休みの事。
オガチーから中華料理についてレクチャーを受けていた猿渡は、こんなことを訊いた。
「中華料理って何でも食うよな」
「せや。空を飛ぶものなら飛行機以外何でも食べる、四つ足のものなら机と椅子以外何でも食べるってな」
「じゃあザリガニも食えるのか?」
「もちろん。何なら、今から釣って食ってみるか!」
その後、猿渡とオガチーは揃って病院送りになった。
泥抜きもせず、焚火で炙っただけのザリガニを、生焼けのまま食べたせいだ。
結局夏休み明けまで2人はベッドの上だった。
「アレは……ワイにとって最も苦い経験やった。いかなる創作料理も成功させてきたワイが、まさか生焼けザリガニ食って病院送りになるなんて」
「そうだな。巻き込まれた奴もいるしな」
「だがその経験が、ワイを強くした!」拳を突き上げ、オガチーは吠えた。「今こそリベンジの時や!!」
まあ、結局中学が別になったのをきっかけに疎遠になったんだが。口に出さないまでも、猿渡は少し後ろめたい気分になった。
オガチーは、俺との約束をずっと覚えていたんだな。
猿渡にとって、20年以上前に疎遠になった幼馴染は思い出の住人に過ぎなかった。
何だったら、実家からオガチーの訃報が知らされるまで完全に忘れていた。
幼馴染だったからだろうか、不義理な息子と違って両親はきちんと連絡を取っていたらしい。
それは青天の霹靂だった。
泣けばいいのか、忘れていたことを恥じればいいのか。それすら分からずただただ動揺した。
動揺したまま親から式場の場所を聞き、震える手でメモを取った。
その間、オガチーとの思い出が度々フラッシュバックした。
……ついさっきまで忘れていたくせに。耳元で毒づく誰かの声に耳を塞ぎ、そのまま家を出て葬式に出席した。
喪主はオガチーの妻が務めるらしいが、もちろん会ったこともない女性だ。その隣で泣きべそをかいてるのはオガチーの子供だろうか。なるほど髪質が、おが屑のようなちりちりの短髪がそっくりだ。
そんな大切な事も知らない自分が、幼馴染の家族のことも知らぬ自分がただただ後ろめたかった。
「ザリガニや!うじゃうじゃやぞ!」と、明るい声が猿渡を現実に引き戻した。
いつの間にかオガチーは随分前に歩いており、こちらに手招きしている。
「そういやオガチー、ザリガニ釣りするにしても竿や餌の持ち合わせがないぜ」
「安心せえサワタリ、ちゃーんと持っとるわ」
そう言うとオガチーは懐からあたりめと、キラキラ輝く透明な糸の束を取り出した。糸は随分長く、2mほどある。
「地獄名物『蜘蛛の糸』や。土産が欲しいって閻魔様に言ったら、食いもんはダメやけど、このぐらいならええ言われてな」
そう言うオガチーから蜘蛛の糸を渡された猿渡は、その軽さに驚いた。束の状態だというのに、10円玉ほどの重さもない。解くと透明で、恐らく水中だと目視は不可能だろう。引っ張ってみるとかなりの強度があることが分かる。
「大の大人がぶら下がれるんや。ザリガニがぶら下がった程度じゃ絶対切れへんで」
「オーバースペックだろザリガニ釣りにゃ。……使うけど」
チラリと川の中を覗いてみると、大きめの岩の陰に隠れるようにしてザリガニが1匹じっとうずくまっている。
ザリガニ釣りは随分久々だ。中学の頃にはもうやめてしまったから、20年以上やっていないことになる。そう不安に思っていた猿渡だったが、しかし実際に初めて見ると身体は覚えているもので、あたりめと括りつけた糸を水中に垂らすとすぐに吊り上げられた。
「おお、腕は落ちてへんようやな」
「まあな。美味い中華食わせてくれるんだろ?」
早速の釣果に幾分気分の良くなった猿渡は、釣り上げたザリガニを2つに割って身を取り出した。別のザリガニの餌にするためだ。
「ここら辺にいるザリガニは、ウチダザリガニいう種類やな。こいつは美味いで」
オガチーは猿渡の捨てたザリガニの殻を拾い上げて話始めた。
「ほれ、ニホンザリガニやアメリカザリガニに比べてちょっと大きいやろ。あとハサミのとこが白くなっとる。夜行性だから昼間にはおらんはずやが……」
「現実世界じゃまだ夜だろ。ウチダってことは日本原産なのか?」
「ちゃうで、外来種や。なんならアメリカ産。オマール海老より美味いって触れ込みや」
へえ、と相槌を打ちつつ猿渡はザリガニを釣り上げる。元々共食いを良くする習性らしく、あたりめよりも食いつきが良い。
あまりの食いつきの良さに、ついつい20匹ほど釣り上げてしまった。
「いやいくら夢の中だって多すぎるだろ」
「食材にするには十分な数やな。これなら2~3皿は作れるで」
釣ったザリガニを次々泥抜き用のバケツに放り込みながら、オガチーはニンマリ笑って見せた。
大量のザリガニを持って部屋に戻ると、オガチーは手慣れた様子で作業を始めた。
流石に量が多いので猿渡は手伝いを申し出たが、「この程度で音を上げる俺やない」と突っぱねられた。
「流石に夢の中やな。釣ってすぐ台所に持ってこれるし、誰も怒らんから生きたまま部屋まで持ってこれるわ」
そう呟きながらオガチーはザリガニの一匹摘まむと、口に錐を突き立て活き締めにした。
次に尾の先端を上側に折り、ゆっくりと背ワタを引き抜いた。そして水を張ったボウルに入れる。
「血抜きやで。こうしないと生臭そうなるんや」
「エビと似たような下処理するんだな」
「まあ構造は似とるしなあ」
そんな他愛のない会話をしながらも、オガチーの一連の作業には一切のよどみがない。
塩水を沸騰させた鍋に10匹ほどザリガニを放り込み、待つこと20分。
「1皿目の完成や」そう言ってオガチーは、まだ湯気の立つザリガニを綺麗に大皿に盛りつけ、猿渡に見せつけた。生きていた頃は黒っぽかった殻が鮮やかな赤に染まっている。
「シンプルな塩茹でや。丸ごと茹でとるから、殻を取って中身を食え」
「そのまま食えるのか?」
「おう。でもわさび醤油やポン酢もいけるし……個人的にはマヨネーズがオススメや」
オガチーの言葉に頷くと、さっそく山盛りの皿から1匹手に取る。猿渡もザリガニ釣りで慣れたもので、すぐに身を取り出すことが出来た。
「……なるほど、なるほど」一口食べて、猿渡は思わず唸った。淡白ながら、オマール海老に例えられるのもよく分かる美味だ。プリプリした食感と、噛むほどにじんわり舌の上に広がる甘味が実に楽しい。
存外可食部が小さいからか、あっという間に皿が空になった。
「おお、いい食いっぷりやんけ。料理人冥利に尽きるで」
「これでも大食いには自信があるぜ。どんどん持ってきてくれ」
そういう猿渡の目の前に、新しい皿が置かれる。
「ザリガニの餡かけ丼や」
目の前に置かれた丸皿には白米が中央に丸く盛られ、その上から色とりどりな具材の入った餡がかかっている。ザリガニはもちろんの事、ウズラの卵、竹の子、ブロッコリーなど中々豪勢だ。
一言でいうなら、エビの代わりにザリガニを使った中華丼といったところだろう。
ザリガニは既に殻が剥かれているので一見するとエビと変わらないが、よく見るとエビより赤みが濃い。
「では」レンゲで一口餡をザリガニと共に口に運ぶと……猿渡は息を呑んだ。
先に食べた塩茹でに比べ、今度は他にも具材が入っているからかザリガニの旨味と野菜由来の旨味が溶け合っている。だというのに穏やかな味で、中々飽きが来ず食べ進められる。
「本当に人気だったんだな、お前の店」
「おお、流石に分かったようやな」
「当たり前だろお前……こんなもん食わされたら……」
そう言いつつもレンゲが止まらない。
プリプリなザリガニとクタクタになった野菜の食感が交互に舌の上で踊る。猿渡は無心で食べ進めた。
「……完食」
多幸感に包まれながら、猿渡は空になった皿を置いた。
と、すぐに別の料理をオガチーが持ってくる。
「コレで最後、五香ザリガニ炒めや」
皿の上には殻付きのまま炒められ真っ赤になったザリガニが山盛りに載せられている。見た目だけなら1皿目の塩茹でと似ているが、五香の名前通りスパイスの香りが鼻にツンと刺さる。
「なるほどな。1皿目でザリガニ本来の味わいを、2皿目で日本でも馴染みの料理のザリガニバージョンを、3皿目で中華本来の味を楽しめるって事か」
「ご名答。こいつは手がべとべとになるからビニール手袋を付けて食べな」
オガチーの言葉通り、猿渡は手袋を嵌めてザリガニを手に取る。殻剥きも慣れたものだ。
「じゃ、本場の味を……」
剥き身を口に運ぶと、猿渡は紅潮した顔で「か、辛い!」と叫んだ。
四川料理の流れを汲んでいるのだろうか、ホワジャオを始めとしたスパイスの舌を刺すような痺れる辛みと複雑な香りが口いっぱいに広がる。だがザリガニの旨味もそれに負けておらず、濃い目なのに食材の味を活かした味付けになっている。
水を飲んでもう一本、もう一口、と猿渡は皿に次々手を伸ばしてはザリガニを剥いていく。
「うおおおん!」手が止まらない。もっと、もっと……見る見るうちにザリガニが減っていき、残り1匹になってしまった。
と、ここで猿渡の手が止まった。
ふとした疑問。
オガチーは、これが最後の料理だといった。じゃあ、俺がこの最後の一匹を食べたらこの夢は終わってしまうんじゃないか?
「どうしたサワタリ。もう満腹か?」
「い、いや……そうじゃない」
キョトンとした顔でこちらを見つめるオガチーから目をそらし、「これを食ったら、もうこの夢からは覚めちまうんだな……と思ってさ」
ぽつりと呟かれたその言葉に、オガチーは首を傾げた。
「いや、食わなくっても覚めるで」
「えっ?」
「一晩だけって約束やからな、閻魔様との」
「はあ!?」猿渡は思わず腰を浮かせたが、「あ……そうか、最初にそう言ってたな」
「サワタリの睡眠時間がどれくらいかは分からんけど、現実じゃもうすぐ朝や。死人がいつまでもお天道様の下にいるのはマズいやろ」
オガチーは立ったままの猿渡を尻目にカカカと笑う。
「それになんや、もう俺と話せなくなるから、寂しいんか?」
「…………ああ、そうだよ。寂しいよ。20年ぶりに会ったってのに、お前はもう死んでて。夢で会えるのも一晩だけで」
「…………そうか」
オガチーはゆっくり頷く。
猿渡はザリガニを皿に置くと、手袋を外して平手で顔をゴシゴシ拭った。
「なあ、オガチー……謝らせてくれよ」ソファの背もたれにうなだれながら、猿渡はぽつりぽつりと話す。
「俺、俺な、お前の訃報が入るまで、ガキの頃お前と遊んでたってコト、全然思い出してなくてさ。それなのに、昔からのダチみてえなツラして式場行ってさ。そうしたら喪主に、お前の嫁さんになんて言われたと思う?『遠くからわざわざありがとう』ってさ。『主人もきっと喜んでおります』ってさ、手握られて泣かれちまって……」
自分がここにいていいのか、分からなかった。
違和感しかなかった。
違和感は胸の中で煮凝りのように残り、ずんと重たかった。
何とかそれを飲み下そうと酒に逃げたが、無駄だった。
後ろめたさは消えなかった。
ああ、そうだ。やっと言える。
「申し訳なかったんだ。お前を忘れちまってたことが。葬式の直前まで頭からすっぽ抜けてたのに。申し訳ないって思ってること自体が、申し訳なくって……」
猿渡はそう呻きながら、頭を抱えた。髪をぐしゃぐしゃかき混ぜる。
だがそんな彼に、
「サワタリ」肩に手を置くと、オガチーは口を開いた。
「それでもな、サワタリ。何度だって言うで。ワイのために、葬式に来てくれてありがとうな」
「なん、なんで……」
「嬉しかったんや。ガキの頃、親は転勤ばっかで、友達なんぞ全然出来んかった。だけど、ワレは来てくれた。忘れてても、思い出してくれた。電車やらバスやら乗り継いで、東京くんだりからワイに会いに来てくれた。そらな、嫁かて泣く程嬉しいに決まっとる。そんだけしてもすぐに会いに来るヤツがおるんやから。それにな……」
オガチーは皿の上のザリガニを指差し、
「夢は覚めても、コイツを食った思い出は、ワイとザリガニを釣ったこの夢は、ワレん中に残る」
「……ああ、わかったよ」
猿渡は、五香ザリガニ炒めの最後の一本を手に取った。
「サワタリ。起きたらな、本格中華・藤堂飯店にも来いよ。嫁がな、ワイのレシピ完コピして全く同じ味で出すからな」
「おう、そうする……それじゃあ」
最後の一本、いただきます。
そう言うと、名残惜しむようにゆっくり殻を剥き、一口に頬張った。
「……最後にな、サワタリ。ワイも謝らないかん事があるんや」
「なんだよ藪から棒に」
「ワレの苗字……動物の猿に、渡り船の渡って書くよな」
「おう」
「読みは?」
「さるわたり、だけど」
猿渡のその回答に、オガチーはカカカと笑う。
「実はな、ワイずっと『さわたり』って読むんやと思うとったんや」
「は?じゃあいつ気づいたんだよ」
「そりゃ」とオガチーは玄関の方を差し、「表札や。SARUWATARIって書いとるやろ」
頬をかいてそう言うオガチーに、猿渡はたまらず吹き出した。
「じゃ、じゃあお前、死ぬまでずっと俺のこと
「ああ、そうや!悪かった!謝る!ごめんなさい!……だから、これであいこや」
「……そういうコトか」
そうして、
その後、本格中華・藤堂飯店に新しい常連客が出来た。
東京から来るその客は、月に1度必ず顔を出す。そして食事を済ませると、女店長と他愛のない話をしてから帰るのだ。
彼は、1年の内決まった日に、必ずザリガニ料理を注文する。
そしてたらふく食べると、「ああ、やっぱりこの味だ」と満足げな笑みを浮かべるのだという。
ザリガニを喰う話 ノート @sazare2023
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