ヨシダのこと。

梅緒連寸

▪️

 足元に土まみれの軟式球がころころと転がってきた。自分のスニーカーに当たる寸前で止まったそれを、たかしは俯いて眺めた。


「ごめん吉田、それ投げてくれる?」


 顔を上げる。白い練習着を球よりもさらに土で汚した野球部員が小走りで駆け寄り、足踏みをしながらこちらの返球を待っている。

 崇は足元の球を拾い上げた。思ったりも小さく手の平の中に収まったそれに触れたのは初めての事だった。握ったのはいいが、どう投げていいものかわからない。ひとまず適当に放ってみると、思ったよりもうまい具合で弧を描き、それは部員のグラブに吸い込まれていった。


「おお、ナイスボール」


 少し驚いたように笑って野球部員は帽子を脱ぎ、崇に一礼するとすぐに反転しグラウンドに戻っていった。


 野球部員は崇と読みが同じ『芳田よしだ』という名字だった。同じクラスにいるがこれまでに話したことはなかった。そもそも崇がクラス内で会話をした事がある人間はほとんどおらず、同級生の名前すらほとんど覚えていない。

 紛らわしい氏名の生徒同士は別クラスに分けられるのが慣例であったが、馬崎市立中学校の生徒数は減少の一途を辿り今年は1学年に1クラスしか設けられていない。

 身近にいる存在ながらも深く知ることのなかった同級生。他人から向けられる感情を気にしない一方で悪目立ちが嫌いな性分の崇は、今になって自分の対応が間違っていなかったか気になってきた。

 考え込みながら家までの道をゆっくりと歩いた。もう手の中にボールは無いのに、目に見えない質量がそこにある気がした。


「吉田くん、野球やったことあんの?」

 翌日、食べ終わった給食を片付けている最中。

 崇は野球部の芳田に話しかけられた。

 突然のことに反応が追いつかず、崇は口ごもりながら使った食器をまとめてステンレスのカゴに放り込んで運ぶ返却作業を優先させた。教室を出て1階の給食室に向かうまでの間も芳田は後をついてくる。嫌味はないが強引だった。


「昨日めっちゃ返球うまかったからさあ、どっかのチームでやってたのかなーって」

 崇は野球などこれまでにやったことはない。平均のレベルには届く程度の運動神経は持っているものの、これまでの人生の中にスポーツに触れる機会が無かった。

「野球、やったことない。ルールも知らない」

「へー。もったいないな。背ぇ高いし、近所に住んでたら絶対誘ったのにな。俺は浜北のリトルで小4までやってたんだけど、吉田くんはどの辺住んでんの?」


 こちらが愛想のいい返事ができなくても気ままに一方的な話を続ける芳田になんと返せばいいのかわからなかった。返事の代わりに、普段なら選ばないような言葉が口をついて出た。


「そっちも、ヨシダなのに」

「ん?」

「自分も、ヨシダなのに、俺のことも、ヨシダって呼ぶんだ」


  瞬間、即座に後悔の波が押し寄せた。

 余計なことを言わなきゃよかった。非難のような口ぶりになってしまったかもしれない。

 しかし芳田は動じなかった。


「ああ、確かに。でも俺ら、下の名前も一緒だからさ。」

「えっ?」

「俺もヨシダタカシだから、下の名前で呼んでも結局おんなじなんだよね」

 初耳だった。野球部の芳田が近しい友人からリュウと呼ばれているのを見かけたことがあったため、それが名なのだと崇は思い込んでいた。


「それあだ名。俺の名前は隆って書いてタカシって読むんだけど、この字はリュウとも読めるじゃん?だからみんなそう呼んでる」


 それを機に芳田は崇にむけて声をかけてくるようになった。朝、教室で友人と話している最中にも崇が入ってくればおはようと投げかける。続くのはどうという話題でもなく、単なる挨拶と共に今日は晴れだとか雨だとか、蒸し暑いとか肌寒いだとか、そんなことを一言二言話す程度だった。しかし僅かでも明らかな変異で、崇自身どうしてそうなったのか解らないまま対応した。無視する理由もないためいったんは障りのない返事を返すが、とりとめのない雑談は崇が最も不得手で、その応酬に価値を見出せないものだった。

 芳田の友人たちもその変異に気付き、戸惑わないでもないがそれを表に出さないように平静を装いつつ、2人のやりとりを静観していた。次第に状況に慣れゆきそのちぐはぐな短い会話の光景は日常の一面図に編まれていった。


 ある日の帰りがけ、崇が校門を出ようとした際にユニフォーム姿の芳田が声をかけてきた。

 グラウンドからやや離れたこの場所にもボールは転がっており、それを拾い上げながら軽い調子で話す。


「野球部入らん?」

 何を言っているのか、と崇は訝しんだ。それはそのまま表情に現れた。


「……なんで?」

「返球うまかったし。あと部員の数が少なくて困ってる」

「あのとき偶々うまくいっただけだよ」

「センスあるってことじゃん?てか別にうまくなくてもやってりゃ上達するよ」


 おもむろに芳田は崇の背後を指差した。

 振り返ってみるとそこにももうひとつ白球が転がっている。左手のグローブを何度か握り開く動作で、それをここに投げろという意思表示である事を崇は悟った。


「くれよ」

「……………」

 軽く指先でつまみ、下から放る形でボールを投げる。どうせ2度もはうまく投げられないだろうと思い適当に投げ方を変えたつもりだったが、思いの外それは綺麗な放物線を描いて芳田の掲げたグローブに吸い込まれていった。


「下投げもセンスあるんだ?やばいね」

「いや、偶然だよ……何回もは無理だよ」

「試してみる?何回同じことが出来るか」

「いや、いいよ、そんな体力ないし」

「ちょっとだけ。なっ。ゆるく投げるから、捕ってみ」


 こちらが返事をする前に隆は大きくゆっくりとした動作で球を放り、とっさに両手で受け止める。小さな球だが、これまでに感じたことのない衝撃を崇は感じた。包んだ両の掌が痺れる。


「ごめん、ちょっと強く投げたか?痛くなかった?」

「大丈夫」

「そっか、素手なのに落とさないってすごいじゃん。ちょい腰は引けてるけど」

 

 ゆるくボールを投げ、捕りあう。

 素手の崇を気遣い大きな投球を続けるうち、隆は実家の面倒くさがりな老犬にボールを投げて遊んでいるときの気分に近しいものを感じた。

「でも、練習とかにはついていけないと思うし」

「うちのコーチそんな厳しくないから大丈夫だよ」

「同じ名前同士紛らわしいし」

「俺、部活でもリュウって呼ばれてるし問題ないと思う」

「……前にテレビで見たんだけど、外国の事件で同姓同名の指名手配犯と間違われて逮捕された人がいるらしいよ」

「なんだそりゃ。でもガイジンは俺らみたいな漢字がついてないから余計間違われそうだよな」

「同じ呼び方でも、綴りが違ったりすることはあるけどね」

「マジか!知らんかったわ。で?入らん?」


 どうあってもこの話題から逃れることができないと悟った崇は数秒間思案したのち、億劫に言葉を切り出した。


「家族が、病気で。その世話をしないといけないんだ」

「……そっか。無理言ってごめんな」

「気にしないで」

「あっ、でも気晴らしに野球したくなったら言って。てか俺のリトル時代の道具で使ってないのがあるから、それやるよ、自主練だけでも使えるだろ」

「そんな、悪いよ。どうせ1人じゃ出来ないし」

「そりゃ試合とかは無理だけど、1人でも出来る事って結構あるんだぜ。素振りしたり、壁にぶつけてキャッチボールの代わりにしたり。あ、俺もヒマな時は相手するし」


 手に残るしびれは心地よい疲労感を誘う。

 実際に練習に参加すればもっと手は痺れ、疲れるのだろう。

 校門を抜ける直前、崇は振り返った。野球部の練習場はここからではよく見えなかったが、風に乗って威勢のいい掛け声が耳に届く。

 それを聞きながら声を出さず、おまじないのように口を動かした。


 意味がない。


 意味がない。


 意味がない。


 どうせ何をやっても意味がない。

 何かいいことがあったとしても、最悪の気分はいつもそれを上塗りする。

 絶対にそうなると決まっている。



 あまり日が空かないうちに隆が言葉通り昔の野球道具を詰め、ジュニア用のマスコットバットがはみ出したボストンバッグを持ってきた日の帰り道は重みで肩が軋んだが、隆ならきっと言葉通りにするのだろうと予期していたので驚きはなかった。

 隆が崇を野球部に誘う事はなくなり、やや言葉を交わす頻度は減ったが完全に途絶えるということもなく、それぞれの世界に戻りながら時折言葉を交わしていた。


 秋の総体で野球部は地区大会どまりだったと全校集会で知った。

 上級生が引退し、芳田隆が新たに部長として指名されたこともその時に知った。

 自分と無関係な部活動の生徒が表彰を受ける時間はやけに長く感じるので好きではなかったが、隆が体育館の檀上に上がっていく時だけは俯かず前を向いた。

 天井からの照明がやけにまぶしく見えた。




 さっきまでの騒ぎに比べれば、家の中は驚くほど静かになった。


 漫画の頁が千切れている。

 逆さの灰皿が転がっている。

 食器の破片が飛び散っている。

 流し台はすえた臭いがする。

 通学用の鞄が蹴飛ばされている。

 鼻から血が流れ、ゆっくりと喉を伝っていく。


 化け物のように暴れた祖父が布団も敷かず畳に転がっている。

 断続的に響く鼾は起きているときよりもずっと穏やかに聞こえる。

 崇は鼻を拭きながら電灯のついていない部屋に戻った。

 押入れの中に、野球道具が使われないまま閉じこめられている。




 崇の成績は下降する一方だった。

 元々それほど勉強が得意なわけでもなかったが、ここ最近はどの科目でも授業中に集中できずにいた。同級生がよくやっているような、こそこそと落書きにいそしんだり手紙を書いたりするわけでもなく、ただ席に座り、教科書を開き、前を向くが、なにも話が聞こえてこなかった。教師がなにかを言っているのかはわかるが、話の内容が入ってこない。一瞬理解したような気分になっても、直後また意識は霧散してなにを考えていたのかわからなくなる。

 教科担任が崇を心配し、職員室に呼び出した。大丈夫か、と声をかける。

 ちゃんとこれからの事を考えているのか。なにか不安なことがあるなら相談しなさい。

 崇はそれに受け答えしたのち、職員室を立ち去った。

 室内に向けて一礼をしてスライドドアを閉めたとたん、自分が何を言ったのかわからなくなった。



 踏んだ落ち葉が砕ける乾いた音で、冬が近づいていることに気が付いた。

 この音が昔から嫌いだった。

 校庭には黄色くなった葉があちこちに落ちている。美化委員の勤労もむなしく、どれほど掃いても履いてもグラウンドを取り囲む樹木から枯葉は降り注ぎ続ける。

 学校を出るまでの間、嫌な音が足元でずっと鳴り続ける。

 グラウンドのほうに向けて耳を澄ませた。今日も野球部の練習の声が聞こえる。



 築年数が50年を越えているこの家を冬風があらゆる隙間から苛む。

 冷え切ったトイレの便座に座り込んで、もうどのくらい経っているのか分からない。

 せいぜい10分程度のような気も、何時間もここにいるような気もする。ズボンと下着を足首まで下ろしむき出しになった下肢には緑と紫と、さっきついた新しい青色のいびつなまだら模様がところどころに浮かんでいる。

 一番前にできたものはどれだったか崇は考えた。考えても正解は分からない。


「あっ」

 代わりに新しい閃きを得た。

 急ぎ冷え切った便座から腰を上げた。




 日頃から怒声が響いていた家の中は今、針が落ちた音すら聞こえそうなほど静まり返っていた。ため息が頭の中に響く。こんなふうに自分が息をしていたことを、今夜初めて知った。

 こんなにも静かな夜は久しぶりだった。

 崇はもう一度深く息を吐いた。さっきまで熱く燃えるようだった全身から力が抜け、壁に背中をべったりと預ける。ラバーグリップを握りしめたままだった事に気がつき手を離そうとしたが、指の付け根に沈む質量の手触りが心地よく、そのまま握り続けた。

 昨日までの苦しみはこの日のためにあったのかも知れないと思った。これまでの日々はいうなれば真っ暗な海底を漂い、いつ息を吸えばいいのかも思いつくことができない毎日だった。それがどうだ、根拠こそないが、今ならなんでも自分で決められる気がする。思うままに息ができる。いざこうなってみれば、いつかこんな日が来ると信じて今日まで生きてきたような気さえする。

 隆がいなければこうなりはしなかっただろうと思う。押し入れをあけ、埃っぽくなったバッグからこれを引きずり出した瞬間、何をしたいのかはっきりとイメージすることが出来たのだった。


 祖父が病気であることは本当の話だった。

 ただ、それは野球部に入るのを断る理由にうまく使わせてもらっただけだった。

 まだ幼い崇を母親がこの家に預けて以降まったく音沙汰がなくなってからも、しばらくの間はまだ穏やかな生活だった。

 本人が病気で苦しんでいたことはよく知っている。

 その病気のせいで、もしかしたら祖父は変わってしまったのかもしれない。

 毎年冬が近づくたびに『症状』はひどくなり、春になれば和らいでいった。

 崇は5月のカレンダーを眺めた。ずいぶん前からめくられていない。今はもう11月だ。


「悪いのは全部病気だったんだろうな」


 崇はわざと口に出して呟いた。実際、今となっては祖父への憎しみは驚くほど薄くなっている。

 こんな気持ちになれるのは、悪い病気がその根を張る土壌ごとなくなってしまったからだろうと思えた。

 悪いものをなくすことの、何が悪いというのだろう。


 芳田隆のことを考えた。

 他人の気持ちを考えるのは苦手だったが、隆のことならすこし想像がつきやすい。

 どんな顔をするのだろう。

 おそらくだが、こうなることは望んでいなかっただろう。

 傍らのバットを抱きしめた。グリップエンドにはつたない文字で書かれた「よしだたかし」と書かれた絶縁テープが劣化しつつも貼りついたままだった。

 隆はこれで素振りをしろと言った。自分自身が子供のころからやってきたのと同じように使えと言っていたのだ。

 こんな使い方をしたことが知られれば、計り知れない困難を与えるだろうと想像がつく、でも。

 でもどうせ、駄目だった。

 このままでは駄目だった。

 いや、とっくの昔に駄目になっていた。

 それをどうすればいいのか分からなかっただけだ。

 どうせ自分なんかでは、どうすることもなかったのだ。

 今日どうすればいいのか分かったのは、紛れもない、隆の存在があったからだ。

 バットの代わりになるようなものなんて、家の中にいくらでもある。

 きっかけになることも今日まで無数にあった。

 だけど、どうすればいいのかを教えてくれたのは隆のバット。いや隆自身だった。

 そばにいなくても、俺を勇気づけてくれたのだ。

 どれほど心が削られていても、これまで誰も助けてくれなかったのに。

 窓ガラスの向こうに輝く白い月を眺めた。

 今だけは月もこちらを向き、照らしてくれているように見えた。

 もっと近くで眺めたくなった。横たわる祖父を跨ぎ、玄関まで急ぎ歩いた。



 日が暮れるのが早くなったため、放課後の部活の終了時間を1時間早めた野球部は代わりに早朝練習を始め、3か月が経つ。

 起きたばかりでまだ眠気を引きずる頭のまま、隆は川辺の道を歩いていた。本当はこの道は通学路として登録されていないのだが、早い時間に川の水の流れる音を聞くのが好きだった。早起きは辛いが、朝靄がかかりまだ世界が目覚めきっていないようなこの時間を歩くのはいい。何より部内で自分たちが世代の中心となってから、野球をするのが楽しくてたまらなかった。

 昨日、練習時間最後のノックの時間のことを思い出す。鋭く走ったライナーを追った刹那、打球は妙な跳ね方をした。自分でも不思議なくらいに身体が動き、普通なら捕れないイレギュラーをうまく掴むことができた。

 隆が見せた動きに仲間たちは沸き立ち、あげる声がより力強さを増した。

 あんなふうにその場の全員が一丸となれる瞬間は、試合で勝つのを上回るまでには至らないが、それに近いほど嬉しいものがある。


 ふと、自分と同じ練習着を着た者が視界に入り、隆は目を細めて凝視した。

 姿を見せたばかりの太陽に照らされて白くぼんやりと見えるそれは向こう岸を歩き、こちらの進行方向とは逆から歩いてくる。よく見てみれば野球部の練習着ではなく、真っ白なシャツとスラックスの服装だった。距離が近づくとそれがよく知る人間の顔に見え、隆は驚いた。


「吉田!もう学校行くのー?」

 崇はこちらに気付くと、声をあげず肩に下げたボストンバッグを抑えながら控えめに手を振った。いつも無表情な男だったが、今日はいくらか穏やかな表情に見える。

 よく見れば崇が向かおうとしている先は学校とは真反対だ。よく見てみれば着ている服も制服ではなかった。


「学校サボんのー?いいなあ俺いまから練習だよー」

 より張り上げた声を対岸に向けるが、うまく届いてないようだ。崇は無反応だった。


「なあ、たまにはキャッチボールしようぜ! てか、やっぱ野球部入らん?」

 崇はあいまいな仕草で首を傾け、また小さく手を振ると無言のまま背中を向け歩いていった。

「やっぱダメかあ」


 だけどそれは晴れ晴れとした様子だったので、きっといい事があるのだろうと思い、遠ざかる背中とは反対の方向に歩いていった。

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