セピア色の思い出

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セピア色の思い出

⒈ 馴染みの店にて


 ここは、都内某所の繁華街。昼間はどこか昭和の残り香を残す古びた街だが、夜になると煌びやかな店の灯りに包まれ、華やかな世界に姿を変える。

 この繁華街の一角に、数多くの居酒屋が入っている雑居ビルがある。そこには、"元レーシングカー"だったヤツが経営するバー、『APEX』がある。

 仕事を終え、疲れた足取りで俺はいつも世話になっているこのバーで晩酌してから帰るのが日課だ。

「いらっしゃい。……何だ、またお前か、LEXUS。今日は随分遅かったじゃないか。今仕事終わりか?」

 ぶっきらぼうに声をかけてきたのはこの店のマスター、元TOYOTA AE86 トレノだ。とはいえ、今ではすっかり本当の人間になりこのバーを一人で切り盛りしている。歳は50代半ばで、眼鏡をかけて、やや白髪混じりの髪を綺麗に整え品の良い姿をしている。

「……なんだよ、マスター。俺で悪かったなぁ。そー。今受け持ってる失踪事件の証拠集めにだいぶ苦労しててさ、それで仕事が長引いてこの時間ってわけ。 全く……」

 いつものカウンター席の隅に腰を下ろすと、ひとつ開けた左隣の席に、見かけない顔の先客がいた。七三分けのヘアスタイルに、完璧に着こなした美しいスーツ姿の老紳士だ。

「……マスター、この人は初めての方?」

「ん?いやいや、違うよ。数年ぶりにまたうちの店に来てくれた、大切なお客様だ」

 いつも常連客にはぶっきらぼうな癖に、この老紳士にはまるで旧友のように接している。

 そんな一面が面白くて、俺はマスターとこの客のやり取りを肴に、お気に入りのブランデーに口をつけた。

「おい、LEXUS。紹介しよう。彼はTOYOTA センチュリーだ」

 その名を聞いて驚き、俺は慌ててグラスを置いて老紳士に頭を下げた。

「あぁ!これはこれは、くつろぎの所大変失礼致しました。初めまして、私はTOYOTA センチュリーと申します」

「っ!! センチュリーさん!? えぇぇ!?どうしてこんな所に?」

「今日は久しぶりに休暇をとって、懐かしい思い出が沢山あるこの街に遊びに来てたんです。昔、お世話になったマスターにまたお会いしたくて、この店を探していたんです。それでやっとマスターに会えて、本当に嬉しくて!あれこれ昔の思い出話に花を咲かせていたんですよ!」

 そう嬉しそうに話すセンチュリーは、60代後半で普段は国の重役を送迎しているようだ。初めて間近で話してみたが、公用車としての威厳を一切感じさせないほど物腰が柔らかく、穏やかに話す姿がたまらなくかっこよかった。

 それから暫く、マスターとセンチュリーと他愛もない話を楽しんだ。

 すると、また一人顔馴染みの客がやってきた。

「うぃーっす☆ マスター! あ、LEXUSじゃん!!……ぇ、その隣の方は?」

 "SKYLINE"と書かれたスキニーを履き、セクシーな白いシャツにワンガンブルーのジャケットを着て声を掛けてき女は、NISSAN SKYLINE GTR R34だった。

「初めまして、私はTOYOTA センチュリーと申します。……もしや、あなたは……!歌手の34さんですか?」

「え!!何で分かったのー!?……お忍びで来てたのにぃ〜、ショックぅ〜」

「……しょっちゅうここへ来てるだろお前。もうお忍びじゃ済まされねぇだろ」

「はいはい、探偵さんは黙ってて!!」

 ファンサービス旺盛な34は、俺とセンチュリーの間に滑り込むと、早速センチュリーに握手をしていた。

「……全く。お前、センチュリーさんには手ぇ出すんじゃねーぞ」

 調子の良い34は、センチュリーとマスターを上手く転がしながら会話を楽しんでいた。

 しばらくの間ハブかれた俺は、アテに出されたマスターお手製の生チョコレートを食べた。ココアパウダーで汚れた口元を拭こうと背広のポケットからハンカチを取り出した。

 その拍子に、お守りとして大切にしまっていた一人の女性の写真が、ヒラリと床に落ちた。

 すかさずセンチュリーが写真を拾ってくれて、俺はすっかり申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「LEXUSさん、落としましたよ。……おや、とても素敵な女性の方ですね!」

「何何?アタシにも見せて!!……あぁ、可愛い人じゃん!ねぇ、この人とはどういう関係?」

「その人は、俺の……大切な人だ。……まぁ、今はもう居ないんだけど」

 俺は、心の奥底で封印してきた暗く悲しい思い出が蘇ってきて、皆に悟られないよう必死に取り繕った。

「ふぅ〜ん……? アンタみたいな仕事人間でも、そういう大事な人居たんだァ」

「なんだ?34、専属のボディガードに随分妬いてるじゃないか? 」

「……はぁぁ!?何言ってんのマスタぁぁ!!別に妬いてないしっ!!ただ、人間味ある一面もちゃんと持ち合わせてたんだなって思っただけだってばっ!!」

「っははは!34さんは、とても素直なんですね? けれど、今はもう居ない……と言うことは、その方とは別れたのですか?」

 センチュリーからの問に、俺は心臓がギュッと縮む感覚を覚えた。アルコール度数の高いブランデーを一口グイッと飲んでから言葉を紡いだ。

「……別れた訳じゃない。6年前に死別した」

 先程までの和気あいあいとした雰囲気が、一瞬で凍てついた。マスターも34もセンチュリーも、三人揃ってギョッとした視線をこちらに送る。

 その瞬間だけは、店内で流れていたジャズも耳に入らなかった。

「……何か、あんま触れちゃいけない思い出に足突っ込んじゃった感じ……?」

「……いや、別に。もう昔のことだし……気持ちの整理はとうについてるから」

「そいつはどうかな?少なくとも俺にはそう見えんぞ。その写真を常に持ち歩いているなら尚更、今でも過去の悲しみを引きずっているんだろう。……違うか?」

 流石にマスターの目は誤魔化せなかった。上手くこの思い出に蓋をしてきたはずなのに、何だか全てを見透かされているような気がして堪らなかった。

「……LEXUSさん、もし宜しければその方とのお話、聞かせていただけませんか?過去に傷ついたことを話すことで、少しでも貴方の悲しみを手放せるなら、きっと気持ちの整理も出来ると思いますよ?」

 センチュリーの言葉がじんわりと胸の奥に響いた。

「そうそう!誰かに話すと心のモヤモヤ少し晴れるからさ!いつまでも辛い思いを引きずったままだと病んじゃうじゃん?」

 そう言って34は、俺の手を美しい両手で包み込んだ。

「……普段、アタシはアンタにいっぱい甘えちゃってるけどさ?……アンタもたまには誰かに甘えてみたら?人生楽しくするのも辛くするのもアンタ次第、でしょ?」

 グイグイ踏み込んでくる34の存在が、今の俺にはありがたかった。

 三人に背中を押してもらい、俺はようやく覚悟を決めて口を開いた。

「……分かった、話すよ」



2.桜色の思い出


「……それで、写真の女性はどうして亡くなったのですか?」

「……殺されたんだ。この先にある神社横の通りで」

「……待てよ?それ、あの通り魔事件で亡くなった女の人の事か!?」

 返事の代わりに頷くと、皆絶句した。

 6年前のクリスマスイブにこの繁華街近辺で起こった悲惨な事件。その被害者が俺の大切な人だったとは、誰も知らなかったからだ。



 ――遡ること9年前。俺のオーナーであった敏腕刑事は、定年で職務引退後に私立探偵の仕事を始めた。このバーの近くの雑居ビルに、小さな事務所を設立したが、間もなく病気で倒れた。

 仕事が続けられなくなると悟ったオーナーは、立ち上げてまもない事務所の後継者問題で頭を抱えていた。

 その最中、オーナーは巷で聞いた車が人に変身出来ると言う噂を本気で信じ、愛車である俺を人に変えて後継者にしようと決めた。

 それからオーナーは俺と心を通わせられるよう、毎日話しかけてくれた。

 その願いが天に通じたのか、程なくして俺は人の姿に変身できるようになった。

 オーナーは、当時21歳の青年だった俺を、探偵事務所の後継者にさせるべく厳しく育てた。

厳しい教育の下で様々な資格を取得し、俺は二年で一人前の私立探偵へと成長した。

 それからオーナーは俺を自立させるために自宅を売り、程なくして入院先の病院で一人静かに息を引き取った。

 俺はオーナーが立ち上げた探偵事務所の後を継ぎ、市民から寄せられる様々な依頼を解決させた。

 その功績が広まり、いつしか都内で最も評判の良い私立探偵になった。

 一方で、帰る家を失くした俺は、事務所の所長室でひっそり暮らすようになった。

 新しい住処を探せばいくらでもあるが、元々車の俺には、雨風さえ凌げれば所長室での暮らしで充分だった。

 それから一年半経った。

 三月、うちの探偵事務所の入っている雑居ビルに、新しく清掃員として入った19歳くらいの一人の女が毎日出入りするようになった。

 その女が、後に俺の人生を大きく変える存在になるとは思わなかった。

 女は、人見知りが激しいのか、挨拶をしてもなかなか目を合わせてくれなかった。

 眉にかかるくらいの前髪に、肩につく長さの髪は、少しばかりかパサついていた。同い年くらいの他の女と比べると、やや質素な格好をしていた。

「……あの、清掃終わりました」

「あぁ、ありがとうございます」

 礼儀正しくお辞儀をしてから、静かに事務所を出て他のフロアの清掃に移る。

 そんな姿を毎日見ていると、いつしか無意識に目で追うようになっていた。



「っははは!LEXUS、お前意外と惚れっぽいところがあるんだな?」

「ねぇー!!可愛いぃ〜♡ あ!だから、可愛い女の子を前にすると、余計惚れちゃうんだ!?」

「おい、34。おちょくるのもいい加減にしろ」

「初々しくて、とてもいいじゃないですか!若いうちは勢いで突っ走ることも、時には大切ですからね。それで、どちらから声をかけたのですか?」

「それは……俺の方からだ」



 ある日、女はいつものように清掃を終えて挨拶に来ると、どこで怪我をしたのか足首に切り傷を作っていた。

「では、失礼致しました」

「……っ!? 待て!」

「……はい? きゃっ!!」

 痛々しく足を引きながらフロアを出ようとしている女の手首を思い切り掴んで止めた。

 すると、女は甲高い声で悲鳴を上げた。

「そんな怪我してる中で仕事続けるのは無茶だ!……ちょっとそこのソファーにかけて待っていろ」

 事務所に常備してある救急箱を取り出し、消毒液を脱脂綿に浸し、足首の怪我を処置した。女は俺の行動にとても驚いたのか、しばらく固まっていた。

処置を終えると、女は小さな声でお礼を言った。

「あ……ありがとうございます」

「気にするな。もうこれで今日の仕事は終わりか?……傷のこともあるし、俺もちょうど一つの依頼を終えてオフになったところだ。送っていくよ」

「……い、いえ!!そんな……、こ……このくらい大丈夫ですのでお構い無く……! 失礼致します……」

 女は逃げるように所長室を後にしようとするも、傷が痛むのか思うように早く歩けなかった。

「家はこの近くか?」

「え!?……ぁあ……ここから歩いて15分くらいです」

「結構距離あるだろう……。ほら、肩貸すから掴まれ」

 俺は自分でも何をやっているんだと思いながら、手を差し伸べて女を家まで送る事にした。

「あの……、ありがとうございました。手当てもして頂いて……。た……探偵さんこそ、ご自宅遠いんですよね?……お付き合いしてもらって、かえって申し訳ありませんでした」

「ん?あぁ、気にするな。どうせ帰る家も無いし、オーナー……じゃなくて!身寄りもいないからな」

「ええぇっ!?!?……ぁ、ごめんなさい!大きな声、出してしまって……失礼しました」

「……意外とデカい声出せるんだな?」

 女は恥ずかしさのあまり、俯いてしまった。

 それから二人で黙ったまま古びた住宅街を歩いていると、女は古いアパートの前で立ち止まった。

「……あ、うち……ここの2階なんです。……今日はこんなに良くしてもらってありがとうございました」

「別に、勝手にやったことだからいいんだ。 じゃあ、俺はこれで……」

「っ!あの、待ってください!!……せめて御礼だけでもさせてください。……全然、大した部屋じゃありませんが……どうぞお上がりください」

 女はそういうと、古いアパートの外階段を手すりを伝って登った。

 後について部屋の中に入ると、室内は隅々まで掃除が行き届いており綺麗だった。

 必要最低限の生活用具と、背表紙を揃えた本がぎっしり詰まった小さなカラーボックスがあった。

 窓辺には、愛らしく咲くビオラが植えられた小さな鉢が飾られていた。きっと花が好きなのだろう。

 女は急いでお湯を沸かし、温かい紅茶を入れてくれた。ピンクの花の絵がワンポイントで付いているマグカップには、色鮮やかなダージリンが湯気を立てて入っていた。

「お茶菓子が無いので、これだけですが……良かったらどうぞ」

「ぁ……ありがとう」

 人の姿になってもなお、俺は腹が減ったら車の姿に戻り、信頼できる事務所の後輩にガソリンを入れてもらっていた。

 人間の食べ物等一切口にしたことがなかった俺は、この日初めて紅茶という飲み物を飲んだ。

「……美味い」

「ふふ、 それは良かったです。……探偵さん、本当はお優しい方なんですね?いつも事務所にいらっしゃる時は、しかめっ面で、ご機嫌が悪いのかと思って声をかけずらかったんです」

「っ!!……それは、済まなかった。怒ってるように見えたか……? ……そうか」

 シンプルな一言が、俺の心にグサリと刺さった。

「俺……笑ったり怒ったり、そういう感情表現ってのがそもそもよく分からん」

「そうなんですか……? じゃあ、そんな探偵さんに"笑うこと"を教えてあげますね」

 そう言うと女は、両手の人差し指を俺の口元に持っていくと、そのまま頬を上に軽く引き上げた。

 その顔をマグカップの紅茶に映してみると、そこにはの俺がいた。

「こうして、口角を引き上げると笑顔になれるんですよ!笑うと、暗い気持ちが晴れて、幸せが沢山舞い込んできますよ。……探偵さんにも、ささやかな幸せが沢山舞い込んでくるといいですね?」

 女は徐々に心を開いて来ているのか、先程までのぎこちない空気感はいつの間にか消えていた。

 無邪気に微笑む女を見て、俺は今まで感じたことが無い心臓が跳ねる感覚を味わった。

 それから、何だか気恥ずかしくなり、慌てて女の手を振り払った。

「……っ!!……離せ」

「ご、ごめんなさいっ!!……私ったら……あまりにも軽率でした……よね?」

 女は慌てて手を引っ込めると、そのまま俯いて肩を竦めてしまった。

 そんな姿を見て、自分の方が悪いことをしてしまったと申し訳なく感じた。

何とか女を慰めようとして、俺は首を横に振り女にして貰ったように、口元を指で引き上げ笑顔を作って見せた。

 俯いていた女は、恐る恐る顔を上げると、俺のぎこちない笑顔を見てクスリと笑った。

 その後、特に会話が無くとも心の奥が温まるひとときを過ごした後、俺は女の家を出た。



3.鉛の絵本


 それからは、仕事の合間を縫って女のアパートへ何度か訪れ、一緒にお茶をする仲になった。

 そうするうちに、段々お互いのことを話すようになり、いつしか俺はこの女の人柄に惹かれていった。

「それはそうと、お前の名前、何て言うんだ?」

「そう言えば、ずっとお伝えしていませんでしたね。私、峰岸 咲紀みねぎし さきと申します。探偵さんの事は、何とお呼びしたら良いでしょうか?」

「……俺には、咲紀みたいな名前はない。ただ、"LEXUS"とか"LC"と呼ばれている。……まぁ、自由に呼んでもらって構わない」

「レクサス……?……父が乗っていた車と同じ名前」

 咲紀は、不思議そうに俺の顔を見つめると、困ったように微笑み「"探偵さん"と呼び慣れてしまったので、このままでいきますね?」と言った。

 ……流石に今はまだ、咲紀に俺が本来ただの車である事を打ち明けられなかった。確実に気味悪がられて避けられることが怖かったからだ。

「そう言えば、探偵さんは身寄りが居ないんだってこの前仰っていましたよね?……実は私も同じで、凄く似てるなぁと思ったんです」

「え、そうなのか?」

「はい。……まぁ、本当のことを言うと家族は居るにはいます。ただ、父と兄から暴力を振るわれていて、母も私には無関心でした。……それが嫌になって、家を出たんです。家族を捨てたも同然なので、私も探偵さんと同じく天涯孤独です」

 俺は、咲紀の口からとてつもなく重くて辛い過去の話が出てくるとは思いもしなかった。

「家族……。俺にはそういった人が居ないからよく分からんが、心から安心できる居場所が無いというのはあまりにも酷いな。……なぁ、嫌じゃなければもう少し咲紀のこと、教えてくれないか?」

「っ!!……では、この話は私と探偵さんだけの秘密で……約束していただけますか?」

「当たり前だ、誰にも言わん。心配するな」

 咲紀は、口篭りながらも自らの生い立ちをぽつりぽつりと話し始めた。

 ――某田舎町の名家で生まれた咲紀は、幼い頃から父親と兄から酷い虐待を受けていた。

 彼女が成長するにつれ、暴力はますますエスカレートし、遂には性的暴行まで加えられるようになった。

 咲紀は母親にこの事実を相談しようとしたが、まるで他人ごとのように流されるばかりだった。

 結局、誰にも相談できず、彼女の心の居場所はどこにも無かった。

そんな中、唯一慕っていたのが"ばあや"と呼ばれる使用人の老婆だけだった。ばあやは咲紀が実の親兄弟から酷い仕打ちを受けていることをよく知っており、いつも彼女に寄り添い支えていた。

咲紀が16歳の誕生日を迎えた日、ばあやは咲紀に現金数十万円を渡して家を出るように勧めた。

 それで彼女は皆が寝静まった真夜中、荷物をまとめてこっそり家を出て上京した。

上京後、ばあやに紹介されたこのアパートに暮らし、中卒でもできる仕事を探して必死に生きてきた。

「……そして今に至る訳です。……っ!!ごめんなさいっ!!こんな重い話をしてしまって……」

 これまで仕事で酷い人間関係の話を散々聴いてきた。だが、今回聴いた咲紀の凄惨な生い立ちに、不覚にも感情移入してしまった。

 この日、俺は初めて"悲しみ"を知り、涙がとめどなく溢れた。

「探偵さん!大丈夫ですか!?」

 食い入るように自分の話を聴きながら、ボロボロ涙を流す俺に驚いた咲紀は、ハンカチでそっと俺の涙を拭った。

「っ……辛かったな。でも……ばあやのおかげで逃げ道ができて、本当に良かった。……話してくれてありがとう」

 俺は、何とか涙を堪えながら必死に笑顔を作って見せた。そんな俺の頬を咲紀は優しく撫でた。

「気になさらないで下さい、過去は変えられませんからね……。だけど私、今はとっても幸せなんですよ!……それは、探偵さんとこうしてお友達になれたから!……実は、密かに憧れていた探偵さんと仲良くなれるなんて、夢にも思っていませんでしたから」

 そう言って微笑む咲紀から芯の強さが感じられ、心の底から美しいと思えた。

 その日、俺は咲紀の家を出たあと、いつものように事務所へ戻った。

 窓辺の月を眺めながら、所長室のソファーに脚を投げ出し寝そべった。

「……咲紀」

 無意識にこぼれた彼女の名前。既に俺にはなくてはならない存在になっていた。



4.ダイヤモンドの記憶


 11月下旬、この日も俺は仕事終わりに咲紀の家へ遊びに行った。

 ここ最近は、咲紀の部屋で寝泊まりすることも増え、半同棲状態になっていた。

「ねぇ、探偵さん!探偵さんの秘密はいつ教えてくれるの?」

「ん?……っはは、そんなに気になるか?」

「勿論!!だって、私の身の上話だけ教えても、探偵さんの秘密は教えてくれないなんて……ずるい!」

 咲紀は、面白くなさそうにむくれて、俺の腰を肘で軽くどついた。

 ほぼ毎日一緒にいると、咲紀は年相応にあどけない表情を少しずつ見せるようになった。

 些細な変化だが、彼女が俺の事を心許せる存在として見てくれていることが、何よりも嬉しかった。

そして、俺自身も咲紀の前では豊かに感情を表に出せるようになってきた。

「……分かった。じゃあ、外へ出る支度をしてくれ」

「え!?今から?だってもうあと少しで日付変わっちゃうよ?」

 咲紀の愛らしい反応が見たくて、俺は敢えて耳元でコソッと囁いた。

「それでも、だ。……嫌なら俺の秘密、教えてあげねぇぞ?」

「あぁ!それは駄目っ!!分かったわ!直ぐに支度するから、待ってて!!」

 そう言うと咲紀は、俺の背後にある襖を開けて急いで支度をした。「終わったらアパート階段下に来てくれ!」とだけ告げて、俺は咲紀の部屋を出た。

 24時を回った頃、流石に冬の夜風は身体を芯から冷やした。だが、車の俺にはそんな寒さも平気だった。

 支度を済ませた咲紀は、ベージュのコートに、チョコレート色の手袋をはめて、赤いチェックのマフラーを首に巻いて部屋から出てきた。

 階段を駆け下りてくる咲紀を驚かせようと階段下の暗がりに身を隠し、俺は静かに元の姿に戻った。

 階段を降りた後、姿が見当たらず、咲紀は辺りをキョロキョロ見回して探した。

「あれ、探偵さん?……どこに行ったんだろう?この下で待ってろって言ってたのにな……」

 暗闇の中で俺を探す咲紀の脚が、フロントバンパーに当たった。固く冷たい感触に驚いた咲紀は、目を丸くして振り向いた。

「えっ!?……す、凄く高そうな車。一体誰の車なのかな?……あれ、でもおかしいな?このアパートに暮らす人で車を持っている人は誰もいないはずなのに……」

 その車こそ俺だと言うことに、咲紀はこの時全く気付いていなかった。

 ……当然だ。初めて名乗った時も、俺は『"LEXUS"とか"LC"と呼ばれている』としか言わなかったから。

 この姿だと言葉を発することができない。

 どうにかして咲紀に気付いてもらおうと、俺はヘッドライトを光らせてみた。

「ひゃっ!?眩しいっ!!……ん?父の車と同じLEXUSのマーク?……あぁぁっ!!!!もしかしてあなた……探偵さんなの!?……そんなまさか!!……えぇぇ!?……だってさっきまで私より少し年上ぐらいの男の人だったでしょう? あの人はどこへ行ったの?」

 俺の本当の姿を前に困惑する咲紀の反応が、何よりも面白かった。

 一方でさっきの男が今目の前にある車なんだと、早く気付いて欲しかった。

 それで、試しに自分の意思でクラクションを一回鳴らしてみた。

 咲紀はその様子に驚くも、やっとこの車が俺だと分かったのか、ボンネットに抱きついてきた。

「あなた、本当に生きてるみたいね!!……それにこの色、あの人のスーツと同じ茶色!……じゃあ、やっぱりあなた、探偵さんで間違い無いのね!?」

コート越しに伝わる咲紀の体温が、俺の心に火を灯した。

咲紀は、じっくり俺の外装を見て後ろのトランクに記されていた俺の本当の名前をそっと撫でた。

「探偵さん、本当は"LEXUS LC500"って言う名前の車なのね?っふふふ、それじゃあ人の姿になっても、その名前じゃ呼びずらいかも」

そう言って咲紀は、笑いながらツンっと俺の名前をつついた。

だんだん風が冷たくなってきたため、俺は運転席の扉を僅かに開けてやった。

「……『寒いから乗れ』って言ってるの?……ありがとう、優しいのね!じゃあ、お言葉に甘えて乗せて?」

 咲紀は静かに運転席に座って扉を閉めた。シートベルトを締める音を確認すると、俺はエンジンを吹かせて勢いよく走りだした。

「ひゃぁぁ!!!ちょっと待って!探偵さん!!私、免許持ってないのよ!?こんな所見つかったら、警察に捕まっちゃうでしょ!?」

 俺は街の灯りを辿って、さらにスピードをあげた。暗い夜道を煌々とヘッドライトを照らして駆け抜けた。

 咲紀は、自らの意思で動く車に最初怯えていた。

 だが、だんだん楽しくなってきたのか、周りの景色を見ながら嬉しそうに目を輝かせていた。

「ねぇ、探偵さん?……このままどこまでも遠くへ連れて行って?」

 咲紀の可愛らしい願いを聞き入れ、俺は夜道をどんどん走り続けた。

 1時間ほど経った頃、俺達は海辺に辿り着いた。

 咲紀は俺から降りると冷たい夜風が吹き付ける中、波の音が響く浜辺を一人のんびり歩いた。星と月の明かりが真っ黒な海を神秘的に照らしていた。

 暗い浜辺を歩く咲紀を遠目に、俺は気づかれないように人の姿に戻り、気配を消して後を追った。

「あぁ……、最高に楽しかったなぁ!!車になった探偵さんとはお話出来なかったけど、探偵さんの膝の上に座っていたと考えたら、とっても幸せ……!!」

 嬉しそうにドライブの感想を呟く咲紀を驚かせようと、後ろから思い切り抱きしめた。

「わっ!!!!た……探偵さんっ!?」

 力一杯抱きしめられて、咲紀はその場に固まった。

「咲紀、……このままお前のことを攫ってしまいたい。誰も知らない遠いところで、二人で一緒に暮らしたい。お前と一緒に生きていけるなら、俺は本当の人間になろうと思う」

 咲紀の耳元に顔を近付け、内に秘めた想いを囁いた。

 すると、その想いに応えるよう、咲紀は向きを変えて俺の腰に華奢な腕を回して抱きしめた。

 しばらくお互い抱き合うと、咲紀は静かに離れ、今度は俺の手を優しく握って微笑んだ。

「……勿論だよ、LEXUS。私ね?あなたと一緒に過ごすようになってから、"生きててよかった"って生まれて初めてそう思えたの。……家族に負わされた傷は一生癒えないけれど、あなたと一緒に居られたら、辛い記憶も忘れられる。私たち似た者同士、支え合って生きていこう!」

 この時初めて、咲紀は俺を名前で呼んでくれた。彼女にとって俺が特別になったのだと分かって胸がいっぱいになった。

 それから再び俺は車の姿に戻り、咲紀を乗せて夜道を走った。

 午前4時、彼女をアパートまで無事に送り届けた。

 人の姿に戻っても、ここまで走ってきた高揚感が抜けず、咲紀を抱きしめてたまま部屋に転がり込んだ。

 咲紀は、俺の火照った頬を引き寄せじっと見つめたあと、目を閉じてキスをした。

 人間になって初めて味わった唇が重なる感覚は、まるで魔法のように俺の心を咲紀一色に染め上げた。

「……咲紀、俺……どこか故障したみたいだ。……さっきから心臓が煩くて、お前の事しか考えられなくなった。……これはどういう気持ちなんだ?……お前が欲しくて仕方がない」

「……それは、故障じゃないよ?大丈夫。……少し楽になれる方法、試してみる?」

 咲紀は、俺の唇を指でなぞると寝室に誘った。既に敷かれた布団の上に押し倒され、先程よりも深く激しいキスが落とされた。

 舌を絡ませ、静まり返った部屋に甘く荒い吐息の音が響き渡った。

 俺は、完全にブレーキが故障してしまった。

 誰に教わった訳でもない、人間としての本能で咲紀を貪った。

 ついさっきまで車だった俺からの猛烈な愛撫に、咲紀は僅かに怯んだ。

 それでも、この愛に応えるように咲紀は俺のペースに合わせながら、より一層欲望を引き出した。

 ここまで来れば、もう誰にも止められない。

 人間になって初めて交わした情事は、恐ろしいほど俺の心を掻き乱した。

 止まらない腰の動きに悶え、咲紀は与え続けられる強烈な快楽を逃がすように、俺の背中に爪を立てた。

 脳が全く使い物にならなくなる程、咲紀の中を掻き回した。締め付けが激しくなり最奥部を穿った瞬間、これまで溜め込んでいた欲が一気に解き放たれ、同時に記憶が途切れた。

 真っ白な朝日がカーテンの隙間から差込み、視界がはっきりしてきた。

 腕の中には汗だくの咲紀が、痙攣しながら肩で息をしていた。

「……咲紀、ごめん。……無理、させたな」

「っ……。ううん……、大丈夫……。……不思議。……初めてこれで幸せって感じた……。きっと、LEXUSだったから……かな」

 多幸感に包まれて、どちらからともなく唇を重ねると、咲紀はそのまま深い眠りに落ちた。

 彼女に風邪をひかせないよう、乱れた毛布を整えてふわりとかけた。

 働かない頭を抱えて、ふと目覚まし時計に視線を向けた俺は、一気に現実へ引き戻された。

 無慈悲に進む時間に対して心の中で悪態をつき、甘ったるい倦怠感を全身に残したまま、急いでシャワーを浴びた。

 脱ぎ散らかした服を適当に整え、何事も無かったように事務所へ戻った。



「ぅぐっ……、何アンタ……!!つまんない探偵かと思ってたけど、ちゃんと血の通った愛のある人間してるじゃん……!!」

「はぁ……、涙無しでは聴けない展開でした。 ……咲紀さんも、LEXUSさんを同じように愛していらっしゃったんですね」

 子供みたいに泣きじゃくる34と、その隣で眼鏡を外してハンカチで上品に涙を拭うセンチュリーを見て驚いた。

「……それで、この後咲紀さんとの恋の行方はどうなるの?」

 鼻をすすりながら尋ねた34の言葉に、俺は正直続きを話すのを躊躇ってしまった。

「……LEXUS、今日は少し閉店時間を早めたから、誰も入って来れないよ。気にしないで続けてくれ。……ここにいるのは俺たちだけだ。何も気を使うことは無いさ」

 マスターは、俺に配慮して早めに店を閉めてくれたようだ。マスターの優しさに感謝しながら、俺は泣きたい感情を殺して続けた。



5.雪に落ちた椿


 ――咲紀と結ばれてから1ヶ月が過ぎた。街はクリスマスに向けた飾り付けがなされ、賑やかな雰囲気を漂わせていた。

 浮かれた恋人たちや、親にクリスマスプレゼントを強請る子供を尻目に、俺は事務所の仲間たちと共に淡々と仕事を進めた。

 この時期は特に、浮気調査の案件が増えるせいで、俺たち探偵には休んでいる暇などなかった。

 本当は咲紀と一緒に愛を紡ぎ、二人きりでささやかな幸せを噛み締めていたかった。

 だが、現実はそうさせてくれず、結局咲紀と情を交わせたのはあの日が最初で最後になってしまった。

 立て続けに舞い込んだ依頼のおかげで、咲紀と過ごす時間が犠牲になり、寂しさが募って耐えられなくなった。

 せめてクリスマス当日だけは咲紀と一緒に過ごしたいと思い、急遽1日だけ有給休暇を取った。

「っ!!本当に!?……じゃあ、明日の夜、仕事が終わったら連絡待ってるね?」

 フロアの清掃を終えた咲紀をこっそり所長室に呼び寄せ、クリスマスを共に過ごす約束を交わした。

 咲紀は、大いに喜んで俺に抱きついた。

「あぁ、勿論だ。最高の思い出を作ろう!」

 本当はこのまま咲紀と抱き合っていたかったが、仕事中のため流石にできなかった。その代わり、咲紀の額にキスをしてから再び仕事に戻った。

 そして12月24日の夜22時半、俺は報告書を書き終えてひと段落着いた頃、急いで咲紀に電話をかけた。

「咲紀?こんな時間に済まないな。今、仕事が終わったんだ!……これからそっちに向かう予定だ」

「LEXUS!?お疲れ様!!……やっと逢えるね!!あ、それがちょっとだけ用事があって外出してたの!今、家に向かって歩いているところなんだ。ねぇ、もしよかったら繁華街の近所に古い神社の鳥居があるでしょ?そこで待ち合わせしない?」

「そうだったのか。分かった、じゃあ、あの鳥居の近くで待ってるぞ!」

 スマホ越しに聴こえる咲紀の優しい声に、胸がいっぱいになった。

 久しぶりに大好きな咲紀に逢える、そう思うと自然と笑みがこぼれ、仕事の疲れも嘘のように吹き飛んだ。

 早く咲紀に逢いたい一心で、小走りに線路脇の道を通って神社を目指した。

 数分走っていると、手に小さな箱と紙袋を持って歩く咲紀を見つけた。同じ方向に向かって歩いているせいか、俺には気づいていないようだった。

 いたずらに、少し驚かしてやろうと思い、静かに距離を詰めて近づいた。

 咲紀が神社の鳥居の横に差し掛かった頃、境内の方から全身黒ずくめの男が、咲紀を待っていたかのように飛び出してきた。

 その瞬間、咲紀の身に危険が及んでいると感じた俺は、彼女を守るために全力で走った。走ってすぐに、例の男も咲紀に背後から物凄い勢いで近づく。

 その足音が俺の足音だと思って振り向いた咲紀に、男は理不尽に鋭い刃物で咲紀の左胸の下を数回刺した。

 その光景を目の当たりにした俺は、一気に全身の血の気が引いた。

 その場には俺と咲紀と例の男以外、誰も居なかった。

 道路脇の線路にも電車が走っておらず、犯人を見たのは咲紀と俺……ただ二人だけだ。

 男は、追ってきた俺に気がつくと、慌てて咲紀の胸元から刃物を引き抜いて逃げた。

すぐに男を追って捕らえようとしたが、咲紀を放って男を追うことは出来なかった。

 力なくその場に倒れた咲紀を受け止め、止血するため必死に傷口を手で抑えた。

「咲紀っ……おい!しっかりしろ!!っ!!今、警察と救急車呼ぶから!!」

 半狂乱になっていた俺は、震える手でスマホを取りだし、何とか救急車と警察を呼んだ。

「咲紀っ!!しっかりしろ!!っ……咲紀っ……!!」

 ドクドクと流れる赤黒い血液は、僅かな街灯に照らされ、アスファルトを不気味に汚していっていた。

 そして咲紀の体温が急速に下がっていくのを感じた。

「……ぁ、……れく……さす……来て…くれた……んだ……ね」

「咲紀!!!!……っさき……!!死ぬなっ……!!!!」

「……泣かない、で……?……せっかくの……お顔……台無し……だよ?」

咲紀は、だんだん力の抜けていく身体に鞭を打って、血の着いた手で俺の頬をそっと撫でた。

 俺は、頬に生暖かい血がごってり着いてしまっても拭いもせず、ただ命を繋いで欲しくて手を強く握り返して必死に声をかけた。

「咲紀!!……っやめろ……俺を置いて逝くな……!!……もう一人にしないでくれ」

 俺は必死に声を絞り出して、救急車の到着を待った。

 咲紀は、消えそうな声で泣き叫ぶ俺に声をかけた。

「……あなたに、上げるプレゼント……用意して、たんだ……。……直接手渡し……出来なくて……ごめん、ね。……あぁ……もう、だめかも……しれない。……ねぇ、レクサス………わたし……あなたに出逢えて……本当に良かった。……たくさんの……幸せをくれて……ありが……と……」

 そう言うと咲紀は、眠るように瞼を閉じ、それきり動かなくなった。

 程なくして救急車が来るも、既に手遅れだった。隊員は咲紀の脈拍を測り、俺に臨終だと告げた。

 その後すぐにパトカーが駆けつけてきた。俺は第一発見者として、署で事情聴取を受けることになった。

 署で事情聴取をしてきた刑事は、俺の親友MAZDA ロードスターだった。

 彼は俺の亡くなったオーナーに憧れて刑事になりたいと願って人間になった奴だ。

 お互い仕事でなかなか会えなかったが、久しぶりに見る彼は、逞しい刑事に成長していた。

「LEXUSっ!!話を聴いて飛んできたんだ!!いつもお前には仕事でかなり世話になってるからな。今回の件でその恩返しが出来るといいんだが……」

 ロードスターは、右の頬に咲紀の血をつけて、散々泣き腫らしてボロボロになっている俺を見てギョッとした。

「……ロードスター。……俺、咲紀を守れなかった……」

「……お前は何も悪くない。それ以上自分を責めるな。……辛かったな。亡くなった被害者は、お前にとってかけがえのない存在だったんだろう?」

 何も話さなくとも、ロードスターはこちらの想いを全て汲み取るように、黙って俺の隣に腰を下ろした。

 その瞬間、再び涙がとめどなく溢れてきた。

 いつもは熱血漢で、騒がしい奴だが、今回ばかりは何だか無性に背中を預けていたかった。

 気を利かせたロードスターは、俺の気持ちが少し落ち着くまでずっと隣で背中をさすってくれた。

 それから数時間経った頃、ようやく落ち着きを取り戻した俺は、事の経緯を全て話した。

「……そうだったのか。……参ったな。目撃者が他に居ないとなると、この事件は恐らく難航するかもなぁ……」

「……あぁ。……今回の事件、俺にも調べさせてくれないか?……個人的に。……咲紀の無念を晴らすことが、多分俺に残された最後の使命だと思うんだ。……なぁ、頼む!!」

 向かいに座るロードスターに、俺は取調室の机に額を擦り付けるように懇願した。ロードスターは、「当たり前じゃないか!!」と、ニカッと笑って要求を聞き入れた。

「いつもお前には助けられてばかりだからな!今度は俺がお前を助けてやる番だ。捜査に協力して欲しい」

 こうして、俺は仕事の傍らロードスターたち警察と連携し、数少ない手がかりをかき集めて調査を進めた。

 自分の目で見た記憶が、元の姿に戻った時に設置されているドライブレコーダーに映っていないかも確かめた。

 皆の協力もあり、事件発生の翌年10月、遂に咲紀を刺した犯人は逮捕された。

 ここまで漕ぎつけるのに相当な時間を費やし、やっと咲紀の無念を晴らすことが出来た。

 犯人はその後裁判にかけられた。俺はその時傍聴席にて、殺害動機などを静かに聴いた。

 その理由はあまりに理不尽で、俺は思わず元の姿に戻って犯人を轢いてやりたいとさえ思った。

 必死に恨みの感情を押し殺し、判決が下る瞬間を静かに見守った。



「それでも、1年かからずに犯人が見つかったのは、LEXUSさんたちが心血を注いで情報収集をしたおかげですね」

「……あ、そういえば咲紀さんから受け取るはずだったプレゼントはどうしたの?」

「取調室で、ロードスターから手渡された。……咲紀は、僅かな収入を貯めて、今着けているこのネクタイピンを買ってくれたんだ。……全く、俺なんかにお金を使うんじゃなくて、もっと自分のためにお金を使って欲しかったのにさ……」

「……それだけ、お前を心から愛していたんだろう。だからどんなに自分の暮らしが大変でも、惜しみなくお前に費やせたんじゃないか。……いい加減素直になればどうだ?……そんなんだから、お前はいつまで経っても34やBRZに"堅物"やら"薄情者"呼ばわりされるんだよ」

「おい……マスター!今のは流石に聞き捨てならないなぁ」

「まぁまぁ、落ち着きましょう!それも含めてLEXUSさんらしくていいじゃないですか。不器用だっていいんです。無理に取り繕うことなく、貴方らしく信念を貫いて生きていく事が、咲紀さんへの供養になるんじゃないでしょうか?」

 ド直球なマスターと喧嘩になりかけていたところを、センチュリーが穏やかに仲裁し事は丸く治まった。




6.白紙のページ


 咲紀を殺した犯人が捕まり、判決が下ったあと、この事件は各メディアによって報じられた。

 俺は、咲紀の命を奪った犯人に裁きが下ったニュースの新聞記事を切り抜いて、花と一緒に持って彼女の眠る墓へ向かった。

 咲紀の墓に着くと、そこには先客が居た。腰の曲がった一人の老婆が、綺麗な花を活けて手を合わせていた。

「……おや、お嬢様のお知り合いの方ですか?」

 話をしていくうちに、老婆は咲紀が生前、唯一心の支えにしていた使用人の"ばあや"だということが分かった。

「えぇ、そうです」

「そうでしたか!!お嬢様、上京してこんなに素敵な方と巡り会えたのですね!!……本当に、良かった!」

「……あの、咲紀の事……もっと詳しく聞かせていただけませんか?」

「えぇ、勿論です!……その前に、お兄さんもお嬢様に逢いにいらっしゃったのでしょう?お参りが終わったら、あの坂を下った角にある喫茶店でお話しましょう」

 ばあやは、穏やかに微笑むと静かに離れて俺が来るのを待った。

 墓参りを終えた俺は、ばあやと共に墓地の近所にある古い喫茶店へ行った。

 そこでお互いの事と咲紀の思い出を日が傾く頃まで語り合った。

咲紀と過ごした思い出が次々と溢れ出し、事件を境に封印してきたはずの感情が一気に溢れて泣き崩れた。

ばあやは、そんな俺の背中を優しくさすって慰めた。

「LEXUSさん、もう泣くのは辞めましょう?……確かにお嬢様は亡くなってしまいましたが、あなたは充分、お嬢様を守ってくださいましたよ!……ほら、今度はあなたが前を向く番です。いつまでもお嬢様のことを引き摺らず、気持ちを切り替えてくださいね?」

 ばあやの言葉によって、悲しみのどん底に堕ちた俺の心に、僅かな希望の光が射し込んだ。

 それから気持ちが僅かに軽くなった頃、ばあやと共に店を出てお互い帰路に着いた。

 その日の夜、所長室で咲紀の遺品整理で貰ったビオラの花を見ながらうたた寝してしまった。

 真っ暗だったはずの視界が急に明るくなり、俺はいつの間にか美しい花畑に立っていた。

「……ん、……探偵さん!……もぅ、LEXUS!こっちを向いて?」

後ろの方から微かに聴こえた懐かしい声は、段々と大きくなってきた。

 ぼんやりした意識の中で、声のする方を向くと、そこには穏やかに微笑む咲紀が立っていた。

 俺は、たまらず咲紀を抱きしめると、最後に抱きしめた時の感覚がそのまま伝わってきた。

 咲紀も、それに応えて俺の腰にしなやかな腕を絡めた。

「っ!!咲紀……!!逢いたかった……」

「っふふふ♪ そうだね、久しぶりに会えて良かった!……LEXUS、例の犯人を捕まえてくれてありがとう。私、ここからずっとあなたのこと見てたんだよ?……私のために、必死に犯人を探してくれていたよね。毎日寝る間も惜しんで調査をしてくれていたの……全部知ってるよ」

「ぅ……!!……あの時、俺が直ぐに犯人を取り押さえていれば良かったのに……できなくて済まなかった」

「そんな事ないよ。もう謝らなくていいの。……私のこと、忘れないでいてくれるだけで、充分幸せなんだよ!」

 咲紀はそう言うと、初めて俺に笑顔の作り方を教えてくれた時のように、嗚咽する俺の口元に指を当てて引き上げた。

「あはは!そんなに泣いちゃ、幸せも一緒に逃げちゃうでしょ?」

 それからしばらくして、やっと涙が止まった。

 咲紀は、落ち着いた俺の手を取り花畑に腰を下ろすと、俺を膝の上で寝かせてくれた。

「……そうだ!LEXUS、こっちであなたのオーナーにお会して、色々お話するうちに仲良くなれたのっ!今日、一緒にLEXUSに逢いに行こうって誘ったのに、オーナーさんったら『別に今、アイツに伝えたい事は何も無い』ってそっぽを向いて来てくれなかったのよ? 」

 そう言って、咲紀は笑いながら続けた。

「いつもは私の隣であなたのことを、凄く心配そうに見守っているのにね?急に意地張っちゃうんだから!……でも、そういう所が何となくLEXUSと似てて……つい、笑っちゃった」

 オーナーは生前、あれだけ俺に厳しく探偵の仕事と武術を叩き込み、愛情なんか微塵も注いでくれたことはなかった。

 俺は、オーナーこそ一番の薄情者だと思っていたが、実はずっと俺の事を見守ってくれていたと分かり、また涙が溢れた。

「……何だよ、オーナー……。生きてる時は、俺を愛してくれたことなんか一度もなかったくせにっ!!」

 天邪鬼なオーナーに悪態をついたが、ここまで俺を人間として成長させてくれたことに、感謝してもしきれなかった。

 咲紀に頭を撫でられながら、ゴシゴシと流れる涙を袖で拭いた。

 それからしばらく経ち、咲紀は思い立ったように立ち上がった。

「そろそろ、戻らなきゃ。LEXUS、今日はありがとう。また来年のひまわりが咲く季節に逢いに行くね?」

「っ!!……咲紀、もうあと少しだけでいい……こうして一緒に居たい」

 また一人になるのが辛くて、向こうへ行く咲紀を全力で引き止めようと、咲紀の手を強く握った。だが、咲紀は静かに目を閉じ首を横に振った。

「……LEXUS、最後になるけど、あなたはあなたらしく前を向いて、私の分まで生きていってね。……過去に縛られて必死に感情を消そうと思ってるみたいだけど、そんなことはしないでね。泣きたくなったら泣いていいの。でも、その後笑顔になること、忘れないでね?」

 そう言うと咲紀は、泣き崩れる俺の額にキスをした。

「……私の他にも好きな人ができたら、どうかその人の事、守ってあげてね?」

 涙で視界がぼやける中、遠くの光の方へ向かう咲紀を追いかけようとした。

 しかし、足下の花畑が黒い泥濘に変わり、足をとられて咲紀を追えなかった。

 泥濘は、まるで流砂のように俺の身体をどんどん地下へ引きずり込んだ。

「咲紀ーーーーーーっ!!!!!!」

 とうとう首まで沈んでしまい、喉の奥が裂けるほどの大声で最愛の人の名を叫んだ。

 遠くの方で小さくなる咲紀の姿を見つめながら、泥濘に飲み込まれた俺は、そこでハッと目を覚ました。

「……夢、か」

 散々流した涙によって、頬に髪の毛が張り付いていた。 夢の中で咲紀と交わした約束を思い返し、俺は残された時間を必死に生きようと固く誓った。



「……それでも俺、今でもちゃんと前を向けているのか分かんねぇけどな」

 そう言って、グラスの底に残ったブランデーを飲み干した。隣で話を聞いていた34とセンチュリー、そしてマスターへ交互に視線をやると、3人揃って泣いていた。

「……LEXUS、そう心配しなくても、お前はちゃんと前向いて歩めるようになっていると思うぞ。……じゃなきゃ、毎日うちの店やBRZの店に来ないだろう?」

 マスターの一言が、不思議と俺の心の雨雲を払ってくれた気がした。

「ご自身の変化は、自分ではなかなか気が付きませんからね?……けれど、私たちに今日、貴方が過去に負った深い傷を打ち明けてくださったじゃないですか。そう言うことが出来たのは、貴方の中で気持ちの整理がきちんとついたからだと思いますよ」

 センチュリーは、そう言って俺の手を握って勇気をくれた。

「LEXUS、良かったね!これだけアンタを支えてくれる人に囲まれてて。もう悲しんでる暇なんて無いでしょ?ほら!」

 34は、そう言うと俺の肩をグイグイ揺すり、「BRZの店にハシゴしに行こ!」と、破天荒に誘った。

「……正気か!?お前、今何時だと……」

「いいじゃんいいじゃん!!再出発の門出に! ママの店、あそこ朝4時閉店でしょ?まだ2時間もあるじゃん!余裕っしょ!!……たまにはこうやってバカになるのも必要なの」

 半ば拉致される形で、俺は34に連れられBRZの店へ付き合わされた。

「あははは、愉快な方々でしたね」

「はぁ……。あいつらは何時もあんな感じだ。……まぁ、今日の34は珍しくLEXUSを本気で救おうと必死だったな」

「それだけ、34さんにとってもLEXUSさんは大切な存在なんですね」

 センチュリーはその後会計を済ませて、マスターと一緒に店を出てから帰ったそうだ。

 一方俺は、34に付き合わされてBRZの店で散々飲まされた。その後の記憶は無いが、気がつくと所長室で眠っていた。

 二日酔いで頭が働かない中、またいつものように変わりない一日が始まる。




―完―

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