ニート、仕事を得る。
「あなたたちだけが、救いなんです」
新卒で入社した超絶ブラック企業を辞め、絶賛自宅警備員謳歌中。インターホンが鳴り、いつものように居留守をしようと毛布を被っていた。
しかし、今回の望まぬ訪問者は諦めが悪い。インターホンは鳴り止まず、そのピンポンの音にはどこか軽快なリズムが感じられ始めた。立ち上がり、ドアスコープから恐る恐る覗く。
あたたかそうなマフラーを巻いた、背の低い人間だ。中性的でぼんやりとした顔立ちで、なんとも言えない表情でドアを見上げている。未成年にも見えるその姿に、自分に何の用があるのか見当もつかない。イタズラにしては、表情に無邪気な悪意は感じられなかった。
「……はーい」
ドアを開ける。久しぶりに出した声は自分でもゾッとするほどか細い。訪問者ははっと開いた目で、スウェット姿で髭もろくに剃っていないひきこもり男を捉えた。
「……どちら様ですか」
「出てくれないかと思いました」
訪問者が顔を綻ばせる。声は顔立ちにしては大人びており、そしてやはり男女ともつかない。コートから何やら縦長の封筒を取り出すと、俺に差し出した。
「読んでください」
それだけ言い、くるりと踵を返して去ろうとする。「え、ちょ、ちょっと……!」とおもわず呼び止める俺に、訪問者は振り返り、「読んでください」とまた言う。
「すみません、用事がありまして。愛する人と一刻も早く会いたいので」
「はあ……いや、あの、待って……」
「……沢谷伽耶子さん」
ぴく、と眉が引き攣る。その、名前。古い記憶が掘り起こされる。甘さも苦さも、青春と呼ぶには暗く、けれど今になって振り返るとたしかに青春だったとわかる、俺の青春のすべてが。
「会いたくないですか?」
そいつはふわ、と笑うと、まるで溶けるように、薄暗い冬の日暮れの街へ消えていった。
♡
折られた紙を開く。始まりは、こんな言葉だった。
『はじめまして。あなたは、不運なことに、あるいは幸運なことに、ラブシャワーを浴びなかった四人のうちのひとりです』
──1ヶ月ほど前、世界は不思議な雨に包まれた。
ハイジャックされたメディアからは謎の声明があがり、そして夜が明ければ、人々は、身近な誰かと恋に落ちていた。上司と部下。同僚同士。隣の席のクラスメイト。隣の部屋の住民。同じ恋が続いていたり、あるいは既存の恋が終わり、新しい恋が生まれていたり。けれど不幸はなかった。なぜならすべてが、ひとりがひとりに恋をする、両思いだったから。
「パパ」と名乗る謎の覆面の人物は、平行世界からやってきたと言い、あらゆるメディアを牛耳り、二人の世界、すなわち熱烈な恋に忙しい政治界を乗っ取った。ピンク色のフードを目深に被り、愛する人とお揃いで使える生活用品の広告に出ているのをよく見る。
ネットからは、あれほどいたはずの、カップルへの僻みをこねくり回すやつらが消えた。クリスマスが近づいてくるというのに、ネット掲示板には恋人や配偶者への惚気であふれている。
「パパ」とかいうピンクフードの男は、画面越しにこう言った。
「愛を知らない君たちの住む世界へ、ありったけで平等のラブシャワーを浴びせました。明日になればあなたは、不思議なことに、素敵な恋に生きていることでしょう。それも、両思いのね」
恋人と別れたらしいやつの呟きを、ほの暗い気持ちで眺めていれば、突如液晶画面に流れた謎の動画。へんなピンクフードの男と、気味の悪いほど綺麗で人形みたいな、ピンク髪の老若男女たち。
……なにが、ラブシャワーだ。
あの日の夜、鬱で動かない心の奥底に、じんわりと滲んだしょうもない高揚。
朝、目が覚めたら。そんな期待は打ち砕かれ、みるみる明るく変わっていく社会から、「いないこと」にされていく俺。
『彼らを止められるのは、恋の雨にふれなかったあなたたちだけです。話だけでもどうか聞いてほしい』
一週間後の日付と、居酒屋らしき住所が添えられている。そして、ニュースをほとんど観ない俺でもピンとくる名前があった。
「しゅ、首相って、マジ……?」
♡
つい最近、意味不明で馬鹿げたことがこの世界に起こって、そしてその馬鹿げたことから俺は仲間はずれにされた。
そうして今度は、国の首相──ピンクのフード男が来てからは既存の政治家としての地位すべてがその機能を失っているが──に、近所の居酒屋に呼び出された。
髭を剃り、まともな服がわからないからとりあえず、会社員時代着ていたスーツを引っ張り出してきた。髪を整える。こんなに鏡を見るのは、外へ出るのと同じくらい久しぶりだ。「恋の雨にふれなかった」。「あなたたち」。それってやっぱり、沢谷さんも、俺と同じで……。
ドンッドンッドンッドン!!!
突如、ドアを激しく叩く音に心臓が跳ね上がる。いよいよ近所迷惑だ。ドアスコープを確認する余裕もなくドアを開ける。
「もうっ、ピンポン鳴らしても出てこないんですもん!」
甘ったるい声。恐ろしいくらいに整った顔立ち。そして、高い位置でツインテールにした髪は、ピンク色。
胸元にレースのついたシャツに、黒いセットアップのジャケットとスカートのスーツ。スタイルは会社員なのに、髪と、華やかなメイクと、アニメ声と大袈裟な仕草が浮いている。
「青柳充さん、ですよね」
ツインテールの美少女は、こてんと首を傾げた。仕草のわりに断定的な言い方。
「居酒屋まで、ワタシがおともしますっ!」
彼女の名は、幽。
「迎えに行ってって言われたので来たのです」
目の下には、小さなハート型のシールがまるでそばかすのように散っている。あまり詳しくないが、カラーコンタクトとかいうやつなんだろうか、ピンク色の瞳孔の中にはバツマークが見える。
「質問していいですか」
「はいっ!なんでしょう?」
勢いに気圧されつつも、
「あなたは、その」
「幽ですっ」
「……幽さんは、パパとかいう人の、お仲間、なんですよね」
「お仲間。ふうむ、そういうものなんですかね」彼女は片方のこぶしを顎の下に当て、視線を宙にやった。
「ワタシたちは、愛の世界からやって来ました。その昔──こちらとは時間の流れが違うのです──愛のない世界を憂いたパパは、世界を変えたいと思いました。けれども力は足りず、代わりに別の世界をつくり、そこで生きることにしたのです。超常的な力は、愛の世界でより成長し、ついには既存の世界を改革するほどの強大な力にまで発展しました。だからここへやって来たのです。愛の世界で、特定の誰かではなく、すべてに愛を配るアガペーであるワタシ含めた『アイドル』たちは、愛に夢中になる新しい世界の均衡を保ち、愛を知らない未熟なアナタたちを導くために遣わされたのです」
「……すみません、何言ってんのかわかんないです」
幽さんはかわいらしく笑うと、俺を上目遣いで見上げ、ふいに、人差し指を伸ばした。ふにっと、俺の頬を軽く押してみせる。
「意味不明でもダイジョーブですよ、青柳さん?だって理解できてもできなくても、この世界はとっくに変わってしまったんですもん」
♡
Googleマップで見た通り、少しだけ寂れた、何の変哲もない大衆居酒屋に到着する。居酒屋。会社員時代にたしか、よく飲みに連れて行かされてたっけ。
「青柳さん?体調悪いです?」
「いえ、大丈夫です」
動悸がする。荒くなる呼吸を鎮めるよう、深呼吸をした。幽さんがドアを開ける。まだ夜には早いからか、客は三組しかいない。ちなみに、すべて二人組である。
「こっちですっ」
テーブル席もカウンターも素通りし──従業員二人に頭を下げようとしたが、仕事の合間にいちゃついており、俺たちには目もくれなかった──奥の方、「従業員以外立ち入り禁止」という紙の貼られたドアへと突き進む幽さん。彼女が躊躇いもなくドアを開ける。物置のような狭い空間があり、さらにドア。下向き矢印のボタンがついている。
──エレベーターだ。
連れてこられたのは、無機質でそれなりに広い、会議室のような部屋だった。白く大きなテーブルとパイプ椅子、その向こうにはホワイトボードがあり、数人が集まって何か話している。その中には、先日の訪問者に似た人物が中央に二人いる。どちらも同じくらいの背丈だ。
「青柳さん、とーちゃくですっ!」
高い声は広い部屋の中でよく響き、ホワイトボードの前の人々が一斉に振り返った。「ほらほらっ」と彼女に手招きされるがまま、後を追う。
「来てくれてありがとうございます」
訪問者らしき一人が俺に歩み寄った。
「遅れてすみません」
ふと、その人の隣にいる人物に目がいく。背丈が同じなら、顔立ちもそっくりだ。
「双子なんですか?」
つい、尋ねてしまう。二人は顔を見合わせると、瓜二つな笑みを俺に向けた。その笑顔は、少し苦々しく見えた。俺に近い一人が口を開く。
「いいえ。パートナーですよ」
「……え?」
思考の回らない俺に、俺から遠い方の一人が「はじめまして」と言った。もう一人と、まったく同じ声だった。
「私は、あるいはこの人は、かつての本国の総理大臣である広野正、あるいは彼のパートナーだよ。訳がわからないという顔をしているね。追って説明する」
いや、だって広野さんって。十代か二十代かそこらな、のっぺりとした二人の顔を交互に見る。さっきから、マジで何を言っているかわからない。
「まずは、旧友とのご挨拶はいかがかな?」
その言葉に、視線を上げる。そこには、三人の人間がいた。記憶と記憶が、線でつながる。彼女はもちろんだが、不思議なことに、あとの二人でさえも誰なのかがわかった。中学以来なのに。
「久しぶり、青柳くん」
彼女──沢谷さんが微笑む。
変わらぬ黒いショートヘアと、穏やかで柔らかい雰囲気。タレ目がちな目と、左目の下にある小さな黒子、ぽってりした唇。甘さもあるが、それでいて背筋が伸びるような、芯のある声。一方でその小柄さと、白のニットとロング丈のスカートが愛らしい。大人になっていてもあの頃と同じくらい、いやそれ以上にかわいい。
「ひ、久しぶりだね。沢谷さん、あと、岸さんも、瀬戸くんも」
「驚いた。覚えてんだ」岸さんが目を見開く。
長くストレートの金髪に、緑のインナーカラー。イカつめな青のジャージの下には派手なプリントTシャツに、下はスッキリしたパンツスタイル。派手な化粧と派手なピアスという出で立ちでも、彼女だとわかったのは、おそらく、他の二人が同級生だったから、自然と彼女をクラスメイトの記憶から検索したからだろう。
「俺もびっくり。全然関わりなかったしね」瀬戸も、かなり変わっていたが面影からわかった。ユニクロっぽいシンプルな私服姿だ。愛想のよさはそのままだが、背が憎いほど伸び、大人の男の余裕を纏っている。俺、だなんて、かつてのこいつじゃ想像がつかない。
「わかるよ。きみらこそ、俺なんか忘れてたでしょ」
「忘れるわけないよ。だって青柳くん、人気者だったし」
沢谷さんが声を張る。じわっと顔に熱が集まるのがわかり、慌てて話を逸らす。
「それでみんなも、ラブシャワーとかいうわけわかんねえやつを浴びなかったってこと?」
「ああ」瀬戸が頷く。
「広野さんかパートナーさんかに手紙もらったとき、びっくりしたけどちょっとほっとしたよ。仲間いるんだあって。それが同級生だったのはびっくりしたけど」沢谷さんが言った。
「そう、それなんだけど。首相ってほんとに……?」
「沢谷さんに聞くより、本人たちに聞いたほうが早いんじゃないかな」岸さんの言葉に、俺たちの視線は双子のような二人に集まる。
「お、もう喋っても大丈夫なの?」一人が目を丸くする。
「それじゃあ、椅子に座って話しましょう」一人が言った。
「その前に……幽さん、ありがとう」
「ええっ、ここにいちゃダメですう?」
テーブルの上に座っていた彼女が、不満そうに脚をばたつかせる。
「どうしてですか?ひ•み•つの話は、ダメですよう?」
ピンク色の目の中が、ギラリと光った気がした。おもわず後ずさる。そっくりな二人組は表情一つ変えない。
「申し訳ない。ただ、個人的な話もあるから。もちろん、君たちに対して後ろめたいことがあるんじゃないんです。そういうものではなくて、ねえ、わかるでしょう?個人的な」
すると、彼女がはっとした顔をして立ち上がった。長いツインテールが宙を舞う。ニヤニヤと嬉しそうに笑い、「そうですかあ」と何度も頷く。
「ラブい話なら仕方ないですねえ。恋バナは三度の飯よりだーい好きですけど、聞かれたくないなら我慢しますですう。それじゃあ、幽はこれで!」
彼女の背中を見送ったあと、そっくりな一人がふうとため息をつく。もう一人は俺たちを見回すと、咳払いをした。
「──では、まずは、私たちのことから話しましょう。青柳さん以外には、先ほど少し話したことと、始めの話は重なりますが」
ホワイトボードの前に椅子をまるく並べ、例の二人はホワイトボードの前に立っている。
話は、こうだ。
ふたりは、かつての広野首相と、彼がよく妻と訪れていた料亭の従業員の一人•斉藤。ラブシャワーの力で両思いに落ちた。
首相という存在は社会から薄れ、従業員の方も、職場のパワーハラスメントに苦しんでいた。ラブシャワーの力により、先輩たちは恋に忙しく、パワハラはなくなったが、職場を離れたい斉藤の気持ちは変わらなかった。
二人は、元従業員の地元であるここ、地方都市に移り住み、「パパ」から遣わされた幽からの支援のもと、新生活を始めていた。広野さんは家事を、料亭の元従業員は、友人から譲り受けた居酒屋のオーナーを。二人は、幸せな生活を送っていた──ある日、二人の姿かたちが、少しずつ、同じものに変わっていくまでは。
「お互い愛しているけれど、外見はあまり気にしていなかったから、気づくのに時間がかかりました。気づいたときには、私たちは瓜二つの別人になり、どちらが広野でどちらが斉藤なのかさえもわからなくなりました」
「あなたたちをサポートしますっ」と週一で訪問する幽さんの、「サポート」の意味とはと首を傾げつつ、まるで友だちかのように惚気話を聞いてもらっていた。
同じ容姿になり、もはやどちらがどちらかわからなくなったことに気づいた次の日、訪れた幽さんに、二人は尋ねた。自分たちに、いったい何が起こったのか。
『運命って信じます?』
そう、幽さんは言った。
『人は、生まれる前、魂の段階で、二つに分離するんです。この世には、誰にでも、魂の片割れがいる。けれどほんとうの片割れに出会えるのは、奇跡みたいなものなのです』
ラブシャワーは、そんな奇跡を、あるいは奇跡よりもすごいことを達成する。片割れ同士をくっつけるんじゃない、くっついた相手を片割れにする。
恋に落ちるのは初期段階。効果が出たのは二人初だが、いずれすべての二人組たちに、「同化」という現象が現れる。境界が曖昧になる二人は、極限まで互いに近づく。それはすなわち、最大の「二人きり」である──。
「君たちは、第二フェーズへと進む世界により起こる何らかの歪みを、見守ってもらいたい。具体的に言えば、私たちのように、変化に戸惑う人々への説明や、あるいは必要に応じて、幽さんのような支援員──『アイドル』を派遣したり。幽さんが言うには、なぜだかわかりませんが、『同化』がまず現れるのはこの街なのだそうです。他県から来られた岸さんや瀬戸さんには、もちろん新生活のための支援をすべていたします」
「……というのが、表向きの依頼だ」
そっくりの一人が言った。もう一人が頷く。
「恋に盲目というのはその通りで、私たちは、互いのことだけが大切で、他のことが考えられず、けれど凝り固まる頭の中で、この状況が狂っていて、間違っていることが、なんとなくわかるんです。正気じゃない」
「この人と出会い、恋をしたことを、否定したくはない。たとえ謎の力による、つくられた恋だとしても。それに、かつて私かこの人がしていた薄暗いことや、あるいはどちらかが受けていた苦しみ、そういう支配と被支配の構図の崩壊を、立て直し、取り戻したいとはどうも思えない。だが一方で、新しい世界でさえも、『パパ』という存在とその部下たちによる、新しい支配と被支配の世界であることに変わりはない」
「──だから、あなたたちが、あなたたちだけが、救いなんです」
二人が俺たちを見回す。蛍光灯の灯りを反射する、同じ二つの顔。
ラブシャワーによる結末。別の世界からやって来たやつらが思い描く、新しい世界のゴール。
それが、これなのか。
「もとの世界に戻してほしい、ではありません。ピンクの来訪者らの描く未来とも違う、新しい世界を、どうかつくってほしい」
──新しい、世界。
「このまま、『同化』の進んだ先に、何が待っているのか検討もつきません。ただ、あなたたちは、偶然か必然か、この世界で唯一力の影響を受けなかった。理由はわかりませんが、幽さんが把握していたことから、もしかすると、偶然ではなかったのかも。私たちに協力してくれるのなら、彼女はあなたたちの上司になりますが、彼女はもちろんピンクの来訪者たちには、この目的は知られてはいけません。極秘になります。彼女は意外と抜かりない人ですが、ああいう単純なところもあります。気をつけていれば、気づかれることはありません」
超常的な世界と、不可思議な依頼。
それはフィクションであればワクワクしそうな展開で、けれどそれは紛れもなく、俺の目の前で起こっている、事実だった。
沈黙を破ったのは瀬戸だった。
「……断ったらどうなんすか?俺らは秘密を知っちゃったわけだし、タダでは帰してもらえなかったり?」
軽快で、しかし明らかに意地悪さを含んでいる。
「それならば、諦めますよ」一人が、意外にもあっさりと言った。
「別に、断ったって何もしないよ。協力する義務なんか君たちにはない。それに、私たちには君たちをあれこれするような力はない」もう一人も爽やかに言葉を重ねる。
「君たちの安全を100パーセント保証できるわけじゃない。やつらの思惑や、何をしでかすかも、幽さんとの関わりがある私たちですらまったくわからないんだ。だから、断る気持ちは十分理解できる」
岸さんが、組んだ脚を下ろし、立ち上がる。頭をかくと、二人に歩み寄った。
「いーよ。協力する」
「岸さん、本気?」瀬戸が苦笑いする。
「ひと月いくら?」岸さんは瀬戸を見ないまま、二人に問いかけた。一人が、目を剥くような額を口にする。
「もっとも、支払うのは来訪者たちですが」
岸さんは頷くと、両手を二人に差し出した。
「私、あったかいとこに住みたい。日当たりがよくて、なるべくうるさくない静かなとこ」
「伝えておきます。一人用の住まいなんて余るほどありますよ」
握手する岸さんと二人。隣でかたんと音がする。沢谷さんも立ち上がり、岸さんに並んだ。
「楽しそうかも。それに、待遇もすっごくいいし、やるしかないかも……!」
「よ、よすぎて、逆に怪しくはないかな……?」
慌てて背中に声をかける。沢谷さんは振り返ると、小動物みたいな愛くるしい笑顔を俺に見せてくれた。
「二人も、どう?元同級生と再会して、一緒にお仕事できるなんて、とっても楽しそう!」
息が止まりそうになる。なんて無邪気でかわいいんだ。久しぶりに人から、それも好きだった人から向けられる、あまりに純粋で好ましい期待の顔に、俺の思考は停止した。
「……たしかに、楽しそうかも?」
立ち上がり、おもわず瀬戸の顔を見る。目が合ったとき、その顔に、蔑むような色が浮かんだような気がしたがすぐに消えたから見間違いだったかも。瀬戸はしょうがないな、と言いたげな、しかし柔和な笑みを浮かべると、俺の後に続いた。
「俺も、新居は静かなとこがいいです」
「みんな、ありがとう」一人が微笑んだ。それぞれが握手を交わす。
「沢谷さんや青柳くんにも、よければ新しい住まいを準備しますよ」
「どうせなら、元同級生同士、みんな同じマンションてどう?それか、シェアハウスとか……!」
広野さんか斉藤さんかが目を輝かせ、もう一人も激しく頷く。「いいですね!もしかしたらそこで、ラブシャワーから逃れたみなさんの、真実の恋が始まったり……!?」
「いや、住むとこは別々がいいな」
気まずさと、しかし矛盾する期待にも揺れていた俺の妄想に侵された頭は、岸さんのスッパリとした一言で現実に引き戻された。
「そ、それもそうだね!」
「仕事だし、仲良しごっこするわけじゃないしね」
沢谷さんと瀬戸も同調し、俺は何度も頷くことしかできない。そっくりの二人は、不思議そうに俺たちを見上げた。
「みなさんは、愛に生きないのです?」
「……まあ、つくられた恋に生きる私たちが言えたことではないですね」二人は目を伏せてから、また俺たちに向き合った。
「別の住まいを見つけるように言っておきます。しかし準備が整うまでは、申し訳ありませんが、同じホテルで宿泊していただきます。沢谷さんと青柳さんは、今の住まいにいたければそのままでも構いません。家賃や光熱費は給料とは別にお渡しします」
「あ、じゃあ俺は、ホテルで。あと、新しいとこに住みたいです」
狭く、日当たりが悪く、周辺の車通りが多い部屋。そして、会社員時代から今のニートとしての生活で続く、鬱々とした感情の煮詰まった俺の部屋。一刻も早く出てしまいたかった。
「私も、新しいとこには住みたいなあ。けど、それまでは今のとこにいます。片付けとか時間かかりそうだし」
朝、偶然同じ時間にドアを開け、一緒に通勤する妄想を繰り広げていた俺はまたもや撃沈する。これから何度自分のキモさを思い出すんだろう。恋なんかしたくないのに。
──かくして、俺はニートを脱却し、危険で刺激的でおそろしく待遇のいい仕事を手に入れた。
苦しくて、大切な、他者の、そして自分の、それぞれの想いに、うちのめされるなんて知らず。
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