花園の乙女たちの憧れる青薔薇の君はとんでもない人外でした

天宮暁

プロローグ ~深堂院志摩はいかにして青薔薇の君となりしか~

プロローグ ~深堂院志摩はいかにして青薔薇の君となりしか~

 誰にでもあることかもしれませんが、子どもの頃、理不尽な怒り方をされたことがあります。


 その日わたしはお屋敷のお庭でお絵描きをしていました。

 クレヨンを使って、夢中でお屋敷の絵を手元の画用紙に描きなぐっていると、がさっという物音に続いて、何かがわたしのすぐそばに落ちてきました。

 最初のがさっという物音は、わたしが日よけにしていた樫の巨木の枝葉の揺れる音だったはずです。

 幼いわたしが、突然現れた「それ」を、空から落ちてきたものだと思い込んでしまったとしても、無理のないことだったと思います。


 それは、チューリップの球根のような何かでした。手に取ってみると、幼いわたしの手のひらにあまるほどの大きさをしています。


 怖いもの知らずだった幼いわたしは、その球根のような何かを、お屋敷にいたお母様に見せに行きました。

 お母様といっても、わたしを産むのと引き替えに亡くなった実の母ではなく、母亡き後に父が娶った継母です。


 その頃はまだ、わたしと継母との仲はぎくしゃくしていなかったはずなのですが、継母はわたしの差し出した球根を見るなり悲鳴を上げました。


 それだけであれば、今のわたしならば継母の気持ちを理解することもできます。

 わたしも今の年になるまでに蜘蛛や毛虫がすっかり苦手になってしまいました。

 グロテスクな生き物に対して覚える生理的嫌悪感というものは、とかく禁じがたいものです。


 ですが継母は、ひとしきり悲鳴を上げた後、わたしにこんなことを言ったのです。


 ――その球根を、すぐに花屋さんに返してきなさい!


 と。


 お嬢様育ちの継母には、球根は花屋で買うものであって、お庭に落ちているようなものではないのでした。

 わたしがいくら、この球根は空から落ちてきたのだと言っても信じてもらえません。

 いえ、空から落ちてきた、などという話をしてしまったのが、かえってまずかったのでしょう。

 継母は怒り狂い、球根を花屋に帰してくるまでお屋敷に入れないと言い出したのです。

 どうしてこの子は嘘をつくの、どうして私を母親と認めてくれないの……そんなことも言っていたように思います。

 あるいは継母のわたしに対する隔意は、このときに形成されたものだったのかもしれません。


 それはともかく、お屋敷を追い出されてしまったわたしは、泣きべそをかきながら花屋さんへの道をとぼとぼと歩いて行きました。


 花屋さんと言いましたが、正確には園芸のお店で、お屋敷の園丁さんと仲のよかったわたしは、園丁さんにくっついてそのお店によく出入りしていました。

 だからこそ継母も、わたしが花屋さんから球根を盗んできたのだ、などという想像をしてしまったのでしょう。


 幸い、花屋さんは幼いわたしの足でも歩いて行ける距離にありました。

 わたしは商店街へと続く狭い道を行くあいだ、手のひらにのせた大きな球根に、なにごとか話しかけていたような気がします。

 その球根は、不思議なことに、わたしが声をかけると相づちを打つように膨らんだり、脈打ったり、あたたかくなったりしたような気がするのですが、もちろんそれは幼いわたしの錯覚だったのでしょう。


 花屋さんのある商店街への道は、その頃できた大きなマンションに圧迫されて狭苦しく、そのわりには車通りの多い危ない道でした。


 継母に理不尽に怒られ、泥棒の濡れ衣を着せられ、やってもいない罪で謝りに行かなければならない――そんな状況に打ちひしがれた、幼いわたしの注意がおろそかになっていたところで、はたしてそれは責められることでしょうか。


 突然脇道から飛び出してきた自動車のボンネットが、わたしの視界いっぱいに広がったことまでは覚えています。

 そのときに味わったはずの酷い衝撃は、わたしの記憶からはすっぽりと抜け落ちています。


 でも、その事故の中で、ひとつだけ覚えていることがあります。

 それは、


 ――君のことは絶対に助ける!


 そう言ってわたしを力強く抱きかかえてくれた殿方のお声です。


 事故の衝撃のせいでしょうか、まことに口惜しいことに、その殿方のお姿はわたしの記憶にありません。

 ですが、車にはねられたわたしを支えてくれたその腕の力強さと、激痛に喘ぐわたしを励まし続けてくれたお声の優しさとは、今でも、昨日のことのように思い出せるのです。


 病院で目を覚ましたわたしは、開口一番、その殿方のことをお父様に尋ねました。

 しかしお父様は殿方のことを何もご存じではありませんでした。


 殿方は、幼いわたしを励まし、救急車を呼んでくださった後、忽然とそのお姿を消してしまわれたのです。

 なんともお優しく、謙虚なお方です。


 わたしはその日から、その殿方のことを心のお兄様と定めました。

 そして、お兄様にふさわしい女性となるべく、それまでは嫌がってやらなかったお稽古事やお勉強にも積極的に取り組むようになりました。


 わたしが今、学園で「青薔薇の君」などという面映ゆい呼ばれ方をしているのも、ひとえに、お兄様にふさわしい女性でありたいという、幼い日のあの決意のおかげなのです。

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