二〇二五年 福地 暁斗 Ⅵ

 翌朝、暁斗と海老根は重い空気を纏ったまま、県境を越え、都内の企業ビルへと向かっていた。車窓から見える景色は、静寂を破るように朝陽が街を染め、行き交う人々が忙しさの中へ紛れていく。暁斗は、その風景に自らの思考を映し出すかのように、無意識に瞼を閉じた。長い道のりは言葉を交わすことなく進み、車内にただ時計の針の音だけが響いていた。

 ビルの中に入ると、空調の冷たい空気が二人を迎えた。会議室に通されるまでの時間は、受付の前にある長椅子で待つことになった。案内された部屋の扉が開くと、目の前にはスーツ姿の星幹太が座っていた。昔の記憶に残る彼とは異なり、引き締まった体つきと、鋭い眼差しが彼の表情を印象付ける。何かを守ろうとする意識が、その表情全体に張り詰めていた。

「話すことなんて特にないですよ」

 星幹太の言葉の裏には微かな警戒心が垣間見えた。暁斗は、数時間をかけてこの地にやってきたことを伝え、旧友としての和やかな空気を装おうとした。

 会話はまず、他愛のない質問から始まった。中国での暮らし、仕事、言葉、何年もかけて積み上げた日常の断片を、暁斗は静かに尋ねる。それはあたかも、失われた時間を手繰り寄せるかのような、旧友としてのささやかな礼儀であった。しかし、星幹太は終始無表情で、彼の内側に隠された緊張感を解くことはなかった。

「警察が気になるのは、そんなことではないでしょ?」

 唐突にその一言が響く。暁斗の心は、一瞬深い影に覆われた。言葉の向こうに潜む真実に触れることを恐れながらも、星の言葉に自らの問いかけの意味が浮き彫りにされるのを感じた。

「四年前、京堂陽向さんが殺された日のことを、もう一度教えてください」

 暁斗よりも早く応えたのは海老根であった。彼女の言葉は穏やかに紡がれたが、その底に潜む鋭利さが、室内の空気を一瞬で緊張させる。

「当時、何度も聞かれました。露草競輪場前駅近くのカラオケボックスで、クラスメイト五人と一緒にいました」

 星が機械的に口を開く。その言葉の一つ一つが、まるで慎重に石を積み上げていくように無感情に重なっていく。

「本当に?」

 海老根は再度問いかける。

 暁斗は、星幹太の目の奥にある焦燥を見逃さなかった。何かを隠している、その気配が彼の全身から漂っていた。

「嘘をつく必要なんてないはずです。僕たちのアリバイは証明されているんですよね?」

 星は、まるで助けを求めるように、暁斗に視線を向けた。だが、その目には何の真実も宿っていない。暁斗は心の中で、その微かな揺れを読み取ろうとした。

「うん。君たち五人には、京堂陽向さんを殺害することは不可能だ」

「なら、当時の話なんて必要ないだろう?」

 星はその場を切り上げようとする。だが、暁斗にはわかっていた。星の言葉の背後には、何か暗い秘密が潜んでいる。彼の目には、すでに逃れようとする意図がはっきりと浮かんでいた。

「私は、あなたたち五人が口裏を合わせていると思っています」

 海老根の言葉が、星の防御を鋭く貫いた。

 星は、内心の動揺を隠すことができず、顔を微かにに引きつかせる。

「一人一人の理由は様々ですが、あなたたちが協力し、口裏を合わせてしまったことで、事件がより複雑になったのだと考えています」

「えっ?」

 星の口から不安が漏れた。

「あなたたちがついた嘘のせいで、四年間、事件の解決が遅れている可能性があるということです」

 海老根の言葉は、冷たい刃のように星幹太を切り裂く。暁斗も、その一言の重みをまだ完全には理解できていなかった。だが、海老根が星を追い詰めようとしていることだけは明確に感じ取っていた。張り詰めた空気の中、海老根は淡々と続ける。

「アナザーラブリーという名前に心当たりはありませんか?」

 星の瞳が鋭く細められ、わずかにその表情に疑念が浮かんだ。

「知りません」

 その返答は短く、感情のない声で吐き出された。海老根は、一拍の間を置いてから、再び口を開く。

「四年前の事件の日、あなたが利用した露草競輪場前駅近くにあるラブホテルの名前です」

 その瞬間、星の表情がみるみるうちに強張っていくのを、暁斗は見逃さなかった。星の顔には、まるで時間が止まったかのような硬直が広がっていた。

「だから、知りませんって!」

 星は再び否定するが、その声には明らかな動揺が含まれていた。

「おかしいです。私たちは、星幹太さんと相澤梨月さんが、四年前の事件の日にキャッシュレス決済を利用していたかどうかを調べさせていただいたんですよ」

 星の唾を飲み込む音が、室内を微かに揺らす。

「あなたは、スマートフォンの決済サービスを使って、アナザーラブリーに利用料を支払っています」

「そんなこと勝手に調べて許されるものなんですか?」

 その反論は、不満の吐露というよりも、自らの立場を守ろうとする最後の足掻きのように聞こえた。

「確かに貴方が言いたいことは分かります。でも、こちらも法的な手続きを踏んでいるの。警察がキャッシュレス決済履歴を見るには、令状が必要になる。貴方たちは事件に関する取り調べの中で隠ぺいを図っている可能性が生じており、事実を確認するには根拠が必要になる。貴方達の関与が疑われる事件があって、合理的な根拠に基づいて捜査を進めなければならない。令状は裁判所の許可を受けて発行されいるので、個人のプライバシーを侵害することなく、正当な範囲で証拠を集めている。簡単に言うと、警察は無制限に誰の情報でも見られるわけじゃなく、捜査の必要性が認められた場合に限って、その情報にアクセスする権限がある。これは貴方達を不当に追い詰めるためじゃなく、事件の全貌を明らかにするための正当な手続きなの」

 星幹太は黙り込み、視線を床に落とした。反論する気力さえ失った彼の姿には、もはや隠し通す意志は薄れていた。

「浅野護が事件に関与している可能性があるの。もし、彼が君たち五人とカラオケに行っていなかったことが明らかになれば、事件は大きく進展するはず。京堂陽向さんが殺された、その事実を忘れてはいけない。そして、四年間も事件が解決されなかったせいで、君たちのクラスメイトだった下田啓史さんまで命を奪われてしまった。これ以上、嘘を貫かないでほしい」

 海老根の声は、冷たい現実の刃として星幹太を切り裂いていた。暁斗もその言葉の鋭さを感じながら、星の表情の変化を見つめていた。彼は確かに何かを隠している。

 星は顔を上げ、短く息を吸った後、ゆっくりと謝罪の言葉を漏らした。

「相澤梨月とラブホテルに入りました」

 その言葉は、まるで長く抑え込まれていた秘密が突然解き放たれたかのように響いた。

「でも、そういった男女の関係になったわけではありません。本当です。僕たちは恋人関係にもなかったです」

 星が守ろうとしていたものが、相澤梨月という存在であることを、暁斗ははっきりと感じ取った。 相澤梨月――彼女は、いまや国民的な大女優として不動の地位を築いている。老若男女からの支持を集める彼女が、もし星幹太とラブホテルで二人きりにいたことを世間に知られれば、騒動になるのは避けられない。そして、その日が世間を騒がせて赤丘市の中学生絞殺事件が起こった日であれば、その重みはさらに増す。

「では、ホテルでは何をしていたの?」

 海老根の質問は、興味本位のものではなかった。暁斗はそれを理解していた。彼女が求めているのは、事件の一つ一つのピースを正確に拾い上げ、真実を浮かび上がらせるための冷徹な事実だけだった。

 星は、言葉を絞り出すように返答した。

「絶対にこのことは、世間には知られないようにしてください」

 彼の声には、ひどくしつこいほどの懇願が滲んでいた。そして、四年前のその日、彼が相澤梨月と何をしていたのかを、ぽつりぽつりと語り始めた。

 海老根も暁斗も無言のまま、彼の話にじっと耳を傾けていた。星は、一つ一つの言葉を選び抜き、慎重に噛みしめるようにして語っているかのようだった。

「当時の相澤さんが、不安定な心理状態にあったことは間違いありません。だけど、どうして彼女が僕とラブホテルに行ったのか、その理由はわかりません」

 星が語らない事実が、そこにあるのだと暁斗は感じていた。相澤梨月が抱えていた悩み――それが事件に関わっていないとは断言できない。しかし、星はその点について、どこか頑なに口を閉ざしていた。

「彼女から何も聞いていないの?」

「聞いていません。でも、彼女の悩みは事件とは関係ないと思います」

 星の言葉は、真実を知りながらも、それを語ることを避けようとする者の典型的な姿だった。

「君は高校時代、相澤梨月のファンだった。学校にファンクラブまで作っていたみたいね」

「はい。間違いありません」

 星は一瞬の戸惑いを隠しながら答えた。

「あなたの家庭を壊しますというドラマを覚えていますか?」

「もちろん。相澤さんが世間に大きく知られるきっかけになったドラマです」

 星の言葉には躊躇がなかった。だがその次に何を聞かれるのか、その不安が彼の表情に微かに影を落としている。

「先日、私も全ての回を確認しました」

「そうでしたか」

「とてもスリリングなドラマでしたね。相澤梨月さんの演技にも異質な怖さを感じました」

「そうですね。清純派なイメージから世間の認識が変わってしまって、その後少しの期間、相澤さんは苦しんでいたようですが」

「そうなんですか?」

「教室の中にいる彼女がそんなふうに見えてたってことですよ」

 星の言葉には何かを守ろうとする響きがあった。星の口元が強く引き結ばれ、視線は海老根を避けるように床へと落ちていく。

「義理の母の浮気相手に暴力を振るわれる場面もありましたね。彼女の狂気が回を重ねるごとにますます深刻さを帯びていく様子には、目が離せませんでした」

「相澤さんがここまで有名になれたのは彼女の抜群の演技の賜物ですね」

 誇らしげに言う星の表情にはどこか寂しさも滲んでいる。

「憎む相手の妻に執拗な嫌がらせをしたり、その男の子供を誘拐したり、ほら、あのシーンは強烈でしたね」

 海老根のドラマの一場面を思い返すその様子は、まるで恐怖と興奮が同時に入り混じった異質な熱意が表れていた。

「猫のシーンですか?」

 海老根は「そう!」と指を鳴らす。

「笑いながら猫を殺害していくシーンです。猫の死骸をその男の家のポストに届けるんですよね。『あなたの家庭を壊します』という手紙を添えて。鳥肌が立ちましたよ」

「最大の見せ場ですね」と星は言葉を紡ぎ出したが、その声はどこか空虚で、自分の中で何かを抑え込むような不安を帯びていた。

「あの後、義理の母親とその浮気相手は、どうなったんですか?」

「全ての回を見たんですよね?」

「ごめんなさい。最終回だけ、まだ見てなくて。近いうちに見ようとは思っているんですけど、義理の母親と浮気相手はどうなるんですか?」

「これから最終回を見るんですよね?」

「そうよ」

「言ってもいいんですか?」

「もちろん」

 海老根が頷く。

「両方とも家庭が崩壊していきましたよ」

 海老根は「まぁ」と言いながら、言葉を紡げた。

「そういえば、猫の死骸なんて、四年前の事件と共通点があると思いませんか?」

「偶然ですよ」と星は、ぎこちなく返答する。

「その頃、『闇の四日目』と呼ばれ、木曜日になると動物の死骸が発見される事件が頻繁にありましたね。相澤さんが猫を笑いながら殺していく様子と『闇の四日目』の事件を結びつける人もいたのではないですか?」

「知りませんよ」

「クラスの中でも、事件と連想付ける人物はいなかったと?」

「自分の知るところではいなかったと思います。隣の福地さんの方がクラスの皆んなと仲が良かったはずです。なぁ?」

 暁斗は水を向けられ、控えめに首を傾げた。

「ドラマについて、浅野護さんは何も反応していませんでしたか?」

「浅野ですか?」

 星は怪訝な表情を浮かべる。

「そう。浅野護さんです」

「彼とも特にクラスで話すことはなかったので」

 星は、微かな声で応えた。

「特に話すことはなかった?」

 海老根は、あたかも星の言葉に重みを持たせるように繰り返した。

「では、どうして古地春樹と今井勇樹、そして浅野護と口裏を合わせることになったのでしょうか?」

 ようやく海老根が核心に触れた。

「今井勇樹に見られてしまったんです。僕と相澤さんが一緒にホテルを出るところを」

 星は拳を握りしめながら話し始めた。

「今井がカメラを構えていたので最初は今井が、僕と相澤さんがホテルから出る瞬間を待ち伏せして写真に収めようとしているのだと思ってしまいました。それで彼に僕が掴みかかってしまったんです。でも、それは完全に僕の勘違いでした」

「今井さんが撮ろうとしていたのは、星さんたちではなく、当時の担任の粕田先生がホテルに入っていく瞬間だったから?」

 驚いた様子で「どうして?」と星が問いかけると、海老根は「知ってますよ。続きを聞かせてください」と彼の疑問を受け流した。

「我を忘れて一発殴ってしまいました。今井は勘違いだと何度も訴えてきたので、彼の言い分を聞くことにしました。実際、今井のカメラには、僕や相澤さんの写真は一枚も写っていませんでした。さらに、海老根さんの言う通り、粕田先生が同僚の女性教諭とホテルに入っていく写真を見せられました。その後、古地春樹とも合流して、新聞部の彼らが何を企んでいたのかを聞いたんです」

「あら、そこには浅野護がいないじゃない?」

 海老根の視線が鋭く星を捉えた。

「その時はまだ、浅野はいません。ホテル街で話すのも気まずかったので、僕たちは四人で露草競輪場前駅の商店街まで歩きました。お互いが何故その場所にいたのかを話していたところ、突然、警察の大きな声が響いてきたんです。声の方向に目を向けると、学生服の男が警察の手を振り払いながら逃げ出していくところでした」

「学生服の男?」

 海老根が問い返すと、星は小さく頷いた。

「そうです。学生服を着ていたのは、浅野護でした」

「時刻は午後九時半を少し過ぎた頃ですね」

 海老根は、供述調書を確認しながら、その記録に間違いがないか、慎重に時間を確かめた。

「はい、間違いありません」

「浅野護が逃げようとした瞬間を見た君たち四人は、どうしたんですか?」

「助けました。クラスメイトだし、遊んでいただけだと言ったら、警察も夜が遅いから気をつけるようにと注意を受けました。木曜日の夜だったので、警察も近くを巡回していたみたいです」

 その後、その警察官は、五人のアリバイを証明する重要な証人の一人となった。海老根は、天井を仰ぎ見ながらゆっくりと首を振り、さらに問いを重ねた。

「浅野護が、どうして警察から逃げ出そうとしたか、その理由は?」

「わかりません。ただ、何か事情があるはずだと思い、彼を助けることにしました。理由を聞こうとはしましたが、彼は話す気がなさそうでしたし、僕たち自身もあまり深く踏み込めない事情があったので、その場で問い詰めるのはやめました」

「君たちが露草競輪場前駅を離れた本当の時間は?」

「別れた時間については嘘はありません。五人とも十時までは確かに駅の近くにいました」

 暁斗は頭の中で時間を計算していた。少なくとも、京堂陽向が犯人と接触したのは、十時十五分。どんなに急いでも、そこから二十分で赤丘市中央公園まで辿り着くのは不可能だ。それでも海老根は慎重に質問を重ね、星の緊張をほぐすことなく、核心に迫っていった。

「星さんが京堂陽向の事件を知ったのはいつですか?」

「朝のニュースで知りました」

「では、五人でカラオケに行ったと口裏を合わせることにしたのは、それ以降ですね?」

「ええ……」星は一瞬、言葉に詰まった。

「正直に話してください」

 海老根の声が静かに、だが強く響いた。

「わかっています」と星は息を詰めるようにして、重く口を開いた。

「口裏を合わせようと提案したのは私です。警察が学校に来て、僕たちのクラスの生徒を一人ずつ事情聴取していく中、僕ら五人は幸運にもすぐには呼び出されませんでした。その間に、全員で嘘の認識を一致させることにしました」

「全員がその嘘の供述、つまりカラオケをしていたと供述することに同意していた?」

「そうです。ごめんなさい」

 暁斗は、星が深々と頭を下げる姿を静かに見つめていた。もし彼らが嘘の証言をしなければ、親友の下田は命を落とさずに済んだのではないか――そんな思いが頭を過ぎる。少し前の暁斗であれば、心の奥で膨れ上がる怒りが抑えきれずいただろうが、その感情に身を任せることはできない。

 嘘をつく決断を下した星たちにだって、それぞれの事情があったことは分かっていた。事件に対して、妻の瑞雲だって隠している事実があった。彼女も言葉にできないものを抱えていたことに暁斗は気がついている。彼らだけを責めるのはあまりにも短絡的すぎる。

 それでも、下田の無念は晴らされなければいけないとも思う。彼らが証言を捻じ曲げなければ、事態は変わっていたかもしれない――いくつもの葛藤が、暁斗の頭の中で渦巻く。

 暁斗は静かに息を吸い込む。星の謝罪を受け止めながらも、その言葉の裏にある複雑な事情を感じ取っていた。怒りと理解の間で揺れる心の重さを抱えつつも、今はただ、事件を解決させるために冷静さを保つことが最善だと、暁斗は自分に言い聞かせた。


 星の職場の会議室を後にした暁斗と海老根は、そのまま都内から県外の赤丘署へと車を走らせた。

「浅野護に、動物虐待の件で事情を訊く段取りをつけようと思っている」

 海老根の言葉に、暁斗はふと眉をひそめた。

「浅野が犯人だと断言できるんですか?」

 問い返す暁斗に、海老根は視線を前に向けたまま淡々と答える。

「浅野は四年前の事件があった日、学校が終わった後、すぐに有馬二丁目駅に向かっている。そして、猫の虐待が行われたのは有馬二丁目駅のすぐ近くの有馬神社。浅野の供述では、その後すぐに二キロほど離れた露草競輪場前駅のカラオケボックスに行ったと言っているけど、カラオケに行ったというのは嘘。その説明には破綻が生じている」

 海老根の冷静な説明に、暁斗はさらに疑念を抱いた。

「供述が嘘なら、もう一度ちゃんと本当のことを訊けばいいじゃないですか?」

 老根は首を横に振り、少し重い口調で続けた。

「浅野護はここ数年、ほとんど家から出ていない。今の段階では、彼に対して任意で事情を聴くしかないが、それには強制力がない。任意の事情聴取では、本人や家族を介して拒絶の意思表示がされれば、我々はそれ以上踏み込めないわよね」

 暁斗は一瞬、言葉を失った。法律の枠組みがこうして真実への追及を妨げる。本人が供述に応じなければ、警察も捜査を進める術を欠く。浅野護が何を抱えているのか、何を隠しているのか、その本質に迫るためには、次の手段――逮捕や令状の発行が必要になる。

「終業後に浅野護は、制服から私服に着替えた――」

 独り言のように海老根が呟く。その声の端に微かに引っかかるものがあることに暁斗は気づいた。彼の脳裏には、有馬二丁目駅のホームで防犯カメラに映し出された浅野の姿が浮かぶ。白い薄手のTシャツに、色褪せたショートパンツ、シンプルなスニーカーを履いた浅野の姿。その映像は何の変哲もない、日常の一コマにすぎなかった。

「浅野護が説明したのは、有馬二丁目駅で買い物をしてから、露草競輪場前駅でクラスメイトとカラオケに行ったというものだった」

 海老根の言葉に耳を傾けながら、暁斗は次第に募る疑念を感じ始めた。

「浅野は、カラオケで再び制服に着替え直していた。彼はその理由を、アニメ『魔法少女アカデミー』の世界観に合わせるためだと警察に説明している」

 今となっては、浅野がカラオケに行っていなかったことが明らかになっている。では、一度私服に着替えたにもかかわらず、なぜ再び制服に戻す必要があったのか。浅野の行動に合理的な説明はつかない。

「わざわざ制服に着替え直した理由がどうしても腑に落ちませんね」

 暁斗は同意を示す。

「猫を虐待した際、その証拠が私服についてしまった。だから浅野は、もう一度制服に着替えた。そんな仮説が成り立ちそうね。カラオケに行っていたという証言が偽りだったことも、今では証明されている。令状を取ることも、これで可能かもしれないわ」

 海老根の言葉が車内に響き、暁斗は微かに息を吸い込んだ。

 令状の取得――それは、警察の捜査をより踏み込んだ段階へと移行させることを意味している。令状を取るためには、確たる『相当な理由』、すなわち犯罪の疑いが合理的かつ具体的に示されなければならない。そして今、浅野護の行動に潜む矛盾が、その要件を満たしつつあることが、暁斗の頭の中で理路整然と繋がっていく。

 浅野が猫を虐待したという嫌疑。それに伴う、私服を再び制服に着替えたという不可解な行動。カラオケの嘘。そして星の証言によって、浅野のカラオケのアリバイが崩れ去った今、これらの事実の重なりが『相当な理由』として成立し得るかもしれない。

「海老根さんは浅野護が京堂陽向さん殺しの犯人だと思っているんですか?」

「いいえ、彼はただ、木曜日に多発した動物虐待の犯人に過ぎないでしょう」

 海老根が静かに、けれども無慈悲なまでにあっさりと言い放った。

「もう一人、京堂陽向さんを殺した犯人が別にいるということですか?」

 暁斗は、思わず質問を口にした。

「そうね」

「犯人の目星は既についている。証拠を積み上げる段階だね」

 海老根の言葉に暁斗は内心の動揺を隠せなかった。以前、海老根から、この事件においての相棒は暁斗であると言われたことを思い出す。ならば、自分にも海老根の導き出した推論を共有するべきである。暁斗は意を決して、言葉を紡いだ。

「海老根警部補の考えを教えてください!」

 海老根は、しばらく黙ってから告げた。

「私が考えていることは、福地巡査とって耐え難いことかもしれない」

 信号が青になり、車内にはエンジンの音が響く。

「事件に向き合うと決めていますので」

「そう、わかった。ただ、完全に確信が持てているわけではないんだけど」

 そう言いながら、海老根はハンドルを右手で安定させたまま、左手を滑らかにクリアファイルへと伸ばし、一瞬も視線を逸らさずに資料を取り出して差し出した。

 澤田海里さわだかいり――かつてのクラスメイトの名前が目に飛び込んできた。卒業を目前に、自ら命を絶った彼の記憶が、重く私の中に蘇る。クリアファイルに収められた数枚の資料は、左上をホチキスで留められており、表紙に書かれたタイトルを見ただけで、それが澤田の事件後に記された供述調書であることがすぐに理解できた。

「福地巡査の視点で見ればすぐに分かるはずよ。ここには重要な手がかりが書かれている。警察は大きな勘違いをしてしまっていたのよ」

 暁斗は静かにクリアファイルを開き、中から資料を取り出した。

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