「きみの色」の感想

夕波汐音

感想(9/8時点)

「きみの色」はなんか上手く表現出来ないが素晴らしかった。8/31夏の終わりの土曜日に初めて見たのだが、鑑賞後の柔らかな余韻が2,3日続いた。

正直感想というのは苦手だ。自分の言葉で、観た人まだ観てない人関わらず作品に対する姿勢に影響を与えてしまうかもしれないし、そもそも感想が的外れかもしれないし。それでも、この気持ちはどうにか言葉にして残しておきたいという熱量がこの作品に対して生まれた。

この文章の注意事項としては、ネタバレはもちろんあるし、制作した人含め他者から見たら的外れかもしれない。

また、このページでは映画本編と公式ウェブサイト、朝日新聞YouTubeの山田尚子監督のインタビューを情報源として書いている。映画本編のセリフは正確ではないし、その他の媒体では自分の推察と異なる事実があるかもしれない。

それでも良ければ少しだけ付き合ってほしい。


まず印象に残った点は、主人公たち3人とも音楽に対して承認欲求を抱いていない点だ。トツ子は音楽未経験────以前ピアノを弾いていたと言っていたが、しろねこ堂に入った言い訳?といった感じで演奏が上手なわけではなさそう────だし、きみもギターを始めたばかり。ルイはリサイクルショップで楽器や機材を集めて以前から作っていて一番音楽に対しての経験はあるみたいだが、演奏会や動画サイトで発表してはなかった。

才能の差というのはどうしても物語においても現実においても焦点が当てられる。山田尚子監督の別作品である「リズと青い鳥」においてもそうだ。楽器の特性、本人の練習時間、楽器と演奏者の相性、様々な要因で演奏力に差が生まれてしまう。もちろんその差がモチベーションとして切磋琢磨するのも素晴らしいことだが、せっかくメンバーとして集まったのに才能の差が原因で辞めてしまうのは珍しいことじゃないはずだ。

だが3人に関しては違った。始めたてにトツ子が「ピアノ来週までに練習してくるよ」と船できみに話した時を最後に、才能の差について口にしている描写が無いのだ。これは3人の音楽におけるゴールを明確に定めてなかったからというのが理由の1つとして考えられる。一般的な部活ではコンクールや文化祭を期に引退するが、そもそも3人は部活として集まっているわけでもないからそのような期限が無い。クライマックスの聖バレンタイン祭での演奏も、日夜子シスターに勧められて参加したもので、それまで、自分たちの曲をどこかで披露しようとしていなかった。

これは幸せなことだ。現代では、ネットで世界中、とは言わなくても日本全国と繋がっている。YouTubeやTwitterでは上手い演奏をしてるバンドなんていくらでもいるし、それで自信を無くしてしまうことは容易に想像がつく。ただ、舞台は長崎でトツ子ときみはミッション系の学校に通っていたし、ルイは島で暮らしている。────ミッション系のスクールがどれだけ閉鎖的か知らないし、島暮らしがどれだけ外界と遮断されがちか分からないけど、ネットには詳しくないのだろう。トツ子のルームメイトはシスターのモノマネで盛り上がってるし、携帯でインターネットやSNSをいじる描写は無い。高校3年生にしては素朴な遊びに興じていて、暇つぶしにインターネットをポチポチいじるという選択肢が無いのだろう。ルイに至っては携帯がスマホではなくいわゆるガラケーである。

現代においてそんなネットに触れないことあるのか?と少々懐疑的ではあるが、そのおかげで3人とも音楽に向き合う上で、いわゆる「バズる」ことを目的にしてない。自分達の表現としてただ音楽を作ってただ演奏している。何度も言うようだが、それは本当に幸せなことだと思う。日夜子シスターが言っていたように、自分たちの歌が自分達を勇気づけてくれているのである。

自分の話になるが、自分は趣味にあまり熱中出来なかった。上手くなる過程で自分より上手い人がうじゃうじゃネットにいるし、技術力が未熟というだけで自分の趣味そのものを低く見て離れていってしまった。もちろん、他人という枷が無いからさっさと辞めてしまったというのもあるが。

だから、自分たちが楽しむために音楽を作って演奏して楽しんでいる、という描写が羨ましくてとても印象的だった。


次に印象的だったのは、3人それぞれの持つ悩みについてだ。コンプレックスを待つメンバーがそのコンプレックスをバネに活躍する──というのは物語としては王道の流れだ。だが、先ほど述べたように3人とも音楽を承認欲求のための道具にしていない。3人は悩みを待つが、あくまで3人がお互いの関わり合いの中で自分たちの手でそれらを解決していく。

3人の中で1番分かりやすい悩みであるのはきみだろう。周りから抱かれた期待像と自分自身で抱くイメージがかけ離れたことから学校をやめてしまい、また、やめてしまったことを祖母に言えないでいる。制作する側としては、音楽の道に進み祖母を安心させようとするという流れも考えられるが、クリスマスの旧教会時点では「将来については何もイメージ出来ていない」ということだった。映画にはエピローグとかは無く、彼女が進む未来は示されてはいない。だけども、修学旅行前にトツ子に打ち明け、旧教会でルイに打ち明けたことで覚悟を決めて、祖母に打ち明け聖バレンタイン祭のライブに招くことが出来た。最後に島(本土?)の港でルイを見送るシーンがあることからきみとトツ子は長崎に残るのだろう。唯一映画で読み取れるきみの将来についてはこれくらいだろうか。

ルイは音楽をやっていることを母親に言えずにいた。秘密としているが、正直重大なものではない気がする──その人が抱える苦労の大きさを類推するのは勝手で横暴ではあるが。兄が家業を継がず家を出たため、医者にならざるを得なかった。得なかったと書いたが、特に医者になることを嫌がっているような描写は無く、無理に解釈したとしても、音楽に割ける時間が減ってしまうと言ったところだろうか。音楽に熱中しすぎて成績が悪くなることも無く、模試でも良い成績を残している。音楽をすることがいい息抜きになっているようだが、ルイ本人としては秘密にしてることで母に対して罪悪感を抱いている。物語を創作する側としては、悩みというと家族や友人との不和といった分かりやすい重大なことを設定しがちだが、他者から見ればそうでもないような悩みを設定しているのが印象的だった。ルイはきみと同様、旧協会で悩みを打ち明けたことをきっかけにして、母を聖バレンタイン祭のライブに呼ぶことが出来た。

そしてトツ子の悩みについて。初回鑑賞時点ではトツ子に悩みがある設定だとはわからなかった。家族関係も良好でルームメイトとも仲が良い。朗らかな性格でまるで悩みみたいなものが無さそうに感じた。初回鑑賞後かなんかに公式ウェブサイトのあらすじで、3人が悩みをそれぞれ抱いていることが書かれていて、トツ子の悩みが「他人の印象が自分だけ色で見えていること」だと気づいた。ルームメイトに「森の三姉妹」とうっかり口を滑らせて言ってるくらいだから、そこまで強いコンプレックスにはなっていないのかもしれない。共感覚に近いような感性だよな、と僕らは分かるが、トツ子には共感覚という考え?概念?を知らずにいるみたいだ。(朝日新聞のYouTubeインタビューでは「人を色で感じる感性」と述べているため、共感覚とは別物として描いているのかもしれない)

幼い頃他者を色で呼んで困惑させていた描写があり、それを描写が無いことから、家族もそういった知識が無いか、あるいは気にしてないみたいだ。自分に当然に備わっている能力が他人には無いことは、恐ろしいだろう。伝えたいことが決定的に伝わらない。それを隠そうとして無理してあの朗らかな性格を演じているとしたら悲痛だ。

だが、人を色で感じるこの感性が本作品のテーマになっている。タイトルにもなっているくらいだし、しろねこ堂で3人で初めて会った時もルイの緑色を見て「バンド一緒にやりませんか?」と誘うきっかけになっている。

一度鑑賞した時の話全体の印象は、明るいトツ子と出会ったきみとルイが音楽を通じて悩みと向き合い解決しているように見える。しかし、トツ子がきみやルイと出会った理由が、トツ子がコンプレックスにしていた「人を色で感じる感性」であるというのが綺麗な構造だと思った。物語を創作する側にとっては、悩みの大きさはそれぞれみんな大きければそれでいいものという訳でもないし、現実としても、そんな分かりやすい苦労を抱えてみんな生きてるわけじゃないから。


次に印象的だったのは、トツ子ときみがミッション系の高校にいて、教会や聖書の言葉、聖歌が頻繁に登場することだ。聖書の言葉はよく創作のモチーフにされる。それを見るたびなんかかっこいいよなって思う。馴染みの無い洋楽がかっこよく聞こえるのに似ているだろうか。

朝日新聞のYouTubeインタビューで監督の山田尚子さんが「ミッションスクールに通う女の子の話というのは決めていた」と述べていた。また、舞台を長崎にすることに関しては「ずっと信じることをしてきた方々のたくさんいらっしゃる街だから」と述べていた。宗教というものは神と対話するという形式で自己と向き合うものだ(と私は浅学ながら考えている)。悩みの一般的な解決方法として「他者に相談する」というものがある。しかし、ミッションスクールで育ってきたトツ子ときみにとっては、自分の悩みを自分だけで向き合ってきたはずだ。それは大変なことだ。もちろん誰かに話したことで明確に問題が解決するというわけではないが、気は楽になるはずだ。

この聖書の言葉や考え方というのはトツ子やきみが作った曲にも現れている。

初回鑑賞時点では曲名が分からないため、トツ子が「水金地火木土天アーメン」を作ったというのはトツ子がくるくる回って口ずさんでいたからすぐ分かったが、きみとルイが作った曲はどちらなのだろうと考えていた。映画内のライブで一曲目に流れた「反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~」はタイトルを文字で見た時驚いた。インパクトもさることながら、日夜子シスターの「反省文というのはちょっと固いですよね…曲にしてはどうでしょうか」という提案に対して、これを作成したのかきみは。そして偶然だが日夜子シスターが以前組んでいて消したい過去と言っているバンド名の「GOD almighty」が入っていて、恩を仇(?)で返している。ロックというかその反骨精神が、属していたミッションスクールの雰囲気と相反していて、新たな一歩を示唆している、と見ることができるかもしれない。

ルイは映画内のライブで二曲目に流れた「あるく」では、他の曲では使っていなかったテルミンを演奏している。テルミンで演奏することを考えて穏やかな曲調にしたのか、心情が反映されて穏やかな曲調になったのか因果関係は分からない。ただ、曲のテーマに関しては、ピアノなどのように明確に音階が分かれておらず、連続的に音の高さを変えられるテルミンだからこそ光や音の波について歌っているのだろう。

ただ、「あるく」をルイが作り「反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~」をきみが作ったとすると、映画内で「あるく」の制作過程で、ルイが「きみちゃんの作った曲にフレーズを付けたんだけど」と声でのフレーズを聞かせていた場面があったが、どういうことなのだろう。3曲は3人が個人個人でメインで作ったというよりは、核となるイメージを3人それぞれが持ち寄った、という感じだろうか。

映画内のライブで最後に流れた「水金地火木土天アーメン」については、制作過程でトツ子のアイデアノートが描かれる。そこには、韻を踏めるようにアーメンとラーメンが二重線で強調されていることから言葉を選んでいる様子もうかがえるが、描いた絵ではきみを惑星に例えていて、きみと出会って曲を作っている喜びが満ち溢れている。また歌詞を掲載しているサイトで歌詞を読むと「るい」という文字列が全て「ルイ」とカタカナになっていてルイとバンドをやってる喜びもにじみ出ている。

アニメということで感情や仕草を色彩豊かに描いているが、同時に3人が作った音楽にも3人がそれぞれ過ごした時間が表現されていた。


主人公3人を始め、声優としての経験が少ない方を多く起用しているのに違和感を抱かなかった点や、映画の入場特典が無いことへの製作陣の覚悟などもっと書きたいことがあるが、以上に書いた3点よりまとまった話にはならなそうなので割愛した。バレエについてだったり山田尚子監督の「リズと青い鳥」以外の別作品など、知識があればより深掘りできるんだろうなって点もあるが、よく知らない点についてテキトーには書けなかったためこれも割愛した。

「きみの色 アニメーションガイド tri-angle」を購入したので、製作者の方々の意図や映画のカットなどを踏まえてまた書けることがあったら頑張ってまた言葉にしたい。


……と、理性的に賢しらに書いてはみたけど、世界を鮮やかにするような本当に本当に素晴らしい作品で、その良さを上手く受け止めてきちんと書ききれない点も多くて不甲斐なさを感じている。リアルタイムで、劇場の良い音響に包まれてこの作品を鑑賞することが出来て嬉しい!この作品を私は心から愛しています!!

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