血月と銀花(下)

 ◆◆◆


 ゲドスは私を強くもなく、弱くもない力で抱きしめた。


 抱擁とは心の所作だ。


 その抱き方で、ゲドスは外見こそ野卑だけれど、見た目通りの人でない事がすぐに分かった。


 腰に回されたゲドスの手はひたすら暖かく、その熱が私の体の芯へと伝わってくる。


 背を擦る手の感触に心が解きほぐされていく。


 正直、こんなに優しく抱かれるとは思ってもいなかった。


 でももしかしたら、私は彼に我慢をさせているのかもしれない。


「ゲドス、お前がしたい事は分かっています。だから、好きな事をしていいのですよ……?」


 性交は怖い。


 性交は嫌いだ──痛いから。


 でも、そういう恐怖もゲドスにされるのなら。


「儂はするべきことをしておりますし、したい事をしておりますよ」


 ゲドスがそんな事を言うけれど、私は信じない。


 きっと遠慮をしているのだ。


 ゲドスは優しいから……だから私は抱擁から抜け出し、彼の手を取って自分の頬へ打ち付けた。


 乾いた音が鳴り、私の頬が赤く染まる。


 加減をしなかったから当然痛かった。


 でもそれはあの男のそれとは違う。


 あの男も私をこうして何度も叩いていたけれど、それはただ痛いだけだ。


 でもゲドスの手から与えられる痛みは、私の体と心を熱くさせる。


 遠慮なんかいらない──私はゲドスにそう伝えたつもりだ。


 その思いを彼も分かってくれたのか──


「そういうのが好きなのですか、意外ですな。しかし、宜しい」


 不意に、逆の頬に何かがあたった。


 パン、という音と同時に私の頭が揺らされる。


 ゲドスが手の甲で私を叩いたのだ。


 ──いつのまに?


 叩かれる前の心の準備もする暇がなかった。


 痛みがじんじんと後から湧いてくる様で、呼吸がどんどん浅くなっていく。


 私が叩いて欲しい時にゲドスは叩いてくれた。


 心が通じ合っているみたいで、私はとても嬉しくなった。


 ◆◆◆


 私が叩いてと言うとゲドスは困った顔をして叩いてくれる。


 これが不思議でならなかった。


「なぜそんな顔をするのです?お前たちは叩くのが好きなのでしょう?私は好きではありませんが、ゲドス、不思議な事にお前に叩かれる事は余り嫌いではないようです」


 自分の体を痛めつけさせる事は体と心のすべてを委ねることだ。


 あの男にそれをするのは苦痛そのものだが、ゲドスにならば。


「でも、こうして優しくされるのも悪くはありませんね」


 腰に回された彼の手の温もりが内側から広がり、私の冷たく凍りついた心をそっと溶かしていく。


 あの男に刻まれた痛みも恐怖も、彼の手によって優しく包み込まれて浄化されていくようだった。


 やがて私はゲドスに手を引かれ、寝室へと連れていかれる。


 そして、横たえられ──私たちはさらに深いところで繋がり始めた。


「不思議です、このようなッ……こと、をしているのに怖くありませ……んっ」


 全身の敏感な部分に火が灯り、とてもとても熱くなり──その熱が少しずつ全身に広がっていく。


 私はいつしか、自分が人なのか獣なのか分からなくなってしまった。


 声をあげ、その強弱や調子で意思を伝える獣ならば私の様に振舞うだろう。


 ゲドスが私に言葉を忘れさせるからいけないのだ。


 巧みで、狡猾で、狙いを過たない──彼は狩人だ。


 ゲドスが言う──「お前は儂の女だ」と。


 私は答える──「はい」と。


 私はもう何もかもが幸せで、その幸福に包まれながら意識を手放したのだった。

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