デートと思っているのは自分だけ

ヤスダトモキ

本文

 パシャリ。

 ちゃんと一眼レフカメラを持っていれば、こんな小気味の良い音がしたのかもしれない。だけど、生憎と手元にあるのはスマートフォン。

 食べ物を撮ることに特化したアプリの、何を模したかもわからないカチャリという音とともに、洋梨がたっぷり乗ったフルーツタルトが手のひらサイズの液晶パネルの中に収められる。

「それ、SNSに上げるのか?」

 向かいの席に座っている男性が聞いてくる。

 大神直斗。私の陸上部の先輩で、今は一足先に高校生になっている。

 俗にいう高校デビューというやつで、陸上部時代は武骨に刈り上げていた坊主頭も伸ばして小綺麗なツーブロックに整え、美意識という言葉をどこかに置いてきたような単色のパーカーもすっきりしたシルエットの水色のジャケットに置き換わっている。

 馬子にも衣裳とはいうが、人間、変われば変わるものだと思う。

「まあ、ライフワークみたいなもんですね」

 そう言いながら私は慣れた操作で写真のアップロードを完了する。

 タイムラインに、目の前にある実物と寸分違わぬ画像が躍り出て合わせ鏡のようになったのを確認すると、革製のスマホカバーを閉じる。

「にしても、中島って綺麗に撮るよな。パンフレットみたいだ」

 私には美咲というそれはそれは可愛らしい名前があるというのに、この先輩は名字で私のことを呼ぶ。

 私も私でだいたい大神先輩としか呼ばないのでどっちもどっちかもしれない。

 私たちの距離感は、いうなればこんなものだ。

「まー、伊達にお父さん手伝ってませんから」

「そういえばカフェやってるんだよな。マイアミカフェだっけ?」

 父が経営している店舗は、駅から10分ほどの住宅街を歩いていると突然現れる穴場的なカフェで、じわじわと売り上げは下がっているものの、それでも熱心に通ってくれる常連さんのおかげで何とかやっていけている。

 何を隠そう、先輩のお父君も店の常連の一人で、直接知り合ったのは陸上部ではあるがそんなところでも先輩との腐れ縁は続いていたりする。

 とはいえカフェの経営が現状のままでよいなんてことはなく、なんとか新しい顧客を増やそうとSNSを始めたはいいものの、日進月歩の対義語のような父にそのようなモダンなツールは釣り合わず、そのあまりに年齢を隠しきれない使い方に見かねた私が店のアカウントを乗っ取って、今に至る。

 そうしてあれこれと研究しながら新作ケーキの写真をアップしているうちに、いつしか個人のアカウントでも気になったお菓子を撮影する癖が染み込んでしまっていた。

 なお、マイアミというネーミングは父が当時ハワイに憧れてつけたものらしいが、マイアミはフロリダ州なので真相は闇の中である。

「でもタルトの画像なんて上げて見たい人いるのか? 自分が食えるわけでもないのに」

 かくいう先輩の手前には水滴まみれのアイスティーが、木製のテーブルに大きな水たまりを作っている。

 色気より食い気という言葉があるが、この人には食い気すら及ばない。

「別に。生存報告みたいなもんです」

「なるほど。つまり更新されていれば何の写真でもいいのか」

「そう言われると無性に腹立ちますけど」

 今頃、タルトの写真にはいいねという名の社交辞令が飛び交っていることだろう。

 とはいえ、目の前にいる男は、高校に進学する3ヶ月前までスマホすら持っていなかった男で、そんな男にSNSの機微など説明しても無駄なことだ。

 世の中わざわざ言う必要がない事実というのは山ほどある。

「でも中島がケーキの写真ってなんか似合わないな」

「そうですか? いいじゃないですか。イマドキの女子っぽくて」

「俺的には梅干しのおにぎりのイメージしかないからなあ」

「そ! れ! は! 陸上やってるときの私でしょうが!? それ以外の場所では私だって普通に女の子してますから」

 陸上部の私――先輩の後輩としての私は、着飾ることなんて一つも考えず、ただ目の前のタイムだけに集中していられる私で、そのイメージだと確かにケーキなんてカロリーの塊は似合わないかもしれない。

 先輩は私のそういう部分しか見ていないから、それがちょっと気が楽だったりもする。

 そんなひねくれものの私に、やっぱりケーキは似合わないのかもしれない。

 とはいえ、世の中わざわざ言う必要のない事実というのは山ほどあるわけで。

 やっぱり、この人はどこまでも無遠慮だと思う。

「でも、自分のやったことを全部SNSに書き込むのって怖くないか?」

「おじいちゃんみたいなこと言いますね」

「古い人間で悪かったな」

「大丈夫ですよ、本当に個人的なものはアップしませんから」

 SNSというツールはあくまで外向けの、ごく普通の営みをしている平凡な自分を見せびらかすためのものにすぎない。

 それしか知らない相手はそれでいいのだ。

「そんなことより、本題ですよ」

 今日は先輩に突然の呼び出しをくらった。私のSNS事情なんかより大事なことがある。

 そのために残る中学生活で30回ちょっとしかない貴重な日曜日をこうしてひとつ潰しているのだ。

「わざわざ可愛い後輩を呼び出しただけの話は聞けるんでしょうね?」

 中学を卒業した先輩とこうして会っている理由。

 それは――私が先輩の恋愛相談に乗っているからだ。


 きっかけはちょうど半年ほど前になる。

 ホームルームが早々に終わり、手持ち無沙汰になった私は、部室前の廊下でストレッチをしていた。鍵を持っている人が来ないことには着替えすらできない。

 すると、鍵開け係――こと大神先輩が私の前にやってきた。

 中島、と声を掛けられ振り返った先にいる先輩は、普段の柔和な表情からは遠い、緊張した面持ちで私の前に立っていた。

 早く鍵開けてくださいよと私が視線で促すも、先輩は微動だにしない。

 そして、予測不能の気まずい沈黙ののち、先輩の色素の薄い唇がゆっくりと開かれた。

「俺、好きな人ができたかもしれない」

 突然、20センチも大きい刈り上げ姿の部活の先輩にこんなことを言われた私の身にもなってほしい。

 何が起きたかわからず、再度、伸ばしたアキレス腱がそのまま伸びたゴム紐みたいになってしまうんじゃないかと思うほどの沈黙が流れた。

「大神先輩。わかりましたから、いったん落ち着いてください」

「落ち着いた結果、中島に話している」

 微妙に嚙み合わない会話を一生懸命嚙み砕きながら事情聴取を続けた結果、徐々に明らかになった真相はこうだ。

 先輩は高校選びのために学校説明会に行ってきた。つい先週のことだ。そこで部活の勧誘をしていた先輩と運命的な出会いを果たした。

 今まで出会ったことのないような、凛としたそれでいて優雅な雰囲気をまとった黒髪の美女だったという。先輩の容姿を語るボキャブラリーが貧弱すぎて、これ以上の情報は抜き取ることができなかった。

 部活動の勧誘をしていたことからおそらく現在高校1年か2年――つまり、先輩のひとつかふたつ年上になる。

 いわゆる一目惚れというやつで、どう知り合うきっかけを作るべきか、どうやって親しくなるかなど、恋愛経験のない先輩はどうしたらいいかわからず、とにかく誰かに相談したいと思った。

 そして、一番身近に話せる女性である私に白羽の矢が立った――ということだそうだ。

「先輩、クラスに友達いないんですか?」

「さらっと傷つくことを聞くな……いないことはない」

「ならその人たちに聞いたほうが、先輩の普段の様子も知ってるしよさそうですけど」

「守秘義務を守ってくれそうにない」

「あー……」

 説明会で名前も知らない相手に一目惚れしたなんて話、普段からお世話になってる先輩でなければ私だってどこまで口に戸を立てていられたかわからない。

 しかも緊張のあまり、肝心のビラを受け取らずに帰ってきたので、彼女が何の部活かすらわからないというオチまでついている。

 私だって、隣の席の男子がある日同じ話を持ってきたらと思うと――。

 この話を墓場まで持って行ってくれそうな健気で可愛い後輩に感謝してほしいと思う。

「それで、自分の顔を立ててくれそうな可愛い後輩に力関係を利用して近づいた――と」

「人聞きの悪い言い方するな」

「でも事実じゃないですか」

「それはそうだが……にしても、自分で可愛い後輩っていうのか」

「そこ、ほじくり返します?」

 私には何人もの先輩がいるが、大神先輩とはこういう軽口を叩ける距離感が結構心地よかったりする。

「でもこういう話に付き合ってくれそうなのは中島だけなんだよ」

「他の後輩でもなくて、私なんです?」

「入部した時から一番親しくさせてもらってる後輩だからな」

「ふふん、なるほど。ふふん」

 そう言われて悪い気はしない。

 これはチョロいというのだろうか。

 そこまでではないと信じたい。

「というわけで、相談に乗ってくれると嬉しいんだけど……」

 そういって、短い髪の毛を無理矢理くしゃくしゃいじりながら、先輩は私の顔色をうかがう。

 なんだろう。

 頼りにされていることはうれしい。

 ずっとお世話になってるから、力になってあげたい気持ちもある。

 でも、初めて見る先輩の低姿勢な態度を見ていると、なんとなくイライラしてくる。

 普段は横から自信満々に走り方のフォームの指導をしてくるくせに。

 トレーニングの方法について相談したら、聞いてないことまでどや顔で語り始めるくせに。

 いつかこの手でその生意気な鼻っ柱を明かしてやろうと思っていたのに、この人は知らないところで知らない人に骨抜きにされて帰ってきた。

 このイライラの持っていく場所がわからない。

「私も忙しいのでそんな無謀な賭けに付き合う義理、ないんですけど」

「無謀!?」

「無謀に決まってるじゃないですか! 部活も知らない、名前も知らない、そもそもそんな綺麗な人なら彼氏だってもういるかもしれない」

「そんな不穏なことを想像させないでくれ!」

「いの一番に考えろ!」

 先輩はわかりやすく眉を八の字にして凹んでいる。

 子供みたいなやつあたりをしても気分は晴れない。

 本当にこの人は無邪気というか、純粋というか、子供みたいな人だと思う。

 ひねくれものの私には、ちょっとまぶしい。

 いつもみたいに人の気なんて知らないで、勝手に走って勝手に砕け散ればいいのに。

 そうしたら、残念でしたねって笑いながらハンカチを差し出すのに。

 次がありますよ、ってよわよわになった先輩を元気づけてあげるのに。

 やっぱり私の心はいつもちょっとひねくれている。

「……にしてもまさか大神先輩が年上がタイプだったとは思いませんでした」

「そうかな? 俺、そんな年下好きに見える?」

「言ってましたよ。ほら、前に先輩同士で雑談してた時、俺は年下好きだ―なんてこと叫んでたじゃないですか」

「そんなこと言ったっけ?」

「あれですよ、深山えりかちゃんが表紙の雑誌を見てた時の」

 去年のこと。

 私が入部して間もない頃のことだ。ある時、練習を終えて部室に行くと、一足早く部活を終えた先輩たちが、部室に転がっていた漫画雑誌の表紙のグラビアを眺めていたことがあった。

 胸がどうとか太さがどうとか下世話なことを言い合いながら、好みのタイプについてあーだこーだ話し合っていた。

 私たちが入ったのに気づくと慌てて隠して口笛を吹くぐらいの良心はあったみたいだけど、ありえないとか言ってドン引きしている女子たちと同様、私も下品だなあと思いながら聞き耳を立てていたので、よく覚えている。

「いつの話をほじくり返すんだよ! いや、あれは、その場のノリというか……真剣に考えてなかったから適当に答えただけで……」

 しどろもどろ言い訳を始める先輩。

 ふーん。

 恋愛のこと真剣に考えてなかった、か。

 この人が嘘が下手なことは知っているから、本心なんだろうなと思う。

 なんで、本心なんだろうな。

「でも、恋愛は外見じゃなくて中身だって、信じてるから」

 カッコつけてそれはそれはまっすぐなピースをつきつける先輩。

「それ、外見だけで一目惚れして帰ってきた人のセリフじゃないです」

「うっ」

 先輩は今度は眉ではなく肩を八の字に下げてわかりやすく凹む。

 本当にカッコ悪い人だと思う。

 私の友達も口をそろえて憎めないけどカッコ悪いって言ってる。

 初めて会ったときはもっとカッコいい人だと思っていたけれど。

「ふう……まずは、その軽率な口を治すところからですね。その軽い言葉を信じて女の子を泣かせるかもしれないので」

「え――」

 先輩の目がゆっくりと希望の色を取り戻す。

「あ、ちゃんと服も買ってくださいよ! 前に買い出しに着てきた、あのダッサい黄色のパーカーとか論外ですからね!」

「あれダメなのか? イケてるなと思って、お小遣いつぎ込んだたのに」

「ダメです。先輩はブルべで肌の色薄目だから、そもそも黄色とは相性悪いんですよ――にしてもあの薄汚れた感じの黄色をどっから見つけてきたのか小一時間問い詰めたいですけど」

「中島、詳しいんだな」

「常識です! ……そういうところから含めて、全部教えますから」

「……いいのか?」

「なんですかその信じてない顔は。あ、タダはいやです。相談に乗るたびにおにぎり一個ください」

「もちろんだ――ありがとう、女神よ!」

 まるで救世主にでも出会ったかのような大げさな土下座。

 果たして悪ノリなのか本心なのか――この人のことだからきっと本心なのだと思う。

「あ、具は梅干しですよ。絶対に梅干しですからね!」

 こうして、私は顔を立ててくれる可愛い後輩兼、先輩の恋愛指南役という実に都合の良い役回りになった。

 先輩に協力することに決めた時の私の気持ちは、なんだかぐちゃぐちゃしていてよくわからなかった。

 でも、ひとつ確かな理由がある。

 だって、私には先輩の気持ちがわかるから。

 入学したての部活勧誘で、運命の人に出会ってしまって――そのまままっすぐ追いかけてしまう気持ち。

 私にはわかってしまうから。


 時は戻り。

 何度目かわからない作戦会議の場として私たちは駅前のカフェの小さな机を囲んでいる。

 報告を促す私に対して、先輩は待ってましたとばかりに立ち上がってバンと胸を張る。

「俺は遂に昨日――鈴原先輩とデートをした!」

「ぶっ!?」

 飲み込みかけたタルト生地が気管支に入ってむせかえる。慌てて手元にある水を丸ごと一杯飲んで事なきを得るが、タルト生地というのは無駄に水分を吸収するのでよくない。

 先輩の手元にあった手つかずの水も拝借することで、ようやく事なきを得た。

 先輩が心配そうに私の顔をのぞき込む。私が心配しに来たはずなのに、これでは立場がない。

 カフェで配られるいつも無駄だと思っていたコップ1杯の水に深く感謝しないといけない。これから父の店を手伝う時も、大切な命綱を渡すつもりで水を注ごうと思う。

 たとえ拒否されたとしても絶対に押し付けてやる。

「つい先週ようやく連絡先を教えてもらったって聞きましたけど」

「その通りだ」

「それでもう、デートなんですか?」

「ああ、善は急げというからな」

「よく言うわ! 連絡帳の1人目は鈴原先輩がいいって言って、3ヶ月間音の鳴るだけの箱を持て余していた男が!」

 無事、地獄ともいえる受験戦争を勝ち抜き、高校に入学した大神先輩は、その先輩――先輩の先輩、一学年上で、名を鈴原美月という――がピアノを担当する合唱部へと入部した。

 人の顔と名前を一致させるのが苦手な先輩のことなので、まず人探しで一か月はかかるものと高をくくっていたが、そこは恋の力という奴だろうか、先輩はすぐに鈴原さんのクラスと部活を特定に至り、見事入部を果たした。

 しかし、同じ部活になったとはいえ先輩と後輩。すぐに親しくなれるかというとそんなわけもなく、ましてや相手は先輩が一目惚れするほどの美人ということも相まって、なかなかお近づきになれる機会が訪れなかった。

 それでも諦めまいと、私も定期的に呼び出されてあれこれ作戦を練りながら機会をうかがい続けた。不安になってヘラる先輩が暴走しないよう、手綱を握り続けること三か月。ついに夏休みの合宿係を彼女と一緒に担当することとなり、そのままの流れで鈴原センパイの連絡先を獲得するに至った。

 それがつい一週間前の出来事。

 それまで、私はスマホを持っているはずの目の前の男の連絡先を知らず、唐突に不安に沿われた先輩が家電で私の携帯に連絡がくるという奇妙な体制でのコミュニケーションを続けていた。

 どうしたらいいと親に聞こえないように小声で私に助けを求める先輩の声は、可愛いという言葉では飽き足らなかったが、そのことは私の中にしまい込んでおこうと思う。

 そうして、先輩が念願の鈴原センパイとの連絡先を交換した直後、満を持して私に連絡先を教えてきた。

 ああ、これ俺の連絡先だからという一言――本当に、本当にあっさりだった。

 多分、先輩と連絡先を交換したのは私が二人目だと思うのだけど……二人目も三人目も、あるいはずっとその先も、先輩の中では同じなのだろう。

「でもまあ、進展したことは素直にすごいです」

「だろう?」

 先輩はまさに幸せの頂点といったたたずまいで、褒めてほしそうに隠し切れない喜びを顔に張り付けながら私のほうを見てくる。

「で、どこ行って来たんですか?」 

「本屋に一緒に寄って帰った」

「は?」

 予想の斜め下の返答。思考がフリーズする。

「昨日、鈴原先輩が参考書買いたいって言うから。帰るついでに2人で寄ってきた」

「……それだけ?」

「なんと、その後5分ぐらいおしゃべりしながら駅まで歩いた」

「昨日夜中に突然連絡してきた理由それか!?」

 深夜に突然舞い込んだ、明日どうしても報告したいことがあるという一件のメッセージで私は叩き起こされたの。

 連絡先を交換してから初のメッセージでもある。

 空っぽの画面に先輩が打ったテキストが一つ浮かんだ時に私がどれだけベッドの上でのたうち回ったか、きっとこの人は想像すらしていない。

「だって、先週まで連絡先も聞けなかったような相手と2人きり過ごしたんだぞ」

「たしかにこれまでのチキンぶりを考えれば度胸は認めますけど……世間でそれをデートだと思ってるの、先輩だけです」

「そうなの!?」

「そうです!」

 どこから叱っていいのかわからず、私は喉を潤すために時間がたって氷で薄まってしまったアイスティーを口にする。

 仮にも恋愛指南役を仰せつかっている私がこんな男を輩出したと知れたら、それこそ末代までの恥だ。

「それ、アールグレイってやつ?」

「いえ、これはただのストレートです……最近知った言葉を無理に使おうとしないでいいですから」

 場を和ませようという先輩の努力は認めるが、あいにく場を和ませる気はない。

 なお、カフェでよどみなく注文できるよう麦茶と緑茶しか知らなかった先輩にこれらの用語を吹き込んだのは私である。

 途中で巨大なため息が出ないよう細心の注意を払いながら、説明を始める。

「いいですか、先輩……たしか、合宿のミーティングがあるときは普段から鈴原センパイと帰ってましたよね」

「そうだな」

 うざいぐらい自慢してきたのでよく覚えている。

 私だって、一緒に下校したことは数えきれないぐらいあるのに――舞い上がっちゃって、さあ。

「今回、それにたまたま本屋に行くオプションが追加されただけですよね」

「ま……まあそうだと言えなくもなくもなくもない」

「ですよね!」

 予想外に大きな声に先輩がびくりとする。

「ならそれは日常の一風景ですよ! 先輩がデートだと思い込んで勝手に舞い上がってるだけです」

 思わず私の声にも力が入る。

「そうかなあ……でも、一緒にぶらりと寄り道とか恋人っぽくない?」

「それは恋人になった前提の話ですよ――先輩と後輩っていう関係性のままだったら、どれだけ日常を積み重ねても、一生先輩と後輩のままなんです」

 ぎゅうとこぶしを握る。慣れない指輪がくいこんでじんわりと痛みの信号を私の脳に送る。

「いいですか、先輩は彼女にとってまだ手のかかる後輩の一人なんですから――異性の一人なんだと、ただの後輩じゃないんだと、しっかり認識させないと進まないんです」

 でも、舞い上がる気持ちはわかる。

 いつもと少し違うだけで、景色が変わって見えること。

 私にだってわかる。

 でも。

 でも、そこで浮かれて留まっていたら、何も前に進まないことを、私は知っている。

 そして迷子になって頓珍漢な提案でもして泥沼の関係になってしまえばいいなんて、脳の片隅では思っているけれど。きっとそれはすごく溜飲が下がるのだけれど。

 やっぱり先輩にそんな思いはしてほしくないと思う。

 そういうひねくれた思いをするのはひねくれたやつだけで十分。

 先輩には、バカみたいな笑顔が似合う。

「つまり、どうすればいいんだ?」

「日時を決めて約束するんですよ。いついつ、どこどこで二人で出かけましょうって」

「そんなの、俺にはハードルが……!」

「だからそれを目指しましょうって言ってるんですよ」

 きっとこの人は知らない。

 そのメッセージを送る怖さも、そのメッセージを送ってもらえるうれしさも。

 トーク画面に約束の場所と時間がかかれたフキダシがポンと出てきて、それを指でなぞることの幸せも。

「デートってのは、今日は二人きりで過ごすんだぞっていう認識が大事なんです。事前に待ち合わせ時間を決めて約束して、当日の朝になって、決めてた服がやっぱり違うなって思ってあれこれ小一時間悩んで、それで思い切って普段つけない香水とかアクセサリーとかつけてみて――そうやって緊張と不安と闘いながら、覚悟を決めて出会うんですよ!」

「すごく具体的だな……」

 あまりの剣幕に先輩が少し引いている。

「と、友達の話です!」

「そ、それならいいけど」

「……ま、それだけ準備しても、何一つ努力に気付いてもらえないこともあるようですけど」

 小指にはめた上品な光沢のシルバーの指輪も、お姉ちゃんの部屋に忍び込んで吹き付けてみた柑橘系の香水も。

 気付いてもらえるなんて初めから期待はしてない。

 でも、ちょっと雰囲気違うなぐらいの一言はもらえないかなんて空想したりもして。

 予想を裏切ってくれないことがちょっと嬉しくもあって。

「それは悲しくないか?」

「ね――ほんと、悲しくなっちゃいますよね」


 帰り道。

 結局、二人で先輩後輩の関係を越えるための知恵を絞ってみたが、これぞという作戦は出ず、その日はお流れとなった。

 帰り道、駅に向かう遊歩道の通りがかり、私はわがままを言って、噴水のあるちょっと大きな公園に寄り道をした。

 真っ赤の花の咲く花壇を淵どるオレンジ色のレンガを、平均台のようにして歩いている私を先輩は後ろから眺めている。不安定な足場を一歩、一歩と素直になれない私の不安定な足取りがみしみしと音を立てる。

 この公園は、私が無理を言って休日に先輩に付き合ってもらった秘密の特訓場だった。隣駅にあるので、知り合いに見つかる可能性もあまりないし、周りにもランニングしている人が良くいるので、周囲から浮く心配もない。

 あの頃から私の生活圏はあまり変わっていない。

 先輩が中学を卒業してからも、なんとなく会うのはこの公園の近くが多かった。結局お互いの知り合いに遭遇しない場所となると、およそこの辺りに帰着するのだ。

 二人でこの公園に来ると、陸上部の先輩後輩だった日々を思い出す。

 でも、あの日そのままではない。

 私の世界はたいして広がっていないが、今では先輩は三駅先の高校に通っている。

 先輩はダサいジャージをやめてそこそこ見られる格好――私が苦労して返させたもの――になっているし、私だってひらひらとした動きにくいブラウスに生意気にフリルのついたスカートをはいている。

 何より、走ってばかりだったこの公園を、いま私たち二人は歩いている。

「にしても、この公園ってこんなきれいな場所だったんだな」

「そうですね。ここに来るときはだいたい、タイムのことしか頭になかったので、わからなかったです――この花壇に植わっている花の名前だって、今知りました」

「なんていうんだ?」

「サルビアらしいです」

「言われてもピンとこないな」

「私もです」

「でも鈴原先輩とデートするなら、こういう場所がいいかもな」

 先輩がそういった瞬間、私はレンガから足を踏み外した。

 突然に視界が回転し、重力が四方八方から襲ってくるような奇妙な感覚に襲われる。

 地面に手を伸ばすという発想もなく、ただあるがままを受け入れるように路面に敷き詰められたオレンジ色のタイルに、吸い込まれる。

 でも、それでいいような気がした。この公園の一部になって溶け込んで、そして――。

 そんなことを考えていたとき、私の肩を温かくてそれでいて力強い感触が包み込んだ。

「大丈夫か?」

 その人はすっかり運動不足でへにゃへにゃになったと思ったのに、どっしりとした安定感で私の体を受け止めていた。

 徐々にピントの合っていく視界が、木漏れ日に照らされた不安そうな顔を映し出す。

 先輩が私のことを見ている。

「……文化部に入ったのに、思ったより動けるんですね」

 ひねくれものの私はこんな時でも憎まれ口をたたく。

 どこまでも可愛くない後輩だ。

「助けてもらって何言ってるんだ」

 そう言って、ため息をつきながら先輩は私を起こす。

「そうですね――すいません」

 stパシャリ。

 ちゃんと一眼レフカメラを持っていれば、こんな小気味の良い音がしたのかもしれない。だけど、生憎と手元にあるのはスマートフォン。

 食べ物を撮ることに特化したアプリの、何を模したかもわからないカチャリという音とともに、洋梨がたっぷり乗ったフルーツタルトが手のひらサイズの液晶パネルの中に収められる。

「それ、SNSに上げるのか?」

 向かいの席に座っている男性が聞いてくる。

 大神直斗。私の陸上部の先輩で、今は一足先に高校生になっている。

 俗にいう高校デビューというやつで、陸上部時代は武骨に刈り上げていた坊主頭も伸ばして小綺麗なツーブロックに整え、美意識という言葉をどこかに置いてきたような単色のパーカーもすっきりしたシルエットの水色のジャケットに置き換わっている。

 馬子にも衣裳とはいうが、人間、変われば変わるものだと思う。

「まあ、ライフワークみたいなもんですね」

 そう言いながら私は慣れた操作で写真のアップロードを完了する。

 タイムラインに、目の前にある実物と寸分違わぬ画像が躍り出て合わせ鏡のようになったのを確認すると、革製のスマホカバーを閉じる。

「にしても、中島って綺麗に撮るよな。パンフレットみたいだ」

 私には美咲というそれはそれは可愛らしい名前があるというのに、この先輩は名字で私のことを呼ぶ。

 私も私でだいたい大神先輩としか呼ばないのでどっちもどっちかもしれない。

 私たちの距離感は、いうなればこんなものだ。

「まー、伊達にお父さん手伝ってませんから」

「そういえばカフェやってるんだよな。マイアミカフェだっけ?」

 父が経営している店舗は、駅から10分ほどの住宅街を歩いていると突然現れる穴場的なカフェで、じわじわと売り上げは下がっているものの、それでも熱心に通ってくれる常連さんのおかげで何とかやっていけている。

 何を隠そう、先輩のお父君も店の常連の一人で、直接知り合ったのは陸上部ではあるがそんなところでも先輩との腐れ縁は続いていたりする。

 とはいえカフェの経営が現状のままでよいなんてことはなく、なんとか新しい顧客を増やそうとSNSを始めたはいいものの、日進月歩の対義語のような父にそのようなモダンなツールは釣り合わず、そのあまりに年齢を隠しきれない使い方に見かねた私が店のアカウントを乗っ取って、今に至る。

 そうしてあれこれと研究しながら新作ケーキの写真をアップしているうちに、いつしか個人のアカウントでも気になったお菓子を撮影する癖が染み込んでしまっていた。

 なお、マイアミというネーミングは父が当時ハワイに憧れてつけたものらしいが、マイアミはフロリダ州なので真相は闇の中である。

「でもタルトの画像なんて上げて見たい人いるのか? 自分が食えるわけでもないのに」

 かくいう先輩の手前には水滴まみれのアイスティーが、木製のテーブルに大きな水たまりを作っている。

 色気より食い気という言葉があるが、この人には食い気すら及ばない。

「別に。生存報告みたいなもんです」

「なるほど。つまり更新されていれば何の写真でもいいのか」

「そう言われると無性に腹立ちますけど」

 今頃、タルトの写真にはいいねという名の社交辞令が飛び交っていることだろう。

 とはいえ、目の前にいる男は、高校に進学する3ヶ月前までスマホすら持っていなかった男で、そんな男にSNSの機微など説明しても無駄なことだ。

 世の中わざわざ言う必要がない事実というのは山ほどある。

「でも中島がケーキの写真ってなんか似合わないな」

「そうですか? いいじゃないですか。イマドキの女子っぽくて」

「俺的には梅干しのおにぎりのイメージしかないからなあ」

「そ! れ! は! 陸上やってるときの私でしょうが!? それ以外の場所では私だって普通に女の子してますから」

 陸上部の私――先輩の後輩としての私は、着飾ることなんて一つも考えず、ただ目の前のタイムだけに集中していられる私で、そのイメージだと確かにケーキなんてカロリーの塊は似合わないかもしれない。

 先輩は私のそういう部分しか見ていないから、それがちょっと気が楽だったりもする。

 そんなひねくれものの私に、やっぱりケーキは似合わないのかもしれない。

 とはいえ、世の中わざわざ言う必要のない事実というのは山ほどあるわけで。

 やっぱり、この人はどこまでも無遠慮だと思う。

「でも、自分のやったことを全部SNSに書き込むのって怖くないか?」

「おじいちゃんみたいなこと言いますね」

「古い人間で悪かったな」

「大丈夫ですよ、本当に個人的なものはアップしませんから」

 SNSというツールはあくまで外向けの、ごく普通の営みをしている平凡な自分を見せびらかすためのものにすぎない。

 それしか知らない相手はそれでいいのだ。

「そんなことより、本題ですよ」

 今日は先輩に突然の呼び出しをくらった。私のSNS事情なんかより大事なことがある。

 そのために残る中学生活で30回ちょっとしかない貴重な日曜日をこうしてひとつ潰しているのだ。

「わざわざ可愛い後輩を呼び出しただけの話は聞けるんでしょうね?」

 中学を卒業した先輩とこうして会っている理由。

 それは――私が先輩の恋愛相談に乗っているからだ。


 きっかけはちょうど半年ほど前になる。

 ホームルームが早々に終わり、手持ち無沙汰になった私は、部室前の廊下でストレッチをしていた。鍵を持っている人が来ないことには着替えすらできない。

 すると、鍵開け係――こと大神先輩が私の前にやってきた。

 中島、と声を掛けられ振り返った先にいる先輩は、普段の柔和な表情からは遠い、緊張した面持ちで私の前に立っていた。

 早く鍵開けてくださいよと私が視線で促すも、先輩は微動だにしない。

 そして、予測不能の気まずい沈黙ののち、先輩の色素の薄い唇がゆっくりと開かれた。

「俺、好きな人ができたかもしれない」

 突然、20センチも大きい刈り上げ姿の部活の先輩にこんなことを言われた私の身にもなってほしい。

 何が起きたかわからず、再度、伸ばしたアキレス腱がそのまま伸びたゴム紐みたいになってしまうんじゃないかと思うほどの沈黙が流れた。

「大神先輩。わかりましたから、いったん落ち着いてください」

「落ち着いた結果、中島に話している」

 微妙に嚙み合わない会話を一生懸命嚙み砕きながら事情聴取を続けた結果、徐々に明らかになった真相はこうだ。

 先輩は高校選びのために学校説明会に行ってきた。つい先週のことだ。そこで部活の勧誘をしていた先輩と運命的な出会いを果たした。

 今まで出会ったことのないような、凛としたそれでいて優雅な雰囲気をまとった黒髪の美女だったという。先輩の容姿を語るボキャブラリーが貧弱すぎて、これ以上の情報は抜き取ることができなかった。

 部活動の勧誘をしていたことからおそらく現在高校1年か2年――つまり、先輩のひとつかふたつ年上になる。

 いわゆる一目惚れというやつで、どう知り合うきっかけを作るべきか、どうやって親しくなるかなど、恋愛経験のない先輩はどうしたらいいかわからず、とにかく誰かに相談したいと思った。

 そして、一番身近に話せる女性である私に白羽の矢が立った――ということだそうだ。

「つかぬことを聞きますが」

「なんだ」

「先輩、クラスに友達いないんですか?」

「さらっと傷つくことを聞くな」

「だって、そうでしょう。私いうて部活だけの付き合いですよ?」

「いないことはない」

「ならその人たちに聞いたほうが、先輩の普段の様子も知ってるしよさそうですけど」

「もちろん考えはしたが……ひとつ大きな問題がある」

「ほう?」

「守秘義務を守ってくれそうにない」

「あー」

 説明会で名前も知らない相手に一目惚れしたなんて話、普段からお世話になってる先輩でなければ私だってどこまで口に戸を立てていられたかわからない。

 しかも緊張のあまり、肝心のビラを受け取らずに帰ってきたので、彼女が何の部活かすらわからないというオチまでついている。

 私だって、隣の席の男子がある日同じ話を持ってきたらと思うと――。

 この話を墓場まで持って行ってくれそうな健気で可愛い後輩に感謝してほしいと思う。

「それで、自分の顔を立ててくれそうな可愛い後輩に力関係を利用して近づいた――と」

「人聞きの悪い言い方するな」

「でも事実じゃないですか」

「それはそうだ」

「それはそうなんです」

「にしても、自分で可愛い後輩っていうのか」

「そこ、ほじくり返します?」

 私には何人もの先輩がいるが、大神先輩とはこういう軽口を叩ける距離感が結構心地よかったりする。

「でもこういう話に付き合ってくれそうなのは中島だけなんだよ」

「他にも後輩いますけど、それでも私なんです?」

「なんだかんだ入部した時から一番親しくさせてもらってる後輩だからな」

「ふふん、なるほど。ふふん」

 そう言われて悪い気はしない。

 これはチョロいというのだろうか。

「というわけで、相談に乗ってくれると嬉しいんだけど……」

 そういって、短い髪の毛を無理矢理くしゃくしゃいじりながら、先輩は私の顔色をうかがう。

 なんだろう。

 頼りにされていることはうれしい。

 ずっとお世話になってるから、力になってあげたい気持ちもある。

 でも、初めて見る先輩の低姿勢な態度を見ていると、なんとなくイライラしてくる。

 普段は横から自信満々に走り方のフォームの指導をしてくるくせに。

 トレーニングの方法について相談したら、聞いてないことまでどや顔で語り始めるくせに。

 いつかこの手でその生意気な鼻っ柱を明かしてやろうと思っていたのに、この人は知らないところで知らない人に骨抜きにされて帰ってきた。

 このイライラの持っていく場所がわからない。

「私も忙しいのでそんな無謀な賭けに付き合う義理、ないんですけど」

「無謀!?」

 先輩が大げさに驚くので私の口もより回る。

「無謀に決まってるじゃないですか! 部活も知らない、名前も知らない、そもそもそんな綺麗な人なら彼氏だってもういるかもしれない」

「そんな不穏なことを想像させないでくれ!」

「いの一番に考えろ!」

 先輩はわかりやすく眉を八の字にして凹んでいる。

 子供みたいなやつあたりをしてみたのに、気分は晴れない。

 本当にこの人は無邪気というか、純粋というか、子供みたいな人だと思う。

 ひねくれものの私には、ちょっとまぶしい。

 いつもみたいに人の気なんて知らないで、勝手に走って勝手に砕け散ればいいのに。

 そうしたら、残念でしたねって笑いながらハンカチを差し出すのに。

 次がありますよ、ってよわよわになった先輩を元気づけてあげるのに。

 やっぱり私の心はいつもちょっとひねくれている。

「……にしてもまさか大神先輩が年上がタイプだったとは思いませんでした」

「そうかな? 俺、そんな年下好きに見える?」

「言ってましたよ。ほら、前に先輩同士で雑談してた時、俺は年下好きだ―なんてこと叫んでたじゃないですか」

「そんなこと言ったっけ?」

「あれですよ、エリカちゃんが表紙の雑誌を見てた時の」

 去年のこと。

 私が入部して間もない頃のことだ。ある時、練習を終えて部室に行くと、一足早く部活を終えた先輩たちが、部室に転がっていた漫画雑誌の表紙のグラビアを眺めていたことがあった。

 胸がどうとか太さがどうとか下世話なことを言い合いながら、好みのタイプについてあーだこーだ話し合っていた。

 私たちが入ったのに気づいて、慌てて口笛を吹くぐらいの良心はあったみたいだけど、ありえないとか言ってドン引きしている女子たちと同様、私も下品だなあと思いながら聞き耳を立てていたので、よく覚えている。

「いつの話をほじくり返すんだよ! いや、あれは、その場のノリというか……真剣に考えてなかったから適当に答えただけで……」

 しどろもどろ言い訳を始める先輩。

 ふーん。

 恋愛のこと真剣に考えてなかった、か。

 この人が嘘が下手なことは知っているから、本心なんだろうなと思う。

 本心、なのだ。

「で……でも、恋愛は外見じゃなくて中身だって、信じてるから」

 カッコつけてそれはそれはまっすぐなピースをつきつける先輩。

「それ、外見だけで一目惚れして帰ってきた人のセリフじゃないです」

「うっ」

 先輩は今度は眉ではなく肩を八の字に下げてわかりやすく凹む。

 本当にカッコ悪い人だと思う。

「ふう」

 私は大きくため息をつく。

 友達も口をそろえて憎めないけどカッコ悪いって言ってる。

 初めて会ったときはもっとカッコいい人だと思っていたけれど。

「まずは、その軽率な口を治すところからですね。その軽い言葉を信じて女の子を泣かせるかもしれないので」

「え――」

 先輩の目がゆっくりと希望の色を取り戻していく。

「あ、ちゃんと服も買ってくださいよ! 前に買い出しに着てきた、あのダッサい黄色のパーカーとか論外ですからね!」

「あれダメなのか? イケてるなと思って、お小遣いつぎ込んだたのに」

「ダメです! 先輩はブルべで肌の色薄目だから、そもそも黄色とは相性悪いんですよ――それ以前として、あの薄汚れた感じの黄色をどっから見つけてきたのか、どうしてあれでいいと思ったのか、小一時間問い詰めたいところですけど」

「中島、詳しいんだな」

 都合の悪すぎる部分は耳に入れないモードに入ったらしい。

「常識です! ……そういうところから含めて、全部教えますから」

「……いいのか?」

「なんですかその信じてない顔は」

「信じてないわけじゃないけど……」

「私がやるといったからにはやります」

 勢いよく宣言して先輩に背を向ける。

「あ、タダはいやですよ。相談に乗るたびにおにぎり一個奢ってください」

「もちろんだ――ありがとう、女神よ!」

 まるで救世主にでも出会ったかのような大げさな土下座。

 果たして悪ノリなのか本心なのか――この人のことだからきっと本心なのだと思う。

「あ、具は梅干しですよ。絶対に梅干しですからね!」

 こうして、私は顔を立ててくれる可愛い後輩兼、先輩の恋愛指南役という実に都合の良い役回りになった。

 先輩に協力することに決めた時の私の気持ちは、なんだかぐちゃぐちゃしていてよくわからなかった。

 でも、ひとつ確かな理由がある。

 だって、私には先輩の気持ちがわかるから。

 入学したての部活勧誘で、運命の人に出会ってしまって――そのまままっすぐに追いかけてしまう気持ち。

 ある日突然、恋に落ちてしまう気持ち。

 私にはわかってしまう、から。


 時は戻り。

 何度目かわからない作戦会議の場として私たちは駅前のカフェの小さな机を囲んでいる。

 報告を促す私に対して、先輩は待ってましたとばかりに立ち上がってバンと胸を張る。

「俺は遂に昨日――鈴原先輩とデートをした!」

「ぶっ!?」

 飲み込みかけたタルト生地が気管支に入ってむせかえる。慌てて手元にある水を丸ごと一杯飲んで事なきを得るが、タルト生地というのは無駄に水分を吸収するのでよくない。

 先輩の手元にあった手つかずの水も拝借することで、ようやく事なきを得た。

 先輩が心配そうに私の顔をのぞき込む。私が心配しに来たはずなのに、これでは立場がない。

 カフェで配られるいつも無駄だと思っていたコップ1杯の水に深く感謝しないといけない。これから父の店を手伝う時も、大切な命綱を渡すつもりで水を注ごうと思う。

 たとえ拒否されたとしても絶対に押し付けてやる。

「つい先週ようやく連絡先を教えてもらったって聞きましたけど」

「その通りだ」

「それでもう、デートなんですか?」

「ああ、善は急げというからな」

「よく言うわ! 連絡帳の1人目は鈴原センパイがいいって言って、3ヶ月間音の鳴るだけの箱を持て余していた男が!」

 無事、地獄ともいえる受験戦争を勝ち抜き、高校に入学した大神先輩は、その先輩――先輩の先輩、一学年上で、名を鈴原美月という――がコンサートマスター――詳しくは知らないけれど、第一ヴァイオリンで一番偉い人――を担当するオーケストラ部へと入部した。

 人の顔と名前を一致させるのが苦手な先輩のことなので、まず人探しで一か月はかかるものと高をくくっていたが、そこは恋の力という奴だろうか、先輩はすぐに鈴原さんのクラスと部活を特定に至り、見事入部を果たした。

 そして、希望通りヴァイオリンパートに配属された先輩は、初心者枠としてしごかれながらもヴァイオリンを練習する日々を送っている。

 しかし、同じ部活になったとはいえ先輩と後輩。すぐに親しくなれるかというとそんなわけもなく、ましてや相手は先輩が一目惚れするほどの美人ということも相まって、なかなかお近づきになれる機会が訪れなかった。

 それでも諦めまいと、私も定期的に呼び出されてあれこれ作戦を練りながら機会をうかがい続けた。不安になってヘラる先輩が暴走しないよう、手綱を握り続けること三か月。ついに夏休みの合宿係を彼女と一緒に担当することとなり、そのままの流れで鈴原センパイの連絡先を獲得するに至った。

 それがつい一週間前の出来事。

 それまで、私はスマホを持っているはずの目の前の男の連絡先を知らず、唐突に不安に沿われた先輩が家電で私の携帯に連絡がくるという奇妙な体制でのコミュニケーションを続けていた。

 どうしたらいいと親に聞こえないように小声で私に助けを求める先輩の声は、可愛いという言葉では飽き足らなかったが、そのことは私の中にしまい込んでおこうと思う。

 そうして、先輩が念願の鈴原センパイとの連絡先を交換した直後、満を持して私に連絡先を教えてきた。

 ああ、これ俺の連絡先だからという一言――本当に、本当にあっさりだった。

 多分、先輩と連絡先を交換したのは私が二人目だと思うのだけど……二人目も三人目も、あるいはずっとその先も、先輩の中では同じなのだろう。

「でもまあ、進展したことは素直にすごいです」

「だろう?」

「ドヤることでもないです」

 先輩はまさに幸せの頂点といったたたずまいで、褒めてほしそうに隠し切れない喜びを顔に張り付けながら私のほうを見てくる。

「で、どこ行って来たんですか?」 

「本屋に一緒に寄って帰った」

「は?」

 予想の斜め下の返答。思考がフリーズする。

「昨日、鈴原先輩が参考書買いたいって言うから。帰るついでに2人で寄ってきた」

「……それだけ?」

「なんと、その後5分ぐらいおしゃべりしながら駅まで歩いた」

「昨日夜中に突然連絡してきた理由それか!?」

 深夜に突然舞い込んだ、明日どうしても報告したいことがあるという一件のメッセージで私は叩き起こされたの。

 連絡先を交換してから初のメッセージでもある。

 空っぽの画面に先輩が打ったテキストが一つ浮かんだ時に私がどれだけベッドの上でのたうち回ったか、きっとこの人は想像すらしていない。

「だって、先週まで連絡先も聞けなかったような相手と2人きり過ごしたんだぞ」

「たしかにこれまでのチキンぶりを考えれば度胸は認めますけど……世間でそれをデートだと思ってるの、先輩だけです」

「そうなの!?」

「そうです!」

 どこから叱っていいのかわからず、私は喉を潤すために時間がたって氷で薄まってしまったアイスティーを口にする。

 仮にも恋愛指南役を仰せつかっている私がこんな男を輩出したと知れたら、それこそ末代までの恥だ。

「それ、アールグレイってやつ?」

「これはただのストレートです……最近知った言葉を無理に使おうとしないでいいですから」

 場を和ませようという先輩の努力は認めるが、あいにく場を和ませる気はない。

 なお、カフェでよどみなく注文できるよう麦茶と緑茶しか知らなかった先輩にこれらの用語を吹き込んだのは私である。

 途中で巨大なため息が出ないよう細心の注意を払いながら、説明を始める。

「いいですか、先輩……たしか、合宿のミーティングがあるときは普段から鈴原センパイと帰ってましたよね」

「そうだな」

 うざいぐらい自慢してきたのでよく覚えている。

 私だって、一緒に下校したことは数えきれないぐらいあるのに。

「今回、それに本屋に行くオプションが追加されただけですよね」

「ま……まあそうだと言えなくもなくもなくもない」

「そうなんです!」

 予想外に大きな声に先輩がびくりとする。

「ならそれは日常の一風景ですよ! 先輩がデートだと思い込んで勝手に舞い上がってるだけです」

 思わず私の声にも力が入る。

「そうかなあ……でも、一緒にぶらりと寄り道とか恋人っぽくない?」

「それは恋人になった前提の話――先輩と後輩っていう関係性のままだったら、どれだけ日常を積み重ねても、一生先輩と後輩のままなんです」

 ぎゅうと手首を握る。慣れないブレスレットがくいこんで、じんわりと響く痛みの信号を私の脳へと送る。

「いいですか、先輩は彼女にとってまだ手のかかる後輩の一人なんですから――異性の一人なんだと、ただの後輩じゃないんだと、しっかり認識させないと進まないんです」

 でも、気持ちはわかる。

 いつもと少し違うだけで、景色が変わって見えること。

 私にだってわかる。

「先輩は、恋人気分を勝手に楽しんでるだけで、そんなのデートじゃない」

 でも、そこで浮かれて留まっていたら、何も前に進まない。

 そのまま一生進まずに、迷子になって頓珍漢な提案でもしてこっぴどく振られてしまえばいいなんて、脳の片隅では思っているけれど。思わなくもないけれど。きっとそれはすごく溜飲が下がるのだけれど。

 やっぱり先輩にそんな思いはしてほしくないと思う。

 そういうひねくれた思いをするのはひねくれたやつだけで十分。

 だって――先輩には、バカみたいな笑顔が似合うから。

「つまり、どうすればいいんだ?」

「日時を決めて約束するんですよ。いついつ、どこどこで二人で出かけましょうって」

「そんなの、俺にはハードルが……!」

「だからそれを目指すんです!」

 きっとこの人はまだ知らない。

 そのメッセージを送る怖さも、そのメッセージを送ってもらえるうれしさも。

 トーク画面に約束の場所と時間がかかれたフキダシがポンと出てきて、それを指でなぞることの幸せも。

「デートってのは、今日は二人きりで過ごすんだぞっていう認識が大事なんです。事前に待ち合わせ時間を決めて約束して、当日の朝になって、決めてた服がやっぱり違うなって思ってあれこれ小一時間悩んで、それで思い切って普段つけない香水とかアクセサリーとかつけてみて――そうやって緊張と不安と闘いながら、覚悟を決めて出会うんですよ!」

「す、すごく具体的だな……」

 あまりの剣幕に先輩が少し引いている。

「あ……えと、と、友達の話です!」

「そ、そうか……」

「ま、それだけ準備しても、何一つ努力に気付いてもらえないこともありますけどね」

 上品に光るブレスレットも、お姉ちゃんの部屋に忍び込んで吹き付けてみた柑橘系の香水も。

 気付いてもらえるなんて初めから期待はしてない。

 ちょっと雰囲気違うなぐらいの一言はもらえないかなんて空想したりもして。

 やっぱり何もなくてちょっぴり落ち込んで。

 でも、予想を裏切ってくれないことがちょっと嬉しくもあって。

「だとしたら、それはとても悲しいな」

「ね――ほんと、悲しくなっちゃいます」


 帰り道。

 結局、二人で先輩後輩の関係を越えるための知恵を絞ってみたが、これぞという作戦は出ず、その日はお流れとなった。

 帰り道、駅に向かう遊歩道の通りがかり、私はわがままを言って、噴水のあるちょっと大きな公園に寄り道をした。

 真っ赤の花の咲く花壇を淵どるオレンジ色のレンガを、平均台のようにして歩いている私を先輩は後ろから眺めている。両手をやじろべえみたいに挙げてバランスをとって、不安定な足場を一歩、一歩と素直になれない私の不安定な足取りがみしみしと音を立てる。

 この公園は、私が無理を言って休日に先輩に付き合ってもらった秘密の特訓場だった。隣駅にあるので、知り合いに見つかる可能性もあまりないし、周りにもランニングしている人が良くいるので、周囲から浮く心配もない。

 あの頃から私の生活圏はあまり変わっていない。

 先輩が中学を卒業してからも、なんとなく会うのはこの公園の近くが多かった。結局お互いの知り合いに遭遇しない場所となると、およそこの辺りに帰着するのだ。

 二人でこの公園に来ると、陸上部の先輩後輩だった日々を思い出す。

 でも、あの日そのままではない。

 私の世界はたいして広がっていないが、今では先輩は三駅先の高校に通っている。

 先輩はダサいジャージをやめてそこそこ見られる格好――私が苦労して着させたもの――になっているし、私だってひらひらとした動きにくいブラウスに、生意気にもレースの編み込まれた白地のスカートまではいている。

 何より、走ってばかりだったこの公園を、いま私たち二人は歩いている。

「にしても、この公園ってこんなきれいな場所だったんだな」

「たしかに。ここに来るときはだいたい、タイムのことしか頭になかったので、私も気づかなかったです」

「多いときは週三回とか来てたのにな」

「ほんとほんと。花壇の花の名前だって、たった今、知りました」

「なんて名前なんだ?」

「サルビアらしいです」

「言われてもピンとこないな」

「ふふっ、私もです」

 変化は少ないようで、少しずつ変化はある。

 知ったところで何の薬にもならない花の名前も少しずつだけれど私と先輩の世界を広げている。

「鈴原先輩とデートするなら、こういう場所もいいかもな」

 それは、おそらく何の悪気もない無邪気な一言。

 なんとも思っていない先輩が考えた心からの一言。

 先輩がその言葉を発した瞬間、私はレンガから足を踏み外した。

 突然に視界が回転し、重力が四方八方から襲ってくるような奇妙な感覚に襲われる。

 ――あ、落ちる。

 地面に手を伸ばすという発想もなく、ただあるがままを受け入れて、路面に敷き詰められたオレンジ色のタイルに、吸い込まれていく。視界の中央にとらえたサルビアの花が小さくなる。

 でも、それでいいような気がした。この公園の一部になって溶け込んで、そして――。

 そんなことを考えていると、私の肩を温かくてそれでいて力強い感触が包み込んだ。落下する私の慣性はぴたりと止まり、ぐらぐら揺れていた視覚映像は、夕方への入り口を迎えつつある真っ青な空と、慣れ親しんだ顔を映し出す。

「大丈夫か?」

 その見慣れた顔は、心配そうな顔で私をのぞき込んでいて。すっかり運動不足でへにゃへにゃになったと思ったのに、どっしりとした安定感で私の体を受け止めて。

 私が練習中にすっ転んだ時もこんな表情をしながら、不器用な手で必死に手当てしてくれたっけ。

 先輩にとってはごく普通のことでも、それがひとつひとつ、私にとっての特別だ。

 そんな特別が私の中にはたくさん積み重なっていて、でもそれは先輩にとっては特別でもなんでもなくて。

「……文化部に入ったのに、思ったより動けるんですね」

 ひねくれものの私はこんな時でも憎まれ口をたたく。

 本当に、どこまでいっても可愛くない。

「助けてもらって何言ってるんだ」

 そう言って、ため息をつきながら先輩は私を起こす。

 幸い怪我はなく、服に汚れもついておらず、さっきと同じ私が立ち上がる。

「ですよね、すいません」

 ようやく素直に謝罪の言葉が出てくる。

 こういう可愛いことを最初から言えたらいいのに、どうしても余計なステップを挟んでしまう。

 きっと、そのプロセスが、私にとってとても愛しく心地よいものであるから。

 ――私と先輩をつなぐ特別であるような気がするから。

 でも、わかっている。

 その特別は――だけのものだ。

 あの日々を特別だと思っていたのは――だけで。

 夏休みの大会前なんかは、それこそ毎日のように特訓に付き合ってもらっていたけど。それも先輩にとっては純粋な後輩への好意でしかなくて。

 あの頃は毎日が、毎日がまるで――のようで。

 でも――と思っているのは今も昔も、きっと――だけで。

「先輩、本当に鈴原センパイのこと、好きなんですね」

「どうした急に」

「いえ、ちょっと実感しちゃいまして」

 唐突な話題振りに困惑しつつ、先輩はポツポツと口を開く。

「最初はこんな綺麗な人がいるんだって衝撃だったんだ。まるで別世界のお姫様が飛び出してきたみたいな」

 お姫様と来ましたか――なんて想像以上にロマンティックなワードチョイスにひとりごちる。

 そう語る先輩の瞳は、ここではないどこかをとらえている。

「でも、同じ部活に入って間近で見ていると、それだけじゃないってわかった。あの人はあの人の世界の中で、必死にあがき続けている。もっと上へ、上へ、もっと、ずっと高い世界へ――地べたを走り回っていただけの俺には届かないような、遠い世界を見ていて」

 その地べたを走り回る自由さに惹かれる人もいるのだけれど、今はきっとそういう話ではない。

「俺もただ眺めている存在ではいたくない。いつか、鈴原センパイに追いついて――そして、彼女と同じ景色を見たいって――そう思ってる」

 先輩の声からは確かな決意が感じられる。

 なんて面白くない話だろうか。

 聞きたくないなあと思うけれど、聞かずにはいられない。

 それほどまでに、先輩の言葉は真剣だ。

 やめとけって言葉を何度も言いかけて飲み込んできたのは、この遠くを見る何かに吸い込まれていきそうな瞳に、彼の真剣な想いを感じ取ってしまったからで。

 ――そして、その想いは私の知らない日常の中でどんどん変化して積もって、強くなる。

「……もう、好きすぎじゃないですか」

「だろ?」

「すーぐ調子に乗る」

「たはは……」

 まるでのろけるかのように、ポリポリと頭をかいてにやける先輩。

 まだ付き合ってもないくせに。

 ただの後輩でしかないくせに。

 でも、そこにある気持ちをわかってしまうから。

「……でも、さっきの話、悪くないかもしれません」

「というと?」

「放課後に鈴原センパイをこの公園に誘ってみても、いいんじゃないですか」

「それだと意味がないんじゃなかったか?」

「うーん……私もちょっと理想が高すぎたというか……ちょっと考え方を改めましたというか」

 微妙に口ごもる。

「そうやって、少しずつ好感度を重ねていくことも大事かな、と」

 先輩はいま初めての特別な感情と向き合っている。

 ささいなきっかけに見出した特別も、少しずつの特別が積み重なって膨れ上がっていく特別も、そうして抑えきれなくなる愛情も、全部、全部はじめて受け止めている。

 そうやって自分の気持ちを積み上げていくステップも、恋愛では大切なプロセスなのだと思う。

「なるほど! さすが中島だな」

「ほめても何も出ないですよ」

「つまり……昨日のデートも無駄ではないんだな」

「そうかもしれませんね」

 気のない私の返事にも気付かず、先輩の瞳に活気が宿る。

「ひとつ言っておきますけど! そうやって地道に進めていくのはイバラの道ですよ! いつ、相手に好きな人ができて先を越されるか、わからないですから」

「す、好きな人!?」

「そりゃあそうでしょう。鈴原センパイにだって選ぶ自由は――」

「頼むぅ……想像させないでくれえ……!」

「いい加減に慣れろ!」

 ささやかな特別の価値。

 積み重ねた日々の喜び。

 好きが膨れ上がっていく気持ち。

 そして、先輩がその意味に気付いた時、はじめて先輩に告白してやろうと思う。

 私がどれだけ先輩のことを好きか、そのことを知って苦しんで、苦しんで――苦しめばいい。

 日が傾いてきて、木々の影が濃く長くなる。

 そんな木陰がまるで矢印のように視線を誘導し、小さな売店が目に入る。

 練習の後は、よくここでスポーツドリンクを買っていたものだ。

「おにぎりください。お駄賃」

 私はいつものおねだりをする。

 先輩はやれやれと言いながら、梅干しのおにぎりと千円札をおばちゃんに差し出す。

 おばちゃんはジャラジャラとした小銭を先輩に手渡し、先輩はお釣りを乱暴にポケットに突っ込む――こればかりは何度やめろと言っても改善しない。

 そして、先輩は私におにぎりを手渡す。

 どっしりというには頼りない重みが私の小さな手のひらに乗っかる。可愛くもない何の飾りもない黒い三角形。

 食べたら酸っぱい味わいが口に広がる、魔法のアイテム。

 先輩が初めて、私におごってくれたもの。

 私はその三角形を天高く掲げると、スマホのカメラを構える。

 何を模したかもわからないアプリのカチリという音とともに、抑揚のない黒い塊が画面に収められる。

「何、その写真もアップロードするの?」

「いいえ、しません。言ったじゃないですか――本当に個人的な写真はアップしないって」

 これが私の特別。

 先輩の普通。

 でも、今日はなんだかこれだけでは満足できなくて。

「……もう一枚だけいいですか」

 そう言って私は先輩の袖を引っ張る。

 よろめいた先輩を強引に隣に引き寄せて、腕組みをしているような格好でカメラを起動する。

 そして、真ん中におにぎりを添えて、シャッターを切ると、パシャリという音ともに、笑顔の私と、驚いて変な顔してる先輩が小さな四角い箱の中に収められる。

 構図なんて全然ちゃんとしてない、ピントすらもあっていない、ぐちゃぐちゃの写真。

 ポリシーとか関係なく、こんな写真どこにもアップロードなんてできない。

「おい……!」

 抗議する先輩を無視して、私は走り出す。

 走るのをやめて楽器ばかりいじっている先輩は、すぐに置いてけぼりになって豆粒みたいに小さくなる。

 追いついて、追い越すのが夢だったのに――簡単に夢はかなってしまう。

 もっと、もっと速く。

 スカートなんて関係あるか。

 こげ茶色のタイルを、短く刈り込まれた芝生を、木の葉で日光が遮られた獣道の湿った土を踏みしめて、私は進む。

 踏み鳴らした道を、何週も、何週も。

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デートと思っているのは自分だけ ヤスダトモキ @tmk_423

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