万願寺のタイタン と 松の翠

(1)

 夜霧に白い魔道灯の光がにじみ、辺りにはお出汁だしとお醤油しょゆうの匂いがうっすら漂う。

 そのくらい裏通りを、一人の人影が足早に歩く。ポケットからチャリチャリと魔貨をまさぐる音を立てながら。


 今日こそは、旨いものをいただくのだ。そして旨いお酒をたしなむのだ。


 この道を数日ぶりに歩く、その人影の足取りは軽い。

 若い女だ。小柄だが、身にまとう聖魔法の霊気は、彼女がひとかたならぬ人物であることを示している。



 やがてその女が足を止めたのは、赤いランターンを掲げた酒場。

 看板には下手な絵のような、文字のような、不思議なウネウネで『日本酒バル マーチン's』と描かれている。マーチンは店主のあだ名らしい。全くガラにもない感じだが、そこはかとない愛嬌にも感じられてくすりと笑みが浮かぶ。


 さあ、お店に入ろう。上等なガラス戸を押し開けようとガシャガシャ音を鳴らす。引き戸だったことを思い出してカラカラと横にすべらせる。

 たちまち、かすかだったお醤油、みりん、お酒の芳香が濃密に押し寄せる。


「ぇらっしゃい。」

 無愛想な中年男性の店主がぼやくように口にするのを聞いてか聞かずか、女はいそいそとカウンター席に座を占める。



 ここ、魔都は歴史が浅い街だ。31年前、突如現れたダンジョンに人が集まって、村ができた。21年前、第二ダンジョンが現れた。11年前、一晩のうちに魔塔が現れた。

 そのたびに集う人は増え、ダンジョンから産出する魔道具も質・量とも向上し、巨大な街になっていった。

 そして1年前。今年は何が現れるのか、期待に打ち震える人々を尻目に、何の変化も起きることがなかった。


 だが、この女は知っている。昨年、この街に突如現れたのは、ここだ。この店では、この国ではありえないような、この世界のあらゆる交易品でもありえないような素材を使った極上の料理と酒が出てくる。

 ただ、それらが独特すぎて、流行っているとはいえない、閑古鳥が鳴いているといってもいい具合だ。今日は一人で静かに呑みたい彼女に好都合ではある。

 さあ、今日は何を頼むべきか。いまだ、この店の真髄を究めたとは言い切れない。


「今日のおすすめは、何かしら。」


 生唾を飲みながら、ようやく期待に震える声で問いかける。


「ん、まいど、ヨランタさん。

 …せやねぇ。今日きょおは、立派な万願寺まんがんじがあったんで、万願寺のいたんがええね。お酒は、それに合わせて伏見は神聖の“松のみどり”で、どうやろ。」



 店主・マーチンが独特の悠長ながら優雅なニュアンスで話す。

 言葉はわかるが、固有名詞だけはひどく曖昧に響く。が、彼女、ヨランタの耳には ある単語が稲妻のように響いた。


 タイタン。神話に登場する世界の始めの巨人。

 そも、小柄で非力ながら冒険者であるヨランタの目には、大きく力強い存在は天上の存在に伍するほどの輝きをもって映る。なかでも、タイタンはかつての放浪時代、短期間ながら共に暮らした想い出がある。

 誰に話しても決して信じてはもらえない、貴重な、貴重な体験。かの響きだけで目頭に熱が生まれるほどに、彼女にとってかけがえのない、アレだ。



 まさか、いかにこの店といえど、まさかタイタンの肉ではあるまい。そんなことをただしたら、たちまちに一生の笑い話になってしまうだろう。

 思いは千々に乱れるが、とにかく注文だ。かのタイタンの名を冠する料理、見せてもらおう。

 その名を飾る、マンガンジというのはなんだろう。地名だろうか? 古マンガンジ王国を支配するタイタンの威容を称える料理かもしれない。イヤオウにも期待が増す。心拍が上がる。



「こちら、突き出し。酒器はどれにします?」


 注文を終えてすぐ、マーチンが料理が盛り付けられた小鉢と、籠に並べられた土塊つちくれを持ってくる。

 こんなことをやってるから、この店は流行らないんだ。ヨランタは憮然とした顔で土塊を眺める。

 小鉢はいい。その酒器と言って差し出す器を見て、ヨランタは思い返す。



 一度、冒険仲間をこの店につれてきたことがある。その男は酒器を見てこう言った。

「俺もね、子供の頃、なんか気に入った石ころが宝物に見えてたくさん家に持ち帰ったことがあったよ。母ちゃんに捨てられて泣いて怒ったけどね、“そんなに大事なら川原に置いてきたから同じものを拾ってきなさい”って、そんなのわかるわけないよね。いやぁ、そりゃぁ泣いたさ。

 そんな感じの宝物の石ころで酒を呑むって、いい歳こいた大人がナニやってんだ。」

 

 あの男は気に入ったものに早口で文句をいう癖がある。そのあと勝手に気まずくなってひとりで帰ってしまったが、言ってることはわかる。失礼なことをされた店主も、なぜだか満足げな表情だったことが印象深い。


 土塊トウキにもビゼン、オリベ、シノ、イガ、ハギなど違いがあるという。マーチンの趣味ではないらしいが、ジキ・石ものというのもあって、自分はこっちのほうが綺麗で宝物だと思う。が、ここは最近なんとなく良さがわかってきたオリベの酒器を選ぶ。

 店主は嬉しそうに頷く。それより、タイタンを早く。



 突き出しと言って出てきた小鉢料理は、これも毎度ながら正気を疑うものだ。念のため、こちらは問うてみる。


「コレって、なんて名前の料理ですか?」


「え? んー。ブリの刺し身をヅケにしたものと生ワカメを刻んでゴマ油のタレで和えたもの。名前なんかないよ。たぶん。」


 そう、この店は魚の生肉を客に出す。その上で「海の魚だから大丈夫だよ」と、歩けば海まで半年かかる高山地帯のこの街で事もなげにのたまう。

 こんな事をしているから、街で火炙りの処刑が行われるたびにこの店主が受刑者ではないかと心配になっているというのに。



 プリプリ怒りながら、名も無い料理を口に運ぶ。旨い。これだけでもう今日という日が完成されたかと思うくらい、脂の甘味、タレの塩気、魚肉のプリプリの歯ごたえ、海藻のクニクニの歯ごたえ、プチプチの歯ごたえは胡麻か。それらがない交ぜになった爆発的な旨味が口から鼻腔まであふれ出し、脳に駆け抜けて手足の指先までも痺れさせる。

 ここで、オリベの酒器を傾けて“松の翠”を口にする。


 オリベは、白っぽい岩を思わせる無骨でいびつな肌に、苔むしたような深い緑のゆうをかけ、白い部分には子供っぽい落書きが描いてある器だ。なんだコレ、と見るたび先述の男の醜態を思い出してクスリと笑みが浮かぶ。

 その、カタクチという小振りなポットからグイノミという大きめひと口サイズのカップに注いで、ぐっとあおる。

 垢抜けしきらない分厚くゴツゴツした岩肌から、山の清水を思わせる不自然に冷えた酒が口中に流れくる。それは、口の中に残った油や塩気その他を香気とともに喉に流し込み、その最も純な部分を清涼感をもって口腔に満たす。


 味は薄く、水のようだ。なのに、見知らぬ花の薫りが夜風に乗って吹き抜けていくのを感じる。この世の生命の尊くかぐわしい部分だけを選び抜いて抽出した水。自分ならこの酒をそう呼びたい。



 今、この瞬間、幸せな人生が達成された。酒ならではの熱が体の奥から昇ってくるのを感じながら、深い満足にひたる。

 しかし、これはまだ「突き出し」。マーチンは気分によって「お通し」「先付け」とも言うが、意味は同じらしい。さとの地方ごとに呼び名が違って面倒だ、と言っていたがそんなことはどうでもいい。

 メインディッシュはこの先にある。



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