ディープブルー・コンプレックス

いいの すけこ

ヘッドホンと深海

 突如として空は哭く。

 悲鳴を上げた空は真一文字に裂けて、それこそ口を開いたようだった。まるで吐息のような生暖かい風が、セーラー服のスカーフを揺らした。

 黄昏の空に響き渡る金切り声は、確実に私の神経を蝕む。

「うるさいなあ」

 首に引っ掛けたヘッドホンを装着する。

 卵形の耳当てに、口元に伸びるインカムマイク。ヘッドホンはワイヤレスタイプで、動きを阻害するコード類はなし。ヘッドバンドを調整するアジャスターに指をかけたら、一瞬でヘッドホンが頭にジャストフィットした。がっちり頭に固定されたそれは、ちょっとやそっとの運動では落ちたりはしない特殊仕様。

 黒いボディで、パーツの継ぎ目部分だけが青色のカラーリング。

 傷だらけの、私の相棒。

 卵型の内側、イヤーパッドが耳にぎゅっと吸い付く。

 空の悲鳴も、風の音も。車の音も電車の音も。鳥のさえずりも虫の羽音も、お散歩中の犬の呼吸も。道行く人の足音も、登下校中の学生の笑い声も井戸端会議のおしゃべりも。

 私を取り巻く雑音、全てが遮断されて。

「……っし」

 呼吸を、ひとつ。

 世界の全てが、無音になる。


 空の割れ目から、黒い影が伸びてきた。植物の蔓のようなそれを、跳躍してかわす。

 スカートの下には高校指定のハーパンを履いてるから、問題は無し。足元も戦闘靴コンバットブーツだから安定している。

 右方向からの影も、体を捻って回避した。

 ヘッドホンをしていなければ、ぶんっ、とか、びゃっ、とか、きっと空気を切り裂くような音が聞こえただろう。けれど私は静寂の中にいるから、攻撃は目視か気配だけで察知しなければならなかった。

「はっ」

 短く息を吐いて、背後から伸びてきた影に向かって指先を突き付ける。人差し指の先から放たれた光が影を弾いた。

 ヘッドホンの中は、まるで深海のようだ。

 聞こえるのは自分の心音だけ。

 本当の海中は、案外色んな音がするらしい。魚の声とか、海底火山だとか、ダイバーの呼吸音とか。

 だけど、それはそれ。

 ヘッドホンを装着して訪れる静寂は、私を海深く潜っていくような心地にさせた。

 だとしたら長く伸びる黒い影は、さしずめ深海生物の足だろうか。

 タコやクラゲのようなそれらの相手をしながら、私は足を生やす空の裂け目に向かって腕を真っすぐ伸ばした。


 割れた空の奥に、何がいるかは知らないが。

(狙いは、そこ)

 指先で影を制することができたのは、その手が異能の力を纏っているから。 

「ふっ!」

 矢で射るように、光を放つ。

 異能の光、私の武器。

 稲妻のようにまばゆい光が、影の大本を貫いた。

 長く伸びた影はのたうつように暴れ、ずるずると裂け目に引き戻されていく。巣穴に逃げ帰るタコのように。

 肌に纏う空気がびりびりと震えるのがわかった。きっと空が、断末魔を上げている。けれどそれも、深海にいる私には届かない。影が撒き散らす黒い雨は、セーラー服の上に羽織っていたジャージを被ってしのいだ。

 耳当てに手を添える。つるんとしたフォルムの表面には青いやじりのようなマークが描かれていた。

 海中から陸へと上がったかのように、大きく息を吸って、吐いて。

 耳あての縁にある小さなボタンを押す。 

「こちら藍島アイシマ、本部へ。『影叫スクリーム』一体、討伐完了」

 ざざ、とヘッドホンが微かなノイズを拾った。ついで真っ先に聞こえたのは、ため息と思しき空気の震える音。

『……本部に戻る時は覚悟して来いよ』

 私ひとりきりの海に、疲労が滲んだおっさんの声が響いた。








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