第41話 嵐の予感


「ルード……わたくしの期待を裏切るような行為は、何があろうとも決して許されません。正解は一つだけですよ」


 波風一つ感じさせない、それでいて暗い海の底のような笑みを湛えるマズルカ。周りからも剣呑な視線が突き刺さってくる。いや、俺にどうしろっていうんだよ。これはもう、悪魔かなんかの所業としか思えない……。


「……」


 また同じ個所に口づけするとなると、工夫がないのでおそらくダメだ。マズルカは許してくれないだろう。かといって手の甲を選ぶのもありがちすぎる。


 じゃあ、唇か……? でもそこは殺す可能性が高いって本人が以前言ってたしなあ。アイラとロゼリアも見てるし、何よりシルル山という荘重な雰囲気の場所にそぐわない気がするんだ。


 というか、悩み続けるのも悪手だ。王女様を待たせるわけにもいかない。男らしくというのは死語だが思い切ってやるしかない。


 そうだ……がまだ残されている。よく映画とかでも見たシーンだから問題ないはずだ。思い立ってからまもなく、俺は意を決してマズルカ殿下の体を強引に抱き寄せると、勢いに任せて額に口づけした。


「「……」」


 重量感のある圧倒的な沈黙が覆い被さってくる。殿下も含めてみんな黙っているという事実を前にして、俺の心は今にも圧し潰されそうだった。正解なのか? 不正解なのか? それだけでも教えてくれよ。それとも察しろっていうのか……?


「ふふっ、あははははっ……!」


「で、殿下……?」


 突然マズルカが不気味な笑い声を上げ始めたかと思うと、懐刀を取り出して自身の手首を切り始めた。あー、どうやら不正解だったか。冷血の王女の代名詞である『血の粛清』を使うつもりなんだろう。


 それなら、第一王子がせめて苦しまないようにと介錯役を担ってくれるかもな。とはいえ、戻れなかったら意味がないので、俺は殿下を抱き寄せる前の地点を想像し、『マンホールポータル』を用意する。


「死になさい」


「……はっ。それが、殿下の望みとあれば……」


 俺は抗うことはせず、大人しく第一王女の御言葉に従った。足元をドロドロに溶かされたとしても、即死はせずに『マンホールポータル』に触れるくらいのことはできるはずだ。手が溶けたのなら、『インヴィジブルブレイド』を使えば当たり判定が出て移動できるだろう。


 それにしても、一体何が気に障ったんだろうな。唇にやれば正解だったのか? 過去の地点に戻ったら試してみるか。ただ、アイラはどう思うんだろうな……。


 マズルカの手首に赤い線が走り、地面に血が滴ったとき、それが見る見る膨張していき、大地の血管の如く周囲へと広がっていった。


「「「「「キャアアアッ……!」」」」」


「えっ……」


 四方から断末魔の悲鳴がこだまする。しかも、俺の体はなんともなかった。あれ……? 近くに何かいたのか? 魔物でも即湧きしたのかとも思ったが、叫声がするまで近くにいる気配すらなかったので首を傾げるばかりだった。


「わたくしたちの憩いの時間を妨害するがおりましたので、即刻退場していただきました」


「む、虫とは……?」


「悪霊のことです」


「……」


 マズルカ殿下の仰るお邪魔虫って、悪霊のことだったのか……。道理で気づかなかったわけだ。


 というか、そんなものがなんでよりによって俺のほうへ集まってきたのか、しかもそれに気づかなかったのか。そんな疑問が次々に浮かんだが、もしかしたら悪霊が俺のことを眷属だと勘違いしたのかもしれない。それで俺自身も敵だと認識できなかったのだ。


 それにしても、『血の粛清』って悪霊にも効果があるんだな。まあ、【聖痕】スキルだから普通にありえるか……。


 その後、俺はローガに両手で握手されるほど感謝されるとともに、アイラたちから額を指差されるジェスチャー付きで大いに冷やかされるのだった。ロゼリアは額に手を当てながらも放心した顔だったが。


 はあ。頬っぺたの次はおでこで弄られるのか……。まあいいや。確かに肝は冷やしたものの、良い休憩というか気分転換になったと思いたい。


「――あ……」


 それから一時間ほど山道を歩いただろうか。空気が振動するのを感じた。


 この気配は……間違いない。【シルル】のものだ。一応死亡フラグを確認するも、それについては何もなかった。それだけ強力なメンバーが一堂に会してしているからだろう。


 俺と同じく【シルル】の気配を感じ取ったのか、ローガ殿下が険しい面持ちで立ち止まり、後方を歩いていた第一王女マズルカは茂みの中へと隠れる。自分がいることでシルルに逃げられないようにするためだろう。


【シルル】はどうにも、マズルカとの接触を避けているらしいからな。彼女がいることで魔物との波長が逆の意味で合いすぎるのか、存在というものを相殺されてしまうのかもしれない。


 視野が極端に狭くなるあのがして、そこから【シルル】のシルエットが見えてくる。


 やつとは稀にしか遭遇できないはずなんだ。なのに連続でお目にかかれたということは、やはり第一王子の存在に敏感に反応したからなんだろう。


「……ローガ……」


「シルル、久々だな」


「久しぶり……」


 驚くべきことに、第一王子は【シルル】と普通に会話していた。これが本当に魔物かと思うほど、彼女の姿は人間にしか見えなかった。その最中、ローガ殿下が妹を背中で制止しているのが見て取れる。まだ行くなと言わんばかりに道筋を遮っていたからだ。


「ローガ……どうしてこんなところへ来てしまったんだ? 私はもうとっくに魔物に憑りつかれて、完全な人間には二度と戻れないのに。すぐにでも襲うかもしれないのに……」


「いや、シルル。何を申すのだ。そなたは当時のままではないか」


「そう見えるだけだよ。私が正気に戻れたのは、ローガが私を思い出してくれたことで、が僅かに出来ただけ。もうほんの少しの猶予しか残されてはいない。すぐにでも私は元の魔物へと変貌を遂げてしまう。頼むから、今のうちに逃げてくれ……」


 いかにも悲し気な台詞を発する【シルル】。よく見ればわかるが、彼女の唇は一切動いていない。すなわち、あれは魔力を帯びた心の声なのだと推測できる。彼女の言う領域とは、心の隙間のようなものなのだろう。


 ローガがここに来たことで心の橋渡しができたが、既に彼女の体の大部分は魔物に憑りつかれてしまって、もうどうしようもないということだ。


「……残念ながら、それはできぬ。余は過去を清算せねばならぬ。それによって、そなたを悪霊から永遠に解放するためにここへ来たのだ……」


「……そう、か。それなら…………」


【シルル】の目が怪しく光る。どうやら真っ白な領域が魔物に浸食され始めているようだ。最早後戻りができない地点まで来ているということだ。


 そのタイミングを見計らったかのように、マズルカが前へと歩み寄ってきた。


 これは俺の推察ではあるが、【シルル】は人間の部分がかろうじて残っていたため、第二王女のエルルカを失わせた罪悪感からマズルカ殿下を避けていたんじゃないかと思う。それに加えて、思いを通じ合わせた第一王子の妹を傷つけたくないというのもあったんだろう。


 領域の空白が邪念で埋まり完全に魔物と化したと見て、第一王女マズルカは遂に決着をつけられる瞬間が到来したのだと考えたんじゃないか。


「【シルル】……恩人であり仇でもあるお姉様と出会えるこの日を、何度夢見たことか……」


「……誰ダ、お前ハ? 消エロ……」


 しかし、マズルカ殿下が不敵な笑みを浮かべながらそこに現れると、皮肉にも【シルル】の魔物の血が反応したのか、敵愾心が剥きだしになるのがわかった。どうやら本当の意味で中位の魔物【シルル】と化したようだ。


 これからいよいよ、【シルル】と第一王女マズルカの対決が始まるってわけだ。この宿命の戦いを邪魔することは俺を含めて誰にもできない……。

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