第19話 冷血の王女
空を覆っていた暗色が剥がれ落ちてきて、露になった霊王山脈の稜線に淡い光が滲み始めた頃。
その山の一つであるシルル山を目指す馬車の内部では、この上なく高貴な雰囲気を漂わせる女性が恍惚とした表情を浮かべていた。
「嗚呼……シルル山はいつ見ても美しいですねぇ。ロゼリア……」
「……た、確かに、その通りですな!」
この女性の名はマズルカ・ダムディアス。このダムド王国の第一王女であり、傍らには甚く恐縮した様子の侍従ロゼリアの姿があった。
「こうして、ただ座席から眺望しているだけでも僥倖を得たようで血が疼きます。とても遠くて月の如く手が届かないのに、いつもの我が家へと舞い戻ってきたかのような、そんな不思議な感覚に包まれるのです……」
「……と仰りますと、殿下。郷愁的なものでしょうかね……?」
「うーん……郷愁とはやや相違がありますね。確かに故郷のようなものではありますけれど、もっとこう、幻想的で夢の中にいるような気持ちに浸れるのです……」
「は、はあ。となると、
「そうですね。それに近い感じです」
「なるほど……!」
ロゼリアは納得した様子で手を叩くも、その表情はすぐに冴えないものに変わった。
「……しかし、あのような恐ろしい場所、殿下が参られるような場所ではありませんのに」
「……ロゼリア、またそれですか。そもそも、今日という日は伝統的な行事が執り行われる日でもあるのですし、お兄様も猫の手を借りたいほど忙しいのですから、適任者はわたくししかおりませんことよ……?」
「とはいえ、令息のルードを不当に幽閉した一家ですので、今回は天覧については見送ってもよかったのかと……」
「まあよいではありませんか。それに、あなたが話していた、ルードという殿方に興味があります。ただ、もしつまらない人だったらあなたが見ている前で亡き者にしてしまうかもしれませんけれど……」
「で、殿下、どうかそれだけはおやめください……!」
悪戯な笑みを向けてくる殿下に対し、ロゼリアの顔が見る見る青ざめる。
「……くすくす。冗談なので大丈夫です。半分本気ですけれど……」
「その冗談が恐ろしいのです、殿下ぁ……」
「相変わらず、ロゼリアは小動物のようで可愛らしいですね。そんなに縮こまって……。そろそろわたくしの手で楽にして差し上げましょうか……?」
「ひいっ……」
「冗談ですよ。くすくす……」
二人の会話が盛り上がりを見せていたそのとき、大きな揺れとともに馬車が停止した。
「な、なんだ? 一体何事か……!?」
「ロゼリア様、どうやら山賊の襲撃のようです。いかがいたしましょう?」
先頭の馬車に乗る斥候の兵士らがロゼリアの元に駆けつけるなり、指示を仰ぐ。
「さ、山賊だと……? よし。すぐに
「……」
「おい、どうした、何をぼんやりしている? さっさと行かぬか!」
「ん? あー、それはできないね。だって、俺たち斥候は山賊の仲間なんだから」
「な、何!? さては、謀ったのか!」
「へへ。なんせ、こういう行事がある日なんでね。この日に合わせて念入りに準備してたってわけよ。本物の斥候や護衛隊長はとっくに暗殺してるってわけさ。さあ、死にたくないならとっとと馬車から出ろ!」
豹変した兵士らがロゼリアの首元に槍を突き付ける。
「ぬ、ぬうう……まさか、斥候の中に裏切者が紛れ込んでいたとは。私としたことが、チェックを怠っていた。誠に申し訳ありません、殿下……」
「あらあら。ロゼリアったら、心の中さえも見抜く目があるというのに本当に滑稽ですね。どうせ、別のことばかり考えていたのでしょうけれど」
「う……私は決してルードのことばかり考えておりません……!」
「くすくす……いいでしょう。あの、兵士さん……いえ、山賊さんでしたね。ごめんなさい。今から馬車を降りますので、少々お待ちくださいね」
「お、おう……」
第一王女マズルカのあまりにも落ち着き払った様子に、兵士が驚いた様子で眉を顰める。
馬車から降りたマズルカとロゼリアは、四方を裏切った兵士に囲まれて矛先を向けられるという絶体絶命の状況に陥った。
「むううっ! 他の兵士たちは、一体何をしておるのだ……」
ロゼリアが唇を噛むも、王女が人質に取られるという様相になったことで、近衛兵や他の正規兵たちは最早なすすべもなく見守るしかなかったのである。また、周囲の茂みから登場するなり一斉に弓矢を構える山賊らの姿もあり、護衛兵たちは次々と武器を捨てる羽目となった。
「へへっ、お姫様の命が惜しいんだし、いくら強くても戦えねえよなあ。さあ、クソ王女。まずはその装飾品だらけのふざけた服を脱げ。下着姿になったら、ロープで縛りあげてやるからよ。それとも、俺たちが脱がしてやろうか?」
「「「「「ギャハハッ!」」」」」
「ふふっ。大丈夫です。それくらい、自分で脱ぎますので……」
「「「「「……」」」」」
マズルカに動揺した様子は微塵も見られなかった。それどころか、躊躇う素振りすら見せずに微笑みすら浮かべて服を脱ぐ王女の姿に、山賊と通じていた兵士たちも言葉を失うほどだった。
「これで、血で汚れずに済みますね」
「あ? なんのことだ」
「お、お前たち、殿下を怒らせたらどうなっても知らんぞ!」
ロゼリアが血相を変えて叫ぶも、兵士たちはお互いの顔を見合わせて嘲笑するのみだった。
「おい、こんな状況でお姫様に何ができるってんだよ。脳みそ溶けてるんじゃねえの?」
「「「「「ギャハハッ!」」」」」
「お黙りなさい。下種ども」
「「「「「う……?」」」」」
短刀を光らせる王女の凄まじい迫力に、兵士たちが息を呑む。マズルカはその刃を自身の腕に当てて浅く切り始めたのだ。
「……な、何してんだ、こいつ……!?」
「頭いかれてんじゃねえの?」
「死ぬ気か? おっかねえ女だな」
「てか、それくらいで死ねるわけねえだろ!」
「死ぬのはあなた方のほうです」
「「「「「へ……?」」」」」
王女の血が地面に滴り落ちた瞬間だった。その血が一気に膨張し、大樹の幹の如く周囲へと広がっていった。
「「「「「あ……?」」」」」
兵士たちはしばらく、何が起きたかわからない様子で足元を見ていたが、血に触れた足が骨だけになっていると気づくのにそう時間はかからなかった。
「「「「「ひぎいいいいぃっ……!?」」」」」
兵士たちは潰走するもあえなく倒れ、血だまりの中であっという間に山賊らとともに全身骨と化していく。そんな衝撃的な光景を前にしても、王女の顔には一切の乱れも宿らず、まるで景色の一部であるかのように一瞥する程度であった。
「……さ、さ、さすが、殿下……」
ロゼリアが身震いしつつ陰惨極まる状況から目を背ける。御者もまた、馬車の後ろで座り込んで嘔吐を繰り返していた。不思議なことに、血に触れたロゼリアや御者、馬車、裏切らなかった兵士らは何事もなく、やがて血痕自体も自ずと消えて行った。
「まさか、このような場所で【聖痕】スキルに頼るとは思いませんでした。暇潰しにもなりませんでしたけれど。さ、ロゼリア、先を急ぎましょう」
「……は、は、はいぃっ……!」
再び馬車が走り始めたとき、王女は考え込んだように目を瞑った。
(シルル……いつか出会えるでしょうか。あなたは私から全てを奪い去り、そして、最高の目標を与えてくれた仇であり恩人……)
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