夜空に星のまたたきひとつ
@nazutozu
第1話
通勤電車に揺られながら窓の外を見るのは、僕の数少ない楽しみだった。殊更、夜はようやく帰宅できるという事実も相まって、僕の気持ちを泣きたいぐらいに惹きつけたものだ。
昼間は日光に融かされたように風景へ溶け込む店たちも、夜になればそれぞれ自分へスポットライトを浴びせ、「ここにいる」と訴える。大きな駅前なら皆がこぞって自己主張をし、郊外の小さな駅では少し離れた場所で慎ましく。それぞれが花のような色鮮やかさで、自分の存在を見つけてもらいたがっていた。
そういう景色を眺めていると、誰だって同じなんだなと思う。この通勤電車で俯く人たちも、あの遠くに見える店の中にいる人たちも、自分を見てほしいと必死なのに。みんなが見てほしいと叫ぶものだから、結局誰にも見てもらえないんだろう。
そんな悲しい絶望は、でも僕たち人間が平等であるということを夢見させてもくれた。だから僕は、電車の窓から夜景を見るのが元々好きだった。
その中でも、特に気になっている店がある。
社交ダンス「ミオソティス」。小さな花の書かれた看板が掲げられているそこは、全面がガラス張りになっていて中が良く見えた。だから、遠目にも時折目に入ったのだ。
ダンス講師と思わしき、赤いドレス服の女性。金色の髪をなびかせて、生徒の手をとり優雅に踊る姿が小さく見える。そんな姿に、僕はどうしてだか惹かれて、毎日のように見つめていたのだ。
社交ダンスなんて。僕のような地味な人間には、似合わない。そう考えること自体が、憧れの裏返しで。いつか機会が有ったら、近くの駅に降りて行ってみたい。そんなことを思いながら、でも一度も実行しないまま、僕の変わらず色褪せた日常は過ぎていった。
「ほんと、ほんとツイてない。ほんと……」
ざぁざぁ振りの雨の中、僕はビジネス鞄を赤ちゃんのように抱きかかえて、トボトボと道を歩いている。
今日は台風が接近するから、天気が荒れるとニュースで言っていたのに。うちのブラックな会社は、休みにするとか、電車通勤組は早退しろなんて言わなかった。会社を出たときには既に風も吹くし大雨も降っているし、なんとか電車が止まらないうちにと駅へ駆け込むまでに傘は壊れた。
ガラガラの電車が走ってくれたのは、この駅まで。荒天でこれ以上の運行は取りやめると、僕らは駅に放り出された。我先にとタクシーに乗り込む人たち、バスやホテルを探してスマホとにらめっこする人達。僕もしばらくはタクシーを待ったり、バスやホテルを探したりしたけど、どうにもならなかった。世の中は、行動が早く声の大きい人間が勝つのだ。
そうなると僕には、このまま駅で寝るか、家まで歩いて帰るかしかない。幸い、家までは2駅分だから、歩けないわけでもない。晴れていれば1時間もあれば帰れる。晴れていれば。
道路に叩きつける雨の音は滝みたいにうるさくて、前もよく見えないし。バッグを抱いたところであまり意味が無いのはすぐにわかったけど、無駄なあがきを続けている。既に上着どころかズボンも下着もずぶ濡れで、生地が張り付いて歩きにくい。時折通る車が水を跳ね上げ、まるでそういうアトラクションのように飛沫を浴びせてくる。
どうしてなんだろう。
僕は素朴に疑問だった。
毎日、周りの人間関係を荒立てることもなく。ずる休みもせず学校に行って。他の学生がコンパだなんだと浮かれている間も勉強し。真面目に面接を受けて2桁の会社に断られ。ようやくたどり着いた会社では、地味にきちんと仕事をこなしているのに、明るい笑顔で失敗するやつのほうが評価されたりして。
挙句にこんなずぶ濡れになりながら、夜の道を、ひとりで歩いて。家に帰ったって、真っ暗でしんとうるさいほどの寂しい部屋に迎えられるだけで。
僕は一体、何をしたら報われるんだろう。
ぼろ、と涙が零れた気もしたけど、それはただ激しい雨が頬を伝っただけかもしれなかた。
「――と、ちょっと、あなた!」
微かな声が聞こえたのは、その時だった。それでも僕は、その声が誰に向けられたものかわからずに歩き続けていたから、
「あなた!」
と大きな声で呼ばれ、腕を掴まれて飛び上がりそうになった。慌てて振り向けば、随分と背の高くて金色の髪をした……えらく整った顔の女性が、険しい表情をしているのが見えた。
「あなた、こんな雨の中を歩いたら、危ないわよ! うちで良かったら雨宿りしていって!」
彼女はしかし、えらく声が低かった。言葉の内容にも見た目にも声にも動揺していて、僕は瞬きを繰り返しながらなんとか返事をしようとする。
「ええ、ええでも、」
「家は近くなの?」
「い、一時間ぐらい、」
「じゃあ入って! ほら! こっち!」
「あああ、あの、ちょっと、あの……!」
そんなこんなで、僕はとある建物の中に引きずられることになった。
「あ、」
入口に掲げられた看板に、社交ダンス「ミオソティス」と書かれた、その建物の中へと。
電車の中で見ていた店は煌めいていたけれど、僕が入ったそこは明かりも薄暗く少し寂れた様子だった。入ってすぐに小さなロビーがあって、ガラス張りのドアの向こうにはレッスンをする為の広い部屋が見える。そこも僅かな灯りを残しているばかりで、僕たちの他に誰もいなかった。
ということは、と僕は彼女を見上げて、胸がドキドキするのを感じた。金色の髪、整った顔、すらりとした長身。つまり、この人があの講師なのでは。
「服、脱げそう?」
「えっ!」
ときめいている僕に向かって、彼女ははっきりとした声で尋ねた。僕は頬を赤らめて、「いえっ」と首を振ったけれど、彼女はひとり、建物の奥へと進んで行きながら言った。
「そのままじゃ風引いちゃうわよ、それに車に乗せてあげるわけにもいかないわ」
「えっ、ええっ、いや、大丈夫です、僕、歩いて帰れるし、それに女の人の前で脱ぐなんて……」
慌てていると、彼女が一瞬立ち止まり、「あははは」と笑いながら振り返ると、僕に言った。
「ありがたいことだけど、アタシは男だから平気よ。タオルと何か着替えがあったら、持って来てあげるわね」
彼女は楽しそうにそう言って、奥の扉へと消えていって。
「……お、……男の、人……」
僕はひとり静かに、ロビーで冷えていた。
雨と風は、どんどん強くなっている。ガラスの近くは危ないと部屋の奥へと招き入れられると、そこはちょっとした居住スペースになっていた。
と、いうより。ダンス教室に、ワンルームの住居がひっついている、といった印象だ。洗濯機もユニットバスもあるし、冷蔵庫にキッチン、当然ベッドまで全てが揃っているのだから。
「色々あるから、寝泊まりできるほうが楽だったのよね。家と行き来するのも面倒になっちゃって。……ああ、あったあった! 寝袋!」
怜(れい)さん――さっき名乗られた――は、嬉しそうに言って物置から寝袋を取り出した。ちゃんと使えるか広げて確かめている怜さんに、僕はおずおず話しかける。
「ええっと……ほ、本当に良いんですか? 泊めてもらって……」
「もちろんいいわよ? この嵐の中放り出すわけにもいかないし、車を出すのもまぁまぁ危ないもの、あなたがそれでいいならアタシもそのほうが安心」
怜さんはそう言って眩い笑顔を浮かべた。
明日は休みだし、僕も家に帰らなきゃいけない理由は特に無い。冷蔵庫は空っぽだし、ここで泊めてもらえるならありがたい限り、だけど。
僕は落ち着かない心地で自分の姿を見る。結局洗えるスーツもシャツも下着も、何もかも洗濯してもらったから、僕が今着ているのは怜さんの服だ。下着も「奇跡的に男物が残ってたわ」と新品のものをくれたし。赤っぽいジャージに白いTシャツを着て、僕は怜さんの部屋で縮こまっている……というわけだ。
ずっと憧れていた女性が、実は男性で。僕はとてもびっくりしたし、がっかりもしたはずだ。なのに、胸がやっぱりドキドキする。今、怜さんの服を着ているんだと意識すると、柔軟剤の香りまでとても素敵で甘いものに思えた。
それに、僕をここに連れて来たせいで、怜さんもずぶ濡れになった。だから怜さんも赤い色のジャージ姿だ。いつも遠目に見ていた憧れの存在とは、色んなところが違う。
僕が見ていることに気付いたのかもしれない。怜さんはキッチンに向かいつつ、僕に笑いかけた。
「大丈夫よ、アタシ、ノンケをいきなり食べたりしないもの。理性有るオネェなんだから」
「ああいや、別に、そんな風に思っているわけでは、」
「ふふ、いいのよ。ねぇ、何か食べる? って言っても……買い置きは……。あなた、どれ食べる?」
おどおどしている僕の前に、怜さんはカップ焼きそばを3つ並べて尋ねた。目をパチクリさせて怜さんを見ると、彼――彼女? は、いたずらっぽく笑った。
「停電したら困るから、冷蔵庫は開けちゃったのよね。簡単に食べられるもの、って考えたら、大好きなコレばっかり買っちゃったの。ごめんなさいね」
「ああいえ、いや、い、いいんですか? 頂いて」
「いいのよ、だってあなたがお腹を空かせたまま同じ部屋にいるなんて、耐えられないもの。食べて食べて」
お湯、沸かすわね。怜さんはそう言って、コンロに向かう。片手鍋に水を入れて火にかけるのを、ボンヤリ見つめながら座っていた。
部屋が、しんと静まる。雨と風の音だけが部屋に響くような気がして、僕は思わず口を開いた。
「あ、あの」
「なあに?」
「ど、どうして僕に、親切にしてくれるんですか? だって見ず知らずの人間だし、何の見返りもないのに……」
そう尋ねると、怜さんは「そうねえ」と口元に手を当てて、それからゆっくりと僕の隣に座った。
近くになると、ふわりといい香りが漂う。僕は頬が熱くなるのを隠すように俯いてしまった。
「ね、恩送りって言葉は知ってる?」
「恩送り? 恩返しじゃなくて?」
「そう、恩送り。英語ではペイ・イット・フォワードっていうの。映画にもなったのよ。誰かに受けた恩を、他の誰かに渡すっていう意味でね――」
怜さんが穏やかな表情で、静かに語る。
誰かに恩を与えられて、そのままその人に返すのが恩返し。でも恩送りの考え方は少しだけ違う。誰かに親切にされたら、その分、他の誰かに親切にする。そうすることで、親切の連鎖は無限に続く。そうすればきっと、世の中はきっともっと優しくて、親切になっていく――。
夢みたいな話だ。僕は率直に言って、そう感じた。
「だから、アタシもあなたに親切にするの。別に見返りなんていいのよ。私がそうしたかっただけ」
「でも……僕が他の人に親切にするとは、限らないじゃないですか。恩送りは、僕で止まっちゃうかも……」
「別に構わないわ。人にはそれぞれ生き方と事情が有るもの。あなたがどうしたっていい、アタシはあなたに親切にしたかった。それじゃダメかしら?」
「……ダメではないです、……でも……」
でも。
僕はそれだけを繰り返して、口を噤んだ。自分でも、何が納得できないのかわからないのだ。
だって世の中は、そんなにきれいじゃない。僕がどれだけ頑張っても、僕のことを見もしないし、親切にしたって感謝のひとつも投げやしない。できることが当たり前で、できない時だけ大声で詰って。真面目にしたって、優しくしたって陰で笑われているのが、この世の中だから。
だから。……だから?
僕は自分が何を思うのかも、よくわからないまま黙り込んでいた。部屋には再び、外の音と、しゅわしゅわとお湯が温められ始めた音だけが響く。
黙っている僕に、怜さんはしばらく何も言わなかった。少しして、彼女は小さな声で呟く。
「それにね、親切にして誰かの役に立てれば……アタシみたいなはみ出しものでも、生きていていいんだなって感じるのよ」
その言葉に、僕は小さく息を呑んだ。けれど、怜さんはすぐに立ち上って、小さく笑う。
「なんてね。あなたを助けたかったのは本心からよ。だから本当に気にしないで。明日の朝になれば台風も何処かへ行って、きっと綺麗な陽が昇るわ」
だから、今夜はアタシとあなたで楽しく過ごしましょうね。
怜さんがそう笑う。その笑顔の眩さに、僕はまだ遠い朝陽を見つけたような気がした。
そうだ。僕は。
こんなに優しい、こんなに美しくて、こんなにも善い人が。報われないところなど、見たくないんだ。
僕の頬を、一粒ばかりの涙が伝った。
報われないなんて、誰にも見てもらえないなんて、そんなのは嫌だ。僕なんかはどうでもいい、でも、怜さんは。見ず知らずの僕に、こんな僕に優しくしてくれる怜さんが。
裏切られるようなことは、あっちゃいけない。だからこそ、僕は、怜さんに報いなきゃいけない。その為には、僕が……僕自身が、裏切られても捨て置かれても、人に優しくできるような……。そんな強くて善い人間に、ならなければ。
そう、思った。そうでなければ――そうでなければ、きっと怜さんの隣には座れないと、そんな風に思った。
「台風一過とはこのことねぇ。綺麗な朝陽」
一晩を楽しく過ごし。寝袋に入ってもなかなか寝付けなかった僕の眼には、朝焼けはあまりに眩しかった。それを見つめて微笑む怜さんも、同じぐらいに。
「怜さん」
「なあに?」
「また、会いに来てもいいですか?」
「あら、恩返しなら結構よ?」
「いえ、……なんていうか、……恩送りがしたいので」
僕の言葉に、怜さんは少し驚いたような表情を浮かべて、それからまた柔らかく笑みを浮かべた。
「僕の、恩送りを……見届けて欲しいので」
その言葉は、僕自身へ向けられているものでもあった。
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