神風を感じろ!

@b424206

第1話

 それを初めて見たときに感じたのは衝撃だった。色とりどりに置かれた光の渦に、嘆いているような、喜んでいるような顔をした女が右端に書かれている。だけれどもそれらは、指で描いたように荒々しく、絵の具もデコボコしている。風見良平は芸術に対しての知識はほとんどない。あるとしても、中学生のときの義務教育の知識までだ。しかし、それすらもあまり覚えていない。でも、どうしようもなく、この絵にひかれてしまった。きっと、高校にいる友人たちに聞かれたら、風見もしくないと笑ってしまうだろう。もしかしたら、女みたいだ、とからかわれるかもしれない。けれど、そんなことなど気にならないくらいに、風見はこの絵に引き込まれてしまった。いつもなら通り過ぎているだろう小さな建物で開かれている個展の、ショウウィンドウ越しに飾られている絵に目を奪われてしまった。ぼう、と意識が絵に吸い取られたかのように、ショウウィンドウ越しの絵を眺めていたら、いつの間にか隣に人が来ていた。

「その絵が気になるの?」

年はおおよそ二十歳くらいだろう。クルクルと跳ねまわっている茶髪を一つにくくった女が、にやにやした顔で近づいてきた。

「ど、どなたですか」

少しおびえたように返事をした風見に、満面の笑みを浮かべた彼女は、さらに笑みを深くして距離を詰めてきた。

「君、この絵に興味があるの?」

風見は、彼女の距離感に戸惑いながら。ぎこちない口調で返事をする。じっと蛇に睨まれている蛙のような感覚になってしまい、居心地が悪い。対して彼女は、満足げな顔で、そうかそうかと独りで頷いていた。風見が、なんだこの人、と訝しげに彼女を見た。すると、彼女はハッとしたように、風見の顔を覗き込んだ。

「これはね、神風って題名なんだ」

「もしかして、元寇のやつですか?」

「おぉ、良く知っているな!お前、きっと頭いいんだろ」

彼女は、常に表情を忙しなく動かして、風見の言葉に反応する。こんな絵を自分でも描けたらきっと楽しいのだろう。そう思っていると、なんとなく自分も絵を描いてみたいと思ってしまった。気がつくと、あたりは夕暮れに染まっていた。どうやら、話し過ぎてしまったらしい。風見は、それじゃあ、もうかけらなきゃなんで、と一言かけると早足で駅に向かった。

 前に七時頃に帰ったとは、母さんにこっぴどく叱られてしまった。その時から、なるべく早く帰るように心がけてはいたが、今日はできなかった。今の時間から考えると、どう急いでも七時に家につける気配はない。もういっそのこと、のんびり帰るか、なんて風見が心の中で思っていると、電車が来た。人で溢れかえっている電車に数分揺られていると、家の最寄駅に着く。せっかくだし、帰り道の途中の文房具屋に寄って、絵を描くのに必要そうな物を探した。店員さんに、こんな絵が描きたいんです、とさっき見た絵の写真を見せて、必要そうな物をそれとなく揃える。そうはいっても、買ったのはキャンパスと初心者向けと書かれてあった絵の具セットだけだ。しかし、一つ一つが風見が思っていたよりも高く、先週もらったお小遣いがほとんどなくなってしまった。勿体無いことをしたかもしれないと、後悔しながら文房具屋から出る。あとは、坂道を少し歩けば、すぐ家に着く。ひっそりとドアを開けると、ズンズンと大きな足音が聞こえる。どうやら、母さんは相当怒っているようだ。

「おかえり、アンタ、今何時だと思ってるの?」

ドアを開けると、案の定そこには怒っている母がいた。いつもは朗らかに微笑んでいるせいか、怒ると家族の誰よりも怖い。まさに鬼の形相だ。風見は母を怒らせないように、必死で頭を回して言い訳を考える。ようやく出ていた言葉は、ちょっと文房具屋に寄ってて、という嘘のへったくれもない言葉だった。こんな時間に一人で行っていたことに怒られるかもしれない、と体を震わせていた。しかし、風見の予想とは違い、般若は引っ込んだ。

「そう、お勉強のことなら仕方がないわね」

「あ、えっと。そうそう、ノートが切れててさ」

「全く、来年は受験生になるんでしょ?いい加減危機感を持って勉強して欲しいわ」

風見に呆れたように呟くと、母は言いたいことだけ言って、洗濯物を干しにそそくさとベランダに行ってしまった。

 やっと玄関からリビングに行くと、父はテレビでオリンピックを見ていた。

「お、やっと帰ってきたか」

父は少し揶揄うように笑いながら、風見に声をかける。どうやら、風見が父よりも、遅く帰ってきたのが物珍しく、嬉しかったらしい。今さっきまで見ていたテレビそっちのけで、何をやったのかアレコレ聞いてくる。しかし、馬鹿正直にいうのもなぜだか気恥ずかしい。だから、絵を見ていた事を話すが、話しているうちに、どうしても声が小さくなってしまう。けれど、父には聞こえていたらしい。

「なんだ、絵を描いてみたいのか」

「違う!いや、合ってはいるんだけど、今はその話してないよ!」

「そうかそうか、お前もついに美術に興味が……」

「父さん、もしかしてコレクションしてるものについて誰も聞いてこなくて結構ショックだったの?」

「それはそうさ、お前も母さんも見向きもしないんだから……唯一の慰めは同志の友人だけだよ」

父がしょぼくれた顔で一人劇場をしている姿を、風見は冷めた目で見ていた。それよりも、休みの日は家でテレビを見てばっかりの父に友人がいたことの方が意外だった。

「……父さんって友達いたんだ」

「いや、いるからな!何なら画家や野球選手になった奴らだって居る!案外、父さんは人付き合いが得意なんだよ。何なら、画家の友人に絵を教えてもらえないか聞いてこようか?」

誇らしそうに言っている様子に風見は冷めた目を超えて、最早可哀想なものを見る目になっていた。だけれど、画家の友人を紹介してもらえるのは、正直嬉しい。なぜなら、本当に絵の書き方など全く知らないため、少しでも教えてくれる人がいた方がいい。風見が父さんに紹介して欲しい、と頼むと、父は生ぬるい笑みを風見に向けていた。少し、気持ち悪い。

「それじゃあ、今週の日曜日の二時くらいに、会いたいって」

「うん、ありがとう。」

そう、答えると風見は駆け足で二階にある自分の部屋に行った。冷め切れない興奮をどうにか抑えて、ベットに寝っ転がる。もう、夜も更けて良い子は寝る時間だった。しかし、寝ることができたのはその三時間後だった。約束の日まで残り3日。その日まで勉強や部活など、忙しい生活を送っていると瞬きをする間に過ぎてしまったように感じた。


 そうして、今日はついに、父の友人の画家に会う日だ。服に持ち物、髪型まで、風見なりにばっちり決めているつもりだ。近くの大きな窓で最終確認をして、待ち合わせ場所に入っていく。すると、先日会った女の人がそこにいた。

「あ、こっちこっち」

 固まって全く動かない風見を、半ば引きずるように席へと移動させる。数分すると、やっと意識が戻ったようで、恐る恐る彼女に声をかけた。

「え、父さんの言っていた画家の友人って……」

「そういえば、前会った時は自己紹介をしてなかったね。私の名前は有栖川柚月、君が前にじっと見ていた絵の作者だよ。」

「へっ」

 人の少ない小さな喫茶店に、ガタッという音が響き渡る。風見はあまりの驚きには絶句して、その場に立ち尽くしてしまった。対して有栖川は、前に会った時と変わらない、ニヤニヤとした笑みを湛えてこちらをジロリと見ている。その姿はまるで、おもちゃを見つけた猫のようだった。

「それよりも、君は私に絵を教わりたいんだろう?」

 有栖川は、基本的な挨拶などしなかった。ただ、風見の気持ちを見透かしたような表情で、真っ先に本題のことについて聞いてきた。しかし、有栖川は、風見の返事など気にしていないようにも見える。きっと、彼女の中ではとっくに答えが出ていることなのだろう。だけれど、風見からすると、彼女の傲慢さは少し、いや、かなり不気味に映る。それでも、風見が感動したあの絵を描いた張本人から絵の書き方を教えてもらえるなんて滅多にない機会だ。風見の中で答えはもうとっくに決まっていた。

「僕に絵を教えてください。」

「あっはは!随分と元気がいいな。それで、いつから始めたらいいんだ」

「そうですね、なるべく早く始めたいから。……いつなら空いてますか?」

「私は別にいつでも空いてるよ」

「なら、来週の日曜日の昼間に頼んでもいいですか」

「そりゃあ、もちろんいいよ。それじゃあ、九時くらいからでいいかい?」

「……!ありがとうございます」

 有栖川には予定がないようで、意外なほどにトントン拍子で話が決まっていく。風見は、もう高校二年生になり、大学受験に向けて平日の夜は塾に行かなければならない。そして、風見はあまり活動がないとしても運動部に入っている。きっと、これまで以上に忙しくなるだろう。もしかしたら、途中で嫌気がさして、絵の練習をやめてしまうかもしれない。風見が云々と唸っていると、いつの間にか、有栖川はカフェオレとパンケーキを頼んだらしく、甘い香りが鼻をすくめた。

「そういえば、風見君は何か目標とかあるの?」

 唐突にされた質問に少し戸惑う。けれど、絵を習う上で知っておいた方がいいことはなるべく答えるべきだと思ったのか、数秒間をおくとすぐに返事をした。

「すいません。目標は特にありません」

「それなら、コンクールに応募するのを最後の目標にしてみない?」

「コンクール?何で、ですか」

「だって時期がちょうどいいだろう?来年の春のコンクールに向けて書けば、ちょうど半年くらいになる」

「えっと、あれってもし絵が上手くなくても、参加していいんですか?」

「もちろん。まぁ、絵が上手いことに越したことはないけどね。それでも、明確な目標があった方が私がやりやすいなって思ってね」

 コンクールは上手い人たちが競い合う場所だ。そんなところに初心者の僕が参加するなんて烏滸がましい気がする。風見がそう思っていると、有栖川はまたニヤニヤと笑っていた。気がつくと、パンケーキは食べ終わっていた。それじゃあ、また土曜日にねと言うと有栖川はあっという間に喫茶店からいなくなってしまった。一人取り残された風見は、何も頼まずに帰るのもいけないような気がして、店の中で一番安いコーヒーを一つ頼んで家に帰った。

 家に着くと、両親はどちらも仕事に行っているようで喫茶店でご飯を食べてくればよかったと少し後悔した。

 

 東京から電車を使って数分乗っていると、有栖川のアトリエに着く。そこは大きな橋の下にある暗く、小さな一軒家だった。周りには落ち葉やゴミがたくさん落ちており、あまり人の気配はしない。唯一、扉の前に立てかけてあるボコボコと絵の具が盛り上がった絵が彼女らしさを主張している。小さくドアを叩く。しかし、返事は返ってこなかった。一応、もう約束の時間である九時は過ぎているはずだと思い、恐る恐るドアを開ける。

「お邪魔します」

アトリエに入ると、真っ先に目に飛び込んできたのは足場のない床だった。至る所に脱ぎ捨てられた服や、おもちゃ、何なら外にあった木の葉までもが雑多に置かれていた。玄関だけでなく、奥に見えるキッチンやリビングはもっと状況がひどく、ゴミ袋が積み上げられている。今まであったはずの尊敬が綺麗さっぱり打ち砕かれる音がする。何なら、あまりの酷さに、本当にここは人の住んでいる場所なのか疑ってしまう。

「お、来てたのか」

後ろから声がすると思って振り返ると。今まさに帰宅したばかりの有栖川がいた。手にはとある有名なハンバーガー屋の袋を持って、ズンズンと家の中に進んでいった。

「行かないの?」

有栖川は心底不思議そうに首を傾けている。風見は、顔をぐしゃぐしゃに歪めながらも、渋々有栖川の後ろについて行った。足早に進んでいく有栖川を辿々しい足取りで必死に追いかけていると、すぐに絵を書いている部屋に着いた。アトリエと小さい木の板で飾られたその部屋は、この家の中で唯一襖のように開くのではなく、扉だった。そこには、どうやら鍵がついているらしく、風見に、少し待ってて、と言うとキッチンの方から小さな鍵をとってきた。ガチャンと鍵を開けた音がすると、一目散に有栖川はアトリエの中に入って行った。続いて風見も入ると、薄っぺらいコピー用紙を数枚、雑に渡される。

「さぁ、なんか描いてみてくれ!」

そうは言われて感じたのは焦りだった。なぜなら、風見は本当に絵を書いた経験がない。小中学校の美術の成績だって、ほとんど座学任せで、絵を描く練習なんて生まれてこれまで全くしたことがなかった。そのため、風見からしたら、何を書いていいのかわからない状況から、どうにか笑われないような絵を描がなければいけなかった。正直言って無理難題だ。それよりも、少しでも絵の書き方について教えてから言ってくれよ、と思ってしまう。有栖川の方に目をやると、彼女はアトリエのすみっこで買ってきたばかりであろうハンバーガーを貪っていた。あまりにも自由気まますぎる。風見はやるしかない、と覚悟を決めて鉛筆を取ると、とりあえず、筆箱や消しゴムといった近くに置いてあるものを書いていった。無心で集中することができて、書いている最中はとても楽しかった。でも、完成した絵を見ると、線はガタガタで、立体感もない消しゴムは最早消しゴムというよりも、授業中に気を紛らわせる時に作った練り消しの方が形としては近い。筆箱の方は、最早何を書いているのかすらわからない。

「……思ったよりもずっと下手だね」

いつのまにか隣に来ていた有栖川の容赦ない言葉が風見を襲う。確かに風見の絵は拙いが、風見なりに努力したのだからもう少し相応しい言葉があるだろう。しかし、彼女はかけるべき言葉を分かっていても言わないのだろう。それが、風見がここ数日、有栖川と関わってきた印象だった。

「どうせ僕は下手ですよ……」

紙を持ったまま空気に溶けていくように、風見の気配が薄くなっていく。到着して三十分も経たないうちに少し後悔した。あの絵が描けると思ってここに来たのが馬鹿みたいだった。そう思い始めると、似たような疑問が頭を巡って段々と悲しくなる。

「いやいや、そういうことを言っているわけじゃないから」

「……どういうことですか」

「だって、弟子の状況を見定めるのは師匠の役割でしょう?だから、とりあえず描いてもらったの」

「でも、下手って言いました」

「そりゃあね。下手だったから」

風見が拗ねたようにそっぽ向くと、今までの彼女とは違い、やけに真剣そうな顔で風見の絵を見ていた。やっぱり、絵に対しては真剣になるんだと有栖川の新しい一面を垣間見た気がした。父さんなんかに言えば、画家なんだから当然だろうと笑っていそうだか、風見は猫のようにニヤニヤとした笑みを浮かべる有栖川ばかりを見てきたせいで、真剣な顔をすると、かなり緊張してしまう。それは、有栖川からの評価を気にしているからだろう。風見は人から怒られたり、笑われることがかなり苦手だ。苦手になった理由を覚えていないが、いつの間にか怖くなってしまった。そのせいか、他人の顔色を窺ってばかりで、あまり自分の意見を出せずにいる。ただ、みんなの話を聞いて笑ったり、相槌を打って聞いているよという演出をすることは得意だった。そのおかげで、学校や塾でもある程度話す人はいる。それを友達といえるかは定かではないが、風見は友達だと思っている。少なくとも、一人でクラスで浮いているよりかはマシだ。神妙な顔をして有栖川は絵をずっと眺めている。少なくとも五分は眺めている。風見は、これから何を言われるのかが怖くて、気を紛らわせようと渡されていた紙で鶴を折る。二個鶴を折り終わると、ようやく意識を風見に向けた有栖川が口を開く。

「まずは線を書く練習をしない?」

あたりがしんと静かになる。有栖川はニコニコと苦笑いを浮かべていた。風見は自分の美術センスの無さに絶望するしかなかった。そこまで、酷いなんて想像したことさえなかった。大体、人並みにできることが多いため、勘違いしてたようだ。風見が絶句して固まっているのを横目に、有栖川は無駄に声を弾ませながら言う。

「まぁ、最初はみんなこんなもんだよ!」

無理に取り繕われると、今度は申し訳なさが心の中から込み上げてきた。一番最初の授業にして、もう心が折れそうだった。けれど、絵を書くこと自体は楽しかった。評価が良ければもっとよかったが有栖川の様子を見るにそれはまだまだ先のことになりそうだ。本当にこんな絵を描く奴が半年後にコンクールに絵を出すのか、と不安でいっぱいになりながら、風見はペンと紙を取り出た。

隣からは、参考になる色々なアドバイスが聞こえる。しかし、擬音語だらけの説明は何を言っているのか全くわからない。強いて言うなら、絵を描くときには勢いとノリが大事と言うことだけだ。風見はなるべく言われた通りに手を動かしながら絵を書いていく。本当に効果があるかはわからないが、やらないよりはずっといいだろうとどうにも信じ込ませた。言われるがままに絵を描いているとあっという間に時間が過ぎて夕方になってしまった。

「それじゃあ、今日はここまでだね」

「ありがとうございました」

そう言ってお辞儀をするとゴミだらけの廊下を頑張って靴下が汚れないように歩いた。電車に乗っていると今日あったことがいくつか駆け巡ってきた。

有栖川との授業は予想よりもずっと楽しかった。もしかしたら、今までやってきた中で一番楽しかったかもしれない。有栖川は自由気ままで、これも授業の一環だから、と銘打ってプラモデルを塗る手伝いをさせられたり、途中で教えることに飽きて、線描いててと一言だけ言って外に行ってしまったこともあった。

 

 最寄駅に電車がつく。風見は重くなったリュックで頑張って坂道を登って家に着いた。

「ただいま!」

何となく、大きな声で言ってしまって、恥ずかしくなる。だが、幸いなことに両親は二人とも出掛けているらしく、一人でほっと一息ついて自分の部屋へと急いだ。

 部屋に戻ると、机の上に進路調査のアンケート用紙が置かれていた。高校二年生の秋なんて、進路についてもう決まっていてもおかしくはない。しかし、風見は、大学に行くのだろうな、と思ってはいるが、それ以上は何も決まっていなかった。その為、紙は真っさらな状態で机に鎮座している。母さんが見たら早く決めなさいと急かされるだろう。成績も平均くらいは取れている為そう思われているのだろう。進路調査はまだまだ期限が長い。メールを知らせる音がスマホから聞こえる。相手は今さっきまで一緒にいた有栖川だった。メールには線を書く練習とコンクールにどんな絵を出したいか考えといてと書かれている。そうだ、コンクールに出すんだと不安になって進路調査の紙を机の中にしまい、絵を描き始めた。

 それからは、本当に怒涛の毎日だった。毎週日曜日だけの授業とはいえど、最低でも三つは出される課題を次の授業までに終わらせなければいけない。その課題は、週によってまちまちだった。例えば、色についての勉強をしてくることや、りんごを模写すると言う具体的なものもあった。しかし、写真を一枚渡され、この写真を見て感じたことをとりあえず絵にしろと言うかなり雑な宿題もあった。しかし、雑な出され方をされた宿題でも、手を抜くと怒られてしまう。その為、雑な指示の絵ほど精一杯、工夫して描いた。そうしていると、風見自身でも実感できるほどに絵が上手くなったと、時々感じらことができた。少なくとも、線の練習をしてこいなんて言われることはもうなくなった。有栖川からはまだまだ下手っぴだと笑われることはあるが、前回の授業では、一番最初の授業で描いた絵と、今週描いた絵を見比べる機会があったが、着実に上手くなっていると心から褒められた。次回の授業からは遂にコンクールに出す絵を描いていくことになっている為より一層頑張ろうという気持ちになれる。

 褒められたことによって、舞い上がった気持ちをどうにか落ち着かせようとリビングに水を取りにいく。すると、タイミング玄関のドアが開く音がした。日曜日の夕方だから、きっと買い物から帰ってきたら母さんだろう。風見は、水を一口飲んで、玄関の方に向かう。

「母さん、おかえり」

「えぇ、ただいま」

風見は、母さんから手渡される荷物を受け取り、冷蔵庫に入れながら、進路のことについての聞いてくる母の方に意識を向ける。

「そういえば、成績下がっていたけど本当に大学入試の勉強は大丈夫なの?」

ついさっきまで手元にあったはずの興奮が冷めていく。不安そうに瞳を揺らす母は風見を心の底から心配していることがわかる。きっと、夏に受けた模試よりも、ずっと点数が低くなっていることを気にしているのだろう。しかし、風見はそのことをあまり気にしていなかった。何故なら、絵を描いているうちに美術の専門学校に行きたいと思ったからだ。でも、母はそれをあまり喜ばしくは思わないだろう。幼稚園児の頃に言ったお医者さんになりたいという言葉をずっと応援しており、医者がダメなら看護師でも薬剤師でもいいから、夢を叶えてほしいと言われている。風見も、言われるがままにその言葉に従って必死に勉強をしていた。けれども、もっとやりたいことができてしまった今では、勉強に対して努力をする気はあまり起きなかった。でも、それを言い出す勇気もなかった。

「大丈夫だよ。ちょっと苦手な範囲が出てきて下がっただけだから」

「それこそまずいんじゃないの?苦手なところがあれば消えるように復習をしっかりしなくちゃいけないでしょう。そうしなければ、お医者さんになんてなれないわよ」

返される返事はいつもと変わらない。母が風見の身を案じてくれているのも、いい大学に行けばいい仕事につけることも本当のことだろう。だから、風見は、心の何処かで専門学校に行くことを諦めていた。

「それじゃあ、部屋戻るね」

「そう、勉強頑張ってね!」

部屋に戻ると、またペンと紙を取り出して絵を描き始める。先週の課題がうまく行ったおかげで今週の課題は先週よりも難しくなっている。ちゃんと前に描いた絵よりも上手く描けてますように、と小さく祈りながらペンを走らせた。

 しかし、祈りは届かなかったようで、全く満足のいく絵が描けない。どうにか、課題だけは終わらせたが、直したいところ数えきれないほど沢山ある。時間があるなら、課題全部を最初から書き直したい。でも時間はない。気を抜くとすぐにため息が出てしまそうだ。嫌々、課題をリュックに詰め込んで有栖川のアトリエに向けて足を動かす。だが、憂鬱すぎてカメのような速さ歩いていた。

 アトリエに着くと、珍しく有栖川が出迎えてくれた。普段ならご飯を買いに行っているか、アトリエ倒れるように寝ていることの方が多い。もう四か月ほど教えてもらっていたが、出迎えてくれたことは片手で数えられるくらいしかない。

「あれ、どうしたの?徹夜でもした?」

「してません。ただ、絵が上手くかけてなくて……」

「あぁ、スランプか。大変だよね」

有栖川はそんなことを言いながら、大量の課題を風見の前に置いた。相変わらず、容赦がない。ここ最近は、絵を描くたびに進路についてどうするか悩んでしまう。

「なんか、悩んでることでもあるの?」

「本当に個人的な事ですけど、進路についてどうしようかなって悩んでます」

「大学入試のこと?」

「はい。一応、行きたい所はもう決まっているんです、でも、今までずっと相談に乗ってくれたり、応援してくれた母さんの期待にも応えたいからどうすればいいのかわからなくて」

風見は俯いて言う。有栖川はそれを見て、深く息を吸って穏やかな口調で答えた。

「私の意見なんだけど、君がやりたいことをやれば?」

それはわかっている。でも、母を悲しませてまで、選ぶべきかと言われると違う気がする。それに、将来、食べていけるかもわからない仕事を選ぶとなると、尚更不安だ。

「でも、それじゃあ将来が不安ですし……」

「君は楽しいことをやってる時に不安って感じる?」

「……あんまり感じません」

「私はね、学生の時、将来の事なんて考えないで、やりたいことをずっとやってたの。そうしてたら、いつのまにか私は画家になれた。」

有栖川は懐かしむように目を細めた。優しい笑みを浮かべていて、本当に楽しかったことが分かる。でも、それは有栖川に運と才能があったからだ。そもそも、画家になれるのはほんの一握りだけ。風見はその中に入れる気は全くしなかった。やっぱり、普通の大学に行った方がいいのだろうか。そう、悩んでいると、また、右隣から声が聞こえた。

「だから、私は風見くんの気持ちなんて分からない。だから、風見くん自身が悩みながらも、自分で決めるしかないんだよ」

その言葉を聞いて何処か吹っ切れた。結局、決めるのは風見自身だ。どっちの道を選んだって、苦しむのも、喜ぶのも、風見だけだろう。それを一緒に喜んでくれる人がいたら嬉しいが、あくまでも、感情を共有することしかできない。そう思うと、本音が濁流のように口から溢れてきた。

「僕、本当は専門学校に行きたいんです」

「でも、あまり絵が上手く稼げるかわからないし、みんなと違う自分が変な目で見られることがすごく嫌で」

「うん」

「でも、絵を描くのは楽しくて、楽しくて、ずっとやってたいと思うんです」

「なら、もう答えは決まってるんじゃん」

そこには、いつものようにニヤニヤと人を揶揄うような笑みを浮かべた有栖川がいた。

「それ、私じゃなくて君のお母さんに伝えてみな。否定されるにしろ、肯定されるにしろ、君には絶対に必要なことだろう?」

「……分かりました」

渋々と言った様子で風見は頷くと、今日の授業はなし、お前は家に帰れ、と有栖川のアトリエから追い出されてしまった。まだ、母に伝えるのが怖い臆病な自分が、家に帰りたくないと言って足取りを重くする。けれども、話さなければ、何も始まらない。それもわかっていた。だから、覚悟ができるまで母が家に帰っていないで欲しかった。電車から降りると家までの距離がだんだん近づいくのがわかっていって、足取りが重くなる。だけれども、あっと言う間に着いてしまって逃げ場がなくなった。おそるおそる家に入ると、リビングで母はテレビを見ていた。もう、覚悟を決めるしかない。そう思って、声をかける。

「……母さん、相談したいことがあるんだ」

声はか細く、震えていて情けなかった。そこで、何かを察したのか、母は風見の方に向き直り、正座をした。

「あのね、僕、絵の専門学校に行きたいんだ」

「そう、なのね。でも、それだったら生活は苦しくなるわよ。覚悟はあるの」

正直な所、真っ向から不安を背負うような覚悟なんて全くない。それでも、好きなことをやる人生はきっと楽しくて、毎日が新しいことでいっぱいだと思う。だったら、この期待と不安を混ぜた感情を自分なりに覚悟と名付けてみる。

「あるよ」

「そう、なら好きにしなさい」

思ったよりもあっさりした答え拍子抜けしてしまった。風見なりに考え抜いた結果がこれならば認めるわよ、と言う優しい声が聞こえた。嬉しかった。母の努力を、いらないと投げ捨ててしまった風見を全て受け入れてくれた。勝手にも風見は、昨日の悩んで、苦しんでいた自分を救えたような気持ちになった。

「でも、やるからには誰よりも凄くなってきなさいよ!」

「うぅ、頑張るよ」

 涙声の回答は情けなかっただろう。それでも、溢れてしまったこの嬉し涙を止める方法なんてわからなかったから、どうしようもない。


 結局、専門学校に行けることになった。そのおかげで、コンクールに向けた絵の練習を急かすようになって大変だったが嬉しかった。有栖川はこの話を聞いて、よかったよかった、と笑ってくれた。それからは、前よりももっと厳しい授業が始まった。どうやら、なくなってしまった一回文の授業を取り戻すつもりで頑張れ、と言われた。自分なりに頑張ってやったコンクールも、結局受賞することはできなかったが、やっぱりこの出来事は神風に吹く出来事だった。

「やっぱり、半年じゃあ無理か」

 がっかりした様子の有栖川に、思ったよりもできたからいいと言ったら、向上心が足りない、もっと上を目指してけ、と怒られてしまった。三年生になってから受験のことで飛ぶように時間があっという間に過ぎてしまった。受験が終わったら、一人暮らしをしたいと打ち明けた。両親は微妙そうな顔をしていたため、どうなるかはわからない。あくまで、願望でしかないが、叶うといいなと思った。

 

 専門学校での生活は風見が予想したよりもずっと忙しかった。約束どうりに一人暮らしさせてもらえてことは風見自身が一人前の大人として認めてもらえたようで嬉しかったが、初めての一人暮らしに大学生活でお金にも余裕がなく、高校とは全く違う制度に驚きながらも楽しかった。専門学校に入ったばかりのころは風見は絵を始めてから一年と少ししかたっていなくて、本当に学校になじめるか不安だったが、いざ学校に入ってみると学校に入ってから絵を描き始めった人も思ったよりも多かった。そのおかげで、話せる人や遊べる人が増えた。風見の通っている専門学校は大学に比べて一年少ない。そして、専門学校二年目の春に応募したコンクールに入賞することができた。「カミカゼ」それが今回のコンクールの佳作賞の題名だった。すがすがしい青と薄暗い苔のような緑を基本の色とした抽象画だ。これは、かつて有栖川が絵を教えてくれたアトリエにいる風見と有栖川を描いたものだった。不安も悩みも有栖川に支えられ克服してきた。風見にとっての一番の思い出だ。自分を形作った思い出を、色として絵として表現してきた風見としての集大成だ。それを、こうして誰かに評価してもらえるのはどこがこみ上げるものがある。嬉しさのあまり目頭が熱くなる。しかし、風見 が自分の作品が受賞したと聞いたとき、どうやら有栖川さんは、外国に旅に行ったらしい。父さんは、いつものことだと風見に笑って言っていた。目標だったコンクールで受賞することが有栖川に伝えられないことは残念だ。けれども、風見はちっとも悲しいとは感じなかった。ただ、帰ってきたら、旅で何があったのか教えてほしい。風見は専門学校に行くための準備をして扉を開けた。


「行ってきます」


 小さくつぶやいた言葉は誰もいない部屋に静かに反響した。今はもう、隣で教えてくれる人も支えてくれる人もいない。でも、風見はためらうことなく自分の足で歩くことができる。誰かが風見を否定しても、自分を信じて前に進むことができる。理由なんて特にない。でも、もう、風見は一人になることを怖がることわないだろう。ふわりとした優しい追い風が吹いた気がした。

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