沸騰脳漿アイス

雨湯うゆ🐋𓈒𓏸

湯屋の彼(『怪異画報』誌に掲載(1999&2001))

 朝宮ひなたが帰路の踏切で立ち往生をくらった時、唐突にアルビノ種のごとく皚々たる羽を持ったカラスが、彼女の目の前に——線路への道を阻む鉄柵フェンスの上に——飛んできて、何処かで捕まえてきたのだろう緑の芋虫を、丁寧に黒いくちばしでほぐし広げて食らい始めた。


 それは見れば見るほどプリンを踏み潰したような酷く気色の悪い絵面で、朝宮の食道には後端から羽蟻の這う速度で吐き気が蝕んだ。


「ほぅ、ろろろ」


 鈴を転がすみたく。鳴き声、というよりかは音色に近しい。そんな声でカラスは鳴いた。

 自動販売機の商品棚が暗がりの中で照らされている。時はすでに夜更けを越して、橙の、死んだ脂の黄色味と混ざって朝日が山々に差し込みつつあった。


 湯屋、というものがあって、それも風呂屋や銭湯といったものとは全く異なっており、お白湯のみを提供する店のことなのだが。彼らもとうとう喇叭を鳴らして早朝の住民に自分たちの店の開始を告げ始めた。


 カラスは芋虫の内臓を丁寧に取り出して、フェンスの上からひょいと落とす。キャベツ、いや菜物の腐った臭い、もしくは胃酸のタンパク質分解酵素にひどくやられた油虫の鼻をつく酸性のかおり。前に湯屋の大将はこの臭いを線香の香りと仰っていたが、そのセンスを理解する脳神経は朝宮の中でまだ発達していなかった。


 しばらく経って遮断機が上がると同時に、カラスは内臓のない芋虫をひょいとやはり嘴を使って掴んで羽を広げた。

朝日と重なり、後光のように反射する光はまるでそいつに白装束を着せているよう。視神経と海馬の融合は、その一つのイメージに支配された。


 晩に食べた身欠きニシンの甘露煮が、ふと口の中で反芻された気がする。八割の甘さと二割の脂が、記憶領域から呼び出されて歯肉とベロに染み渡る。

朝宮は親指を一度舐めて、乾燥して止まない自身の唇をなぞった。


 とかく今はひどく、腹がすく。



      —————*—————


「脳漿が沸騰する」


独り言は些か不気味なものだった。


 熱病に犯されていた朝宮にとって、最も酷い悩みの種は目眩をも産むほどの頭痛だった。倦怠感とはすでにフレンドリーな、———互いが互いに従属関係と言った方が正しいか。———とかく和解し合える間柄を保てるまでには回復したが、この頭痛とだけは常に相容れることができなかった。


 朝宮の細い髪の毛を梳くように、窓から冬の日射熱を含んだ物腰柔らかな風が吹き抜けた。熱があるのだから身体を冷やしてはダメだ、と湯屋の大将が見舞いに来て申されていたが、今はもう汗が背筋を伝うほどに暑さを感じる。熱も冷めどきということなのだろう。


 病の原因はわからなかった、けれどお医者様の仰るところにはストレスというものらしい。趣味の物見遊山で山々を登っていた私の身体が、急激な環境の変化というものに伏せったのだと。しかしこれに食ってかかったのが湯屋の大将で、彼はこの話を煙管の先を叩きながら聞いて言った。


「それはストレスと違って、きっと憑き物のせいでしょう」


 憑き物ですか、そう私が褥に伏せながら反芻すると、彼は小さく頷いて口から煙を吐いた。


「湯屋をする前は、穢れ払いをしていましたからよく分かるんです。」


彼は続ける。


「なれば貴女は早く穢れを落とした方がいい。殊に、熊野路へゆきなさい」


それだけ言うと、彼は身軽に立ち上がった。

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