胡蝶の枕
芦花公園
調布
私はずっと、意味のあることをしているはずだと思う。
意味がないわけがないと思う。
一度成功したことなのだから、いずれはできるのだと思う。
何度も思い出している。きちんと、細部まで思い出せるように、紙に書いている。
調布で聞いたミナミミキコの怪談は、誰に聞いても、ネットで検索しても無かったけれど、ミナミミキコの話をまたすれば——ミナミミキコでなくても、田中さんでも、なんでもいい、とにかく障る怪談を探して、障ることをすれば、何かが。
そう思っても、何も起こらない。
あの女性霊能者に言われたことがずっと脳内にこびりついている。
与太話。閉じた生き方。
シマくんがいないのが、正しい世界。
言われたときは猛烈に腹が立った。彼女をなんとかして傷付けてやりたいとすら思った。
でも、春が来て、夏が過ぎて、秋になって、また寒くなった。それでも、何も起こらない。もしかして、彼女が正しいのかもしれない。でも、認めてはいけない。
シマくんに会いたい。
シマくんと行ったお蕎麦屋さんは臨時休業していた。事前に調べないで行ったから、私はなんだかそれが——それだけのことでも、世界から拒絶されているような感じがして、もう一度調布駅に戻って、そのままふらふらと、無意味に歩き続けた。
知らない道を曲がって、知らない住宅地に入って、多分、同じところを何回か通ったかもしれない。
自分が一体何をしているのか、これからどうしたらいいのか、何が正しいのか、もう何も分からないし、どうでもよかった。
「俺のこと馬鹿にしたみたいに見ただろうが、なあ!」
私の思考は突然の罵声で中断する。自分に言われているのかと思って声の方に顔を向ける。
「見てません!」
ぱっと見で、ゴミ山みたいに見える。でも、違った。人間だ。
痩せた汚い男が、バス停にいる。
バス停には、太めの男性と妊婦さんが並んでいて、汚い男は妊婦さんに詰め寄って、大声を出している。
「お前、幸せそうだな。幸せそうな顔で自慢げに歩いてたよな。俺にはもう、何もないのに、幸せそうに、自慢をしていたよな、成功したのか?」
「何を言ってるの? やめて!」
「成功成功成功」
汚い男が言っていることは意味が分からない。妊婦さんとは知り合いでもないと思う。
多分、完全に頭がおかしいのだ。
「助けて下さい!」
妊婦さんがお腹を庇いながら叫んだ。それなのに、何も起こらない。
妊婦さんの隣にいる太めの男性は、ちらちらと視線を送りながら、迷惑そうに立ち去ろうとしている。曲がり角から来た子連れの女性は、直前で進行方向を変えた。
「やめて!」
私の体は自然に踊り出していた。
小さい頃から、困っている人は助けなければいけないと習ったから。
誰も助けようとしないから。
いや、それ以前に、死んでも、構わないから。
「何してるんですか! やめて! 妊婦さんが困ってるでしょ!」
妊婦と男の間に割って入る。近くで見ると、男は思ったよりも汚くて、臭くて、それより何より、背が高かった。
私は別に、死んでも構わないのに、本能的に体が震える。
「ああ?!」
凄まれると、喉が窄まって、声が出なくなる。涙も出て来る。逃げてしまいたくなる。でも。
背中が温かい。妊婦さんの体温だ。生きなくてはいけない命の温度だ。
「あっちに行って!」
精一杯の大きな声でそう叫ぶ。でも、当たり前に、そんなことで立ち去ってはくれない。
男は持っていたボロボロの傘を振り上げる。避けられる。でも、避けたら妊婦さんに当たる。
私は両腕を顔の前に上げて、目を瞑った。
「おやめなさい」
室内から見る雪のような声だな、と思った。白くて、美しくて、しんとしている。
「なんだ、テメ」
男の怒鳴り声が途中で止まった。無理矢理中断させられたのだ。
「父がお悲しみになります」
雪のような声の人は、ちょっとびっくりするくらい綺麗な人だった。
光の反射かもしれないが、目がプリズムみたいに色々な色に輝いていて、現実味がない。顔立ちは、外国人なのだろうな、という感じだけれど、私は海外の人でも、こんな目の人は見たことがなかった。そんな人が、私と男の間に滑り込むように立ちはだかった。
汚い男がかなり長身だからそれよりは小さいけれど、すらりとしていて、モデルみたいだと思う。
彼は小さな声で、私の後ろで震えている妊婦さんに「行ってください」と言った。
妊婦さんはしばらくぽかんとしていたが、ふたたび彼が「行ってください」と言うと、何度も頭を下げて、おまけのように私にも頭を下げて、小走りで去って行った。
男も妊婦さんと同じようにしばらくぽかんとしていたのだが、彼女が走り去ったことで我に返ったようで、ぐいぐいと美しい人に詰め寄って、
「は、ハア? お前のオヤジが何の関係があんだよ」
声は精一杯虚勢を張っている感じだけれど、情けなく震えている。
父というのが、この綺麗な男の人の父親を指しているわけではないということは、私には分かる。なぜなら、彼は、神父の服を着ているからだ。黒くて、裾がワンピースみたいに長くて、襟が立っている。こういう服のことを何と言うのだろう。きっとシマくんなら知っているはずだ。シマくんに会ったら聞こう。
神父の言う父と言ったら、おそらく、キリスト教的な神様のことだろう。私にも、それくらいの知識はある。
そういえば、このバス停の側に、教会がある。きっとこの人は、そこの神父様なのだろう。
「関係はありますよ。老いも若きも男も女も、父は平等に愛しておられます」
「宗教かよ、く、くだらねえ」
「いいえ、大切なことです」
神父様は急に男の両手を握った。男の体は、分かりやすくびくりと跳ねる。それはそうだろう。本能のようなものだ。誰だって、こんな綺麗な人に手を握られたら。私は、そうはならないけれど。
「愛されている人は、人を傷付けないものです。傷付けてはいけません、分かりましたか」
男は、顔を真っ赤にして、神父様の手を振り払った。そして、キエとかピエみたいな、変な声を上げて逃げて行った。
私は、拍手したいような気持ちだった。暴力も暴言も使わずに、あんな滅茶苦茶な人を追い払った。普通の人だったら絶対に無理だ。でも、だからこそ、同時に、少しだけ、不快感とも言えない、ほんの少しのもやっとした気持ちが心の中にある。
顔の並外れて綺麗な人は、ああいうことができてしまうのだろうか。できると分かっているから、割って入ってきたのだろうか。
暴力ではなくても——そういう、強さに自覚があって、その強さを堂々とひけらかす強い人は、あまり好きになれない。
「行ってしまいましたね」
神父様の声でハッとする。
「あ、あの、ありがとうございますっ」
過剰に元気にお礼を言ったのは、こんな親切な人に嫌な気持ちを持ってしまったことが気まずいからだ。この人がいなければ、私は妊婦さんに変わって殴られて、ひょっとすると死んでしまっていたかもしれないのだ。
もし、死んだら死んだで、それは、構わないのだけれど。
「素晴らしいことをなさいましたね」
「えっ」
私は少し驚いて、変な声を出してしまった。こういう系の人は、てっきり説教をしてくる者だと思っていた。いや、こういう系の人でなくても、大人は、「女の子がそんなことをしたら危ない」とか、そんなふうに言ってくると思っていた。もしかして、この後に言うかもしれないと思ったけれど、そんなこともなかった。
「素晴らしいことをなさいました。最も小さい者のひとりにしたことは、すなわち、父にしたということになります。素晴らしいことです」
やっぱり、こういう系の人だと思った。なんだか、大切なことを煙に巻くような、遠回しな言い方をする。『ブッダの言葉』とか『聖書で分かる』みたいなタイトルの本はちょっとだけ読んだことがあるけれど、大体何を言っているか分からない。解説がついていても、なんだか拡大解釈しているなと思うことも多い。
でもきっと、この人は私を褒めてくれているんだな、ということだけは分かるので、私は一応、「ありがとうございます」と言った。
「申し遅れました、私は久根ニコライといいます」
ニコライ。ということは、この人は、東欧にルーツのある人なのだろう。私も名乗ることにする。
「あ、私、遠藤琴葉です。大学生です、えっと、久根さんは、神父様……ですか?」
「琴葉さん」
久根さんは私の質問に被せるように私の名前を呼び、きらきらとした宝石みたいな目で私を真正面から見てくる。綺麗すぎるというか、少し怖いくらいだ。
「戴いた恵を無駄にしてはいけません」
「はあ……?」
他人に「はあ?」と言うなんて失礼だ、それは分かっていても、本当に困惑すると、自然とこんな声が出てしまう。
「い、一体、何を言ってるんですか……」
ひょっとして、さっきの汚い男以上に、関わらない方がいい人かもしれない。分かりやすい暴力とか詐欺とかではなく、何か別の世界にでも取り込まれるような恐怖を感じる。この美しい目も、私を警戒させるだけだ。綺麗すぎて怖い。
「私、もう、行きます、ありがとうございました」
後ろを振り返ろうとする。でも、久根さんはそれを許さなかった。さっき汚い男にしたみたいに、私の両手を握る。
「琴葉さん、あなたは特別だ」
「やめてよっ」
勢いよく久根さんの手を振り払った。乾いた音がする。痛かったかもしれない。でも、その言葉は、ダメだ。
『琴葉は特別なんだ』
それは、大切な言葉なのだ。私を特別だと言うのは、一人だけでいいのだ。
久根さんは怒ってもいないし、悲しんでもいないようだった。
私が暴力的に振り払った手を少しだけ擦ったあと、小さく溜息を吐いた。呆れられたのかもしれない。助けてやったのに、なんだその態度は、と。
「ごめんなさい……」
頭を下げる。何の反応もない。恐る恐る顔を上げる。
久根さんは視線を上に向けていた。そこに何かあるのかと思って、同じように上を向いてみる。しかし、何もない。ただ、暗くなる少し前の空を彼は見つめている。
「あの……」
久根さんはすっと顔を元の位置に戻した。
「琴葉さん、あなたに贈り物があります」
「えっ!」
「あなたは大変素晴らしいことをなさいました。ですから、贈り物があります」
久根さんは私が何を言おうか迷っている間に、服の隙間に手を入れ、そこから何かを取り出し、そして、私の目の前に差し出してきた。
「これは、胡蝶の枕です」
「コチョウノマクラ……? ええと……枕?」
急に何なんですか、貰えません、と言うつもりだったのに、どうしても目の前のものが気になってしまう。
差し出されたものはどう見ても小さな小瓶にしか見えない。中はもやもやとした白いジェルのようなもので満たされているが、少しだけ顔を近付けてみても特に何の香りもしない。
「これを持って眠りなさい。そうすれば、あなたは、会うことができるでしょう」
「どういう、こと……」
「言ったままです。これを持ち、眠る。するとあなたは、会うことができる」
人間には、表情がある。喜怒哀楽、その四種類以外にも、たくさんある。無表情だって、完全に無表情な人はいなくて、ムッとしていたり、泣き出しそうになったりしているのを押し殺しているだけだったりする。
でも、目の前の、この人の顔からは、何一つ読み取れない。
「も、もらえま……」
「会いたいのでしょう」
シマくんのことだ。シマくんのことを言っている。確実に、そうだ。
意味が分からない。私は何も言っていない。シマくんのことなんて、顔に出ているとしても、この人は初対面で、今日名前を知ったばかりで、知られたばかりだ。そのはずだ。
でも、どうしても、会えなかったのに、何度やっても、どんなに願っても、ダメだったのに、もしかしたら、今回こそは。
私の手は、伸びていく。彼の掌から、コチョウノマクラを取る。
久根さんは、悲しい顔になった。本当は、渡したくなかったのだろうか。そんなことを思う。でも、もうこれは、私のものだ。返せと言われても、一度もらったものは、返せない。
「いいえ、取り返そうとは思いません。胡蝶の枕はあなたへの贈り物だ」
温度のない声で彼は言う。全く、比べ物にならない。シマくんの美しい声とは。全身を溶かすような声とは。
「父はあなたに報いて下さる。そうなると、もはや私にできることはありません」
私は後ろを向き、さようならも言わず、駅の方向に歩いていく。
美しい瞳は視界に入らない。
「さようなら、幸いな人」
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