今宵の月は何を想うか

笹黒

今宵の月は何を想うか


 もし月に感情があったのなら、何を思うのだろう。


 ある日は新月として、まるで元々無かったかのように人々から忘れられる。自分の存在意義に疑念を抱きながら、人の営みを無感情に眺めている。

 ある日は満月として、人々からの眼差しを痛いほどに受ける。自分の存在価値に酔いしれて、その需要など意にも介さずに人々をただ照らす。

 その感情に連続性があるのなら新月は満月に、満月は新月にどんな視線を向けるのか。果たしてそれは嫌悪だろうか、安堵だろうか。舌を鳴らし合ってすれ違うのか、はたまた肩を組み合って共感を叫ぶのか。




 初夏は去り、夏が人々の飽きを纏い始めた頃。僕は今日も学校に向かう。そこには目的や意志などない。ふとそんなことを思ってしまうと、自分が無機質にプログラム言語に従うコンピューターであるように感じられた。


 教室には後ろの扉から入るようにしている。その理由の大部分は、荷物をスムーズに後ろのロッカーに置くためであったが、人目を避ける目的が少なからずあるのは間違いなかった。

 席は最前列の右端だった。学校生活で目立つことはないし、何より人間関係において不都合をもたらすことなどなかった。扉の真下は死角となり人からの視線をあまり受けないからだ。最近は人間の身体構造の進化に感心と有難さを憶え始めていた。


 授業に集中するのは苦手だ。勉学に興味はなかったし、先生の教え方が特別良いものでもなかった。

加えて、小学生のときに負った口元の火傷を触る癖がいつになっても治らずにいた。会話で話題が尽きて気まずい沈黙が広がったときや、計算が一段落したときには、それが習性であると言ってもいいほどに口元を掻いていた。

 その時の感覚はどうも不思議あるが、同時に必然さも兼ね揃えていた。自分が思考だけを行う空間に移動して、五感を遮断してひとりでものを考えている。現実の自分は人として抜け殻で、人間として本能に忠実に生存活動を行う。それは最早、そこらを漂う蝿などに何ら変わりはなかった。


 「おい、青村。サイン6分のπはなんぼだ?」


 あいにく、その時僕は頬の傷を必死に掻いていた。反応は遅れ、悩む素振りを見せようとする時には先生が追い打ちをかけんとばかりに口を開きかけていた。


「サイン6分のπですね、、、ちょっとまって下さい」


時間を稼ぐように僕はそう言った。しかし、不意をつかれた焦りと三角関数への苦手意識からかなかなか答えが見つからない。そうするうちに、稼いだ時間がかえって僕のアンサーのハードルを上げていくのを感じた。居た堪れなくなった僕は、確信など持たず、賭けに出るようにこう言った。


「2分の√3...ですか、、?」


教室は一瞬にして静まり返る。そして冷たい視線がその沈黙を冷やしているように感じられた。この間が僕の解答の不正解を示すものなのか、はたまた、先生がおちょくって答え合わせを先延ばしにしているだけなのか僕にはわからなかった。


「おぉーい青村ぁ、これは昨日教えたばかりだろう、サイン6分のπは2分の1だ。6分のπは30度っていうことだからなぁ。ちゃんと復習しとくんだぞ。」


 先生は僕のミスを必死に笑いに変えるように努力しているようだった。しかしながら、クラスの中からは笑いどころか言葉が発される気配すらない。当の本人である僕さえも、軽い相槌と取り繕った愛想笑いを浮かべただけだった。先生は一瞬、居心地の悪そうな顔をして、できるだけスムーズに授業に戻った。僕は先生を不憫に思って、それからはなるべく目を合わせないように授業にを受けた。そう、口元に手を添えながら。


 昼休みは自ら好むようなものではなかった。僕のような人間には長すぎる。昼食を食べるためならば、せいぜい25分で十分である。

 しかし、頭を空にしてただ時間が過ぎるのを待っていただけではない。皆に背を向けながら僕は会話に耳を傾けていた。これは学校での数少ない娯楽であり、僕が他人にアクセスする機会でもあった。

 年齢が上がるにつれて、人との関わりを絶ってきた僕。進んで話をしたいとも思わないが、人との会話を毛嫌いしているわけでは無かった。そこで僕が見つけた解決策は人の話に入り込むことだった。今思うと、これは一種の生存戦略だったのかもしれない。


 「この前話してた女とどーなったんだよ」


クラスの中でも一際大きな声で恋愛事情を話しているのはサッカー部の奴らだった。先陣を切ったその声の主は、皆山である。


「まぁぼちぼちかな」

「ふぅん」

「聡は彼女作らないのかよ」

「いやーなんかねーそんな感じじゃないんよ」

「そんなのどうせ建前だろ。他のクラスからお前結構、評判良いらしいぞ」

「マジで!今度話しかけてみよかな」


 彼は人として素晴らしい魅力を持ち合わせていた。スポーツは勿論、学力に関しても(あまり偏差値の高い高校ではなかったけれども)校内トップ10に入るほどであった。おまけに顔もクールで、性格も良いという話をよく聞く。

 そんな彼を僕はあまり好きになれなかった。会話の節々に感じられる自身に対する自信と謙虚さが噛み合っていない。見え透いた後付の謙虚さは、初めてテレビのスタジオがハリボテだと知ったときの失望を含んだ心の萎縮に似た感情を彷彿とさせた。

 しかし結局のところ、僕はその”人としての格”に嫉妬しているだけであるとわかる。自分からベクトルを逸らして無責任に他人を批評する、そんな最悪な人間に成り下がってしまうのを防ぐ、そんな気付き。それはまさにエアバッグのようで、その代償として残るのはぐちゃぐちゃになった自尊心なのである。


 勝手ながら嫌気が差して、スマホでも取り出そうとしたとき、偶然にもその黒色の中に真田さんが写った。と同時に自分のなかに溜まった邪気が少し消えた気がした。

 彼女に恋心を抱いていた訳ではない。その思いは、まさに一方通行の仲間意識だった。少なくとも僕は彼女が人と話しているところを見たことはなかったし、声を聞いたことがあるかすら不確かだった。

 真田 結理。彼女とは今年で初めて同じクラスとなった。(それまで、その存在を認知はしていなかった)彼女はまず口を開かない。先生もそれを自然に理解していて先程の僕のように授業で当てられることなども特になかった。

 しかし、彼女は容姿端麗で品が良かった。色白な肌に胡桃みたいに大きく綺麗な二重の目。小さくて主張が少ない鼻と口はまるで、その目を輝かせるための名脇役に徹しているかのようだった。また、その座り方、弁当の食べ方といった行動の節々からは育ちの良さを感じさせた。

 そうなるとやはり、クラスの男子も黙っちゃいない。新学期には皆山たちから彼女についての話が聞こえてくることもしばしばだった。それでも、今ではすっかりとそのような会話の影は消え失せていた。彼らと彼女の間に何か一悶着あったのか、はたまた、流行りの曲のようにその熱は自然に冷めていったのか。どちらにせよ、彼女が以前と変わらず無口でおとなしい人間であることに安堵している僕がいた。

 僕は確かに彼女と話してみたいと思っていた。でも話して何がしたいのかはわからなかった。それ故、僕はただ「互いに無口である」というたった一つの共通点があることに安心感、ひいては優越感を見出しているだけなのである。


 スマホを開く意味は失われていた。僕はスマホをそっと机に置き、食事に戻った。やはり昼休みは嫌いではない。人間観察、むしろ監視というようなこの習慣は自分の意識確認のためにも必要なものだと再認識する。


 午後の授業は何事もなく過ぎていった。無理に一つ挙げるとするならば、体育の時に浮かんでいた空の雲が少し神秘的だった、そんなくらいだった。

 帰りの会が終わるなり、僕は直ぐに帰路に着く。帰路は好きでなかった。全体的に登り坂でペダルはなんとなく重く、4人を乗せた軽自動車のように予想に反してスピードが出なかった。この傾斜が逆向きならばどれだけ良いだろうと今まで何回思ってきたことか。


 家に帰ってきても特段何かに勤しんでる訳でもない。機械的に明日の課題やテストの対策をして、あとは人間的な営みを送るだけだ。

 つまらない人生である。僕もそう思うし、もし皆山や真田さんに見せても同じことを思うだろう。しかし、それを変えようとも思わない。諦念ではなく、運命として悟るのだ。「こうであるのは仕方がない」と。その代わり、いまも別のどこかで他の自分が華のある人生を送っている。

眠りにつこうとベットに横たわってふと窓の外を見ると、そこに月はなかった。今宵は新月なのだろうか。そう思いながら僕は眠りに落ちていった。



 気が付くとまず感じたのは既視感だった。陽射しが織りなす影がどこかの記憶に一致する。ああ、そうだここで、、、

「裕貴ーーもう7時だよーーー」

僕を起こす母の声が家中に響き渡る。この空間には家族しかいないが、元々備わっているかのような本能的な恥じらいとともに身をおこした。

 そこで確信となった。これは昨日である。元来、朝は苦手であったが、逆接的にその情景を映像として覚えていることは確かによくあった。まるでその能力はこの時のためのものであると言わんばかりなものであった。

そしてそばに置いてあったスマホで日付を確認した。やはり昨日と同じ日付だ。

 お得意の機械的な朝の準備を済ませた頃には、これは夢であると結論づいていた。夢ならば別にわざわざ学校に行く必要なんてないじゃないかと思っていると、昨日の数学の授業を思い出した。別に難しい問題ではなかったし、普通であれば自分でも難なく答えられた。そのうち、僕は自分勝手で理不尽な腹立ちを抱き始めていた。

 決して立派なものではなかったが、珍しく自発的に目的を見い出せたような気がして僕は学校に行くことにした。


 風景を眺めていてもやはり見覚えがある。夢というものはその日の記憶の整理の際に見るというのをどこかで聞いたことがあった。それならば、自分の無意識の中での記憶能力は特筆するものがあるのではないかと思っていた。


 目的のその問題は難なく答えられた。それから、先生は一言、「そうだな」と言って授業を続けた。多分、この問いが持つ役割は僕の理解度を測るためのものではなく、説明の中での句点のようなものであった。昨日の先生にとって答えられなかった自分はまるで論文執筆中のタイプミスのような存在であったのだろうと、そっとその心中を察した。


 その後は全く変わらない昨日を過ごした。折角の不思議で珍しい機会を捨ててしまったような気がしたが、「目的を作って、良くも悪くもその結果を出す」という今の僕にに必要であろう試行錯誤の体験を得られたことにひとまずは称賛を送りたいと思った。

 そうしてベットに臥して今度こそ明日を迎えようとした。普通の人ならこの日に囚われるんじゃないかと明日の訪れに不安を募らせるだろうが、そうはならなかった。僕には明日とこの日に違いが生まれるなんて思ってもいなかったからだ。日付という概念を取り払ってしまえば僕の日々はある1日を繰り返すのと何ら変わりはないだろう。

 それは僕の気持ちに関する主観的な側面についてでもあったが、同時に僕の存在がもたらす社会的な影響についても言えることだった。実際、今日僕があの数学の問題を正解したところで何も変わることはなかった。僕が何をしようがしまいが、言ってしまえば、いようがいまいが世界は変わらずに回り続けるのだ。


「それはまるで、まるで、、、 」


感傷的に比喩をしようと思ったところで、ふと窓の外に目を向ける。やはり、そこに月はない。それはまるで僕に答え合わせをしているようだった。



 砂嵐のような断続的な雨音に、時々拍を打つような水滴の落下音が混ざっていた。一見良いハーモニーを奏でそうだが、不調和なそのリズムは腹立たしいほどではないが多少の不快さをもたらしていた。

気持ちのいい目覚めではなかったが、それは何事もなく今日が訪れたという証拠だった。ひとまずは保守的な安心を噛み締めて、頭の中に散らかったクエスチョンマークは登校しながら整理することにした。


 ところが、自転車にまたがって少し漕いで、久しい肌寒さに慣れてきた頃には整理の必要性などとうに失っていた。確かに不思議な夢ではあったが、実際にこの現実で影響があった訳でもないし、あるわけでもなさそうだった。なにより、僕の感情の課題が何一つ解決されていない。わかったことは先生の「そうだな」の応答ただ一つであった。

 僕は途方もなく難しい数学の問題を解いているような気分になった。その夢は解法の理解に繋がる根本の考え方は載っておらず、どうでも良い雑学的な知識のみ載っている役立たずな参考書の解説書を思い出させた。


 雨音に耳を傾けていると、授業はすぐ終わっていた。雨粒と一緒に時間も流れていってしまったようだった。学校に来る意味に疑問を持ちつつも、そんな時間の感じ方になんとなく趣深さも感じた気がした。


 昼休み。今日は母が多忙で弁当を作ってもらう代わりに500円を購買代として渡されていた。この学校の購買は生徒数の割に商品数が少なく、本気で何かを買いたいのなら、小走りが必要であるかないか、そんな具合だった。

 少なくとも昼食にはなるであろう弁当程度は買えそうな位置に並べてホッとしていると、目の前に皆山がいることに気が付いた。彼も一人で来ていて、その性格も考慮すると話しかけられることが予想できた。僕は素早くスマホを取り出し、眺めているふりをした。体勢としてはスマホを頭で覆い被せているはずなのに、僕はスマホに身を隠しているような気分になった。


 午後の物理の授業のとき、僕はここであることを決めた。もし、今夜も昨夜のような夢を見るようなことがあれば皆山の後ろでスマホは取り出さないと。決して自分から関係を求めに行くわけではないが、人との関係を持ってみようとすることもまた、僕にとっての大事な一歩であった。けれども、その決定権を自分に預けたくはなかった。故に、いまここでタイムリーな僕を取り巻く不思議な現象に任せてみることにした。一般的な意見など求めていない。我ながら僕らしさを感じる名案だと思っている。

 そうと決まれば、現実における今日などなくても変わらない。(元々そう思ってきたが昨日で確信となった)僕は動画をスワイプするかのように残りの時間を脳内でスキップした。



 珍しく、情景を五感が感知するより先に理性が体に宿った。耳を澄まして不器用なあの音を探した。辻褄を合わせるように、結論から物語を辿っていくように。

その時響いたぽつんという不協和音はすっかりこの日を象る象徴となっていた。


 こうして(無事に?)2日目のループを果たしたわけである。とやかく言っていたが正直なところ、これを求めていたことがよくわかった。これからは自分にもっと正直になろうとそう思ったのであった。


 そうして僕にとって待ちに待った昼休み。ある瞬間に対して準備をするというこの作業は形は違えど、スポーツに近しいものすら持ち合わせているのではないか。

それと同時に、今までかつて感じたことのない感情が多く流れる。それは忙しなく、決して楽な心の状態ではなかった。

 僕は目の行き場を困らせた。きょろきょろして落ち着かない、それはまるで初恋の人との観覧車のように。特に何もないまま皆山まで順番が回ってきた。らしくない感情を抱き続けてきたこの午前中が無意味さを帯び始めたとき、


「青村は海苔弁当と焼きそばどっちがいいんだ?」彼は一切の含みなくそう言った。


「や、焼きそばかな」


弱々しい声は自分のものかを疑わせた。こうして僕と彼の初めての会話は不意に幕を開け、自分への失望とともに静かに終わった。

 

 「青村は何か部活入ってるの?」 残り1つの弁当を買い上げた僕を、近くのベンチに誘導して彼は他愛もなく聞いた。


「裕貴でいいよ。入ってないかな。聡はサッカー部でしょう?」


わかりきっていることを聞く。つくづく自分のコミュニケーション能力の無さを実感する。その場しのぎなまるで薄氷みたいな会話だ。


「なんだよそれ、そんなこと聞く必要なんてないだろ。きっと裕貴は俺がサッカー部なことなんてとうに知ってる。俺が君について知りたいことがあるように、君も俺について本気で何か知りたいって思うようなことはないの?もっとリラックスして自然な会話をしようよ。」


 驚いた。そして初めての体験だった。会話が思いもしない角度から批判された。まるで繊維方向と逆に千切られたティッシュペーパーみたいに。


「なんかごめん。本気の質問かぁ、ちょっと考えるね。」


 でも、そこで僕は驚きこそあったものの、悲しさや会話に対する挫折が起きたわけでもなかった。彼は僕と真正面からの正々堂々な会話を望んでいる。そうでなければこんなふうに、わざわざ人の発言に対して批判などしない。

うわべだけの会話で終わらせずに意味のある会話につなげようとする。彼は僕が話してきた誰よりも、さらには僕自身よりも「僕との会話」に真摯であった。


「じゃあ、、、聡は彼女いるの?」

「裕貴も意外とそうゆうこと気になるんだな。いい質問だ。彼女はーーーーーーーーずばりいない!」


 僕は彼の会話のリズムに取り込まれていた。僕の方が長い時間をかけてこの場に臨んだはずなのに、その影など一切見えなかった。

気付いた時には彼への苦手意識は消えていた。それは自ずからそうなっていったようであるが、実際は彼がそう仕向けたのである。

 一つ言うなれば、彼は声が大きかった。どこであっても教室と同じ声量だ。嫌な気はしなかったが、周りの目が気になって仕方がなかった。


 家に帰った後もしばらくは頭の中に彼の声が残っていた。僕は達成感をスパイスに得意げな気持ちに浸ってその余韻を存分に楽しんだ。



 昨日とはうって変わった乾いた日差しで朝を迎えた。夢を思い出して、ポジティブな気持ちを携えて学校に行こうとした。しかし、夢は夢であり、干渉しようとしても何か隔たりがあるのだ。それは自分でどうこうできるようなものではなかった。

僕は諦めて、現実を受け止めるほかなかった。妥協を肩に乗せながら生活をする、これもまた僕にとっては珍しく、こんなにも億劫なものなのだと感じる。


 時間のあり余った現実で僕は昨夜の夢の整理と、今夜もきっと迎えるであろう夢に向けた予定を決めることにした。それで生まれる待ち遠しいなんて気持ちは、ときに時間の流れを進め、ときに遅くした。それはいつかの駅伝で見たくせの強いランナーのようだった。



 待ちに待った夢の世界。情景こそ同じであるが、登校中に皆山に会った。現実ではなかったことがひとりでに起きるようになっていた。昨日の出来事は1つのターニングポイントだったのだろう。そして自分は正解を選んだのだ。僕はこの世界を生きる権利を得たと信じた。


「なあなあ、裕貴にとって恋ってなんだ?」

「どうしたんだよ、急に。なんか、脈絡なくて気持ち悪いよ」

「確かに。でもふと気になったんだ。裕貴ってどちらかというとおとなしめの人間じゃん。そこに生まれる「恋」に対する意識って俺と違ったりするのかなって」


彼は見かけによらず知的だった。その問いには哲学的な側面を含んでいたし、考え、答えることに挑戦的な楽しさがあった。


「僕は生まれてこの方、恋愛に無縁だったんだ。だから、経験に基づくオリジナリティのある捉えかたなんてないよ。だから、、、」

彼の質問に機知のあるアンサーはできないと伝えようとしたところ、彼は僕を制してこう言った。


「そうゆうのを聞きたいわけでないんだよ。なんというか、、、言語化がむずいんだけど、、、」

彼は上手く僕に意図を伝えようとした。僕も理解をしようと思考を張り巡らせた。そして、それこそ脈絡もなくこう言った。


「メディシンっていう英単語の意味、わかるか?」


「薬?」僕は誘導されたかのようにそう言った。


「そうそう『薬』。でも実は『魔法』なんて意味もあるのは知ってるか?」

知らない、と僕は首をふった。


「これは、十分な医療が発達していない地域で生まれたんだ。そこの人々にとって病を治すものは薬ではなく魔法なんだ。つまり俺が何を言いたいか、わかる?」

僕は続けるように首をふった。

「物事には必ず『文脈』がある。それはその当人にしかわかり得ない唯一無二なストーリーであり、尊重すべきものなんだ。一般的な意味からどれだけ離れたっていい。全く逆の意味に終着したっていい。俺が裕貴に聞いてるのはそうゆうことだ」

非常に面白い話であった一方、先にそれを伝えてほしかったとも思った。


「『文脈』か、そうだな、、」僕は少し考えてこう答えた。

「さっき言った通り、僕は本当に無縁だった。だからそれについて考えるときは常に3人称的で、推量を強いるものなんだ。そうなるとやっぱり、、、」

僕は丁度いい言葉を探した。

「『紙芝居』。そんなところかな」


 彼は小さく頷いた。何か納得したようだった。僕はそのとき初めて彼と対等に会話ができたと思った。


 なんとなく感じていたのだが、やはり僕と皆山は気の通ずるところが少なからずあった。物事を深く考え込む性質が似ていたのだろう。


 それからというもの、この「ループ夢現象」は何日か続いた。その間、僕は皆山と親睦を深め、クラスの人とも最低限の会話がこなせるようになっていた。

 しかし、現実は変わらない毎日だった。皆山に話しかけてみようとも、勿論思った。それでも、現実の皆山が夢と同じ性格である保証なんてなかった。寧ろ、夢の世界の性格は自分が頭の中で都合よく改変したものなのではないかという方が信憑性がまだあった。

 そこで最近は夢の世界に閉じこもる方法をなんとなく探していた。一生眠り続ければよいのだろうか。それはつまり、、、そう考えると現実に戻るときがいつか来る、そう思うようになっていた。

 そんなとき、ある夢の中で皆山はこう言った。

「俺、実は気になってる人がいるんだよね」

その瞬間は反射的に驚いたが、よくよく考えると相手はなんとなくわかっていた。


「真田さんでしょ」僕はぴしゃりと言った。

皆山はそうだよねと言わんばかりに落ち着いた顔を保っていた。


「僕に恋について聞いてきたのは彼女の内心を探るためでしょ」


「まあ、そうだな。普通に、裕貴のことが知りたかったのもあるんだけどな」


 どうするんだと僕は問うた。彼にしては珍しい、苦渋の顔がそこにはあった。その瞬間だけは僕が立場として優位であるように感じられた。

秘密を共有するという関係に憧れを抱いていたのもあるが、この発言はこの場において彼にも僕にも何らかの意味があると思った。そこで、僕も悩んだ末にこう言った。


「実は僕にとってここは夢なんだよね」


 それから、今までの経緯をすべて話した。現実世界では僕らは全くの他人であること、真田さんの可憐さには僕も見惚れるものがあったということ。言って良かったのか疑問は残ったが、彼のポカンとした間抜け顔にはそれ相応の価値があった。

 彼の恋路には心から応援していたし、彼の文脈を知ってしまった僕は真田さんの敷居に値する人物だとも認めていた。そこで恩返しの意味も込めて僕は覚悟を決めた。


「僕、現実世界で真田さんに聡について聞いてくるよ」


名案だと思った。失敗したところで、こちら側の彼にはなんの影響もない。だが、問題があるとするならば、やはりあちら側の僕と皆山だ。

 聡はためらっているようだった。しかし、僕は本当に覚悟を決めていた。彼の言葉など聞き入れず、足早に帰宅した。

 彼のため、など表向きの名目で、本当は自分がそうしたかっただけかもしれない。ただ、そこには確かな自信があった。

 皆山という太陽の光を存分に吸い込んだ僕はまるで満月で、その光の羽衣に酔いしれているのだ。



 その日は月曜日であった。空一面に広がった分厚いしわしわな灰色の雲は象の大行進のようだった。気怠い月曜日を生徒たちは、その雲に足並みを揃えるかのようにのそのそと登校していた。その間を僕は颯爽と自転車で駆け抜ける。時々、口元の傷を触りながら。


 学校に着くやいなや、すぐに真田さんを探した。人目の少ない朝に済ましたいという事情もあったが、いち早くあちら側の皆山に伝えたかった。もしかしたら、授業中のうたた寝であちら側に行けるかもしれないと思った。

 教室、体育館、茶道部の部室(彼女の部活)などを巡った。まだ学校に来ていない可能性もあったが、彼女が僕より遅く登校してくることなどなかったのを理由にその可能性は排除した。

 そして図書室に至ったとき、そこには凛として本を読む彼女の姿があった。足音に気付いていたのだろうか、彼女は僕が扉から体を見せる前に視線をこちら側に向けていた。


「さなっ、真田さん」

気分はあちら側でも口はこちら側のままであった。


「なんでしょうか?」

初めて聞く彼女の声は思ったより大人びていた気がした。


「突然だけど、変なこと聞くね」

他のことは考えず、アドレナリンに身を任せて口を必死に開いた。


「真田さんは皆山くんのことどう思ってますか?」


暫くの間、沈黙が広がった。彼女は突然の出来事に言葉がうまく出てこないようだった。購買の時の僕と同じだ。


「青村くん、もしかしてあいつらに脅されてる?」


否定しようとした。しかし彼女はその間を許さずこう続けた。


「私、あいつらのことはあまり好きじゃない。ちょっと前に顔がいいとか言って言い寄ってきたんだけど、あの雰囲気にはどうも合わないわ」


どうしようもなかった。それが彼女の本音であることは簡単に理解できたし、それこそが彼に伝えるべき内容であった。


「そうなんだ、ありがとう」

「彼らって、人の背景を無視してずかずか心に入り込んで来るの。それがなんというかとても不快なの。私がこうやって学校に来れているのは、母が必死に女手一つで育ててくれたから。私がここにいるのには多くのストーリーがあるからなのに、それを無視するような人とはちょっと話せないかな」


 とても気の毒だった。彼女の考えはまるで皆山の「文脈」だ。話せば必ず分かり合える。彼の文脈を知ることさえできれば、、、

 僕はもう一度感謝を伝えてその場を去った。皆山には彼女と頑張って話すんだとアドバイスしよう。そう思いながら教室に向かった。



 それから、僕が夢の世界に渡ることはなかった。いくら寝ても、どこで寝ても、既視感のある朝は訪れなかった。


 皮肉なことに、それから僕と真田さんは親睦を深めた。彼女は現実の僕を受け入れ、求めてくれる。もし、ここにいるのがあちら側の僕なら彼女と関わることなんてなかったのだろう。




「もし月に感情があったのなら、何を思うのだろう。」

僕は心の奥底から自身にその答えを求めた。今ならそれがわかる気がしたからだ。


 人間から見る月など所詮、第三者からの表面的な感想でしかない。だからこそ僕らは、月と太陽の「文脈」を見出すのだ。その位置関係は、ただの科学的なメカニズムなんかではなく、感情が揺らめく美しい人間関係なのだと。

 一方、月は身勝手に感情を抱き、それを知らぬ間に地球へと降り注がせる。人間に気を割く暇などない。ただ一心不乱に、太陽との一瞬一瞬を一喜一憂している。


 そうして僕は月に感情が絶え間無く降り注ぐことを知り、目の前にある月を見上げこう思うのである。


「今宵の月は何を想うか」と。



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