第22話 生け贄(2)

「ふふふ……我がただの幻聴では無いということは分かったようだな」

 きょろ、きょろと周りを探すぼくの頭に、再び声が聞こえた。


「お前の心を聞かせてくれ。今まで一方的に色々と言ってすまなかった。だが、あの女の子のことは好きだっていうことは本当なんだろう?」


「ああ、それは、そうだ……」

 ぼくは呆然と頷いた。 


「そうでなくては、我を呼び寄せることはできないからな。どこが好きなのだ?」

「昔から好きだったアニメのヒロインにそっくりなんだ」


「やはり、そうじゃないか。要は大切にしているんだな? 彼女を」

「そうだ。傷つけるなんてとんでもない」


「そうか。じゃあ付き合えるように我が手伝ってやるよ……」

 声は優しかった。


 ぼくは一瞬、言葉に詰まった。

「ほら。どうだ? 傷つけなければいいのだろう? 大切にすればいいじゃないか?」

 声は益々優しく囁き、ぼくの心を激しくかき乱した。


 背中に何かが貼り付いた。

 途端に、頭に性的な衝動が募る。同時に、下半身が自分のもので無いかのように猛った。


 窓ガラスに真っ黒な影が映っている。それは背中に貼り付き、ぼくの内なる衝動を煽っているかのようだった。


「う……、う、あああああ……」

 ぼくは涎をこぼし、涙を流した。


 激しく頭を振り、そして……!!

「何を言ってるんだ!? ぼくみたいなおじさんがあんな小さな女の子と付き合うわけないじゃないかっ!!」

 爆発する嫌悪感。それが叫び声となって弾けた。


 窓ガラスに映っていた黒い影がいつの間にか無くなっている。

「ぼくは付き合おうなんて思っていない。そんなことはしちゃいけない。しちゃいけないことなんだ。いい加減にしてくれ! もう、放っておいてくれ!」


 声の返事が無い。

 どこかに行ったのか?


 大きく喘ぐぼくの耳に、

「邪霊まで吹き飛ばしたか…… 何という精神力だ。だが、だからこそ、お主がほしいのだがな」

 突然、ため息交じりの声が聞こえてきた。


「だがな。どんなに綺麗事で取り繕おうが、お前の本心はあの女の子を我がものにしたいということなのだ。素直に我に従えばいいものを……」

 再び、声にため息が混じった。


 窓ガラスに映る影は、爬虫類のような邪悪なシルエットに代わっていた。その影が自分の耳元に口を寄せている。

「ひいいっ!!」

 大慌てで耳元を手のひらで払いのけていると、いつの間にかその影は消えていた。


 ぼくは目と耳を押さえ、布団に潜り込んでいた。



 それから毎晩、ぼくは幻覚と幻聴と戦った。目の下には大きな隈ができ、太っていた体は少しずつ痩せていった。


 夜に眠ることができないため昼に眠る。そのため、仕事に行くこともできなくなっていた。


 ――その日もそんな日だった。


 昼から眠りこけ、ふと目が覚めると、散らかりまくった自分の部屋にあの女の子がいた。


 ぼくは状況が分からず、何度も目をこすった。

「おじさん。お母さんは? お母さんが病気で倒れてて、おじさんの家にいるっていうから、ここに来たのよ」


「え!?」

 首をかしげて訊ねる女の子に、ぼくは訊き返した。


「それ、おじさんが言ったのかい?」

「うん」

 ぼくは目の前が真っ暗になった。二重人格なのか? 自分でも気づかないうちに、こんなことをしてしまうなんて――


「我は、お前だ……」

 再びあの声が囁いた。


 思わず辺りを見回す。すると、ガラスに映った自分の背後に真っ黒な影が映っていた。その影は、蟷螂かまきりと恐竜、そして蝙蝠こうもりを足して割ったようなものだった。


 邪悪な意思が、ぼくの心を無理矢理に塗りつぶしていく。

「やっ、や、めろ………」


「いや、やめない。お前と契約するのは諦めたよ。だがな、ここまで、我をコケにしたんだ。お前には報いを受けさせる。その女の子にもな。いいか? お前が我を拒否したからこうなるんだ。これから起こることはお前の罪そものなのだ……」


 その化け物はそう言うと、「ひゃあっはっはっはっ」と下卑げびた笑い声を上げた。


「お前を無理矢理に乗っ取り、お前が好きなあの子をめちゃくちゃにしてやろう。せいぜい楽しめ、いや、苦しむのか……。ひゃあっはっはっはっ……」

 ぼくの意志とは無関係に邪悪なエネルギーが全身を満たしていく。そして、体中が性器になったかのような感覚に陥った。


 ぼくは抵抗した。

「逃げろ……」

 女の子に向かって、やっとのことで声を絞り出す。


「ここにお母さんはいない。早く逃げるんだ……」

 抵抗するぼくをあざ笑うかのように、化け物がぼくの心を侵食していく。脳が破壊衝動と性衝動で一杯になり、目の前が真っ赤になった。


「逃げろ、早く逃げてくれ……」

「ここまで、抵抗するとは大したものだ。だが、もう終わりだ!」

 化け物がそう言った途端、心が真っ赤に塗りつぶされた。


 目から血の涙が流れた。

「ぐうおおおお!!」

 口から漏れ出た叫び声は自分のものではなかった。


 ぼくが、その日最後に見たのは、玄関に向かって逃げる彼女の背中とそれを捕まえようとする自分の腕だった。左手にはいつの間にか包丁を握っていた。


      *


「にゃあああっ!」

 ――おい、待てっ!

 オレは鳴かずにはいられなかった。


 これは過去に起きた出来事。

 だから、オレの声は届くことは無い。


 だが、止めたかった。


 男が一瞬こちらを見たような気がした。

 男はニヤリと笑い、女の子に向かっていった。


 包丁の突き刺さる湿った音が何度も響く。

 そこからは、見たくもない凄惨な光景が繰り返された。


 男は一度も正気を取り戻すことはなかった。

 オレは無力感にさいなまされ、涙をこぼした。

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