第6話 子どもの幽霊(2)

 オレの目線の先に、ノースリーブの水色のワンピースを着た女の子が歩いている。

「お前の彼女か?」


(ああ。白川しらかわ由里子ゆりこ。俺の彼女だ)

 竜一の感情が熱く高まるのが分かる。


「ううう、なーお」

 意味不明な鳴き声が喉から漏れ、体が勝手に動き出しそうだった。


「おい、待て!」

 オレは竜一に体を操られないように必死に体を押さえた。


 すると、

「お母さん!」

 少年が叫んだ。

 その声を聞いた竜一は、オレを動かそうとするのをやめた。


 少年の母親と竜一の彼女。面影が似ているのか――

 オレは少年の嬉しそうな表情を見つめた。


 お母さんに会えないからここにとどまっているのであれば、思いを遂げることができれば、成仏するかもしれない。


 オレは足を踏み出した。

(お、おい……)

「任せてくれ」

 竜一に答え、由里子に近づく。


 近づくにつれて、心臓の鼓動が高まり、顔が赤くなる。オレの中にいる竜一のせいだとは分かっているが、不思議な感じだった。


「みゃあん」

 できるだけ愛想のいい声を上げ、由里子を呼び止める。


「あら。どうしたの」

 そう言ってしゃがみ込んだ由里子を見て、竜一が泣きそうになっているのが伝わってくる。竜一はよほど、この娘のことを好きらしい。


 由里子は、女性らしいしなやかな仕草で、肩甲骨の半ばまであるロングの黒髪を片方の耳にかけた。

 チッ、チッ、チッと舌を鳴らして、オレを呼ぶ。


 オレは近づくと、由里子の差し出した右手に、額から背中を押しつけて甘えた。

「キミ、可愛いね。野良なのかな?」

 由里子はオレの頭を撫でながら言った。


 次の瞬間、ふわりと抱き上げられた。

 胸に抱かれ、顎の下を人差し指で撫でられる。


「うにゃっ」

 思わず声が出た。

 柔らかい二つの膨らみに埋もれる感触に忽然となって、自然に由里子の臭いを胸いっぱいに吸い込む。


 すると、頭から尻尾まで、例えようのない衝撃がはしった。

 体が痺れ、呼吸が浅くなり、鼓動が早くなる。そして、目の前が暗くなった。


 だが、それは一瞬のことですぐに元に戻った。

 頭を振って、胸いっぱいに由里子の匂いを吸い込む。柔らかさと懐かしさに浸っていると、


「どうしたの? 気分悪い?」

 由里子の心配する声が聞こえ、また頭を撫でられた。


 俺は細めた目で、由里子の顔を見つめた。

 やっぱり、可愛いな……と思い、俺は唐突に気づいた。俺、竜一が、この体の主人になっていることに。


 ――おい、虎徹!

 心の中で呼びかけたが、反応はない。


 体の奥深くで眠っているような感じだ。そう言えば、一緒になった最初の頃に俺も虎徹の中で眠ったような状態になったことがあった。あれと同じなのかもしれない。


 虎徹の体に入ったのはついこの間のことなのに、随分久しぶりに由里子に触れたような気がする。


 俺は由里子の柔らかい体の感触と甘美な匂いに浸った。胸いっぱいに由里子の匂いを吸い込み、その胸に頭を押しつける。


 だが、ふと、幽霊の少年が目に入った。

 そうだ。虎徹のやりかけたことをやり遂げなくてはいけない。俺は気持ちを無理矢理奮い立たせると、少年の幽霊を見つめ、由里子の顔を見上げた。


 由里子の腕をすり抜けるように下に降り立つと、由里子の背後に回って頭で少年の方へ押した。


「え、何?」

 由里子が俺の方を見るが、構わず由里子の足を頭で押し続けた。


「どうしたの?」

 由里子はそう言いながらも、押す力に抵抗はせず少年のいる方へと足を進めた。

「お母さんっ!」

 少年がそう言い、由里子の膝にしがみつく。


 しかし、当然のことだが、由里子は少年の幽霊に全く気がつかなかった。

 どうしたらいいのか――


 俺は反射的に少年に重なるような位置に移動し、由里子を見た。腹を見せて精一杯、愛想を振りまく。


「もう。甘えんぼね」

 由里子はしゃがみ込むと、また俺の腹を撫でた。


 そのとき、少年が由里子の首に腕を巻き付け、抱きついた。

「あれ?」

 由里子の目から、ふいに涙がこぼれた。


「迎えに来れなくてごめんね」

 泣きそうな大人の女性の声が響いた。


 由里子から声は聞こえたのに、由里子の口は開いていない。

「お前がやったのか?」


「そこにちょうど霊樹れいじゅがあったからな。その力を利用して母親の霊を降ろしたのだ」

 俺が訊くと、死神が大銀杏を指しながら言った。声は直接頭に響いた。


「お母さん、会いたかった……」

「うん、私もよ。今まで、待たせてごめんね……」

 由里子に重なるように存在する女性の霊が呟いた。それは今まで街中で見た幽霊とは異なり、光り輝いていた。


 少年の姿が、光の粒子へと変化し、消えていく。同時に由里子に重なるように存在していた霊も消えていく。


「ありがとうございます。やっと、この子と一緒に行ける……」

 女性の感謝の言葉と一緒に、風が吹いた。


 そして、二人の気配は消えていった。

 由里子は辺りを見回し、涙を拭くと、俺の顔を見た。


「キミ。私に何かした? 今、胸が締め付けられるような感じがしたんだけど……」

 由里子はそう言うと、まっすぐに俺の瞳を見つめた。


 俺もその瞳を見つめ返す。

 深くて美しい瞳。俺はいたたまれない気持ちになって、少しずつ後ずさった。

 十分に距離を取ったところでくるりと背を向ける。


「あ……」

 由里子が反射的に声を上げた。

 俺は離れがたいその気持ちを振り切るように、その場から走り去った。

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