探偵は知らなかった
宝力黎
探偵は知らなかった
ピアニスト《片桐留美》の地元凱旋ワンマンコンサートは客入りも上々。あとは七時の開演を待つのみとなった午後六時半、バックルームで悲鳴が聞こえた。
早瀬瑛光は柵を跳び越え、声の聞こえた廊下の奥へ向かった。そこは大ホールステージのちょうど裏手にあるスタッフ専用エリアだ。廊下は鍵の手に曲がっている。曲がりかけた時、奥に人影を見た。早瀬は慌てて立ち止まり、陰に隠れた。一室から男が飛び出すのが見えたからだ。男は部屋の前にいた女とぶつかりかけ、一瞬止まったがすぐに駆けだした。瑛光の居る方に向かってくる。
男が角を曲がった瞬間、瑛光は男の手首を掴んだ。男は驚いたが、そのときには既に宙に浮いていた。ドスンという鈍い音がして、男は廊下にたたきつけられた。強く背中を打ち、呻いている。男の手首を押さえて身動きとれないようにした早瀬の耳に、もう一度悲鳴が聞こえた。続いて聞こえたのは女の叫び声だ。
「死んでる!」
ハッと顔を上げ、角から顔を出した。控え室から後ずさりで出てきた女が見えた。女は震える手で室内を指さし、もう一度叫んだ。
「片桐さんが、死んでる!」
その声に男は酷く狼狽えたようだった。
救急隊員と警察が駆けつけたのは出来事から七分後のことだった。瑛光は男を警察官に引き渡した。
「早瀬さんじゃないですか!」
若い警察官は驚いた様子で早瀬を見た。その背後から姿を見せた男は舌打ちをした。
「まーたお前かよ!」
「こっちの台詞ですよ、それ。なんでいつもいつも峰田先輩なんですか」
峰田はぼやきながら規制線をくぐった。ついてくる早瀬を見て、峰田は顔をしかめた。
「お前、何やってんだ?関係者以外は――」
「関係者です」
「とっくに警察辞めたじゃねえか!」
「僕の話も聴いた方がよくないですか?現場にいたんですから」
峰田の目が光った。
「現場に?殺しのか?」
「犯行を現認したわけじゃありません。ただ、直後に駆けつけました。男を取り押さえたのは僕です」
峰田はポカンと口を開けた。
「どうしてこうお前ってのは事件に好かれてんだろうな」
感心したような口調だ。早瀬は「知りませんよ」とそっぽを向いた。
二人は連れだって歩き、控え室前までやって来た。既に関係者は別の場所に移動させられている。救急隊員と検視官が遺体を確認していた。
「どんなだ?」
峰田の声に振り返った検視官は首を左右に振った。
「ほとんど即死です」
早瀬の目の前にシートを被せられた遺体があった。一瞬、脳裏に懐かしい笑顔がよぎった。早瀬は目をそらし、床を見た。
「流血が少ない」
「ナイフが抜かれていないからですね。外部への出血が少ないのはそのせいでしょう。ヒルト(刃物部分とグリップの境にある指を守る部分。日本刀で言うところの鍔)まで刺さってます。よほど強い力で突いたんですね」
早瀬に答える検視官に峰田は呆れた。
「お前ら……なに普通に話してんだ!」
一通りの現場確認を終えた。鑑識の邪魔にならないように峰田は早瀬と共にホール内にあるカフェに移動した。本来であれば来場者たちで賑わったであろうそこも人影はない。客は事件を知って震え上がりながら帰路についたあとだ。
「で?なにを見たんだ!正直に言え!」
目の前に置かれたコーヒーを手に取ろうとした早瀬は峰田を睨んだ。
「これ、取り調べですか?」
「なわきゃねえだろ!」
「ですよね」
一口コーヒーを啜った。早瀬は数秒黙り、そして話し始めた。
「被害者は――片桐留美さんと僕は、中学と高校が同じでした」
峰田は眉根を寄せ、聞き入った。
「お母さんもピアニストだったんです。音楽一家として有名だったんですよ。僕は親の都合で中学三年の時に越してきてから高二の冬に転校するまで居ましたけど、こっちのことはなにも分からなかったわけです。それこそ書店がどこにあるのかも。その僕に、彼女はとてもよくしてくれました。転校後も何でですかね、折々に手紙なんかくれて。だから僕も返事を書いたり。そんな感じでしたけど、一月くらい前にチケットが送られてきたんです」
「今日のか」
コクリと頷いて見せた。
「そのチケットに、手紙というか、メモがついていました。これです」
テーブルの上に置き、人差し指で峰田の方に滑らせた。峰田はメモを見て眉をひそめた。
「これは――」
《困ってることがあるの》
優しげに丸みを帯びた手書き文字だった。
「困りごとがある――だから僕に来て欲しい、という意味でしょう。だからこうして花なんて持って来たわけです」
「なんでお前なんだ?」
「刑事になったことは教えてありましたから、それででしょう。もっとも、辞めて探偵になったことまでは言ってませんでしたけど」
「相談がしたかったわけか」
早瀬は俯いた。峰田には分かっている。飄々として表情を表には出さないが、早瀬ならば心の中で怒りの炎が燃えさかっているだろう――と。峰田は話題を変えた。
「男なんだが」
峰田の言葉に静かに顔を上げた。
「所持品から名前と現住所は判った。矢守修平、三十五歳。免許証の住まいは東京都渋谷区の――」
峰田は有名な高級住宅街の名を告げた。
「彼女との関係は?」
峰田は首を横に振った。
「移送前に何か言ったかって話なら、なんにもだ。詳しくはこれからだな」
ガラス窓の外には数多のパトライトが明滅している。立ち入りを規制した門の外にはマスコミも駆けつけている。
「怨恨――でしょうか」
「どうかな」
留美が書いてよこした《困りごと》が矢守修平に関することならば、通り魔的な犯行ではないことになる。メモは一月も前に届けられたのだ。
家柄も育ちも性格も良い片桐留美が、男とトラブルになるなど早瀬には考えにくい。だが仮に矢守と何らかの関係があるとするなら、一方的な怒り、恨みである可能性は高いように思えた。
「何にしても取り調べてからだが、早瀬、お前が駆けつけて矢守を取り押さえた時の話を詳しく聞かせろよ」
早瀬は思い出しながら話した。
「僕はエントランスホールにいました。スタッフエリアの係員と話していたんです。《片桐さんから招かれた》旨を伝えると、伺っておりますと言われて、それで通されたわけです。そのときですね、女性の悲鳴が聞こえたのは。それでとっさに走り出して、控え室なんかがある廊下まで行ったんです。すると男が彼女の控え室から飛び出してきたのが見えて。関係者とぶつかりそうになってました。なにが起きているかはともかく、これは止めなくてはと思い――」
峰田は鼻の頭を掻いた。運の悪い犯人だと思った。早瀬は、柔道、剣道、合気道と空手がすべて三段の黒帯なのだ。
「投げました。意外に暴れるとかはありませんでしたよ。それでも一応押さえ込んでいると女性の悲鳴が――」
言いかけて早瀬は黙り込んだ。メモをとっていた峰田が顔を上げた。早瀬は何事か考え込んでいた。
「峰田先輩」
「なんだ?」
「関係者って、まだ居残らせてます?」
「とりあえず事件時前後に現場周辺に居合わせてないグループと近かった数人に分けて残ってもらった。別室で簡単に話を聴いてるとこだが、それがどうした?」
「無理でしょうか?」
「多分無理だな」
「まだ言ってませんけど」
「聞かなくても分かるって話だ。お前の頼みってのはいつだって無茶なんだからよ」
苦笑した。早瀬は真顔で言った。
「一人、話を聴いてみたい人物が居るんですが」
峰田も真顔になった。民間人を捜査に関与させるなど、さすがに飲めない話だからだ。表情で理解した早瀬だが、無理を押した。
「先輩が話を聴く部屋のドアを開けてもらって、外で聴いているだけというのは……だめですか?」
峰田は眉をひそめた。
「なんだそりゃ?聴いているだけってワケか?うーん……まあ、俺が許可したとかは言うなよ?たまたま居合わせて、たまたま聞こえただけだぞ?」
「無論です。ご迷惑はかけません」
「どうだかよ」
笑いながら二人は立ち上がり、事情を聴くために会場側に借りた小会議室に向かった。
早瀬は留美の部屋の前で矢守から突き飛ばされた女を指定した。幸いにも聞き取りはまだで、女は連れてこられた。
「すみません。気分が悪くてお手洗いから離れられなくて」
女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ちょっと交代していいか?」
峰田が言うと聞き取りをしていた捜査員は頷き、部屋を出た。制服の警官に伴われた女は所在なさげに立っている。
峰田はドア前の椅子を指さし、早瀬を座らせた。若い警官も早瀬のことは知っている。怪訝な顔をしたが、女を置いて去って行った。
腰掛けている早瀬の前を女は通り抜け、部屋に入った。早瀬は床に視線を落としていた。
「すみませんね、お時間とらせて」
部屋の中から峰田の声は聞こえるが姿は見えない。早瀬の位置からは女の横顔が見えていた。
「まずお名前を聞かせていただけますか?」
「内川……真梨枝……です」
女の声は小さく、廊下では聞き取りにくいほどだ。
「ホールの職員さんですか?」
「いえ、私は鈴木アートという会社の社員です」
「アート――」
「市民ホールさんからも頻繁に発注いただきますけど、ステージ装飾や音響のお手伝いなどを手がけています」
「あぁ、なるほど。それで事件の時にも近くに居られたわけですか」
「仕事は終わっていましたので、もう帰るところでした。ステージ側から出るわけにいきませんから、バックから」
峰田は頷いた。
「それで、悲鳴を上げたそうですが」
真梨枝は小さな吐息を零し、「はい」と答えた。
「ちょうど控え室の近くに来た時、言い合う声が聞こえたんです。なにか揉め事かなと思いましたけど、関わりは無いと思って、急いで通り抜けようとしました。で、開けっぱなしのドアの奥が眼に入って――」
「中ではなにが?」
峰田の問いに、真梨枝は膝の上で拳を握った。
「男の人の背中が見えました」
「片桐さんは?」
それには首を横に振った。
「男の人の向こう側にいたと思いますけど、私からは見えませんでした」
どこか不機嫌そうな声だ。
「そうですか。声は聞こえましたか?」
「女性の――片桐さんの声は聞こえました」
「なんと言ってました?」
「ご……ごめんなさいって」
「謝っていた?」
真梨枝は頷いた。廊下で聞いていた早瀬は天井を見つめた。
「それで?」
「それで……いきなり男の人が廊下に飛び出してきて」
「突き飛ばされそうになったとか」
「どうでしょう……よく覚えていません」
「それで?」
「怖くて、その場で震えました」
「なるほど。それからどうしました?」
「それからって――ただ男の人が逃げていくのを見ていました」
「片桐さんはどんな様子でした?」
「私からは片桐さんの両足しか見えませんでしたけど、床に倒れていたようです」
「床に、ね。そのときあなたの近くに誰か他の人は居ましたか?」
真梨枝は思い出すように宙を見てから答えた。
「誰も――まだ誰も居なかったと思います」
「廊下にも部屋にも、ですね?」
「はい」
「そのあとは?部屋には入りました?」
「よく覚えていませんけど、入っていないのは覚えてます」
「もう一度悲鳴を上げたとか?」
「どうだったか……あまりにも怖くて」
「他の関係者が駆けつけたのは覚えています?」
「はい。気づいた時には大騒ぎになっていました」
そう言って真梨枝は俯いた。しばらく黙っていた峰田は立ち上がると廊下に顔を出した。
「どうだ?」
「一つ確認してください。片桐さんの様子を近くで見たかどうか」
峰田は頷いて席に戻り、早瀬が言うとおりに尋ねてみた。内川真梨枝は答えた。
「怖くて、部屋には入りませんでした」
峰田はふうんと鼻を鳴らすともう一度早瀬に顔を見せた。
「もう十分です」
早瀬はそう言って椅子から立ち上がった。
「ところで、僕の聴取もしますよね?署長には会いたくないけどなぁ」
「のんきか!」
怒鳴る峰田に早瀬は陰のある笑みを浮かべた。
「じゃあ、そのときまた」
「待てよ!なにか分かったってんなら――」
「くわしくはまたあとで」
行きかけた早瀬が振り返った。峰田に近づき、部屋の中を気にしながら小声で言った。
「犯人と、そこの女性の関係を調べてみてください」
峰田は驚いた顔を見せたが、早瀬は歩き去った。珍しく肩を落として歩く早瀬を見送る峰田は早瀬の心中を慮った。
――さすがに無理ねえよな。いくら早瀬でも、旧友が自分の近くで殺されたってんだから……。
峰田は肩越しに真梨枝を振り返った。真梨枝は俯いたまま、唇を噛みしめていた。
鑑識課員がエントランスホールを足早に行きすぎていく。すれ違う早瀬は大きな吐息を零した。チケットの半券を見つめた。
思い出す声があった。高校の制服を着た片桐留美だ。
《早瀬クンって夏生まれ?》
《夏の曲ってエネルギッシュなのが多いけど、早瀬クンは静かだね》
――あの日も初夏の夜風が吹いていた。
野次馬とマスコミの中を早瀬は消えていった。
事件翌日、早瀬は所轄署のベンチにいた。手に花を持っている。
「来たか」
「呼ばれればそれは来ますよ。無用な嫌疑なんてかけられたくありませんし」
「嫌味な野郎だな……」
峰田は早瀬の隣に座った。この夏最高の気温になると予報されたとおり、ガラスの外は強い日が差している。
「取り調べはどうですか」
「素直だ」
「認めたんですか?殺害を」
「いや、刺したことは認めてるが、殺意は否認だ」
早瀬は視線を花に落とした。
「訊いてもいいか?」
「訊くくせに」
峰田が苦笑した。
「あの女」
早瀬は表情を変えずに聞いている。
「あれはどういうことなんだ?お前、なにが聴きたかったんだよ」
「その前に、矢守と片桐さんの関係はなにか分かりましたか?」
峰田は頷いた。
「矢守が言うには、付き合ってたそうだ。正確には付き合ってた時期があったらしい」
屈託のないまぶしい笑顔が逆光の中にあった。
「別れ話で、揉めたらしいな」
「そうですか」
峰田は両手を後ろにつき、窓の外の青空を見上げた。
「お前が言ってた、あの女――内川真梨枝と矢守の関係だが、調べて分かったことがある。あの二人は以前、同じ会社に在籍していた」
「同僚だったんですね?」
「そうだ。その会社はステージメイクの仕事を請け負うそうだが、矢守は音響の方で働いてたってよ。とは言っても、矢守の方は二年くらい前に辞めたってことだ。だがまあ、顔見知りってことに違いはねえ」
「そのことを彼女は言っていませんでしたね」
「いきなり飛び出してきた男だ、人相までは――」
「矢守は、どうやってスタッフオンリーのエリアに入れたんでしょう」
峰田が言葉に詰まった。取り調べでも矢守は《こっそりと入った》と言うだけだった。
「搬入口には警備の人が常にいるそうです。あとあの控え室に近づくには僕が許可をもらった通用口か、そうでないならステージ上からしか無理です」
峰田の目が光った。
「なにが言いてえんだ?」
「内川真梨枝さんは胸に業者パスを下げていました。あれで自由に通るんでしょう」
峰田は黙ったままだ。
「もしも開場前にそのパスを矢守に手渡せたら、どうですか?」
「内川真梨枝がグルだって言うのか?」
「いいえ」
「ワケ分かんねえぞ!」
「グルかは分かりません。でも、何かの理由で《そうする必要があった》ら?それか《そうしたかった》ら?」
「パスを渡してこっそりと引き込む理由?」
早瀬は頷き、小さな吐息を零した。
「僕が思うに、内川真梨枝と矢守の間には特別な関係があって、そのせいで矢守がしたいことを内川真梨枝は拒まなかったか、あるいは拒めなかった」
「殺すかもしれないと知っていたとか?」
「さあ。ただ、逆算してみたんです。矢守は事実として片桐さんを――刺しました。そこまでの精神状態になる何かが二人の間にあったんでしょう。そして凶器も用意していた。最初から殺そうと考えていたかは分かりませんが、結果的に刺している。つまり、矢守が望んだような話し合いでなかったことが想像出来ます。一方で内川真梨枝ですが、矢守と片桐さんの関係は知っていたとみるのが普通です。でなければ片桐さんの控え室に近づこうとする矢守に手を貸すのは妙な話です。そして、彼女が第一発見者だった」
「危害を加えると知らなかったらどうなんだ?もとの女と話があるからって程度なら」
「可能性はあるでしょうね。でも、僕はあのとき、悲鳴を聞いて駆けつけたんです。その悲鳴は、二度聞こえました。一度目は昨日も言いましたけどホールで。二度目は、矢守を押さえ込んだ時です。二度目の悲鳴の直後に僕は廊下の角から控え室を見ました。内川真梨枝は控え室から後ずさって出てきて、こう言ったんです《片桐さんが死んでいる》と。なぜ死んでいると分かったんでしょう?そもそも彼女、部屋には入っていないと言ってませんでしたか?でも僕は部屋から後ずさる彼女を見ています。それに、人が死んでいるかどうかなんて、近くに行かなきゃ分かるものじゃありません。彼女には確信があったんです。そして、死んでいると聞こえた時の矢守の表情です。酷く驚き、狼狽えていましたよ。なぜでしょう?刺したことは刺したが、死ぬとは思っていなかった?ならどの程度の刺し方だったんでしょうね?ナイフはヒルトまで突き刺さっていたんですよ?そこまで刺したら、死んでいると聞いて驚くでしょうか?」
「早瀬、お前はこう言いたいのか?矢守は被害者と揉めたことは揉めた。刺したことも事実だろう。だが本来の傷は浅かった。だから死んでいると聞いて驚いた。つまり、誰かがとどめを――」
早瀬は徐に立ち上がった。
「調べてみるべきでしょうね。内川真梨枝と矢守の関係を深く。それと同時に峰田先輩、内川真梨枝の昨日着ていた服、そして靴を調べてください」
怪訝な顔をする峰田を後に残し、早瀬は立ち去った。
数日後、マスコミは片桐留美殺害事件の犯人として内川真梨枝の名を報道した。司法解剖の結果、片桐留美の胸の傷には或る特徴があることが判明した。傷は一突きのものではなく、二段階についていたのだ。はじめの傷は極浅かった。それで人が死ぬとは思えないものだ。ところが、そこからさらにもう一段深く突かれていたのだ。それは心臓を貫通するほどだった。
警察は重要参考人として内川真梨枝の身柄を押さえた。取り調べに、内川真梨枝は黙秘を続けたが、押収された当夜の服の裾と靴から血痕が見つかった。鑑定するとそれは片桐留美のものだった。それを突きつけると、内川真梨枝は落ちた。認めたのだ。当夜トイレが長かったのは、血を洗い落としていたためだった。早瀬は内川真梨枝の足下を観察していた。足跡が濡れていたのだ。
内川真梨枝の供述はこうだ。
片桐留美と一時期交際関係にあった矢守だが、二人の関係は破綻した。それを恨みに思い、復縁を迫るためにナイフまで所持して押しかけた矢守に力を貸したのは内川真梨枝だ。内川真梨枝自身が矢守と数ヶ月間ではあるが交際していた事実も打ち明けた。だが、交際中でさえ矢守の気持ちは片桐留美にしか向いていなかった。内川真梨枝は片桐を憎く思い、矢守に力を貸したのだ。機会は訪れた。地元のホールでのコンサートが決まり、その装飾に内川真梨枝が勤める会社が選ばれたのだ。入場パスは、飾り付けの途中で会場ドアから矢守に渡していた。矢守はそれを使い、スタッフエリアに入ったのだ。
だが、いざ話し合った矢守と片桐留美だが、所詮上手くいくはずもない。話はこじれ、怒った矢守がナイフを取り出して片桐留美を脅した。警察を呼ぶと騒いだので、矢守は片桐留美を刺したのだ。早瀬がはじめに聞いた悲鳴は、片桐留美のものだった。留美は刺されたショックでよろけ、倒れ込んだ。だがそのときはまだ怪我程度だった。逃げ去る矢守が内川真梨枝とぶつかるのを見ていたほどだ。矢守が駆け去ると、内川真梨枝は片桐留美を見た。助けを求めていた。だが、内川真梨枝は片桐留美を助けることをしなかった。廊下にはもう誰もいないが、すぐに人が来るのは分かっている。部屋に入って内川真梨枝は、仰向けで苦しむ片桐留美の胸のナイフを思い切り踏みつけたのだ。二度目に聞こえた悲鳴は片桐留美の断末魔だった。一度大きく苦しみ、そして片桐留美は事切れた。目を見開いたまま、呼吸を止めたのだ。自分のしたことに今更ながら驚いたが、角の向こうに早瀬がいたことなど知らなかった。駆けつける人の気配に届くように《片桐さんが死んでいる》と叫んだのだ。
矢守の供述は内川真梨枝のそれを裏付ける程度のものだった。
「留美とは音大時代に知り合いました。俺が講師してたから。付き合い始めたのはその頃ですけど、すぐによそよそしくなって。留美は海外によく行っていたので、縁遠くなりました。でも、復縁したかったんです。だから話しに行ったのに、留美は聞く耳も持たなくて、腹が立って、それで怖がらせようとナイフをみせたら警察を呼ぶって騒いだので、怖くなって俺は……」
内川真梨枝の気持ちは分かっていたが、留美とは真逆で激しい部分のある真梨枝に応えるつもりは無かったとも話した。二人は送検され、事件はひとまずの結末を見た。
早瀬は《片桐家之墓》と記された墓標の前にいた。そっと花を置き、手を合わせた。
「僕がもう少し早く行けていたら」
悔やんでも悔やみきれない。転校して困っていた自分に手を差し伸べた笑顔を守ることが出来なかったのだ。だが、早瀬は知らない。なぜ片桐留美が自分に優しかったのか、その本当の理由を。
「君の困りごとの、何の力にもなれなかった……」
早瀬は深く頭を下げた。
「ごめん……」
暑い夏が来た。思い出の中の夏とは比べようもないほどに暑い夏だ。
探偵は知らなかった 宝力黎 @yamineko_kuro
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