どこかの寄席で聞いた夏の話
山本楽志
第1話
客席のざわめきはどよめきに変わっていった。
壇上では、色物の漫才が終わった中トリの間際に、座布団を運んでてきぱきと準備を行っていた前座がめくりを回収していった。異例の行動ではあったが、所作が自然だったため気づかない客も多かった。間もなくめくりは戻ってきたが、改めて引き上げられると、さすがに驚きが広がっていった。
破風亭宿木
番組表の予告とはまったく異なる名前がそこに書かれていたからだ。
腰を下ろしている多いとはいえない観客は、なにかの手違いかといぶかしんでいたが、そうした不審が明確な形となる前に出囃子は既に鳴りはじめており、次いで下手から人影が現れた。
*
あいにくの空模様ですが、もう一席おつきあいいただけますようお願い申し上げます。
どうしてお前が出てきたんだって顔してますね。
どうしてだろう……
実は日比谷線と浅草線が止まっておりまして、ちょうど向かっていた
いざという時の秘密兵器です。
たまたま本日主任の
おかげでこの着物も借り物です。誰のっていうわけじゃなくて、万一のためにこういう寄席だと準備があるんですよ。だもんで寸法も合いませんし、頻繁に使うもんじゃないからナフタリンくさいのなんのって。
ああ、もう、こんなもの!
と腹立ちまぎれに羽織を投げ捨てたように見えるでしょ?
昔ながらの落語通の方はご存知ですけど、これは符牒なんです。
なにかトラブルがあって次の出番が間に合わないからって、高座に穴を開けるわけにもいきません。そんな場合はその前の噺家が場をつなぐことになってるんですね。といっても、その噺家だって目安がないと、いつまで話していていいものかわかりませんよね。
そこで羽織の出番になります。あんな具合に下手の方に投げておくと、次の出演者の目処がついたところでそれを引っ込めてくれるんです。それをきっかけにして、高座の噺家もまとめに入る、とこういう段取りになります。なにもわたくしが乱暴者なんじゃないですからね。
そして、これを聞いて、ぴんときたお客様は鋭い!
そう、仲入り明けの
というわけで改めまして、わたくし、
そんなわけで破風亭宿木です。しつこいですか? こんな機会ですからね、是非とも皆さんには名前を憶えて帰っていただきます。
師匠はご存知
もともと宿六一門は真打昇進にあたっては、六の字をもらうのがならわしだったんです。
だもんで、兄弟子も
皆さんね、他人事だから笑ってられるんですよ。自分のことだと考えてみてくださいよ。もうろくにひょうろくですよ。いくら名は体を表すなんて言うからって、あんまりぴったりなのも考えもの……いやいや、あんまりだと思いません?
いやな予感があったんです。
わたくしの前座と二ツ目時代は
それで真打昇進が決まったその晩でした。あれは本人じゃなくて協会からまず師匠に通達されるんですよ。うちの師匠はこういうのはなおざりにするタイプじゃございませんので、自宅に来るようにと連絡をもらいまして。時期が時期ですからピンときますよ。案の定昇進の内定を伝えられたところで、向こうが更になにかいおうとするタイミングを見計らっておそれながらと申し出たわけです。
「宿六一門の真打での命名法は重々承知しておりますが、前座から数えまして十四年、宿梨にも愛着があります。つきましては、宿の方をこのままいただきまして下の字を変えるという形ではいけませんでしょうか」
こういうのはね、機先を制しながらもあくまで下手下手に出るのがポイントですよ。
そうしてまんまと宿木の名前をせしめたんですが、うまいことにはどこか落とし穴があるもんですねえ。
師匠はじめとしてみんな六がついているでしょう。つまりわたくしだけが六がついていない。それで、おかげさまで「破風亭のろくでなし」なんていうキャッチコピーをいただくことになっちゃいまして……
……羽織まだ回収されてないな。
いろんなことを申しておりますが、もちろんわたくしもその芸風に惚れて弟子入りした四代目破風亭宿六から頂戴いたしました名前ですので、前名の宿梨とともにありがたく思い、誇りを持って芸道に励んでおります。
そんな師匠も亡くなりまして六周年……違う違う。これは違うんですよ。七回忌です、七回忌を迎えまして、歳月人を待たずという言葉にしみじみ感じ入ることも増えました。
まだまだ御記憶のお客様もおいでのことと存じますが、うちの師匠は身長が低くて体格もお世辞にもがっしりしているとはいえませんでしたが、それでいて背はしゃんと伸びて声の張りはピカイチでした。
たばこはしない、酒はたしなむ程度、それが脳溢血でばたりと倒れてそれっきりですから、本当に人の寿命はわかりません。けれども長く患うこともなくコロリといった分だけは、本人にもよかったんじゃないかと思えています。
御承知の向きも多いと思いますが、寄席は一日から十五日までの上席、十六日から三十日までの下席の二つの期間に分けまして、それぞれ昼の部、夜の部の計四グループで一月を分けています。師匠はこの鈴本の下席の昼の部に出演していて、忘れもしません七月十九日に楽屋で出番を待っていたところころんと――本当に音もなく倒れたそうです――横になって意識不明で、そして次に来た連絡が亡くなりました、ですから、まわりが慌てに慌てまして、一門はもちろん協会に各席亭もてんてこまいの大騒動になりました。
師匠は奥さんを早くに亡くしましてお子さんもいない独り身でしたし、その次の年には真打四十周年っていう節目を控えていたので、もちろん自分が亡くなるなんて思ってもいませんから通夜や葬儀の支度があるわけありません。いつどこでやるのか、喪主はどうなるのか、親類縁者はどこまでたどるべきなのか。わからないことづくめでした。
そうなると最後の内弟子だからって、わたくしのところになにかっていうと相談がくるんですけど、相談というか詰問ですよ、あれは。
さんざんいわれました。
「お前が一番最近まで師匠のとこにいたんだろう」って。
最近っていっても二ツ目に上がるまでですからね。その時点でもう十年以上経ってたんですよ。わかるわけないじゃないですか。
知らねえよ!
って言葉が何度口をつきかけたことか。でもいえません。噺家世界は厳粛な縦社会ですから。
「師匠の本名は」「木下
こんなくりかえしですよ。でもですよ、いくら恩人だからって、本籍まで知っていたら逆に怖いでしょ?
そんなこんなでてんやわんやではありましたが、葬儀には急な話にもかかわらず大勢の方に足をお運びいただけまして、改めて師匠の人徳に感じ入りつつ見送りをさせていただくことができました。
そうして初七日が過ぎ四十九日が過ぎ、もろもろの手続きや書類の提出なんかを終えて、一息ついたところで、遺品の整理をどうしようかと
貯金だとか不動産だとか、そういう財産に関しましては、我々の出る幕ではありませんから、弁護士さんや御親類の皆さんでお話合いの席を持っていただきまして収まるべきように収めていただきました。幸い御理解のある皆さんで、師匠の家については管理さえ弟子一同でまかなえるならば任せたいといっていただけまして、いずれ何かの資料館などにできればと昔のままで残しております。
遺品というのは、そうしたものではなくて、もっと身の回りの品ですね。こちらも普段の衣類や日用品の類は処分いたしまして、高座に身につけていた着物や手拭い扇子の類は弟子で形見分けさせていただいたのですが、困ったのは趣味の品です。
今は趣味といっても星の数ほどありまして、定番なんてなくなってきていますね。うちの二番弟子の
それならあなたのご趣味はなんですか? あんまり迫力あるからつい下から聞いてしまいまして。
「しいていうなら落語ですかね」
それはお前さんの生業だ。しかもしいていうな。
そんな具合に多様化している時代ですが、わたくしども落語家に限らず芸人は飲む打つ買う三拍子揃って一人前みたいなことをいまだに半ば本気でいわれたりもします。とはいえ、そんな破天荒な人、今のこの御時世にですよ、いませんよ。ほとんど。
もっとも、うちの師匠宿六は、こんな芸名にもかかわらず、趣味・道楽の類はまったく不調法で、協会の宴会に顔を出しただけで話題になるような人でしたから、推して知るべしというところです。
音楽の類は聞くのもやるのもからっきしで、スポーツは野球や相撲もほとんど見ない、魚釣りとか囲碁将棋などなどもさっぱりでしたから、趣味人からは最も縁遠いところにいたような人でした。
ただ、上方の桂米朝師匠――ご存知人間国宝ですね――を尊敬しておりまして、特に後継者なく失われていった多くの噺を今に復活させた業績に、強く憧れを抱いておりました。いずれ自分もと考えていたんでしょうね、熱心に落語に関する資料を集めておりまして、あちこちの古書店や古本市には足しげく通い、インターネットを使ってのやりとりなんかは一門の誰よりも達者で、それが師匠の唯一の趣味らしい趣味となっておりました。
明治からの演芸雑誌や高座の速記、地方のグループで作られていた会誌なんてものから、江戸時代の笑い話を集めてまとめた本まで本棚いくつもにびっしり詰まってるんです。
男やもめに蛆がわく、は落語ですとおなじみのフレーズですが、師匠はまったくの正反対で、家中どこを探してもほこりひとつ落ちていませんし、あらゆる物が整頓されています。
本棚なんてその最たるもんで、端から端までぴしっと背表紙が揃えられていて、どこも崩れたところがないんです。弟子たちにはいつでも好きな資料を読んでかまわないなんてよくいってましたけど、あれは触れないですよ。それくらい綺麗なんです。そもそもわたくしたちが読めるほどの頭を持ち合わせていなかったっていうのもありますが。
そんなわけですから、折角師匠が遺してくれた大切な資料ではありますが、弟子一同からすれば宝の持ちぐされで、売り払うのは論外としましても、紙魚がわいて傷んだり、万一火事などで失われてしまっては申し訳が立ちませんから、どこかに寄付ができないものかと考えておりました。
幸い、師匠のお知り合いで、芸能史に大変お詳しい方が相談に乗ってくださいまして、一度蔵書の量と種類を確認してみたいという段取りになったんです。
そうして約束を取り決めまして、当日にはわたくしが師匠の家の鍵を預かりってお待ちしていたところが、生憎先方の御都合が悪くなりまして、いずれまた改めてと、その日はキャンセルとなってしまいました。
なにぶん初めてのことで、そうした資料の確認にどのくらい時間がかかるか見当がつきませんし、そのままどこへ寄贈するという風に話がまとまる可能性もあるかもと思ってもおりましたから、その日は昼から仕事も予定も何も入れておりません。
手持無沙汰になって気が抜けたんでしょう。しばらく床の間に腰を下ろしてぼんやりとしてしまいました。
すると前座だった内弟子時代、師匠の家で寝起きしていたことが思い出されました。
二階建てのね、普通のお宅なんですよ。建売りみたいな、特にこれといって何の変哲もない。一人暮らしですからキッチンにそのまま小さなテーブル用意してまして、朝はそこで差し向かいですよ。隣は六畳間の和室でしてね、庭に面しているんですけど狭いんだこれが。その分塀と目隠しで植えた庭木のおかげで一日のほとんど日が差さないし風は吹かないしで、冬の底冷えもひどいんですけど、なにより夏ですよ、ヤブ蚊やらコバエやらがわいてむわーって蒸し暑さともども取り巻いてくるんです。稽古となると今度はそこで差し向かいでしょう。いい年した男が二人汗だらだら垂らした顔つき合わせて、
「このねこのこのこのこねこのこねこねこ」
「違う、このねこのこのここのねここのこねこねこ」
「このねこのこのこのこのここのこのこねこ」
「違う、このねこのこのここのねここのこねこねこ」
「このこねこのこのこねこのこねこねここねこねこのこ」
「違う、このねこの……」
なんてつぶやいているんですよ。ああ、これは暑さにやられたのか、そうじゃなきゃもともとなにかにやられてるんだな、ってなる光景です。
本当に夏場の稽古は地獄で、その時の師匠の口調までよみがえってくるようでした。
「………………い」
そんな風に思い出にふけっていたところで、なにか聞こえてくるものがありました。
「……めん……ださい」
かすかではありましたが挨拶の声らしいです。
「しまった」
あわてて腰を浮かせます。主人が亡くなっておりますから、電気など全てもう止めておりまして、チャイムも鳴らなくなっていたんです。
「ああ、いらっしゃいましたか。ごめんくださいまし。こちらは破風亭宿六先生のお宅で間違いないでしょうか」
開けた玄関先で、ぺこりと頭を深々と下げてきたのはわたくしと同じくらいの四十の坂を越したあたりの男性でした。
「え? はい、そうです、けど……」
と返した途端でした。
「ああ、よかった。いえ、よかったっていうのは、先生のことではないんです。
少しなまりはあったんですけど、それ以上にえらい早口で、玄関先に出たわたくしを見るなりまくしたててきたもんですから、こちらはたまりません。
「えっと……あの……」
「これはどうも失礼しました。この度はご愁傷様でございます。みなさん、突然のことで、さぞお驚きのことと存じます」
どうやらわたくしの言葉を勘違いしたようで、悔やみの口上をはじめるんです。
「いえ、そうじゃなくて、ですね」
芸人やっていてよかったと思うのは、会話のテンポがわかるようになったことですね。この時も、相手の息継ぎに口を挟んで、待ったをかけることができました。
「へぇ?」
拍子抜けしたようで、やっと下げっぱなしだった頭を上げてくれました。
「どちら様でしょうか?」
師匠のことを先生と呼ぶその男性は、東北の山間部にある
「何度も大変失礼いたしました。俺、私は
一階の奥の間にある仏壇に案内すると、熱心に拝んだ後、再び頭を深々と下げたんですが、その顔はようやくほっとしたらしいものになっておりました。そうして手提げ鞄から御仏前と書かれた封筒を取り出して、わたくしの前に差し出されました。
「こちら、心ばかりですがどうぞお納めください」
「これは恐れ入ります。しかし、申し訳ないのですが、六路部さん、ですよね、芸人はなにかと方々でお世話をいただいておりますものですから、四十九日法要をひとつの区切りといたしまして、以後はこうしたお供えはお気持ちだけ頂戴するという形にさせていただいておりまして」
「いえ、それはいけまっせん!」
びっくりいたしましたね。それまでの朴訥とした口調から一転、こちらの言い終えるのも待たずに猛然と声を荒げたんですから。
「谷羽田に先生がしてくださいました御恩をここでお返ししねえと、
六路部さんはほとんど金切り声になって、思い詰めた表情で今にも噛みつかれるんじゃないかって眼差しで睨みつけてきました。
迫力に気圧されてわたくしがのけぞってしまいますと、鼻息の荒いままに谷羽田村と師匠のかかわりについて語りはじめました。
その当時からさらに三十年ほど前の話だそうです。師匠はその夏、気の合う芸人を集めて、東北の地方をまわる巡業を行っていたそうなんでございます。
今でこそLCCはありますし、新幹線も全国を走っていますから、朝に九州のラジオ放送にゲストでしゃべらせてもらって、昼の北海道で高座に上がり、夜東京の寄席に出るなんてスケジュールも可能ですけど、まだそういう状況になる前で、秋田新幹線も開通していない頃の話ですから、時間のかかるかわりに途中の町村へも立ち寄りながら興行をしておりました。
谷羽田村での公演もそのうちの一日にあたっていたらしいです。
「なにしろテレビに出ているような方がやって来るなんて初めてのことで、村のモン総出でお迎えしまして、舞台にしてもらいました小学校の講堂も、客席はいっぱいで椅子が全然足らねえから年寄り以外は地べたか立って見るってことになりました。俺はまだ中学に上がる前で、背も低かったから、舞台の前で座って見とりました」
聞いてみましたら噺家は
この面子ですと師匠が一番の若手でしたから、出番としましても色物さんを除けば基本はしょっぱなということになります。
「落語家といっても、
昔の師匠の写真を見てみますと、髪も黒々として無精ひげもなくて、確かにこれで身長がもうちょっとあったらなあっていうなかなかのいい男だったんですね。
落語家っていえばテレビの中の年配の大師匠連か、なるほどこれは落語家になるよりしかたなかったなっていう面相の連中ばかりと思われていた時代ですから、前座の漫才の次に姿を現しますとずいぶんと高座も盛り上がりまして、マクラの間はしっかりと受けていたそうです。
ところが、そこで事件が起こった。
止まったらしいんです。
「それまで流暢に話してたのが、急にピタッと止まったんです。あれ? と思って見上げた時のあの顔、あんなのは忘れようにも忘れられねえです。ぐわって開いた目から大きく眼ン玉がぎょろりと飛び出しかけて、こめかみへんのぶっとい血管が浮いとるんですよ。かと思ったら、口はぽかんとして軽く震えとるでしょう。顔はもう真っ青です。そのままどのくらいでしょうかなあ、
あるんですよ、こういうことは。
大名人八代目桂文楽が高座で人名が出てこなくなって「勉強しなおしてまいります」と指をついて頭を下げて、それっきり噺家自体をやめてしまったというのは落語ファンの方でしたらご存知だと思います。
稽古を入れれば何百遍、下手をしたら何千遍と重ねてきた噺が頭の中から、ある時不意に姿を消してしまうんです。
この怖さだけは、経験した人じゃないとわかりません。
一息ついて言おうとした次の言葉が頭の中のどこにも見当たらなくなって、中途半端に開いた自分の口が次に何をいおうとしていたかさっぱりなんだ。目の前は真っ白、耳も聞こえず、どこか何もないところに放り出されて置き去りにされたような不安が沸き起こってくるんです。
これは前座とか真打とか関係ありません。突然に襲い掛かってきます。そして、決して珍しい状況でもないんです。人の名前や筋が飛ぶなんていうのは日常茶飯事で、高座でそれをリカバリーする技術を多く磨いた人が真打と呼ばれるようになるわけです。
なので、この話を聞かされて、理解できるところとおいそれと飲み込めないところがありました。その当時、師匠も真打になって十年かそのくらいは経っているわけです。いくら言葉が出てこなくなったからって、高座放棄して逃げ出すだなんて、そんなことありえない、信じられませんでした。
それで、いっしょに巡業に出かけていたという
「おうっ! あったあった!」
軽いんです。でも、いつもの威勢のいいだみ声で答えてくださいました。
「なつかしいなあ。あの頃はさあ、宿六さんもバリバリだったろ。嫌いだったなあ、自信満々でよ。お高くとまったりするわけじゃないけどさ、そういうのって身振りの端々に出るだろ。嫌いだったよお。だから高座でも、『これはこう!』っていう決めつけがあったんだろうね。あの人は実際その通りに出来てたからさ。もう嫌いだった。それが話飛んじゃってにっちもさっちもいかなくなっちまったんだな。ぶるぶる震えだして、袖で見てた俺や
師匠のしくじりは本当の話でした。
「そんな事の後でしたら、さぞやりにくかったでしょうねえ」
「さあ、そこよ! なにしろ周りは山しかないような辺鄙な村なんだ。そこにのこのこ出向いていった東京の芸人がしらけさせただけで帰ってきましたとあっちゃ沽券にかかわるだろ。だから、俺も十たん兄さんも腹くくって、冷え切った客席を温めなおして最後はどっかんどっかんの大爆笑で……」
「なにしろあの頃は
秋衣師匠の貴重なお話ではありますが、先を急がせていただきます。
「けれども、そんな三十年以上も前のことでお越しくださったのですか?」
ここまでは師匠の失敗談で、感謝されたり、まして先生と呼ばれたりする所以が見当たりませんでした。
「いいえいいえ、これはきっかけです。先生の本当にえらいところは、その明くる年のことでして。
師匠は確かに義理堅い人でしたけど、これはまったく思いがけない展開でした。
「村長も困ったそうです。娯楽ってもんがねえ村ですから、願ってもない話だけども、いきなりいわれて学校の講堂貸してもらえるわけでもねえし、唯一あった公民館も祭りの準備で道具やら着替えやらでごったがえしておりますんで、とても使ってもらえるような状態じゃない。そうしたら先生の方から、野天にござを敷いてくれただけでもいい、客席だって結構、そんな風に申し出られたというんです。落語家のもともとは、そうして野外で行き交う人相手に声を張り上げてやっていたもんだ、自分も端くれ、務めてみせると、かえってそちらでお願いしたいくらいの勢いだったっていいます」
落語の開祖については諸説ありますが、これは上方の辻講釈の流れを組むとするものですね。道行くお客様を振り向かせるために声を張り上げて、音曲を流したり、見台に小拍子を打ち付けてリズムをとったりしていたと。もちろん師匠は江戸落語ですが、場を収める方便と、また明治以降の上方から江戸へ移された噺の多さを考えて、江戸も上方もあったもんかっていう意気込みもあったのかもしれません。
「そこまでいってもらって村長もすっかり感動しちまって、神社の本殿の隣に開けた場所があるんで、そこに昔お神楽用に使ってた移動舞台の一部を組み立てて高座を作ったんです。
確かに高座がありましても、いきなり話しはじめたところで、なかなか気づいてもらえるものでもありません。出囃子は贅沢といたしましても、太鼓があれば一気に注目は集まります。
「明くる日、太鼓の打ち方を教えてもらって、二度ほど練習したところですぐはじまりました。小さい村ですから昨日のうちにもう話がいくらかまわっていたっていうのもありましたけど、いや、驚いたのなんの。先生が舞台の上で頭を下げて話しはじめると、どんどんと村の連中が集まってきよるんです。不思議なことですけど、鳥居のあたりから入ってきたモンが、引き寄せられるみたいにこっちにまっすぐ歩いてくるんですわ。はあー、って驚くやら感心するやらですけど、
まるでハーメルンの笛吹きみたいですが、わからないでもありません。わたくしなんかも師匠に稽古をつけてもらっていると、直接こちらに向けられる声に包まれて全身がふわーっと浮かんでくるような体験をしたことがあります。まあ、これは夏の盛りに、冷房もない部屋で我慢していたせいで暑気あたりを起こしたのかもしれませんが。
「大盛況でした。田舎の人間ですから、堪え性のねえ者ばかりなんですが、先生の噺の間は人っ子一人声を上げたり、うろうろと動き回ったりもしませんで、じっと語る言葉に耳だけでなく全身傾けて聞き入っておりました。それで終わりましたらものすごい拍手です。三つ噺を披露してくださいましたが、特に最後のが終わった時には、手を叩く音もそうでしたがせまい神社の境内が人でいっぱいで、本当に村のモンがみんな出てきたみたいになっとりました」
「それは、ありがたいお話ですね」
手前の師匠のことですから、もちろん誇らしいですが、それ以上にこの谷羽田村の皆さんの温かさに感じ入りました。前の年に舞台を放り出して逃げた人間が、翌年に突然やってきて無理をいったのを快く受け入れてくれたばかりか、それを聴こうとまでしてくださった。
噺家をやっておりますと、高座はお客様あってのものだとつくづく思い知らされます。その場の盛り上がりの原因なんて、わたくしの腕前でうまく見積もって五、六割、実力で八割も持っていければ、これは名人でしょう。ただ、仮に空前絶後というような上手が出たとしても、一〇〇%、十割までは絶対に無理なんです。九割九分となっても、必ず最後にはお客様に協力いただかないと高座は成功しません。どんな噺をするか聴いてやろう、楽しんでやろうっていう積極的な姿勢ですね。師匠のその日の噺を聴かれた方々がこれを持っていたから本当にありがたいと思ったんです。そう、本日の皆様のように!
ありがとうございます。ありがとうございます。
いやあ、こんな見え透いたお世辞でここまで喜んでもらえますと、もう終わりにしたくなっちゃいますね。
でもまだ羽織は残ってますから、続けさせてもらいましょう。
「いやあ、とんでもない。全部先生のおかげです。それに先生のお偉いところは、これどころではありません。以来ずっと足を運んでくださいまして」
「え?」
これはさすがに聞き捨てなりませんでした。三十年前、若気のいたりでしでかしたしくじりを、その翌年に埋め合わせたということだとばかり思っていたのですが、どうも雲行きが変わってまいりました。
「待ってください、もしかして、師匠がそちらにうかがったのは、その翌年だけではなかったのですか?」
「はい、それからというもの、毎年夏祭りには必ず来てくださいまして、だいたい三つ、長いものが含まれる際には二つ、落語をやってくださいました」
「それで、もしかして、ずっとこれまで?」
「そうですが」
師匠は確かに頑固といいますか、一度こうと決めますとなかなかそれを変えないところがあったのですが、それにしたって三十年という期間はただごとではありません。
「信じられない……」
ついもらしてしまいましたが、偽らざるところでもありました。
「あの、ご承知だったんじゃ」
わたくしの様子を見て、六路部さんももしかしてと思われたんでしょうねえ。
「まったくの初耳です」
末の弟子だからというわけではなく、兄弟子も誰一人として存じ上げていなかったでしょう。
というのも、師匠が亡くなりまして、訃報を送らせていただきました。芸人のことですから数は多いですが、洩れがあっては何より師匠の顔に泥を塗ることになりますから、弟子一同集まって検討いたしました。同業者はもちろん、席亭や各地の演芸場、巡業でよく立ち寄る世話人の皆様を一人一人確認しながらリストアップしてゆきましたが、その時には
「ははあ。でも先生らしいっちゃらしい話かもしれませんな」
「はい?」
「いや、はじめの年は先生からお詫びという申し出もありましたし、なにしろ急な事でしたんで、まったくおかまいもできませんでしたが、その次の年となりましたらこれは話が違います。相手はお弟子さんを何人も抱えてらっしゃる名人ですから、うちらもそれ相応のお礼をさせていただかないといけない、とりあえず屋根のある場所でやってもらわんといかんとこうなったらしいんです。けども、先生は、屋根の下でやらせてもらうことはありがたいけど、お礼はどうか勘弁してほしいの一点張りで、とうとう謝礼はおろかちょっとした宴会も絶対に顔を出さんかったんです。自分はあの時の罪滅ぼしに来ているのだから、あまり大げさにせず、ただ谷羽田の人たちに見てもらって、そのうえで楽しんでもらえたらこれ以上嬉しいことはないんだと、年を重ねて何度お礼についてを申し上げてもそう答えられるばかりでした」
そういわれますと、師匠からすれば若い頃の大きなしくじりばかりか、その埋め合わせをしていると弟子に口にするのは気恥ずかしかったのかもしれません。
「去年もこれまで通りやって来られて、噺聞かせてくれたっちゅうのに、まさか亡くなるなんてなあ……」
その頃には六路部は目にいっぱい涙をためて、しきりに鼻をすすりあげていました。
「初めて太鼓をたたかせてもらって以来、高校卒業して一度村を出て仕事に就いたんですが夏祭りの頃は欠かさず戻りまして手伝わせてもろうてました。七年前になりますか、体壊しまして村に戻ってからは先生との交渉役、っていっても当日いらっしゃるのを待つだけなんですけど、させてもらってえらくかわいがってもらいまして、はじめのうちはこれっぽっちもわからなかった落語も傍で聞いているうちにおもしろくなってきたんで。もう
いわれまして、わたくしも内弟子時代を思い出しました。
師匠は噺の稽古以外は、それぞれの仕事についてその場その場で色々口出しするのではなくて、まずはやらせて自分で工夫させたところでダメなところを指摘するタイプでした。時間はかかるんですが、おかげでまずは何かを自分で考えて行動するって癖がつけられたと思っています。
「だから、去年の夏祭りで、噺を終えられた先生がぽつりとつぶやかれたことを聞いたときは少し複雑でした」
「といいますと?」
「去年の舞台は、お祝いの席で出し物をする噺と酢豆腐の噺と真夏にみかんを探す噺の三席をやられました。これがどれも聴いているうちはおもしろくてひっきりなしに笑いがおさまらないくらいなんですが、終わるとああよかったなあってしみじみ思えてくる本当にすごい演じっぷりでした。先生も手ごたえがあったんでしょうな、終えていつになく気持ちが高ぶっていたみたいで、これなら来年はあの噺がかけられるかもしれないね、って」
それが最初に大失敗をしでかした噺だろというのはすぐに見当がつきました。
「勝手な話ですが、それがどんなもんだったか知りたいって思いながら、それで先生との縁が切れてしまうんじゃねえかっていう恐れもありまして、今年の夏が来るのが楽しみなような寂しいようなそんな風に思っとったんです」
何事にも区切りがございまして、それが新しい縁を築くきっかけとなることもあれば、それっきりということもあります。けれども、こればかりは当の本人からして、どう転がるかはっきりとわかっていないことが多いようにも思えます。
「けど、今になって思いましたら、どんなもんであれ、先生の満足のいく形でその噺をやってもらいたかったことですなあ」
六路部さんはそうしみじみ語られて、そうして列車の時間があるからと、来た時同様難度となく頭を下げて帰っていかれました。
と、これで終われば師匠のちょっといい話ということになるのですが、後日談がございます。
まずは先ほどの、
さんざん自慢話……じゃなくて武勇伝を拝聴いたしまして、それがやっとのことで途切れたかなと思ったところで、
「けど、残念だよ。宿六さんもあんなことがあった場所だし、お客自体は食いつきもよかったから、行けることだったらまた行きたかったんだけどなあ」
「やっぱり遠いですか?」
「ハァ? なにいってんだ、バカ! なくなっちまったんだよ。ダムの底。最後ってことでその記念で呼ばれたんだよ」
こちらこそ「ハァ?」ですが、そうともいえず、勘違いじゃないかとたずねるには舞台の合間だし、六路部さんがやって来た事から詳しく話をしているような暇もないしで、なにより秋衣師匠自身が飽きちゃったのか別の話題に移ってしまったのでそれ以上つっこむこともできませんでした。
とはいえもう三十年以上も前のことですし、なにかの記憶違いということも十分ありえます。仮に谷羽田村がダムに沈んだんだとしてもそれはガワだけで中身の住人は別の場所に移転しているでしょうから、師匠はそれを調べ上げてそちらに通っていたとも考えられます。
ところがそれから数日しましてです。
「けど、そりゃおかしいぞ」
いつになく、本当に初めてですよ、あんなまじめな顔をした瓢六兄さんは。
「確かに何十年も誰にも知らせずに高座に立っていたっていうのは、ちょっと弟子からすれば飲み込みづらいですけどね……」
「そこじゃないよ。八月の最後の日曜日なんだろ? 師匠出掛けるわけないだろ」
「といいますと?」
「バカヤロウ! おかみさんの命日が八月二十八日だろうが!」
いわれてやっと気づきました。わたくしが弟子入りする前に亡くなった師匠の奥さん、おかみさんは八月の末に亡くなられていて、師匠は毎年その命日に菩提を弔うため旦那寺から住職に来てもらって回向を手向け、墓参することを欠かしていなかったんです。
その年は師匠も加えた二人分を、弟子一同が代わりに行っていたにもかかわらず、どういうわけか、わたくしはそれをすっかり失念してしまっておりました。
八月最後の日曜日は年によって日にちが異なりますが、いずれ八月二十八日にもあたります。
その日に師匠が遠くに出かけることなどありえないのです。
すっかり当惑してしまいまして、わたくしは改めて師匠の家を訪れました。そして仏壇に仕舞っておいた、六路部さんからおあずかりした封筒を探しました。
けれども、ないんです。
表書きの、筆ペンの、あまり慣れてないだろう硬い文字も覚えています。一度は辞退したものの六路部の迫力に負けて、結局いただくことになったものですから間違いありません。だいたい仏壇なんて探せる場所はたかがしれています。
なのに、どれだけ調べてみても、とうとう出てくることはありませんでした。
ただ、いっしょに仕舞っておいた、師匠のあの古びた名刺だけを残して……
師匠は谷羽田という村に毎年行けるわけがなかった。そもそも谷羽田の村はダムの底に沈んでいた。だとしたらあの六路部さんはいったいどこから、何を思ってやって来たのか。そもそも六路部さんなんて人はいたのか。
どれもこれも、つじつまの合うような合わないような話ではありますが、師匠の亡くなったすぐ後にあった事でございます。
なんていっているうちに羽織がいつの間にかなくなっていますね。回収してくれたみたいです。多分電車が動きだしたんでしょうね。
そうしましたら、師匠のかわりというわけにもいきませんが、問題の谷羽田村でやろうとした噺を一席お聞きいただいた頃には、平蜂師匠も到着なさっていると思いますので、最後におつきあいをお願いいたします。
ちょうど秋衣師匠が覚えていてくれたんですよ。ホール落語ですと、前に打ち合わせをしておけますからね。
*
壇上の男は居住まいを正すと、口調もそれまでのなごやかなものに厳粛さを加え、そうして水辺で見つけた人骨にまつわる演目「野ざらし」を語りはじめた。
どこかの寄席で聞いた夏の話 山本楽志 @ga1k0t2
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