【アップ】男山教会2023年6月4日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】男山教会2023年6月4日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】


使徒言行録15章36~41節 「主の恵みに委ねられて」 山本信義牧師

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=1pwSvU5uGpU


20180731 ネヘミヤ記5章

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=xit7o15Xl5k


【アメーバブログ】

聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。

ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12806852423.html


※本日は機材の不具合により録画出来て居りませんでしたので、八千代台教会日本キリスト教団と、札幌ヘセド611クリスチャンチャーチでのメッセージをご紹介致します。


(※下記プログラムは男山教会のものです)

前奏

招詞

『コリントの信徒への手紙二』1章4,5節

頌 栄 たたえよ、主の民 [こ改 25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 38

「イエスさまの守りと救い」

こどもさんびか

あいのしゅイエスは [改 124(1 節)]

牧会 祈祷

讃 美 歌 10番

聖書

使徒言行録15章36~41節(新約 P244)

ネヘミヤ記5章1~9節(旧約 P744)

説 教

「主の恵みにゆだねて

〜伝道地への再出発」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 226番

使 徒 信条

聖餐式 配餐

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 541番

祝 祷

報 告



讃美歌~♬


わがたまたたえよ(主なるかみを)~讃美歌10番~

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=47qcl28f7RM


1

わがたまたたえよ 主なるかみを

うちなるすべては 御名をあがむ

2

わがたまおぼえよ あたえられし

たえなるめぐみは 主のものなり

3

われらのつみとが すべてゆるし

くるしみなやみを いやしたもう

4

くつべきいのちを 主はあがない

やさしき御手もて ささえたもう

5

みたまをそそぎて 鷲のごとく

いのちとちからに みたしたもう


讃美歌226番(歌詞付)54年版「地に住める神の子ら」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=_l0nqaoyk6I


1

地に住める神の子ら かえりこよ

主のみちに ためらえるおもいすて

みまねきにしたがいて

いさぎよく主にかえれ

2

地はきよく人みなは

みめぐみに生くべきを

あだし夢えがきては

代々の国ほろびゆく



2023年6月4日 礼拝説教 中心聖句


一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。

使徒言行録15章40節


わたしは言った。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。」

ネヘミヤ記5章9節


はじめに

聖霊の御業の中に、主の召しによる、教会への配慮と宣教の使命を学ぶ。

「数日(もしくは数ヶ月)の後、パウロはバルナバに言った」とは、主の召しによって使徒(遣わされる者)とされたパウロが、一つ所に留まらず、新たな伝道旅行へ出ていくことをバルナバに一つの使命を伝えるもの。それは、「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問」するという、再出発であった。この第二回伝道旅行は、同時に、各地の教会を訪問するという牧会的配慮を心がけるものであった。まだ、パウロたちの最初の訪問から、2,3年のことで、とくに異邦人キリスト者が与えられて間もない教会を訪問することはとても大事な派遣。神を喜ぶ道は、主が遣わされていく所へ出て行く道でもある。教会(エクレシア)は、その拠点であり、同時に、主の家(ホーム)として、群れの一人一人への牧会的配慮を尽くす。キリストの福音を伝える使命と、教会建設と霊的成長は一つ。

「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った」とは、周到な準備とも、近親者(いとこ)への情から出た思いとも理解される。「しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでない(行くことはよくない)と考えた」と、「よくない」理由を明らかにする(使徒13章13節)。それは、前回、途中からこれから訪問しようとしている地域の宣教を共にしなかったこと。後に、パウロは、「マルコを連れて来て下さい。彼はわたしの務めをよく助けてくれる」(テモテ二4章11節)とテモテを通して頼んでいるように、マルコ自身を非難しているというよりも、今回の働きにおいて「よくない」と言う。その理由を確定することは困難。「そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようにな」る。しかし、この別行動は、当初の使命の中での一つの行動。後の書簡から両者の使命の一致は明らか(コリント一9章6節)。

「バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出した」。「一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」。「そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた」。このことによって、わたしたちは、主が、この相違をとおして、新たな道を与えてくださるところに、教会の建徳的な解決を見る。それは、パウロとバルナバが、それぞれ、二つの宣教団の長となり、先に伝えた使命のとおり「前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問」することの実現を見る。このように、ユダヤ人にはキリストの到来を告げ、異邦人にも、キリストを説き明かす伝道は、内外の試練と誘惑の中でも、主が、その道を開かれて、ご自身の使命が果たされていく。かつて、神殿再建の時にも、飢饉と食料不足、納税のための借金などのために、不当な扱いを受け、捕囚地で家族一緒に暮らしながら、エルサレムでは一家離散を余儀なくされた。パウロたちが最初に向かった伝道地は、聖霊降臨日(五旬祭)に、エルサレムに集まっていた人々にとって「めいめいが生まれた故郷の言葉で」神の業が告げられた地(使徒2章7-11節)。

おわりに

パウロとバルナバの再出発は「兄弟たちから主の恵みにゆだねられ」たもの。わたしたちも、主の試練と困難の中、今日、主の恵みにゆだねて再出発したい。



(Mynote)


二〇二三年六月四日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守る事が出来て神様に感謝する。

〈子供メッセージ〉

『子供と親のカテキズム問 三八』

「弱い私達は、試練の中で神様を疑い、神様に背いて、罪を犯してしまいます。そんな私達でも本当に救われるのでしょうか。」

「はい、救われます。イエス様は、弱い私達の為に信仰が無くならない様に祈り、聖霊は私達の内で執り成して下さいます。神様は、私達を最後まで守り、必ず完成へと導いて下さいます。」

〈公同礼拝〉

『使徒言行録』(第一五章三六〜四一節)

『ネヘミヤ記』(第五章一〜九節)

『使徒言行録』のこの箇所は、前に福音伝道に出掛けた者達(同じ福音活動をして来た兄弟達)を思い出し、また自分達もそこへ行って様子を見、福音活動を励まし力付けようとしたエピソードに在る。

このときパウロがバルナバに「前に主の言葉を伝えた全ての町々に居る兄弟達を、また訪問して、皆がどうして居るかを見て来ようではないか」と誘ったが、バルナバが「マルコと言うヨハネも連れて行こう」として居た為、パウロはそれを聞いて反対し、「パンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかった様な者は、連れて行かないが良い」と言い、バルナバとの間に激論が起きた。その結果、バルナバとパウロは別々に行動し、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟達から主の恵みに委ねられて、出発した。そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方を通って、諸教会を力付けた。

これはパウロの、第二次宣教旅行の始まりに当たる。パウロは第一次〜第三次と、三度に渡って宣教の為の旅行に出掛けた。聖書の巻末にも当時の地図が掲載されてあり、その当時、使徒達が宣教活動(宣教旅行)に出掛けたその様子や臨場・背景を窺い知る事が出来る。

この様な伝道旅行・宣教活動が盛んになり、神様の御言葉は地中海を越え、ヨーロッパへと伝えられて行く。

「恐れるな、語り続けよ。黙って居るな。あなたには、私が付いて居る。誰もあなたを襲って、危害を加える様な事は無い。この町には、私の民が大勢居る。」(『使徒言行録』第一八章九節、主がパウロに言われた言葉)

この御言葉は第二次宣教旅行の途中、ギリシャの街・コリントで主がパウロに語られた。この箇所の前後では、神様の御言葉を以て、その福音が全世界へ次第に広められて行く事を意味する。

しかしパウロは初め、自分達やその兄弟がそれ迄に訪れた諸教会をもう一度回ろうとバルナバに伝え、宣教・福音を広めようとはして居なかった。これが初心に在る。そしてここが重要なポイントである。

福音宣教とはそもそも、これまでその福音を知らなかった人達に神様の御言葉を伝える事。未開の地に足を運び、そこで福音を宣べ伝える事を目的とする。だから同じ所を回ったのでは、その福音が成らない事になる。詰りパウロの福音のやり方は、ただ神様の教えを世に広めようとする事には無かった…と言って良い。これは、先に御言葉を伝えたその様子を見て、その御言葉(信仰)を受けた人達がどの様にその御言葉と信仰を保ち、生活して居るか?と言う事を見ようとし、それ迄に訪れた諸教会とその付近の地域をもう一度訪ねようとした訳である。御言葉によりもう一度慰め力付ける為に。御言葉により教会が建つ事を、パウロは自分の宣教に於ける努めとして居た。

しかしこの箇所では、そのパウロの福音宣教のやり方・道が閉ざされる事を示して居る。バルナバとの考えの違いが先ず示され、結果、共に宣教をして来たバルナバと袂を分つ事になった。そこでパウロは新しい宣教の仲間として(それまで共に居た)シラスを選び共にして、それまで宣教で通らなかった陸路を通り、当初の宣教活動が目指す町々へ行く事になった。

その上でキリキア州と言うのは、元々パウロの故郷であり、知らない町ではなかった。ここからパウロにとって思いがけない様な宣教の成果を、パウロはシラスと共に見て行く事になる。これは神様の御計画の内に在り、その始まりは、パウロの計画の挫折に在った。

この挫折の始まりがバルナバとの意見の相違にあり、それにより別の同行者を連れた上、計画外の地に行く事になったパウロ。

『使徒言行録』(第一二章一二節)

マルコと呼ばれるヨハネとは、ラテン語名でマルコと言い、サウロとパウロと言う二つの名前を持つパウロと同じ様な身の上にある。このヨハネは『使徒言行録』(第一二章一二節)で、ペテロの知り合いとして先ず登場して居る。そしてその後の福音宣教旅行ではキプロス島にてパウロとバルナバと共に居た。パウロとバルナバから見れば歳の若い者だった(バルナバはパウロより年輩)。そしてヨハネはキプロス島から海を越えてパンフリヤと言う街に行った時、パウロとバルナバと別れ、自分の街・エルサレムへ帰ってしまった(『使徒言行録』第一三章一三節)。

『使徒言行録』(第一三章一三節)

ヨハネが帰った理由は、これから未開の地に行くのを恐れたからと思われる。バルナバはそのヨハネにもう一度チャンスを与えようとしたが、パウロは「甘やかしては成らない」と言う思いと自分の考えにより、厳しくヨハネを批判し、連れて行かない思いを変えなかった。そしてバルナバとパウロは激しく喧嘩して袂を分つ。更にこの時点から『使徒言行録』では、このパウロの伝道旅行の記録と様子を伝える事になる。一説ではこの後、パウロとヨハネの関係は修復された事が窺える(『ピレモンへの手紙』二四節参照)。そしてこのマルコと呼ばれるヨハネが、『マルコによる福音書』を書いた者とされる。

『マルコによる福音書』(第一四章五一節)

「ときに、ある若者が身に亜麻布を纏って、イエスのあとに付いて行ったが、人々が彼を捕まえようとしたので、その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。」(『マルコによる福音書』第一四章五一節)

この「若者」は誰なのか?唐突に登場し、名前も記されて居ないが、昔からの聖書解釈では「この若者はきっとマルコ本人ではないか?」とされて居る。詰りここでも大事な局面で「怖くて逃げた事」が記されて居り、後の『使徒言行録』での宣教活動の時にパンフリヤからエルサレムへ帰った事と何気に繋がるものである。詰りこれは人の弱さを語り、その臆病が中々抜けない事、それにより信仰も鈍る事が告白されて居る。

しかしこの様な人の信仰の弱さや失敗等も包容する形で、神様は常に誰にでも信仰に生かされる上、必ずその信仰の道を備えられ、その人を最後まで守られる。パウロに諌められた事でマルコ(ヨハネ)はもう一度あの時の事(恐怖の余りイエス様を見捨てて逃げた事)を反省させられ、この『マルコによる福音書』に於いて赤裸々に自分の弱さを告白する事になったのか?…と思い起こさせられる。そしてこの様に何度も同じ過ちを犯しても、マルコは福音書を記す為に神様に遣わされ、その信仰の道を変わらず用意された。

パウロは初め、バルナバを周りの人達と同じ様に立派な人物であると認め、その後の宣教を共にした。しかし人の流れとはその土台が曖昧なもので、何かのきっかけで簡単に袂を分つ不仲となり、その後暫く疎遠を生む事がある。

しかし『使徒言行録』(第一五章四〇節)では「パウロはシラスを選び、兄弟達から主の恵みに委ねられて、出発した」と在り、それでも信仰に生かされる上、常に神様に遣わされ守られて居る事が示される。この事は『使徒言行録』(第一四章二六節)にも先ず示されて在る。詰り人の間で何が起きても、その宣教活動の全体が神様に守られ、必ず成就する事が示されて居る。人の生活土台は時に曖昧だが、神様が人に与えられた信仰の土台は崩れる事なく、必ず達成する。

神様の恵みに委ねると言うのは、宣教活動の土台と成る上、その信仰が必ず成就され守られる事に等しい。

『ネヘミヤ書』では人の無力が語られてあり、人の間の生活で権力を持つ者・持たない者との差が現れる上、その両者の在り方にも人である上、限りが有る事も示されて居る。

例えば内側と外側の問題とした場合、外から攻めて来る敵に対し、内輪揉めをした儘ではやられてしまう。どんな立派な作戦を立てて戦おうとも、その内輪揉めにより仲間は作戦通りに動かず、戦いに成らないからだ。またその内側の問題を捨て置いて外の問題に対峙しようとしても、これは健康を思えば解り易いが、不健康な体で大きな仕事をしようともそれは成らない。それまで出来て居た事も出来なくなるのだから、先ず体調を管理し立て直し、治ってから問題(生活)に当たるものだ。

バルナバとパウロの関係に於いてもこの場合、宣教活動に際して内側に問題が在ったと言える。宣教する者達が互いを認めず論争をして、袂を分つ形で本来の(宣教に於ける)目的を達成出来るか?人の間で言えば、甚だ疑問視される事柄となろう。

しかし神様に従い、信仰に変わらず立って居れば、あとは神様が聖霊の働きを与え、その人の目的を信仰に於いて成就される。人には無理でも、神様に不可能な事は何も無い。この事をその時々に於いて、人はどれほど信じられるか?その事の成就を知る程に信じる事が出来るか?…良い時も不都合な時も常に問われる。

全ては信仰に生かされる上で神様の御言葉に聴き従い、自分(自分達)が今どう在るのか?どう在るべきかを問う事に悔い改めが生まれ、その悔い改めにより神様に喜ばれる人に成長し、凡ゆる場面で必ず「遣わされる人」に成る恵みが得られる。この強さと信仰の安定を、常に神様に向かい一途に祈り求める姿勢が必要である。人を見る前に神様を見る事の大事である。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


「マリアとマルタのレッスン」THE DAILY with Arthur Hollands 2023/06/08

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=kIrzfFQ96iY


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


恋はみずいろ L' Amour Est Bleu ( Love is Blue ) /ヴィッキー Vicky (1967年)

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=V8vQ2IzesRg


コンドルは飛んで行く/サイモンとガーファンクル

El Condor Pasa/Simon & Garfunkel

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=enHUwJIE00c


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)




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