魔の呼び声②
⭐︎
──吸血鬼との契約とは、契約した人間自らを家畜に変えるということ。
眞弓との契約を終えた次の日、あの人は少しだけ強い口調でそう言った。
「何故、吸血鬼が人間と契約するのか。一番の理由がそれだ」
「家畜、ですか」
「ああ。人間も食糧の為に、牛や豚を飼育する。それと同じことだ。吸血鬼には人間を自らの家畜に変える
あの人は僕の腕を優しく握る。それから手に持ったナイフを素早く僕の腕に当てた。そこから切り付けられた痛みもなく、じわりと血が噴き出る。
「食肉用の動物が人間にとって過食部が多いのと同じ。吸血鬼と契約した人間の血は普通の人間より遥かに多くの量が、体内で作られる。それは吸血鬼にとって重要なことだ。何より、彼らにとって家畜化した人間の血は、美味だ」
あの人がそんな話をするうちに、切られた腕の傷は既に塞がっていた。赤血球に血小板、血を構成する細胞の全てが、吸血鬼に都合の良いように作り替えられる。それが契約。
「もし彼女が血を吸わない日があっても、今みたいに血を体外に出せるように、瀉血の練習はしておくんだ。繰り返すけれど、彼女の吸血鬼としての力は弱い。そのままでいてほしければ、いいか? 彼女に血を吸わせ過ぎるな」
そう釘を刺されたのも、もはや遠い過去の記憶だ。眞弓は彼女の両親を殺して、同胞の吸血鬼を殺して、僕の血を吸い続けて、空を駆けて、武器を持った何人もの男達を赤児の手を捻るように倒した。
意識が乱れる中で、僕は手を伸ばそうとする。腕が動かない。今の僕は彼に手を伸ばしたところで、彼女の手を握ることさえできない──。
🦇
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
「叶斗!」
眞弓の悲愴に溢れる声が聞こえる。僕の視界は霞みがかっていて、眞弓がどんな表情をしているのかも分からない。手首を千切られた痛みを忘れる為だろうか、僕は冬夜が僕の手首から滴る血を舐めるのを見て一瞬のうちに、色々なことを思い出していた。吸血鬼になる前の眞弓の笑顔、吸血鬼に襲われた時の悲痛な涙、恐怖で動けない僕を見る絶望の眼差し──。そんな彼女の色々な顔が幾つも、霞がかる僕の視界を駆け巡った。
「おいおいおい」
呆れたような冬夜の溜息が聞こえた。
「何をしている同胞。たかが家畜が傷付いたくらいで何という狼狽えようか」
続けて、冬夜が笑いを堪えている声が聞こえる。
「──ふむ、優しい娘なのだな。当てが外れた。また死闘できると思ったが、仕方ない」
カツカツ、と。足音が聞こえる。僕の上に誰かが覆い被さっている。──誰? 眞弓に決まってる。覆い被さっている眞弓の顔から、ポタポタと何かが溢れる。──何? 涙に決まってる。ああ、畜生。僕はまた眞弓を泣かせている。僕が弱いせいで、彼女を──。
「興が削がれた」
ヒュッと風を切るような音。
「うぐ……ッ!」
呻き声。それから重い物が床に落ちた音。
「眞弓!?」
僕は体を起き上がらせる。視界は未だ霞んでいる。けれど、何とか眼の焦点を合わせた。冬夜が足を振り上げているのが、シルエットで分かった。眞弓が離れたところで倒れている。冬夜に蹴られたんだ。
「死んでしまえ」
冷たい声で、冬夜が呟く。冬夜が振り上げた脚を、眞弓の腹の上に落とす。
「が……ッ!」
再び呻き声。やめろ。僕は立ち上がる。もうたくさんだ。何もできずに、ただ呆然とするだけなんて、許されない。また同じことを繰り返してしまえば、僕は僕のことを、永遠に許せない。
「……何の真似だ」
冬夜が眞弓の腹の上から足をどけて、僕の方を振り向いた。視界が整って来た。血管を浮き上がらせて荒く息を吐いている吸血鬼の姿が、僕の目にも明らかに見えた。僕は吸血鬼が眞弓を踏んでいたのと反対側の脚に、両腕を絡めて、しがみついていた。こいつの好きにさせてなるものか。眞弓をこれ以上、傷付けるな──。
「家畜の分際で──」
冬夜が僕を振り払うように脚を揺らす。だが、僕も負けやしない。吸血鬼の力で強く揺らされるが、こいつを自由になんてさせない。
「愚かな」
吸血鬼の腕が振り上げられる。これは流石にもう駄目だと思った。手首を切り落としたのと同じくらい簡単に、今度は僕の首を切り落とすだろう。僕は目を瞑る。眞弓を独りにしない為に逃げて、結局こんな風に終わるのか? 最後に一矢報いてやろうと思うけれど、こいつの脚にしがみついて、眞弓に注意を向かせないだけで精一杯だった。それも独りよがりか? 僕が死ねば、間違いなくこの吸血鬼は眞弓を殺しにかかる。いや、吸血鬼が吸血鬼を完全に殺しきることはできないんだったか。眞弓もリコを殺しきれなかった。じゃあ、僕はただ眞弓を独りにするだけか。僕だけでも逃げるべきだった? 僕の選択は、間違いだらけだったのか──。
しても仕方がない後悔が払えど払えど湧いてくる。僕は右手を伸ばす。こちらの腕まで切られてしまったら。そんなことを考えている余裕なんてない。腕じゃなく、首を切り落とされるかもしれない。
「眞弓いい!」
僕は叫ぶ。腹の底から。心の内から。冬夜は怯む気配すら見せない。彼にとって、僕は恐れる価値のない家畜でしかない。
──血飛沫が上がった。僕の目の前で、鮮血が飛び散る。また僕の手首が切り落とされたのだとそう思ったが、違った。
「馬鹿な」
呆けたような声が上がる。それが冬夜の物だと気付いた頃には、眞弓が冬夜の頬を殴っていた。冬夜がぐらりと姿勢を崩す。殴った眞弓の方がよろけて、またその場に正面から倒れる。状況が理解できない。冬夜の肩が裂けていた。ぱっくりと割れたその肩は、倉庫の向こう側が見える程だ。冬夜は顔に苦悶と憤怒を浮かべて、自身の肩を抑える。冬夜が裂けたのと反対側の手で力任せに腕を押し付ける。ぐじゅぐじゅと耳を防ぎたくなるような音がする。冬夜の裂けた肩が元の位置に戻り、冬夜はぐるぐるとその腕を回して、ほっと一息をついた。
──ぐっ、と僕の腕が引っ張られる。冬夜のいるのとは反対方向に。そのまま僕の体が宙に浮かび、腹の方から何かに覆い被さった。
「離すなッ!」
聞き慣れた声だった。けれど、彼女がここまで声を張り上げるのは初めて聞いたかもしれない。
「おお、おおお!?」
冬夜がこちらを向いて、目を見開いた。その顔からは既に苦悶と憤怒の感情は伺えない。その代わり、さっきまで眞弓を相手にしていのと同じくらい──いや、それ以上の愉悦の表情を浮かべていた。
「リリー! リリー・カーネイジ・コールデコット!」
「キモッ」
冬夜が言った、意味の分からない長ったらしい言葉を最後まで聞くことなく、彼女はそう吐き捨てて、舌打ちをした。
「人が昔一度だけ名乗った名前を丸暗記とか、キモ過ぎる。ストーカーかよ。そんな名前で呼ばないで」
彼女は僕をおぶった体勢のまま、溜息をついて冬夜を睨み付ける。それからタン、と地面を蹴って、もう一歩だけ冬夜から遠ざかった。できるだけ、あの吸血鬼の近くにいたくない、とでも言いたげに。
「あたしにはリコって名前があんの。変な名前で呼ぶな、変態ッ!」
リコはそう言って、僕を落とさないようにしっかりと背中に手を回してから、冬夜に向かって反対側の手を使って、中指を立てた。
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