彼女と僕の逃避④

 この夜、ヒメちゃんはカレーライスを作ってくれた。彼女が初めてこの家に来た時と同じだ。米を炊き終わり、カレーを煮込んでいる頃にら、眞弓とリコに続いてヒメちゃんもシャワーですっかり体を洗い流した。皆が食卓についた頃にはもう夜が明けかけていた。なんだかんだで全員、お腹はすいていたようで、四人ともヒメちゃんの作ってくれたカレーを一心にガツガツとお腹に入れた。

 眞弓は自身の皿を空にすると、まだカレーを口に運んでいた僕の腕を無言で掴んだ。彼女がを欲していることを察した僕は「ごめん、ちょっと行ってくる」と眞弓に引っ張られながらリコとヒメちゃんに頭を下げた。じゃああたしも、と立ち上がるリコを僕は手で制した。


「リコはヒメちゃんと一緒にいて」

「はいはい」


 リコは深く溜息をついて座り直すと、僕の食べていたカレーの残りを食べ始めた。そんな間にも眞弓は僕を強引に引っ張って、二階の寝室まで連れて来た。


「今宵は疲れた」


 寝室の扉をバタンと閉めて、眞弓は静かに言う。明かりもつけず、眞弓は僕の肩を強く押す。僕はそのまま尻餅をつく形で床に倒れる。眞弓はそんな僕の脚に座って両腕で僕の背中を絡め取るように抱く。日の出の明かりがカーテンの向こう側から少しだけ部屋に漏れているが、その程度の明かりでは眞弓の表情を窺い知ることはできなかった。


「よくぞまあ息災であった」

「それは、お互いにね」


 僕の言葉に眞弓は、フンと鼻を鳴らす。鼻息の荒いまま、彼女の口が大きく開かれた。カプリと首が彼女に噛まれる。僕も眞弓も、リコとヒメちゃんだって今夜死んでいてもおかしくなかった。けれど、こうして生きている。そのことを思うと、眞弓に血を吸われるのがまるで一世紀ぶりの出来事かのようにも思えた。

 眞弓が僕の血を喰らう。鋭い歯で噛まれ、唾液と血が混じった状態で彼女の口から溢れ、その匂いが僕の鼻に届く。僕はそこに幸福をさえ感じる。

 眞弓はぷはぁ、と息を吐いて一度僕の首から口を離した。


「俺が奴のようになれば、お前は俺を殺すのだな」


 眞弓がボソリと呟く。僕は一瞬何を言われたのかわからず、それでも彼女に対して何か言葉を返そうとした。ただそれは僕に向けた言葉ではなかったようで、眞弓は返事を聞くつもりもなさそうに、また歯を剥いて僕を噛む。あまりにも慣れた、痺れるような心地良い痛みが僕を支配する。

 眞弓が言っているのは当然、椋島のことだろう。僕は彼女に血を吸われながら、彼女の言葉を心の中で咀嚼する。僕が今、眞弓の傍にいるのは眞弓に二度と罪もない人を殺させない為だ。彼女が両親を殺したように、他の誰かを殺させない為。

 ──けれど、そうだ。僕は眞弓の口から溢れる言葉を聞いて、初めて気付いた。僕は、眞弓が本当にまた人を殺した時、どうしたいのかを考えていない。彼女が心から吸血鬼として生きるのを望み、人を喰らって生きていくと決めたのであれば、僕は眞弓の為に何でもしようとそう考えたことはある。だけど、眞弓が望ましい形で吸血衝動を抑え切ることができず、彼女の望まない形で怪物となったならば。

 階下でヒメちゃんと一緒にいるリコのことを考えた。思えば、リコとの関係もこの短い間に大きく変わった物だと思う。彼女が眞弓に一度殺されて夢魔となり、契約を交わしたすぐの頃であれば、僕はリコとヒメちゃんを二人きりにしようなんて思わなかった。それでも、僕と眞弓の逃亡にリコを加えたのは、彼女を見張る為だという当初の目的を忘れたことはない。意図して、忘れないようにしている。

 椋島の心臓に鉄杭を刺した時の感触を思い出す。手にべっとりと血が付いた時の手触りまでもが脳内で再現されかけたが、眞弓が強く僕に噛み付いてくれるお陰でそんなことまでは思い出さずに済んだ。リコがたとえばヒメちゃんに手出しでもすれば、僕は迷いなく彼女の心臓を狙う。実際にできるかどうかは置いても、そう決めている。できるできないじゃない。やるんだ、と。

 だけど、同じことを眞弓に対してできるか? そんなこと、僕は望んでいるのか?

 僕は眞弓に喰われるの痛みに耐えるフリをして目を瞑った。たとえ眞弓が独り言ではなく、僕に答えを求めてさっきの言葉を溢していたのだとして、咄嗟に答えられる自信はなかった。そして、答えたくもなかった。

 ──眞弓、僕は君が思うような人間じゃないよ。

 僕は心の中で、彼女に語り掛けた。僕はただ、逃げているだけだ。己の弱さからも、眞弓の罪からも、今の生活だって長くは続かないことを分かっていながら、考えることから逃げている。すぐにでも現実が追い付いてくるかもしれないのに。椋島のように非現実の方から僕らを終わらせてくる奴がまた現れるとも限らないのに。


「ぷはぁ」


 そんな風に逡巡している間に、今度こそ眞弓が食事を終えた。薄暗い部屋の中で眞弓の唇が、僕の血と彼女の唾液とでてらてらと輝いて見えた。僕は今でも、元の眞弓が戻ってくることを願っている。それなのにこの間、僕は今の眞弓を求めて自分から唇を重ねた。これもまた逃避だ。元の眞弓が戻って来た時、今の眞弓との関係をどうするのか、考えちゃいない。先のことなんて分からないのだから、今を生きると言うのは簡単だ。僕が今ここにいるのは、全てから逃げて来た結果でしか、ないように思う。


「どうした」


 きっと、余程呆けた顔を晒していたのだろう。眞弓が怪訝そうに僕の瞳を見つめた。そんな彼女の表情に僕は思わず、ふっと笑いを溢した。今日の眞弓の吸血は終わった。だから僕も、考えることを止める。


「ちょっとフラついただけ」

「ではあの夢魔の食事は無理だな」


 眞弓が嬉しそうな顔を浮かべるのが、薄暗がりの中で分かる。


「どうかな。分かんない。僕はもう横になるよ。リコには眞弓から伝えておいて」


 僕はそう言って、眞弓の脚の下に重なる自身の下半身をゆっくり抜いて立ち上がった。その瞬間、本当にフラッと軽く目眩を感じて苦笑した。体力の限界を迎えているのは確かなようだった。僕はそのまま布団の上に寝転がり、額に両手を置く。


「わかった。奴がこちらに来るのであれば、あの小娘の様子は俺が見ておこう。何かあればすぐに呼べ」


 どすん、と僕の寝転がる布団の上横 に重いものが乗る衝撃を感じる。眞弓の息遣いが耳元で聞こえた。


「貴様は今宵、本当によく働いた。よく眠れ」

「え」


 僕は眞弓の言葉に驚いた。まさか、そんな風に眞弓の方から僕を労う言葉を聞けるとは思わなかった。そればかりでなく、眞弓からヒメちゃんの面倒を見るように言うなんて。


「は、はは」


 僕は額を両手で抑えたまま笑う。僕は色々な物から逃げ続けている。けれどそれは、そうでもないと気が狂いそうになるからだ。僕はもう少し、気を張らずにいても良いのかもしれない。そう思うと、何故だか涙が流れて来た。

 僕の頬に何か柔らかい物が当たったかと思うと、布団の上にあった重い何かが取り払われて、バタンと扉が閉まった。暫くしてからまた扉が開いて、眞弓とは違う声が聞こえた。


「ねえ、ちょっと大丈夫?」


 聞こえてくるのはリコの声だった。僕は目を開けて起き上がろうとしたが、身体がどうも動かない。


「ああ、無理しないで」


 リコの声が近づいて来る。僕はかろうじて目をぼんやりと開けたが、額と一緒に瞳を手で抑えつけてしまっていたようで、視界がかなりボヤけて見えた。


「あーあ、今は無理かあ」


 言いながら、リコは僕の横に来て隣に寝転がった。


「何してんの」

「食事、無理でしょー。でもあいつはスッキリしてんのにあたしはダメってのがムカつく。だから、叶斗は静かにそうしてなさい」


 リコが僕の首に腕を回した。それから間髪入れずに、リコは僕の首筋を彼女の長い舌で舐め上げた。


「ちょっと」

「うるさい。汗くらい舐めさせろ」


 リコは不機嫌そうに僕の首筋から顎にかけて、それから耳の中まで舌を捩じ込んだ。ぞくりとした感覚に襲われ、リコを押しのけようとも思ったが、やはり身体が動かない。リコのせいではなく、完全にもう身体が休むように脳味噌が指令を出してしまっている。だから、僕はなす術もなく彼女にされるがままになる。今の僕の状態こそ、眞弓の吸血やいつものリコとの行為以上に捕食だな、なんて薄ぼんやりと考えた。首から耳までを舐めまわした後、リコは僕の上に馬乗りになって今度は胸の辺りからお腹の辺りまで、つぅと舌を這わせる。くすぐったさと、彼女の妖艶さを感じる。疲れていた筈なのに、僕の性器が勃起し始めた。こればかりは、リコがサキュバスだからとかは関係ない気がする。リコも僕の性器の様子には気付いているだろうに、そこには手も手も触れずに、僕の身体中を舐めた。リコにそうされるうちに余計に意識がぼんやりとしてくる。

 気付けば、僕は霧の立ち込める路地裏の裏に立っていて、いつの間にか夢を見始めたのだと理解した。目の前には影のように揺らめく人影が立っていて、その鋭い眼で僕を睨んでいるようだった。


 ──続けるのか。


 その影は、僕に語り掛ける。何を、とは聞かなかった。


 ──続ける。続けるよ。続ける他ないんだから。


 僕はそんな風に影に言葉を返す。影はふっと笑うと、僕の目の前に近付いた。その顔は誰のものとも分からない。一瞬、眞弓のようにも見えたかと思えば、椋島の顔やあの人の顔、眞弓の両親や、僕の母の顔と、色々な人の顔に変わっていく。それはそうだ。夢なのだから、誰でもない、と何故だか僕は妙に簡単に納得する。


 ──続ける。続けるともさ。


 変わらず僕はそう言い続けている。気付けば影は僕の前から姿を消していて、目を開けると眩しい陽の光が、僕の目を刺激した。

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