彼女と僕の逃避②

🚿


 風呂場から出ると、ヒメちゃんもリビングに戻ってきていた。リコはヒメちゃんの隣、眞弓はヒメちゃんの向かい側に座っている。


「体、洗ってきた」


 僕が言うと、三人とも顔をあげてこちらを見た。


「来たか」


 眞弓がボソリと呟く。さっきまでの不機嫌は少し顔を引っ込めた様子だ。


「三人で何か話してた?」


 僕が尋ねると、ヒメちゃんが無言で首を横に振った。彼女がそうやってリアクションできるほどには平静を保てていることに、僕は少し安堵する。正直なところ、ヒメちゃんには聞きたいことが山ほどある。何故ヒメちゃんはこんな夜中にこの家を出て椋島のもとへ行ったのか。ヒメちゃんは椋島が吸血鬼であることを、知っていたのだろうか。椋島と彼女との関係は? それに、無事逃げおおせたらしい椋島の部下二人のことも気になる。ヒメちゃんをこの家に連れてきたきっかけは元々、僕らがあの二人に絡まれていたヒメちゃんを助けたことだ。

 そんな気になる質問を全て口に出したくなる。けれど、そんなことを聞かれても、簡単には答えられないだろう。僕だって、誰かに不意に眞弓との関係や今の境遇のことを聞かれてすぐに疑問に答えられるとは思わない。


「ありがとうございます。助けていただいた、んですよね私。また」


 僕がそんなことを考えていると、ヒメちゃんの方からそう言って頭を下げた。


「こんな私のことを」

「ヒメちゃんはどうしてあいつらのところに?」


 こちらから根掘り葉掘り聞くまいと思っていたのに、咄嗟に疑問が口をついて出てしまい、しまったと思ったが、ヒメちゃんは特に気にする様子もなく、口を開いた。


「仕事をくれるんです」

「仕事?」


 ヒメちゃんの言葉を怪訝そうに復唱したのは眞弓だ。眉を顰めてはいるが、あれはどちらかというと単純にヒメちゃんの言葉が気になっている顔だ。


「あの人たちが何なのか、私もよく知りませんでした。東京に出て、街を歩いていたところに声をかけられたのが最初でした」


 思いの外スラスラと言葉が出てくるヒメちゃんに対して、僕は驚く。もしかしたら、僕の質問が起爆剤になって、自分の気持ちの整理の為に、こうやって言葉を紡いでいるのだろうか、などと考える。


「ちゃんとお金もくれたし、正直なところ手持ちもないところに声をかけてくれたのはありがたかったです。私だけじゃなく、私と同じように学生服を着た他の人も、あの人たちのところには何人かいました」

「仕事ってのはたとえば?」


 僕が尋ねると、ヒメちゃんは少し考える素振りをしてから答えた。


「鞄を指定の場所に届けるとか、そういう」

「あー……」


 僕もあまり詳しくはないが、いわゆる運び屋というやつだろうか。ヒメちゃんくらいの歳の子を隠れ蓑にするのには、彼らにもメリットがあるから仕事として提供できるといったところだろうか。


「彼らに仕事を貰って、安いホテルに泊まって生活して。またしばらくしたら仕事をもらいに行って。そんなことを繰り返してるうちに、彼らから言われました。住み込みのバイトをしないか、と」

「あーね」


 ヒメちゃんの答えに、リコが納得したように溜息をつく。僕はリコの反応の意味に、ピンと来ない。


「リコ、どういうこと?」

「吸血鬼が人から隠れて生きるのに、一番必要なのって何だと思う?」

「そりゃあ……」


 簡単だ。答えは、人間の血。

 僕がそう答えると、リコはコクリと頷いた。あの人からもレクチャーされたことだ。現代に生きる吸血鬼のほとんどは、自分の餌となる人間を近くに確保している。僕と眞弓の関係のように契約を交わし、血を通して“眷属”となる。形上、僕も眞弓の眷属ということになる。現代にひっそりと生きる人と魔の関係は、それ以外にあり得ない。

 ──いや、ちょっと違うか。僕と契約を交わす前のリコのように、人を襲って血を無理やりに奪う、という方法もある。けれど、そうして被害を出してしまえば、あの人のような存在が危険な魔を退治しに来ることだってある。吸血鬼にとっても、できるだけそうしたことは避けたい。そうやって被害を広げないうちは、自分たちだって彼らの生き方に文句はつけないのが普通だと、あの人は言っていたっけ。


「家をなくした人間なんて、あたしらにゃ格好の餌食ってこと」


 リコがそこまで言ったところで、咄嗟に口をつぐんだ。それからリコはバツが悪そうな表情で、ヒメちゃんを見た。


「あー、これその子の前で言って良かったんだっけ?」


 リコの問い掛けに、僕は静かに唸った。


「良くはない、けど……」

「ふん、今更な話であろう」


 煮え切らない僕の言葉を、眞弓が受け継いだ。


「その娘は、我らの戦いを見ている。死んだあいつのこともな。今さら隠し立てすることもあるまい」

「それはそう、なのか?」


 魔の存在は、本来は決して人間に知られるべきじゃない。けれど、魔に巻き込まれてしまったのなら別だ。巻き込まれてしまったのなら、魔のことを相応に知ることも大切だと、あの人もそう言っていたことを思い出す。


「吸血鬼、ですか……」


 ヒメちゃんが感情の読み取りづらい小声でつぶやく。そんな簡単には信じられないか。無理もない。僕だって、目の前で眞弓の血が吸われたのを見たくせに、自分の見た物を現実だと受け入れるのに時間がかかった。


「信じます」


 けれど、ヒメちゃんはそんな僕とも違うようだった。まだ混乱している最中だろうに、ヒメちゃんは真っ直ぐに僕たちを見つめる。彼女のその眼差しは一種の諦観のような、または覚悟を決めたような、そんな感情がごちゃごちゃになったものだと感じた。


「三人とも、私を助けてくれました。嘘をつく理由なんてないと思う、から」

「ありがとう、ヒメちゃん」

「えっと、叶斗さんは」


 首を傾げるリコちゃんに、僕は苦笑混じりに答えた。


「僕は違う。僕は、眞弓に血を提供してるただの人間」

「あ、だから叶斗さんは二人に……」


 ヒメちゃんはそこまで言って、口籠もった。昨日のことを思い出してるんだろう。ヒメちゃんは僕と眞弓、リコとの関係について聞いてきた。その時はまさか、眞弓が吸血鬼だなんて考えもしなかったろうから。


「リコさんと眞弓さん、二人とも吸血鬼なんですね」

「んーん? あたしはサキュバス」

「え」


 あっけらかんと言うリコに、ヒメちゃんの動きが固まった。そのままポカンとリコを呆けた表情で見た後、僕の方を見て、またリコの顔を見る。


「え、サキュバスってあの、え?」


 ヒメちゃんも、サキュバスという言葉自体は知っているらしい。僕はもう、彼女たちとやり取りをしているうちに感覚が麻痺してしまっていたが。

 なんかそうやって、改めてそんな反応されると少し恥ずかしいものがあるな、と。


「えっと、それは色々あって」


 僕は自分のごちゃごちゃした心の内を誤魔化すように、それだけ口にした。

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