第1章 彼女は僕の血を喰らう

彼女は僕の血を喰らう。

 僕達のこの生活が始まる数ヶ月前。僕と眞弓は同じ高校の同級生だった。具合を崩しがちな眞弓のことを、僕はいつも気にしていた。

 だから、授業中に眞弓の挙手をしようものなら、その動きとほぼ同時に、僕は席から立ち上がる。

 過保護かよ。反応速度ヤバいね。なんてクラスメイトの声とクスクス笑いが聞こえて、先生が教室を一喝した。別に僕や眞弓のことを悪く言う言葉ではないことは知っているから、気にはならない。


「村瀬、清水を連れて行きなさい」

「はい」


 僕の、保健室に連れて行って良いですか、の声を聞き終える前に、先生がそう言ってくれた。言われるまでもなく、僕は眞弓の手を引いて教室を出る。


「変なことするなよなー」

「しないよ」


 クラスのお調子者、田部のからかいを適当に返して、先生に一礼してから教室を出た。


 ──変なことしないってのは少し嘘だ。

 僕はこのまま眞弓を保健室に連れて行くが、それよりも先にやらなければならないことがある。

 僕はそそくさと階段を降り、人気ひとけの少ない踊り場まで来ると、眞弓の肩を叩いた。

 眞弓はぐるぐると喉を鳴らすような不可思議な音を立て、僕を睨んだ。僕を貫くような冷たい視線。それは、さっきまで具合の悪そうにしていた眞弓のものではない。


「早くしろ。さもなくば」

「他の生徒を襲うって? そんなことしないだろ」

「ふん」


 眞弓は僕の制服の襟を乱暴に掴んだ。そしてシャツのボタンを外し、首筋に顔を近付けると、大きな口を開けてうなじに噛み付いた。


「うっ」


 思わず声をあげるが、グッと我慢する。何度やられても痛みに慣れない。ジュルジュルと吸い付く音が耳に響く。ちらりと横目で眞弓を見ると、眞弓の眼は血走り、焦点が合っていない。時折、眞弓の口から吐息が漏れる。金属臭のする吐息は、鼻を刺激し、吐きそうになるがそれも我慢する。


 暫くの間、眞弓は口から唾液を零しながら僕のうなじに吸い付き続けた。その間、僕はずっと万が一にも人が来ないように辺りに気を配る。

 こんな眞弓の様子を、他人に見られるわけにはいかない。

 眞弓が僕の血を吸って生きていることを、学校の皆は当然、親も先生も知らない。

 知られるわけにはいかない。

 眞弓が僕の首筋から口を離した。彼女の口から、唾液と血の混ざった液体が溢れる。僕がハンカチを手に取ると、彼女はひったくるようにそれを受け取り、濡れた口元を拭き取った。


「ふむ、なかなかだ」

「どうも」


 僕は首を触って、血が出たままになっていないか確かめる。眞弓の唾液でベタついている以外に問題ないことを確認する。

 眞弓に渡したハンカチを返してもらってうなじ周りを入念に拭き取った後、噛み跡が見えないよう、一番上まできっちりとボタンを付け直した。


「最近、我慢できてないんじゃないか」


 僕が苦言を呈すと、眞弓は鼻を鳴らした。


「俺に言うな。俺の意志で狙って出てきているわけではないのだ」

「わかってるけどさ」


 それでもやっぱり、授業中にこうして頻繁に教室外に出る、と言うのもな。


「これまではちゃんと、学校にいる間は昼休みだったろ」

「知らん。文句を言うならいつもの俺に対してだ。だが、お前が血をくれないのであれば、俺としては他の者の血を吸うしかなくなる。そのこと、ゆめゆめ忘れるな」


 ふ、と。

 糸の切れた人形劇の人形みたいに、眞弓は膝から崩れ落ちた。

 僕は眞弓が頭を打たないように抱き止めて、背中をさすった。


「……また?」


 さっきまでの傲岸不遜な態度とは打って変わって、眞弓はおずおずとした様子で僕に尋ねた。


「うん。眞弓、具合は大丈夫?」

「ちょっと頭がくらくらするけど、大丈夫」


 眞弓が動こうとしたので、僕は一度眞弓から離れてから、肩を支えてゆっくりと立ち上がらせた。


「ありがとう」


 眞弓の言葉に僕は頷くと、無言で保健室まで眞弓の肩を支えながら歩いた。

 保健室に着くと、後は保健室の先生に眞弓を任せて、僕は教室に戻ることにした。

 教室までの道すがら、僕はポケットにあるペンダントを取り出す。

 今は何の変哲もないペンダントだが、さっきまでは鈍く光っていた。

 眞弓の吸血衝動に合わせて光るこのペンダントは、眞弓を助けてくれた恩人から貰ったもので、その人とも定期的に連絡しあっていたけれど、ここ数日連絡が取れなかった。緊急の連絡先や、何かがあった時に訪ねるように聞かされていた住所を書いたメモは、肌身離さず持ち歩いているけれど、僕達の住む町からはかなり離れていて、おいそれと行ける場所ではない。


 ──眞弓が吸血鬼に襲われたのは、この日から一年前。

 街を騒がした、身体から血が抜かれた被害者を多数出しているという吸血鬼事件のことを僕も眞弓も当然知っていたけれど、まさか自分達が襲われるとは思っていなかった。


 ──いや。


 正確には、襲われたのは眞弓だけだ。


 あの時、僕は吸血鬼に怯え、震えるばかりで、何をすることもできなかった。

 だけど彼は、眞弓を襲う吸血鬼を颯爽と退治して、それから眞弓が吸血鬼化していることを教えてくれた。


 眞弓の吸血衝動は、日に三度程来る。ほとんど食事時とリンクしていて、その時間になると必ず僕はペンダントを見て、眞弓の吸血衝動が発動していないかを確認する。そしてペンダントが光れば、親の目を盗んででも何をしてでも、僕は眞弓に血を与えなければならない。

 眞弓を助けてくれた人が言うには、彼女の吸血衝動は、僕一人から死なない程度の血を与えられれば済む程の、比較的弱い物だそうだ。

 吸血鬼の伝説とは違って日の下を歩くこともできる。


「だが、彼女の異常性、魔性を知る者が増えればそうはいかなくなる。彼女が吸血鬼化したばかりで、君との契約を取り付けたからこそそれだけで済んでいる」


 彼はそのことについて、何度も何度も、同じ話を僕にした。


「人を襲う獰猛な熊が街に放たれたらどうする?」

「駆除しないとです」

「そうだ。だが、その熊が誰かに買われているものだったら? この熊は危険だから駆除しないといけない、と飼い主の許可なく熊を殺そうとする者がいたらどうだ」

「それはちょっと、頭おかしい人かと」

「そうなる。魔を狩る存在というのは居る。だが、誰彼構わずに殺し尽くそうなんてのは、我々から言わせても頭のおかしな奴だ。我々が魔を狩るのは、あくまでそれが人に害をなすからだ。放っておけば人を殺すからだ。だが、実害の出していない熊を駆除するなんてことはない。どれだけ殺傷性に特化した体や精神を持っていたとして、まだ人を殺していない者を、警察が逮捕しないのと同じだ」


 彼はそんな風に、僕と眞弓の状況を説明してくれた。

 僕が眞弓に血を与え、眞弓が他人を襲わない限りは、魔を狩る者にも目を付けられない、と。


 それに、僕以外の血を吸わなければ、吸血鬼としての強さのようなものも今のままだが、他の人間の血を吸ってしまえば、吸血鬼強度が上がり、手がつけられなくなるかもしれない、と。


 彼女が僕の血を吸う以上に吸血鬼らしい行動をしたり、吸血鬼であることを複数人が目撃することで、彼女の性質が伝説の吸血鬼のそれに寄るらしい。


「だから誓え。少女、君は決してこの少年以外から血を吸わない。少年、君は決して彼女が人を襲うようなことがないように、と」


 僕と眞弓は、彼に誓った。

 眞弓を殺させなんてしない。きっと、守り抜いてみせる。


 ──そう誓いを立てて、一年。

 最初のうちは、眞弓が吸血衝動をどうしても我慢し切れないうちに眞弓から僕に連絡してくれた。

 眞弓に初めて血を吸われた時のことは忘れない。

 今と変わらず眞弓の歯が僕を食む間、僕は痛みに耐えなければいけなかったが、今ほどじゃなかった。眞弓が僕を頼ってくれること、眞弓が僕を抱き締めながら、僕の血を吸っていることに、昂揚感にも似た何かが僕の心には湧いて、それが鎮痛剤代わりになっていた。

 けれど、段々と、段々と眞弓が僕を呼び出す回数が増えた。眞弓は遂には、呼び出された僕の首筋に泣きながら噛みつき、その時ばかりは僕は大きく悲鳴をあげて、その出血の為、僕は気絶した。


 ──その日以来だ。


 彼女が吸血衝動に襲われると同時に、眞弓の意識は別人格に切り替わる。

 傲岸不遜な態度で僕を詰り、恐怖に怯えた様子すらあった普段の眞弓と違い、その別人格は積極的に僕の首筋を喰らう。

 その口調は、眞弓を襲った吸血鬼をエミュレートした物だ。

 吸血衝動という罪に耐え切れず、眞弓はその全てを託す、一つの人格を生み出してしまった。

 その日は授業が終わって帰宅する前に、僕はもう一度眞弓に血を吸わせた。

 こちらの方は、予定通りだ。僕と眞弓の通う高校は進学校で、夜遅くまで受験対策授業を受けるから、家に帰るのは午後九時近くになる。それで夕食時を見計らい、彼女の吸血衝動に合わせてあの人格に切り替わる。


「あの人は、もう僕達のところへは来ないのかな」


 夜、血を吸われながらの呟きに、眞弓は鼻を鳴らして応えた。


「恐らく、奴はもう死んでいる。俺であっても、魔を狩る者の気配くらいは感じ取れるが、もう暫く、奴の気配を俺は感じていない」


 血を吸い終えてから、そんなことを眞弓は言った。


「そうなの?」


 そんなこと、からは一言も聞いていない。人格が分たれてから、吸血鬼らしい、いわゆる魔の要素はほぼ全て、こちらの人格に渡ったようだから、元の眞弓にはわからないのかもしれない。


「そのせいか、どうにも気が落ち着かん。近頃のニュースを見たか」


 僕はスマホで、眞弓の言うニュースを確認した。


『異常死体、再び。吸血鬼、再来か!?』


 まとめニュースのセンセーショナルな記事タイトルがまず目に飛び込んで来る。

 数日前から、またこの街で全身の血を抜かれた死体が見つかるようになった。


「一応聞くけど、君じゃないよね」


 僕は恐る恐る、眞弓に尋ねる。

 眞弓はつまらなさそうに鼻で笑った。


「俺もそうしたいのは山々だがな。違う。俺以外にも、以前吸血鬼に喰われた者がおったのだろうよ。それを奴が防いでいたが、恐らく負けた」

「大丈夫なの、それ」


 眞弓に訊いても意味がないが、思わず続けて尋ねてしまう。この人格は、あくまで眞弓から分かれた物であって、吸血鬼の知識を元の眞弓以上には持たない。


「さてな。俺がやった、と奴以外の魔を狩る者が来たらどうする?」

「そんなの、許さない」

「は、は。まあ奴の言う通りだろうよ。人を襲わない熊を、無闇には駆除しない。俺も死にたくはない。俺とお前は一蓮托生。これからも頼んだぞ」


 ──と、そこでまた眞弓は、電池が切れたみたいに身体を倒した。

 僕はその状態の眞弓を、彼女の家まで連れて行った。

 眞弓のお母さんは、僕が貧血の娘に世話を焼いてくれている、と思っている。

 眞弓が吸血鬼化した証拠は、病院なんかでは出てこない。病と魔とは現象としてのレイヤーが違うとかなんとか、あの人は言っていたっけ。

 場合によっては、精神科にかかるのは一つの手かもしれないが、おすすめしない、とも言っていた。何かの弾みで、診察や治療中に医師や家族を眞弓が襲うとも限らない。


「でも、本当にこんなんで隠し通せるのかな……」


 深夜になり、僕はそんな心配をして、布団の中に入った。けれど、その日はすぐに布団を蹴飛ばした。


「なんで」


 机の上に置いたペンダントが、鈍い光を放っていたからだ。

 僕は急いで自室を出た。

 幸い、家族は眠っている。僕は家族を起こさないよう、慎重に玄関の戸を開けて、眞弓の家まで走った。

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