【14】事件―その後

渡会恒わたらいひさしの遺体は、〇山市郊外の雑木林で、早朝犬を散歩させていた近隣住民によって発見された。

現場で彼の遺体を見た鏡堂達哉きょうどうたつや天宮於兎子てんきゅうおとこは思わず顔を見合わせる。

渡会の顔に、ありありと苦悶の表情が浮かんでいたからだ。


さらにその顔や腕には、緑色掛かった暗い赤褐色の死斑が浮いていて、遺体の惨たらしさを強調しているようだった。

昨日対決した相手が、既にこの世にいないという事実が、まるで現実味を帯びて感じられないことに、鏡堂は僅かな戸惑いを覚える。


それと同時に、渡会によって引き起こされた事件と、彼の死の間の因果関係が、容易に想像がつかないため、彼は困惑せざるを得なかった。

――もしかしたら服毒自殺なのか?しかし付近に毒薬らしいものは見当たらないが。


結局渡会の遺体は司法解剖に回されることになり、その日の午後、鏡堂と天宮は、司法解剖を担当した国定淳之介くにさだじゅんのすけ教授から結果を聞くために、〇〇大学病院の法医学研究室を訪問することになった。


国定は鏡堂たちに席を勧めると、開口一番、「最近不思議な遺体が多いね」と苦笑する。

「不思議な遺体ですか」

鏡堂が怪訝な表情で訊くのに、国定は剖検報告書を机上に置いて話し始めた。


「今回に死因は、急性の硫化水素中毒で間違いないだろう。

特徴的な死斑からも推測されるが、血液中から大量の硫化ヘモグロビンが検出されているし、乳酸アシドーシスも認められているからね」


鏡堂は聞き慣れない専門用語の羅列に戸惑いながら、国定に訊き返した。

「先生、申し訳ありませんが、その硫化水素中毒について、ご説明いただけませんか?」

その言葉に「ああ」と頷くと、国定は説明を始めた。


「硫化水素というのは、天然には火山ガスとして放出されるほか、温泉中にも含まれる。

温泉周辺で卵の腐った臭いがする時があるだろう?

あれは硫化水素の臭いだ。


下水処理場、ごみ処理場などでも発生するようだがね。

温泉周辺で稀に高濃度の硫化水素が発生して、中毒事故が起こることもあるが、最近は自殺に使われることが多いようだね」


「自殺ですか?」

「インターネット上で、自殺用の硫化水素の製造方法が掲示されているらしい。

まったく愚かな話だ」

「では今回も自殺と考えてよろしいのでしょうか」

鏡堂のその問いに、国定は難しい表情を造る。


「今回の遺体は、短時間に大量の硫化水素を吸引した形跡がある。

一方で、一般に入手できる材料を用いて、高濃度の硫化水素ガスを発生させることは困難なのだよ。

自殺の可能性が全くないとは言えんが、事故または殺人の可能性も視野においた方がいいだろうね」

その説明を聞いた鏡堂は、思わず大きなため息をついたのだった。


翌日の捜査会議で捜査員たちを緊張に導いたのは、渡会が別の場所で死亡して、現場に死体を遺棄されたという鑑識からの報告だった。

そのことは渡会が現場で自殺したのではなく、第三者によって遺体を運ばれたということを意味していたからだ。


彼の死が自殺なのか、事故なのか、あるいは殺人なのかはまだ不明だが、少なくとも第三者が介在していることが確実になったのだ。


次に天宮から報告された渡会の死因が、急性の硫化水素中毒であることを聞いて、会議室にどよめきが広がる。

その場いた捜査員の誰もが経験したことのない、異質な死因だったからだ。


――渡会の死は、彼が犯した殺人と関連しているのだろうか?

――これが殺人だとすれば、犯人は何故硫化水素を使ったのか?

鏡堂の頭に、様々な疑問が渦巻く。


会議で最終的に決まった捜査方針は、主に渡会の前日の行動と、死亡現場の特定だった。

鏡堂は既に、昨日渡会と対決したことを高階邦正たかしなくにまさ刑事部長に伝え、彼の自供の録音を聞かせていた。

そのため彼の指示で、渡会が鏡堂たちと別れた以降の行動について、捜査範囲が絞られたのだった。


捜査会議を終えた鏡堂と天宮は、自席に戻って訊き込みの準備を始める。

渡会恒わたらいひさしは日埜建設の持ちビルの一室を、仮のオフィスとしていたため、訊き込みはそこから開始することになっていた。


「渡会の件もそうですが、高遠純也たかとうじゅんやさんの事件も、今回の一連の事件と関連しているんでしょうか」

パソコンを操作しながら天宮が呟いた言葉に、鏡堂も心中で肯く。

その点は彼も気に掛かっていたのだ。


――高遠と渡会が殺された原因は、共通しているのか?

――犯行手段がヒ素と硫化水素という、別のものだということは、別の事件として扱うべきなのか?

無言で考え続ける鏡堂は、それらの事件がこれから始まる事件の序章に過ぎないことに、まだ気づいていなかった。

了(この後、余話:女子会へと続きます)

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