第12話 神試合

ボクシング試合会場。


 リングの上には二人の選手が対峙していた。会場全体が期待と緊張に包まれ、照明が彼らを照らしていた。歓声とどよめきが空気を震わせ、観客たちは、今まさに始まろうとする試合に釘付けだ。


「赤コーナー、一八二センチ、七九キロ、WBA世界ライトヘビー級十位、剣城剛けんじょうつよし!」

「青コーナー、一八〇センチ、七九キロ、覆面ボクサー、JIN《じん》!この試合は五分十二ラウンドで、世界初の覆面を許可する特別ルールで行われます!」


 アナウンスが響き渡り、観客たちの熱気がさらに高まった。遂に、じんのプロデビュー戦の時が来たのだ。彼の目元はシール状のマスクで覆われ、まるでバットマンのような姿だ。


 十八歳であやの復讐を誓い、ボクシングを始めて十年。体重六十キロだった彼の体は、今では八十キロ近くまで鍛え上げられ、かつてのひょろりとした体型は見る影もない。筋肉の鎧で覆われた細マッチョへと生まれ変わり、今、リングの上に立っていた。誰も彼がかつての迅であることに気づく者はいないだろう。


 迅にとってこの試合は、ただのスパーリングの延長線上に過ぎなかった。相手が本気で来てくれる分、実力を磨くには良い機会だと考えていたが、タイトルには全く興味がなかった。迅の目的はただ一つ、武力を上げること。復讐を果たすために。判定勝ちなど意味がなく、ノックアウトで倒せなければ、ルールの無いストリートファイトではやられると考えていた。


 カーン!といったゴングの音が会場に響き渡る。金属的な音が耳に心地よく、迅のテンションは一気に高まった。対戦相手の剣城とグローブを合わせた瞬間、剣城は鋭い右ストレートを放った。だが、迅はそのパンチを耳をかすめるだけでかわした。


 さすが、WBA世界ライトヘビー級十位の選手だ。剣城は自信に満ちた表情で、両手を前に垂らし、ガードを外して挑発的な笑みを浮かべた。その姿が、迅の脳裏にさそり刺青いれずみを入れた男たちの顔を鮮明に呼び起こす。


 その瞬間、迅の中でスイッチが入った。怒りが爆発し、強烈な右フックを繰り出す。拳が剣城の顔にヒットし、彼の体は一瞬バランスを崩す。驚いた表情を見せた剣城だったが、彼もスイッチが入った。反撃の連打が迅に襲いかかる。


 しかし、迅にはそのすべてが見えていた。剣城の動きがまるでスローモーションのように感じられ、一発もヒットすることなく、すべてのパンチをかわした。観客から見れば、逃げ回る迅は劣勢に見えたかもしれないが、迅は無駄な体力を使わず、冷静に戦っていた。


 剣城の連打は一分近く続いたが、次第にスピードが落ち始めた。当たらないパンチを繰り出し続け、疲れが顔に現れる。大振りになるほど、さらに力を失っていく。


 そして、


 試合開始から二分が経過した時、迅にチャンスが訪れた。剣城が疲れで顎が上に向いた瞬間、迅は強烈なアッパーを繰り出した。拳が剣城の顎を直撃し、彼はそのまま前のめりに倒れた。


 試合開始からわずか二分。迅が放ったパンチは、たったの二発。そして、彼の顔にも体にも、かすり傷一つなかった。完全な勝利だ。


 会場は、驚きで静まり返る。誰も、迅が勝つとは思っていなかったのだ。剣城が倒れた姿を目にした瞬間、観客も審判も呆然としていた。レフリーは一瞬立ちすくんだが、すぐに迅の右手を高々と掲げた。


 翌日のスポーツ新聞に、「神試合」として大きく掲載される。覆面ボクサーとしてデビューしたJINは、瞬く間に有名人となり、世間を騒がせる存在となった。

 もちろん、目隠しによって迅がJINであることを知られることはなかった。


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